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あなたが奪い去った七年の歳月

あなたが奪い去った七年の歳月

Oleh:  イケメン男子Tamat
Bahasa: Japanese
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帰宅すると、玄関の合鍵が一本減っているのに気づいた。 岩崎翔太郎(いわさき しょうたろう)に尋ねると、なくしたと言う。 私・本間千夏(ほんま ちなつ)は少し戸惑った。 だって、彼は普段、暗証番号しか使わないのだ。 鍋で油の跳ねる音を聞きながら、それ以上深くは追及しなかった。 しかし、シャワー室の排水口に、一本の髪の毛が張りついているのを見た。 長くて、縮れていて、ワインレッドの髪。 だが私はショートカットだ。 スマホが鳴った。翔太郎のアシスタント、宮原愛梨(みやはら あいり)からのメッセージだ。 【本間さん、先日、翔太郎さんから合鍵を預かりまして。何かと便利かと、と】 何に便利なのか。私は聞かなかった。 ただ、いつも通りに風呂の温度を37度に設定し、作りたての栄養スープをベッドサイドに置いた。 翌日、私は玄関の鍵を取り替えた。 そして、翔太郎の会社のlineグループに、こう書き込んだ。 【鍵を交換した。宮原さん、新しい鍵が必要でしたら、私のところへどうぞ】

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Bab 1

第1話

帰宅すると、玄関の合鍵が一本減っているのに気づいた。

岩崎翔太郎(いわさき しょうたろう)に尋ねると、なくしたと言う。

私・本間千夏(ほんま ちなつ)は少し戸惑った。

だって、彼は普段、暗証番号しか使わないのだ。

鍋で油の跳ねる音を聞きながら、それ以上深くは追及しなかった。

しかし、シャワー室の排水口に、一本の髪の毛が張りついているのを見た。

長くて、縮れていて、ワインレッドの髪。

だが私はショートカットだ。

スマホが鳴った。翔太郎のアシスタント、宮原愛梨(みやはら あいり)からのメッセージだ。

【本間さん、先日、翔太郎さんから合鍵を預かりまして。何かと便利かと、と】

何に便利なのか。私は聞かなかった。

ただ、いつも通りに風呂の温度を37度に設定し、作りたての栄養スープをベッドサイドに置いた。

翌日、私は玄関の鍵を取り替えた。

そして、翔太郎の会社のlineグループに、こう書き込んだ。

【鍵を交換した。宮原さん、新しい鍵が必要でしたら、私のところへどうぞ】

翔太郎が帰宅したとき、その顔は真っ黒に曇っていた。

「千夏、お前、頭おかしいんじゃないのか?会社のグループで、何を言いやがったんだ。周りが彼女のことをどう言ってるか、わかってるのか」

私はスープを置き、じっと彼を見つめた。

「じゃあ、なんで鍵をなくしたなんて、嘘ついたの」

彼は一瞬、固まった。

数秒の沈黙のあと、深いため息をつき、声をやわらげた。

「愛梨は俺のアシスタントだ。鍵を渡したのだって、仕事をしやすくするためだ。嘘をついたのは、お前が変に勘ぐるだろうと思ったからだ。そんなことで、そこまで言うのかよ」

