高級な住宅街の一等地に大きな家が建っていた。
白を基調とした外壁に、庭にはたくさんの花壇があり、春夏秋冬様々な花が咲き誇る。春にチューリップやマーガレット
夏にブルースター、かすみ草、桔梗
秋に金木犀
冬に胡蝶蘭
特に秋に咲く金木犀は本邸では花壇にのみ咲くが、別荘に行くと見渡す限り咲き誇っている。
この花達が意味するのはどれも「愛」だ。 毎年秋に家族で別荘へ向かい、夜にライトアップされた金木犀はとても綺麗で幻想的な空間にいる気分になる。 そう、この屋敷の持ち主は妻を心の底から愛している。――いや。愛していた。
本来なら家族皆で談笑するような広い部屋に一人でソファに座る女性がいた。
彼女は友莉子が手にしているスマートフォンから楽しそうな声が聞こえる。
その声の中に一際可愛らしくはしゃいでいる男の子の声。 彼が友莉子と慎二の一人息子、長井翔《ながいかける》。 動画の中からは慎二、翔の声の他に自分以外の女性の声がする。 女性は甘い声で慎二に声をかけ、翔の頭を優しく撫でていた。「翔君。お誕生日おめでとう」
そう。この動画は翔の誕生日を祝っている。
「梓お姉さんありがとう!このケーキもお姉さんの手作りなんでしょ?
甘くてとってもおいしい!ママの作ってくれるケーキよりおいしいよ!」 「本当?翔君に喜んでもらえて良かった」女性は竜蓮梓《りゅうれんあずさ》という。
この白蓮国内の富豪の一人娘。 そして六年前に海外から帰国した慎二の幼馴染。梓は翔の頬にキスしたりと本当の親子のように見える。
そしてその光景を愛おしそうに見つめる慎二。「翔。良かったな」
「うん!素敵な誕生日をありがとう!」 「ねぇ慎二。今日は皆でこのホテルに泊まりましょうよ。 0時を過ぎるまでが翔君の誕生日なんだから、うんと甘やかさないと!」 「ほんと!!僕、家に帰らなくていいの?」 「…家に帰りたくないのか?」 「…別にママの事、嫌いじゃないけど…お姉さんといる方が楽しいんだもん」 「翔君…」翔に楽しいと言われて、梓は目を潤ませて涙を見せた。
「嬉しいわ。私も翔君の事、本当に大好きだから…」
「わ!梓お姉さん泣かないで!僕、ママより梓お姉さんが大好きだよ!梓お姉さんがママになってくれるともっと嬉しい!」翔は無邪気な笑顔で残酷な事を言った。
「翔…そしたら今日は三人でこのホテルに泊まろう」
「慎二…大丈夫なの?」梓は言外に友莉子は大丈夫なのかと含めた。
「別に問題ない。翔が誕生日にどうしたいかは翔次第。あいつも納得するだろう」
「パパ!ありがとう!!」 「慎二ありがとう!」 「…あぁ…」そこで動画が止まった。
そしてまた最初から再生される。 この動画は梓から送られてきていた。 そして送られてきた時に、梓は「ごめんなさい」と一言添えてきた。 その後に追い打ちをかけるように慎二から電話が入り「仕事先の人が翔を祝ってくれて、今日はその方の家に泊まるから帰れない」と言われて切られた。――嘘つき。
友莉子は慎二に対しての不満を爆発させる。
「私を愛しているって言ってたじゃない」
「私に後悔させないって言ってたじゃない」 「私の…私の夢を知ってて…夢と自分…どちらか選んでくれって言ってたじゃない…」――私はもう後悔しかない…。
友莉子の目から一筋の涙が零れた。
――あんなに愛してくれたのに…ただ幼馴染が帰ってきただけでこうなる…
――【愛】なんて幻想なのよ…友莉子はスマートフォンをソファの上に放り投げてからゆっくりと立ち上がり、
少し離れたテーブルに向かって歩いて行った。 テーブルの上には手の込んだ沢山の料理が並んでいる。 しかしそんな豪華な料理も全て冷めていた。 友莉子は料理で囲むように真ん中に置いてあるホールケーキに刺さっている5本の蝋燭に火をつけ始めた。 全てに火をつけ終わると、友莉子は歌い出す。「はっぴばーすでーとぅーゆー はっぴばーすでーとぅーゆー
