ログインそれから三日後。
千紘は病院のベッドの上で、スマートフォンを見つめていた。
葵がロックを解除してくれた、雨宮凛のスマートフォンだ。
記憶障害があることになっている千紘のために、葵は必要なことを一つずつ教えてくれた。
雨宮凛は二十六歳。
一人暮らし。
両親はすでに亡くなっており、家族は妹の葵だけ。
仕事は小さな広告会社のデザイナー。
葵とはここ一年ほど疎遠になっていたらしい。
どうして疎遠になったのか尋ねると、葵は少し困った顔をした。
「いろいろあったんだよ。でも……今はいいの」
そう言って、それ以上は教えてくれなかった。
千紘も追及しなかった。
今は、もっと気になることがあったからだ。
榊原千紘。
検索窓に自分の名前を入力する。
いくつもの記事が表示された。
『行方不明の女性、遺体で発見』
その見出しを見ても、不思議と現実感がなかった。
発見されたのは昨日の朝。
海岸から離れた場所で、捜索中の船が千紘の遺体を発見した。
警察は事故の可能性が高いとみている――。
「事故じゃない」
何度口にしても、記事の内容は変わらない。
さらに画面をスクロールすると、彰人のコメントが掲載されていた。
『妻が帰ってくることを信じていました。今はまだ、現実を受け止めることができません』
「……何が受け止められないよ」
自分で殺したくせに。
スマートフォンを握る指に力が入る。
記事の最後には、葬儀についても書かれていた。
近親者のみで執り行われる予定だという。
自分の葬式。
奇妙な言葉だった。
「見てみたいか?」
「……!」
突然聞こえた声に、千紘は顔を上げた。
「クロ!」
いつの間にか、窓辺に死神が立っている。
「勝手に出てこないでって言ったでしょう」
「ここは個室だ。誰も見ていない」
「そういう問題じゃないの」
クロは千紘の抗議を無視して、スマートフォンを覗き込んだ。
「葬式か」
「……明日だって」
「行けばいい」
「は?」
千紘は耳を疑った。
「行けるわけないでしょう。私は雨宮凛なのよ?」
「だからいいんじゃないか」
「知らない女が突然葬式に来たら不審がられるわよ」
「そうか?」
クロが面白そうに笑う。
「自分を殺した人間が、自分の棺の前でどんな顔をするのか。気にならないのか?」
千紘は答えなかった。
気にならないはずがない。
彰人は泣くのだろうか。
芹奈も来るのだろうか。
二人は自分の遺体を前にしても、平然としていられるのだろうか。
「でも……」
「行くかどうかは好きにしろ」
クロはそれだけ言って姿を消した。
「本当に勝手……」
千紘は呟いた。
けれど、もう心は決まっていた。
翌日。
医師から短時間の外出許可をもらった千紘は、葵に付き添われて病院を出た。
葵には、少し一人で歩いてみたいと頼んだ。
「無理しないでよ? 何かあったらすぐ連絡して」
「うん。ありがとう」
葵と別れたあと、千紘はタクシーに乗った。
向かった先は、自分の葬儀が行われている斎場。
もちろん中へ入るつもりはない。
遠くから見るだけ。
そう決めていた。
斎場の近くでタクシーを降りる。
喪服姿の人々が、次々と建物へ入っていく。
見覚えのある顔もあった。
親戚。
昔の友人。
彰人の会社の関係者。
みんな、自分が死んだからここにいる。
胸の奥が締めつけられた。
そのときだった。
「……千紘」
聞き覚えのある男の声がした。
千紘は反射的に振り返る。
喪服姿の男が、少し離れたところに立っていた。
鳴海律。
幼い頃から何度も見てきた顔だった。
けれど、今まで見たことがないほど憔悴している。
律は斎場を見上げたまま、拳を強く握っていた。
「……ごめん」
掠れた声が聞こえる。
「俺が、もっと早く気づいていれば……」
千紘の胸が大きく鳴った。
声をかけたかった。
律。
私、生きてるよ。
ここにいる。
そう言って駆け寄りたかった。
けれど、今の自分は雨宮凛だ。
千紘は唇を噛み、俯いた。
そのとき。
「……?」
律がこちらを向いた。
目が合った。
千紘の身体が固まる。
律はしばらく千紘を見つめたあと、ゆっくりと眉を寄せた。
「君……」
千紘の心臓が跳ねた。