私は少し黙ってから、かすれた声で言った。

「それなら、家の鍵、全部彼女にあげちゃおうか」

「本間千夏!」

翔太郎は苛立ちまぎれに声を張り上げた。

「愛梨は泣きながら帰ったんだぞ。俺と彼女は、ただの仕事上の関係だ。いちいちそんなふうに疑うのは、やめてくれないか」

「じゃあ、浴室の壁についてた手のひらの跡は、どう説明するの」

「手の跡?」

私は彼の腕をつかんで浴室に連れて行き、壁の跡を指さそうとした。

けれど、そこにはもう何もなかった。

翔太郎は私の手を乱暴に振り払い、鼻で笑った。

「お前と喧嘩する気はない。だが、次はないからな。自分でちゃんと反省しろ」

その直後、私は会社のlineグループから追い出された。

それだけじゃない。システムに新たな通知が届き、総務アシスタントの私が、解雇されたと表示されていた。

グループからの追放と、解雇通知。

この二つは、まるでビンタを食らったみたいに、頬をじりじりと熱くさせた。

キッチンからは、栄養スープの湯気がふわりと漂ってくる。なのに、さっきまではあんなに食欲をそそった香りが、なぜか急に、ちっとも美味しそうに感じられなくなった。

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KuKP
KuKP
お前が家から失わせたのは鍵じゃなくて主人公からの信頼ってやつね 主人公に対して嫌がらせしてる時点でただのクズ 支え合ってきたんだろうに何を考えて自分の方が偉いと思い込めたんだろうね
2026-05-27 01:02:20
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松坂 美枝
松坂 美枝
よくクズ男がカッとなってやったって言うけど、カッとなって主人公の大事なもん壊したり主人公を傷つけたり勘弁して欲しいよな ろくに調べもしないでさ まあ自分でけりつけたのはよくやったけど復縁はないな
2026-05-26 10:28:13
6
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ノンスケ
ノンスケ
2人の家の鍵を黙って秘書に渡した時点で、すでに裏切りと同じ。オフィスの鍵じゃないんだから、自宅の鍵を何故秘書に?そりゃあ彼女が怒って当然。しかも秘書との偽の式だとしても、彼女にプライズメイトをやらせて、周囲の笑い者にしたくせに。よく追ってこれるもんだわ。
2026-05-26 19:27:24
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0
メイアイヘルプ祐
メイアイヘルプ祐
秘書クビにしただけ?え、なんかお返ししないの?スッキリせん
2026-05-29 18:44:58
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10 Bab
第1話
帰宅すると、玄関の合鍵が一本減っているのに気づいた。岩崎翔太郎(いわさき しょうたろう)に尋ねると、なくしたと言う。私・本間千夏(ほんま ちなつ)は少し戸惑った。だって、彼は普段、暗証番号しか使わないのだ。鍋で油の跳ねる音を聞きながら、それ以上深くは追及しなかった。しかし、シャワー室の排水口に、一本の髪の毛が張りついているのを見た。長くて、縮れていて、ワインレッドの髪。だが私はショートカットだ。スマホが鳴った。翔太郎のアシスタント、宮原愛梨(みやはら あいり)からのメッセージだ。【本間さん、先日、翔太郎さんから合鍵を預かりまして。何かと便利かと、と】何に便利なのか。私は聞かなかった。ただ、いつも通りに風呂の温度を37度に設定し、作りたての栄養スープをベッドサイドに置いた。翌日、私は玄関の鍵を取り替えた。そして、翔太郎の会社のlineグループに、こう書き込んだ。【鍵を交換した。宮原さん、新しい鍵が必要でしたら、私のところへどうぞ】翔太郎が帰宅したとき、その顔は真っ黒に曇っていた。「千夏、お前、頭おかしいんじゃないのか?会社のグループで、何を言いやがったんだ。周りが彼女のことをどう言ってるか、わかってるのか」私はスープを置き、じっと彼を見つめた。「じゃあ、なんで鍵をなくしたなんて、嘘ついたの」彼は一瞬、固まった。数秒の沈黙のあと、深いため息をつき、声をやわらげた。