はっぴばーすでーでぃあ翔~はっぴばーすでーとぅーゆー」歌い終わると誰もいない部屋に友莉子の力ない拍手だけが悲しく響き渡る。
「5歳の誕生日おめでとう」
友莉子はケーキの蝋燭を自ら吹き消した後、料理を次々とゴミ箱に捨てていった。
そして最後にケーキを捨てた。 全ての料理を捨て終わった瞬間、友莉子の中で何かが壊れた音がした。慎二は再び友莉子に視線を戻した。「翔が毎年君の手作りケーキを楽しみにしているのに、なんで作らなかった?」友莉子は慎二を睨みつけるように目線を合わせる。「さっき翔にも言ったけど、翔の誕生日は『昨日』よ。それに…」友莉子は一度言葉を切り、紡ぐ言葉を選んだ。「昨日…たくさんの人に祝ってもらったでしょう?私からの祝福の言葉なんて必要かしら?」友莉子は冷笑を浮かべ皮肉たっぷりに言葉を投げた。 慎二は眉間に深い皺を寄せ、溜め息をついた。「友莉子…何度も説明した通り、翔と彩葉ちゃんは仲が良いんだ。だけど君は…彼女達といると休めないじゃないか…以前たった1か月一緒に暮らしただけで君は倒れてしまった…俺はまた君が倒れるのは耐えられない…だけど翔の気持ちも尊重したいんだ」 「それに誕生日の翌日でも祝うのはいいじゃないか」慎二の言葉は友莉子を気遣っているように聞こえるが、真実を知っている人間からすると攻められているとしか思えない内容だった。 それに以前倒れた時、友莉子から梓達を追い出してくれなんて頼んでいない。 友莉子が倒れた事により、慎二自身が梓達に新しい家を用意して追い出したのだ。 しかし梓は友莉子が慎二に頼んだと思い、ずっと恨んでいる。 そもそも梓からしたら、私は泥棒猫だろう。 幼い頃から結婚すると信じていた幼馴染が、自分の留学中にいつの間にか結婚していて子供まで作っていたのだから。 ただ友莉子からするとそんな事は知らなかった。 そもそも友莉子からアプローチしたわけではない。 慎二が真剣に毎日のように告白してきて根負けしたのだ。 もちろん梓との事を知る前は本当に愛していた。 心は全て慎二に向けていた。 友莉子の時間、夢全てを捨ててまで慎二に尽くしていた。 そう…全ては過去の事。 友莉子は瞠目し、ゆっくりと言葉を紡いだ。「…だから何?私は当日にいない人達にまでご飯を作らないといけないの?…誕生日だからってケーキを作らないといけないの?」 「友莉子…」 「私はあなた達の何?妻?母親?…違うでしょ…一番近いのは都合のいい家政婦かしらね?」 「友莉子!!!」慎二は友莉子の両肩を強く掴み、声を荒げた。「一体何が不満なんだ!?俺達が梓達に会いに行く時、君を仲間外れにしていると思っているのか?以前は君も誘っていたけど断っていたじゃないか
「……さん」 「か……さ…ん」 「母さん!!!」友莉子は思い出の中に浸っていたが、怜の呼びかけに意識が現実に戻った。 そして目の前の少年から青年に育った怜をじっくりと見つめ、やがて笑顔を見せる。「ごめんなさい。昔の事を思い出していて…」 「昔の事?」 「えぇ…あなたが家に来たばかりの頃、部屋を何回も間違えてしまったり、外から帰ってこれなかったり…お化けが出るって夜中に私の布団に入ってきたり...フフッ…」 「母さん!その話はやめてくれよ!」友莉子は本当は2年前、怜達が海外へ行った時の事を思い出していたが、怜達は自分の事になるとかなり無茶をするので、彼らが居なかった時の事は怜や凛には伝えないように心に決めていた。「それより...いつ帰ってきたの?連絡ぐらいくれたら、空港まで迎えに行ったのに…」 「母さんを驚かせたくて、こっそりきたんだ!」 「驚いた?」怜は悪戯が成功した子供のように、無邪気な笑顔を浮かべた。 友莉子はそんな怜を愛おしく感じた。