『……榊原さん?』 受話器を握る手が震えた。『榊原千紘さんですか?』 どうして。 千紘は何も話していない。 それなのに、電話の向こうの男は自分の名前を口にした。『もしもし?』「……違います」 ようやく、それだけ答えた。 声は雨宮凛のものだ。 相手が千紘の声だと気づくことはない。『あ……すみません』 男は明らかに落胆したようだった。「どうして、榊原さんだと思ったんですか?」『え?』「私、何も言ってませんよね」『それは……』 男が黙る。 千紘は迷った。 このまま切った方がいい? 相手が誰なのか分からない。 彰人の関係者かもしれない。 けれど、死ぬ前の自分はこの番号を残している。「榊原千紘さんを知ってるんですか?」『……あなたは?』「少しだけ」 嘘ではない。 自分自身なのだから。『榊原さんから、この番号を聞いたんですか?』「そうです」 千紘は咄嗟に答えた。 電話の向こうが静かになった。『じゃあ、亡くなる前に?』「……はい」 心臓が速くなる。 この男は、自分が死んだことを知っている。「あなたは、榊原さんとどういう関係なんですか?」『俺は――』 一瞬、ためらう。『探偵です』「探偵?」『榊原さんから依頼を受けていました』 千紘は息を呑んだ。「何の依頼ですか?」『それを、あなたに話していいのか分かりません』
四月二十七日。 六月十一日。 どちらも彰人が家に帰らなかった日。 そして、紙に残されていた『A.S』の文字。 相沢芹奈。 偶然とは思えなかった。 千紘は帰宅すると、もう一度小さな紙をテーブルへ広げた。 最後に書かれている電話番号。「これも芹奈に関係あるのかな……」 会社で使っている番号ではない。 少なくとも、千紘が知っている芹奈の連絡先とは違う。 かといって、いきなり電話をかけるわけにもいかない。 千紘は番号をスマートフォンで検索してみた。 やはり何も出てこない。「昔の番号とか?」 それなら、今はもう使われていない可能性もある。 考えていると、スマートフォンが鳴った。 律からだった。「はい」『今、大丈夫ですか?』「大丈夫です」『この前のノートなんですが、少し気になるところがあって』「どこですか?」『四月二十七日です』 千紘は息を呑んだ。「……どうして?」『その日に千紘から連絡が来てたんです』「え?」『ノートを見ていて思い出しました』 千紘はスマートフォンを強く握った。「どんな連絡ですか?」『大した内容じゃありません』 律が少し間を置く。『久しぶり。元気? って、それだけです』「……」 覚えていない。『俺も、元気だよって返しました。それで終わりです』「それだけ?」『はい』「そのあと、何か話したりは?」『してません』 千紘は紙に書かれた『0427』を見る。 その日。 彰人は急な出張だと言って帰らなかった。
帰宅した千紘は、バッグを置くとすぐに陶器の鳥を取り出した。 テーブルの上に置き、裏返す。 底に貼られたフェルト。 端の一部分だけが、わずかに浮いている。「何か入ってる……?」 千紘は爪をかけた。 古い接着剤が剥がれ、フェルトがゆっくりと持ち上がる。 その下に、小さな穴があった。「こんなの……あったっけ」 陶器の置物には、製造時にできた穴が開いていることがある。 けれどこれは、その穴を利用して何かを隠していたように見えた。 千紘は鳥を傾ける。 何も出てこない。 軽く振ってみる。 カサッ。「……!」 音がした。 中に何かある。 千紘は細いピンセットを探し、穴へ差し込んだ。 何度か失敗して、ようやく何かをつまむ。 ゆっくり引き出すと、小さく折り畳まれた紙が出てきた。「これ……」 開く。 ホテルの利用明細ではなかった。 そこに書かれていたのは、数字とアルファベットの羅列。『S-0427』『0611』『A.S』 そして、その下に電話番号らしき数字が書かれていた。「何これ……?」 自分の字だ。 つまり、千紘自身がここへ隠した。 でも、何のために?「A.S……」 彰人なら、A。 芹奈なら、S。 偶然? 千紘はスマートフォンを取り出し、芹奈の名前を検索した。 相沢芹奈。 ローマ字にすれば、Aizawa Serina。「A.S」 一致する。 けれど、そ