「愛梨は俺のアシスタントだ。鍵を渡したのだって、仕事をしやすくするためだ。嘘をついたのは、お前が変に勘ぐるだろうと思ったからだ。そんなことで、そこまで言うのかよ」私は少し黙ってから、かすれた声で言った。「それなら、家の鍵、全部彼女にあげちゃおうか」「本間千夏!」翔太郎は苛立ちまぎれに声を張り上げた。「愛梨は泣きながら帰ったんだぞ。俺と彼女は、ただの仕事上の関係だ。いちいちそんなふうに疑うのは、やめてくれないか」「じゃあ、浴室の壁についてた手のひらの跡は、どう説明するの」「手の跡?」私は彼の腕をつかんで浴室に連れて行き、壁の跡を指さそうとした。けれど、そこにはもう何もなかった。翔太郎は私の手を乱暴に振り払い、鼻で笑った。「お前と喧嘩する気はない。だが、次はないからな。自分でちゃんと反省し
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第2話
7年経った。彼が約束した結婚式は、開かれなかった。それなのに今、みんなの前で別の女をかばっている。父がビルから飛び降りて、母が出て行ったあの年のことを思い出した。翔太郎は私を抱きしめ、赤くなった目でささやいた。「千夏、世界中がお前を見捨てても、俺だけはそばにいる。手術はできなくなっても、医薬品の代理店はできる。お前に必ず家をやるんだ。ベランダに、お前がサツキを植えて、俺は多肉植物を育てる。いつか子どもだって持てる……」あのとき、胸が張り裂けそうなほど切なかった。翔太郎は私を助けるために交通事故で両手を傷めて、メスを握れなくなったのだ。それでも彼は約束をくれた。だから、私は残った。ピアニストの夢を捨て、私が、彼の世話のために家政婦に成り下がった。マッサージに、スープの作り、生活の段取り――私の暮らしは隅々まで翔太郎で埋め尽くされた。母は納得していなかった。「自分の夢を捨ててまで、それで後悔しないの?」あの時、はっきりと「後悔しない」と答えた。それなのに今、オレンジ色のダウンライトに浮かぶ翔太郎の整った顔が、かつてないほど冷たく感じられてた。自分は間違っていたのと思い知らされる。翔太郎と私は冷戦状態になり、彼はもう家に帰らなくなった。いつもどおり執事に食事を届けさせた。愛梨のSNSの更新も、前よりずっと頻繁になった。翔太郎がいつも使う休憩室の前に、可愛らしいスリッパが置かれるようになった。私のサイズじゃない。そして翔太郎の好みでもない。スープ用の新しい器は、彼が絶対に選ばないようなピンク色。写真の中でふたりはひとつの器を分けあい、見つめ合って笑っている。【好きな人とスープを分けあえるって幸せ。退場すべき人は、とっくに決まってるのかもね】そのスープは、私が4時間かけて煮込んだものだ。捨てられた器は、7年前にペアで贈ったものだった。SNSのコメント欄では、みんなが囃し立てていた。【翔太郎さん、彼女変えたんだ。前の人よりお似合いじゃん】翔太郎は否定どころか、そのコメントに「いいね」を押していた。照明はオレンジで、暖房はよく効いている。なのに、心まで凍えるようだった。翔太郎のために、7年間すべてを注いできた。でも結局、私は何者でもなかった。スマホが
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第3話
夜、翔太郎は家に帰ってきた。表情からは何も読み取れなかったが、私を見つめる目だけが異様にぎらついていた。彼は一冊の楽譜を私に渡した。「前にやるって言ったろ。受け取れよ」そう言って私をソファに押し込み、自分はピアノの前に座った。背中を丸め、ぎこちない手つきで鍵盤を叩き始める。昔の私なら、きっと愛梨と同じことをしていただろう。その姿を写真に撮ってSNSに上げ、【彼氏が私を笑わせようと必死】なんて書いていたに違いない。けれど今の私は、ただ静かに問いかけた。「いつからなの?」ピアノの音がやんだ。翔太郎が振り返り、眉をひそめる。「説明したし、謝っただろ。千夏、これ以上俺にどうしろって言うんだ?」私は顔を上げ、彼をまっすぐ見据えた。「家に、新しいスリッパと新しい香水が増えた。それからあのぬいぐるみ。ベッド脇の引き出しには、私が絶対買わないイチゴフレーバーの薄いやつが何箱も入ってた。あなたのクローゼットには……」「もういい!」リビングに重い沈黙が落ちた。聞こえるのは互いの息遣いだけだった。翔太郎はしばらく黙った後、勢いよく立ち上がった。