――この子のこんな表情は変わらないわね。可愛い...そんな事を考えていると、怜の手が友莉子の目元に触れた。「母さん...ごめん...そんなに驚かせてしまった?」 「えっ...?」友莉子が怜の指の上にのってる水滴に目を見張った。 そして自分でも触れてみると、涙がとめどなく溢れてきていた。「あれ?どうして...?こんなに嬉しいのに...なんで涙が...」友莉子は手の甲で涙を拭っているが、とめどなく出てくる涙の量が多く、間に合っていない。 怜はそんな友莉子を見ていると、心が苦しくなった。 そしてそっと友莉子を抱きしめる。「母さん...ごめん...ごめん...」――母さんを1人にしてごめん...。友莉子
再び友莉子が目を覚ました時、見知らぬ天井が目に入った。ふと横を見ると慎二が友莉子の手を強く握りながら疲れた様子で眠っていた。その目の下には濃い隈ができてる。友莉子は慎二に握られている手を意識した時、嬉しさより先にこう思ってしまった。――気持ちが悪い。やっとの事で慎二から手が抜けそうになった時、更に強い力で握られた。「友莉子!目を覚ましたんだね!!良かった…本当に良かった…」慎二は涙をとめどなく流しながら友莉子の右手を両手で包み込み、自身の額に当てた。「家に忘れ物をして帰ったら、倒れている君がいたんだ」「頭から血を流してて...呼びかけても...呼びかけても返事がなくて...君に万が一の事があったら俺は生きていけない...」慎二は友莉子を愛おしそうに...そして本当に友莉子がいないと生きていけないと思わせる程の悲壮感を漂わせている。そんな慎二を友莉子は冷たく見つめていた。ようやく慎二が落ち着きを取り戻した頃、病室に担当医と看護師が入ってきた。「長井さん。頭は恐らく倒れられた時に切れただけだと思いますが、念の為、詳しい検査をしましょう。」「それと長井さんには持病もなく、今回の検査ではどこも異常が見受けられませんでした。今回倒れられたのは恐らく心理的負担…まぁストレスですね。そして寝不足のせいかもしれません。」医師は目元を緩めてゆっくりと伝える。「長井さんには入院が必要なので、入院中はゆっくり休んで、体力を回復するのに務めてください」「わかりました」担当医の説明が終わると同時に、看護師も点滴を変え終わり、2人で病室を後にした。病室に静寂が訪れた。その静寂を最初に破ったのは友莉子だった。「ねぇ慎二…」「何?」友莉子は窓の外を見ながら一言一言確実に伝えられるようにゆっくりと言葉を紡いだ。「私達……」「離婚しましょう…」
怜は後継者ではなくなったが、元々呑み込みが早く、何をやらせてもすぐに覚えていた。 19歳の時、表向きはアルバイトで雇用していたが、社長である慎二の口添えで一つのプロジェクトを任せてみた。 するとそのプロジェクトが成功し、会社に大きな利益をもたらした。 怜の実力が確かだった為、20歳の成人の日、潰れかけの子会社を任せてみたところそこでも成果をあげて立派な会社に育て上げた。 そうした怜の努力は周りに認められ、長井家の本家にも怜は認められた。 体が弱かった妹の凛も5年間の治療のおかげで体調が良くなり、今では齢15歳で怜を陰ながら補佐していた。 凛の得意分野はIT系だった為、学校に通いながら自宅で作業ができた。 本当にこの兄妹は天才といえる。 友莉子にとって自慢の子供達だった。 それでも友莉子は怜を跡継ぎにしてあげられなかった事をとても後悔しており、凛の体も良くなったので、二人に独立を提案した。 二人の足かせになるのなら、養子縁組を解消しても良いと言った程だ。 しかし二人は友莉子に泣きついてきた。「捨てないで母さん」 「私、お母さんがいないとお勉強できない」 「そうだよ母さん。僕達が仕事や勉強できないと母さん困るだろ」 「お母さんと一緒がいい~」 「僕も凛も母さんがいないと生きていけないんだ!」