休憩が終わり、撮影が再開された。 千紘はできるだけ仕事に集中しようとした。 チェストのことは、いったん忘れる。 さっきは危なかった。 あれ以上、不自然な行動を取るわけにはいかない。「雨宮さん、これ確認してもらえる?」「はい」 佐伯からタブレットを受け取り、撮影された写真を確認する。 自分が作ったわけではないデザイン。 自分が暮らしていた家。 その二つが一つの画面に収まっている。 何とも不思議な気分だった。「どう?」「……いいと思います」「じゃあ、このパターンも押さえてもらいましょう」 撮影は順調に進んだ。 あと一時間ほどで終わる。 今日はもう、チェストには近づかない。 また仕事でこの家に来る機会があるかもしれない。 焦る必要はない。 そう自分に言い聞かせた。 そのとき。「すみません」 スタッフの一人が彰人に声をかけた。「もう少し小物を足したいんですが、何かお借りできるものはありますか?」「小物ですか?」「本とか、写真立てとか。生活感が出るものがあると助かります」「分かりました。探してみます」 彰人がリビングを出ていく。 千紘はその背中を見送った。 しばらくして、彰人がいくつかの本と小さな置物を抱えて戻ってくる。「こんなものでどうでしょう?」「ありがとうございます」 スタッフが一つずつ確認していく。 その中に、小さな陶器の鳥があった。「あ……」 声が漏れた。 彰人がこちらを見る。「どうしました?」「いえ……かわいいなと思って」 嘘だった。
撮影当日。 千紘は榊原家の門の前に立っていた。「……」 何度も出入りした場所。 買い物から帰ってきた日も。 彰人と二人で出かけた日も。 喧嘩をして、一人で飛び出した日もあった。 ここは確かに、自分の家だった。 けれど今日は、客として入る。「雨宮さん?」 佐伯に呼ばれ、千紘は我に返った。「すみません」「緊張してる?」「少し」「個人宅での撮影なんて珍しいものね」「はい」 インターホンを押す。 しばらくして、玄関の扉が開いた。「お待ちしていました」 彰人だった。「今日はよろしくお願いします」 佐伯たちが頭を下げる。 千紘も続いた。「よろしくお願いいたします」「どうぞ」 彰人に促され、玄関へ入る。 足を踏み入れた瞬間、胸が締めつけられた。 匂い。 空気。 何もかも知っている。 玄関脇の傘立て。 壁に掛けられた鏡。 靴箱の上に置かれた小さな置物。 千紘が旅行先で買ったものまで、そのままだった。「こちらへ」 彰人についてリビングへ向かう。 廊下を歩きながら、千紘は例のチェストを見た。 ある。 以前と同じ場所に。 もちろん、今すぐ開けることなどできない。 彰人もいる。 撮影スタッフもいる。 千紘は何も知らない顔で通り過ぎた。「こちらを使ってください」 リビングでは、すでに撮影用のスペースが空けられていた。「素敵なお宅ですね」 スタッフの一人が言う。「ありがとうございます」 彰人が笑う。
彰人と芹奈が家へ入ってから、千紘はしばらくその場を動けなかった。 あそこは、自分の家だった。 彰人と結婚してから何年も暮らした場所。 玄関に飾った花も。 リビングのカーテンも。 食器棚に並べたカップも。 一つ一つ、自分で選んだ。 なのに今は、もう帰ることすらできない。「……馬鹿みたい」 死んだのだから当然だ。 榊原千紘は、もうこの世にはいないことになっている。 分かっている。 それでも、知らない女の身体で自分の家を眺めていると、不思議な感覚になった。 しばらくすると、二階の窓に明かりがついた。 寝室。 千紘と彰人が使っていた部屋だ。「まさか……」 そこまで考えて、やめた。 何をしているのかなんて知りたくない。 千紘は家に背を向けた。 今夜ここに来た目的は、二人を監視することではない。 死ぬ四日前の記憶を辿ることだ。「帰ろう」 駅へ向かって歩き始める。 けれど、数分もしないうちに足が止まった。 ホテルの明細。 あれを、どこへやった? バッグに入れたところまでは思い出した。 そのあと彰人が帰宅して、明細の存在に気づかれた。 ノートは律へ送った。 なら、明細も一緒に送ればよかったはずだ。 けれど箱の中にはなかった。「別の場所に隠した……?」 そんな気がする。 彰人に見つかってはいけない。 そう思って、どこかへ移した。 家の中ではない。 家の中なら彰人に見つかると思ったから――。「あ……」 千紘の脳裏に、一つの場所が浮かんだ。