手にした楽譜をぐしゃりと握りつぶし、首に青筋を浮かべる。失望しきった目で私を睨みつけてきた。「千夏、お前の父さんの精神病が遺伝したんじゃないのか。今度は飛び降りて俺を脅すつもりか?昔、お前の母さんが浮気して、お前の父さんがしたことみたいにな」耳元で爆弾が炸裂したようだった。心臓が破裂するかと思った。説明や否定をされるとは思っていた。けれど、まさか彼がこんなやり方で私の古傷をえぐるとは、想像すらしていなかった。「わかってても口にしないことだってあるんだ。俺が外でどうしていようと、お前は将来の俺の妻だ。俺はお前を助けるために両手を怪我して、医者の夢まで諦めたんだぞ。それでもまだ疑うのか?愛梨がお前の風呂を借りたのはたしかに悪かった。でも謝ったじゃないか。なぜそこまで彼女を責める!」声はどんどん大きくなる。彼の冷たい目は、研ぎ澄まされた刃物のようだった。まるで、部下と曖昧な関係になっているのが彼ではなくて、私であるかのような顔つきだった。私は彼の目に浮かぶ、あの揺るぎない確信が、ひどく眩しくてたまらなかった。後ろめたさはみじんも
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第4話
翔太郎は、無意識に眉をひそめた。「どこへ行くつもりだ」「旅行に」「旅行?」彼は冗談でも聞いたように、ネクタイを緩めた。「丸七年、一日だって家を出なかったお前が?本気で言ってるのか?千夏、そんな手で俺を折れさせようなんて無駄だ。お前が正しいとも思わないし、俺と愛梨に落ち度があったとも思わない。七年も面倒を見てきたんだ。いい加減、分別を持ったらどうだ」私は何も言わなかった。反論もしなかった。ただ、スーツケースを再びクローゼットに押し込んだ。驚くほど軽いケースだった。この七年間過ごしてきた、この家と同じだ。待ち続けた七年間の結婚生活とも、同じだった。見た目はとても綺麗だけれど、中身はもう空っぽ。翔太郎は満足げに頷き、鼻で笑った。「わかればいい。この世の中で、俺以外の誰がお前に居場所をやれる。そのありがたみを、ちゃんと自覚しろ」その言葉には確信と冷たさがあった。空気に混じる、覚えのないストロベリーミルクの香り。心臓が、ぎゅっと痛んだ。「忘れるな。お前はもう、かつて舞台で輝いていた頃のお前じゃない。今のお前はただの家政婦みたいな存在で、役立たずの女だ。俺に逆らわず、おとなしくしていれば、悪いようにはしない……」彼の冷たい声、水音で途切れ途切れに聞こえる。それでも、十分だった。私は小さく笑い、何も返さなかった。あのスーツケースの中に、私のマイナンバーカードと着替えが入っていたことを、彼は気づいていない。出て行かなかったのは、未練があったからじゃない。航空券が、明後日の便だったからだ。翌日、翔太郎からは珍しく優しい口調で電話がかかってきた。「会社でパーティーがある。取引先の連中が、お前に会いたがってるんだ」向こうで、彼の笑みを含んだ声が聞こえる。「来いよ。ちょうどいい機会だ、プロポーズしようと思ってる」鼓動が早まり、そしてすぐに静まった。結局、私は行くと答えた。期待があったわけじゃない。この七年間の苦労に、ただ一つの答えがほしかっただけだ。その夜、翔太郎からサファイアのイヤリングと、黒のロングドレスが届いた。私の好きな色だった。サイズもぴったりだ。胸の奥が、少しだけ熱くなった。会場の扉がゆっくりと開き、人波の中心へ歩みを進める。その時
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第5話
翔太郎が私に気づいた。近づいてくるなり、声をひそめて言った。「このプロポーズは芝居なんだ。愛梨の誕生日の願いを叶えるためのな。ブライズメイドが一人足りなくて、お前に代役を頼む。詳しくはあとで説明する」あまりにも馬鹿げている。彼は私の背中を押し、愛梨の隣に立たせた。本物の彼女である私は、引きつった笑みを浮かべるしかない。七年間愛し続けた男が、私の婚約指輪を愛梨の指に通すのを、私は見つめていた。二人が見つめ合い、眉を上げて微笑み交わすのを、私は見つめていた。みんなの前で抱き合い、キスをするのを、私は見つめていた。耳に届くのは打ち上がる花火の音。目の前にあるのは、笑いすぎて歪んだ人々の顔。こんな光景は、夢でなら見たことがある。いつだって私が主役だった。なのに現実は、馬鹿げたことに、私が愛梨のブライズメイド役をやらされている。翔太郎が挨拶まわりで酒を注ぐたび、愛梨はしじみの味噌汁を手に、ぴったりと背後をついて歩いていた。中には刻んだ大根が入っている。私が何十回も試して、ようやく見つけた酔い覚ましのレシピだ。あの人はかつて、笑いながら私に尋ねた。「これからずっと、俺のためにこれを作ってくれないか」と。なのに今、私が苦労して見つけたレシピを、あっさり愛梨に渡してしまった。「岩崎さんと宮原さんは、本当にお似合いだ。生まれてくるお子さんも、きっと優秀だろうね」誰かがグラスを掲げて、冗談めかして言う。「ありがとう」翔太郎は笑顔で応じた。周囲がどっと沸く。愛梨は私を見て、いっそう勝ち誇った笑みを深める。笑いながら身を寄せてきた。「本間さん、あなたが七年も待ったプロポーズを、私はたった一度の嘘で手に入れたよ。あなたは死んだ父親と同じ、何の役にも立たない。さっさと死んじゃえ」声は小さいのに、きっちり聞こえる。誰かがグラスを手に、微笑むだけで何も言わない。誰かが目を見開き、舌打ちを漏らす。私はただ、翔太郎だけを見つめた。聞こえていたはずだ。なのに、聞こえなかったふりをしている。私はそばにあった赤ワインを手に取り、一口だけ口に含んでから、残りをすべて、笑っている愛梨の顔へぶちまけた。振り返り、翔太郎を呼びとめる。「あなたが私を呼んだのって、一体何のため
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第6話
彼の嘲笑うような顔を見て、私は腕時計を彼の腕から外そうと飛びかかった。でも、手が震えてどうしても外せない。翔太郎は苛立ち、私の手を掴んで大声で詰め寄った。「そんなに欲しいのか?だったら絶対にやらねえよ!」彼はベルトを外すと、思い切り床に叩きつけた。ガシャン!その瞬間、時が止まった気がした。腕時計がゆっくりとひび割れていく。ガラスの破片が足元に散って、まるで涙がこぼれ落ちたみたいだった。頭が真っ白になり、目の前に、口元を血で染めた父の姿が浮かぶ。父は血を吐きながら、真っ赤な目で私を見つめていた。「千夏、泣くな。これを持っていれば、父さんと千夏の時間はずっと重なっている。ずっと……一緒にいるからな」後に私は、その願いが込められた腕時計を、翔太郎に贈った。今はもう、二度と動くことはない。ガラスの破片で手を切るのも構わず、私は床に膝をつき、慌てて破片をかき集めた。指先から血がにじみ、痛々しいほど赤い。翔太郎が私の手を掴み、鋭い声で怒鳴った。「お前、正気か!手が怪我するだろ!」腕時計はまた落ち、完全に砕け散った。愛梨が一歩前に出ると、ハイヒールが文字盤を踏みつけた。かすかに聞こえていた歯車の音が、完全に消える。私が彼女を押しのけようとしたら、逆に手で押し返され、ガラスの破片の上に激しく倒れ込んだ。破片が肉に刺さり、電流が走るような痛みが全身を貫く。ロビーは静まり返り、全員が私を見つめていた。なのに、翔太郎はよろめいた愛梨を支えている。「大丈夫か?怪我はないか?」愛梨は唇をとがらせ、目を赤くして言った。「本間さんが急に押したの。私、怖くて……」翔太郎の冷たい視線が、私に向けられた。「千夏!お前の父さんはイカれて、母さんは浮気した。その最低なところを全部受け継いで、お前もイカれてるんだな!」掌から血が流れ出す。それなのに、痛みはまるで感じなかった。かつて、翔太郎は母を空港まで見送った時、こう言った。「千夏は花を育てるのが好きで、彼女こそ、俺が一生かけて育てる花なんだ」たった数年で、私は愛される花から、彼の言うイカれてる人に変わってしまった。砕けた腕時計を拾い上げ、よろよろと一歩後ずさる。誰かが嘲笑い、誰かが「頭がおかしい」と罵った。愛
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第7話
翌日、翔太郎が会社に着いた時も、その表情はひどく曇ったままだった。愛梨は笑顔でドアを開けると、柔らかな口調で尋ねた。「翔太郎さん、今日の午後の予定って、いつも通りでいい?」翔太郎は一瞬動きを止め、それから小さく首を振った。「会議は全部明日に回してくれ」そう言うと、スマホを取り出し、昨日からずっと電源が切れている番号にもう一度だけかけてみた。受話器からは、無機質なコール音だけが繰り返し流れる。やがて、「電波の届かない場所にあるため……」という機械的なアナウンスが耳に届いた。翔太郎はもう居ても立ってもいられず、車のキーを掴むと、自宅へ向けて走り出した。三十分後、彼は家に戻っていた。玄関先まで出迎えたのは、執事だ。「千夏は?」「千夏様なら、昨日お出かけになったまま、まだお戻りで……ございません」その言葉に、翔太郎は息を呑んだ。まだ戻っていない。どういうことだ。「昨日、スーツケースを一つお持ちになって出かけられましたので、てっきり翔太郎様とご旅行にでも……」翔太郎は眉をひそめた。「スーツケース?」思い返してみれば、一昨日の夜も、そういえば……千夏が、空っぽのクローゼットの前に立ち尽くしていた時、足元にはスーツケースが一つある。だが、そのスーツケースもすぐに片付けられてしまったから、それ以上気に留めることもなかったのだ。それに、彼女のスマホは昨日からずっと電源が切れたままだ。翔太郎は執事を押しのけると、二階へ向かった。けれど、二階の彼女の部屋には、誰もいなかった。千夏の気配すら、もう微塵も残っていない。翔太郎は反射的にSNSを開いた。自分のメッセージに、千夏からの返信はまだない。もう一度、電話をかけてみた。「おかけになった電話は、電波の届かない場所にあるため……」翔太郎は拳を握り締め、もう一度かけ直す。それでも、やはりつながらない。諦めきれずにメッセージを送ろうとしても、既読がつかないまま。ブロックされたのだろうか。翔太郎はその場に立ち尽くした。いつの間にか、愛梨が後を追うようにして家まで来ていた。翔太郎のただならぬ形相を目の当たりにして、おそるおそる口を開く。「あの、翔太郎さん……何があったの?」翔太郎は苛立ちまぎれに手を振った
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第8話
スイスの未明、月は明るく星はまばらだった。長年顔を見ていなかった母のことは、一目でわかった。母は私の手に巻かれた包帯を見て、ほんの一瞬目を揺らした。けれど、何も尋ねはしない。ただ穏やかに笑って、車に乗るよう促した。車内に、私が想像していたような義父や異父兄弟の姿はなかった。道中は驚くほど静かで、母は運転に集中し、私たちはどちらも翔太郎の名前を出さなかった。車が邸宅の前に停まり、母はスーツケースを引いて、私を家の中へ迎え入れた。テーブルには、すでに温かな料理が並んでいた。見覚えのあるその料理、懐かしい香りに、気がつけば目が熱くなっていた。「千夏、過去のことはもう過去のままにしておきなさい。あなたはもう、そこから抜け出したんだから」母はそう言って、向かい側に座り、箸を私に差し出した。「あの頃ふたりが愛し合っていたのは、間違いじゃない。でも、人は変わるし、愛情も変わっていくものよ。父さんと私もそういう時期を経験した。今度はあなたの番になっただけ」「……うん」母は深く詮索せず、私も何かを語ろうとは思わなかった。夕食のあと、母はここ数年の自分の歩みを話してくれた。その話から、両親の過去も見えてきた。実はあのとき、ふたりはどちらかが誰かを裏切ったから別れたわけじゃなかった。ただ、日々があまりに平淡すぎて、情熱を失ってしまったのだ。父はそれをすべて自分のせいだと思った。家庭をきちんと築けなかったと、自分を責めた。そうした罪悪感と自責の念から鬱病になり、飛び降りて命を絶った。一方、母は浮気したという汚名を背負わされたまま、国を離れた。ここ数年は海外でひとり、手芸店を営んできたらしい。「千夏、これからピアノが弾けなくなったとしても、母さんが養っていく。翔太郎が与えられるものなら、母さんにだって与えられるから」母は私の手を握りしめ、穏やかに微笑んだ。私は笑って、首を振った。「母さん、私が失ったものは、自分の手で取り戻すから」その後、医者に手を診てもらった。無数の傷がついているけれど、骨までは達していない。ピアノを弾くのに大きな問題はないと言われた。それから私は、街でいちばん賑わうレストランで、定期的にピアノを弾くようになった。紺碧のロングドレスに、真珠のピアス。それが
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第9話
またよく晴れた日だった。いつもと同じように、ピアノの前に座り、準備を整える。心の奥では、ウィーン楽友協会からの演奏依頼が舞い込んだ喜びが、ひそかに弾けていた。「千夏、おめでとう」レストランマネージャーのデイビッドが、笑顔で祝福してくれる。私も笑顔でうなずき、心から礼を言った。そのとき、ウェイターが入ってきた。「千夏さん、訪ねてきた方が外にいらっしゃいます……どうしても帰らないって」振り向くと、そのまま翔太郎の、深く沈んだような視線とかち合った。彼は痩せている。シャツはしわくちゃで、泣きはらしたように目が赤く、顎には青黒い無精ひげが広がっている。私はやはり、一度だけ会うことにした。彼と、ちゃんと終わらせるべきだ。ドアを押し開けた瞬間、翔太郎が飛び込むように詰め寄ってきた。見慣れない、おそるおそるといった笑みが浮かんでいた。「千夏……」声はかすれていた。「ちょっとだけ、話せないか」私は彼を見つめる。顔立ちは相変わらず整っている。ただ、目が落ち窪み、頬がこけて、どこか不自然だった。昔は自分の外見をとても気にする男で、普段からエリート然としていた。今の姿はまるで、ホームレスみたいだ。翔太郎は一歩踏み出し、私の手を取ろうとした。私は身をかわして避ける。「触らないで」翔太郎の手が宙で止まる。彼は数秒沈黙し、一歩だけ後ろに下がると、無理に笑みをこしらえた。「千夏、まだ俺のこと、恨んでるのか」彼の手が震え、みるみる目が赤くなる。「あの日は……頭に血が上って、つい……でも、新しいのをちゃんと用意したんだ。ほら、前とまったく同じものだから……」そう言いながら、彼は新品の腕時計を私の手のひらに押し込むように置いた。たしかに、まったく同じものだった。同じ文字盤、同じベルト。でも、私が欲しかったものとは、もう違う。「いらない」私の声はひどく淡々としていて、何の感情も込められていなかった。「ごめん……」彼の言葉には、泣き声が混じっていた。「あの日、ひとりで空港に向かうお前の動画を、やっと見つけたんだ。俺が悪かった……傷ついたお前を、あのままひとりで行かせるなんて。ちゃんと見えたんだ……突き飛ばしたのは、愛梨のほうだって」彼はうなだれた。
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第10話
外に一台の車が停まった。ドアが開き、母が降りてくる。母は翔太郎の姿を認めた瞬間、表情を変えた。次の瞬間には、大勢のボディガードを引き連れて、こちらへ向かってくる。「この人よ。ずっと娘につきまとってたのは。警察に突き出してやって」母の忌み嫌うような視線が、鋭い刃となって、翔太郎の胸を深くえぐる。翔太郎はあっという間に取り押さえられ、車に押し込まれた。彼は何も言い返さず、ただじっと私を見つめていた。その瞳の奥に、どうしようもない後悔と絶望が渦を巻いていく。見慣れたその横顔に、陽の光が降り注いでいた。私にとって、あの人はもう、ただの他人でしかない。「行くよ」私はそう言って、くるりと背を向けた。翌日、翔太郎は保釈された。情けをかけたわけじゃない。ただ、もうこれ以上、少しでも関わりたくなかった。それだけの話だ。それからしばらくして、翔太郎が帰国したと聞いた。彼が心血を注いで築き上げた製薬会社を、愛梨に潰されたからだ。あの女は去り際に、いくつもの基幹技術を盗み出し、高値で他社に売り飛ばしていた。おまけに営業チームごと引き抜いて、翔太郎の顧客を奪っていったのだ。たった一年で、翔太郎の会社は、あとかたもなく崩れ去った。最後、翔太郎は決定的な証拠を掴み、愛梨をその共同経営者もろとも刑務所へ送り込んだ。けれど、その頃にはもう、彼の会社も終わっていた。いつしか翔太郎の名を出しても、業界の人間は羨むどころか、軽蔑の色さえ浮かべて「ああ」と唇を歪めるだけになっていた。医者の夢を捨てて医薬品開発に飛び込み、たった三年で会社を上場させたあの翔太郎は、完全に落ちぶれてしまったのだ。その知らせが耳に入った時、私はちょうど大劇場のステージに立っていた。ピアノの全国ツアー、その千秋楽だ。頭上のスポットライトが灯り、私の指先が最後の一音を奏でる。弾き終えた私は静かにステージの中央へ歩み出て、割れんばかりの拍手に包まれながら、深々と一礼した。幕がゆっくりと目の前で閉じられていく。その時、一階席の一番左に、見覚えのある人がこうべを垂れて、ハンカチで涙を拭っている。それが誰なのか、係員に尋ねたりはしなかった。今となっては、相手が誰であろうと、もう関係のないことだ。私はかつての夢を、
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