そう。この二人は友莉子にとても懐いていた。 怜は何をもってしても凛と友莉子が優先。 凛も怜と友莉子が優先となっていた。 慎二が仕事で朝まで帰ってこない日は三人で横並びになり寝る事もよくあった。 もちろん友莉子が真ん中で、両隣には兄妹が友莉子の腕にしがみついて寝る。 当時赤ん坊だった翔が泣き出すと、友莉子より怜や凛が世話をしに行き、大変だと思っていた子育ても二人のおかげでだいぶ楽ができた。 友莉子にとって、二人は我が子同然の存在だった。 そんな二人が6年前に慎二から梓を紹介された時、嫌悪感を露わにしていた。 二人は元々慎二には懐いておらず、また慎二も二人を嫌っており、最低限のコミュニケーションしかとってこな
***** 友莉子は重たい体を無理矢理起こして、身支度を始めた。 そして洋服を着て一階にゆっくり降りている最中に、ドアが開く音がして足を止めた。 ――帰ってきたのかな… 友莉子は逡巡した。 今あの二人に会えば問い詰めてしまいそうだからだ。 それにまだ決断するには、あの二人の存在は友莉子にとって大きすぎる。 だけど大きすぎるが為に、一度傷つくと立ち直れなくなる。 友莉子は足音を立てずに自室に引き返そうとした時、背後から嬉しそうな声をかけられた。 「ただいま、母さん。」 友莉子が振り向くと、そこにはスーツを完璧に着こなし太陽のような笑顔を浮かべる青年、長井 怜(ながい れい)が立っていた。 「…怜…あなただったのね…お帰りなさい」 友莉子は怜だと認識した途端に緊張で強張らせていた表情から一変して、優しく包み込むような笑顔を見せた。 その表情の変わりように怜は眉を寄せたが、気にせずゆっくりと友莉子に近づき抱擁した。 「…はぁ…本当にただいま。母さん…会いたかった…」 「もぅ!子供じゃないんだから甘えないの!」 怜は友莉子より頭一つ分ほど身長が高かったが、友莉子の肩に頭をのせて自分の臭いをつけるかのように頭を擦り続けた。 怜は慎二と友莉子が九年前に引き取った養子だ。 結婚一年目で子供ができなかった友莉子は慎二の義母、時子に必要以上に責められた。 会うたびに子供が出来ない事を罵られ、無能呼ばわりされていた。 それを知った慎二が祖母のふみ江の許可を取り、後継者候補にする為に孤児院から養子を引き取る事になった。 それが当時十四歳の怜だった。 怜は体の弱い妹、凛《りん》をとても大事にしており、早く治療をしてくれて大切に育ててくれる養子先がくる事を日々願っていた。 そしてようやく来たのが友莉子達だった。 怜は身なりでとても裕福そうな家だと判断し、そして何より友莉子の容姿に惹かれた。 二人の会話を聞いていると、慎二は友莉子には優しかったが、近づいてきた子供達に手を差し出そうとはしなかった。 ただ仮面のような笑顔を貼りつけているだけだった。 反対に友莉子は子供を抱っこしたり、服に子供の鼻水や涎がついても笑顔でその子の頭を撫でていた。 怜はとても悩んだ。 確かに友莉子はとても良い人だろう。それは
鳥の囀りが眠っていた友莉子の意識を少しずつ覚醒させる。――…夢…昔の夢。友莉子は慎二と出会った頃の夢を見ていた。「はぁ…何が一生よ…本当…嘘つき…」結婚してから10年…本当に色々な事があった。慎二の継母には出自が卑しいというので嫌われており、毎年新年や慎二の祖父のお墓参りの時は神経を使い、嫌がらせにも耐えている。幸いな事に、祖母や双子の弟妹には好かれているので、それほど居心地が悪いわけではない。慎二の父親は形式的な挨拶以外、友莉子には無関心でいる。ある出来事がきっかけで、夢を諦める事になってしまったが後悔はしていなかった。それは全部、慎二と共に生きる為だったから。翔が生まれてからは夫婦生活は大変だったけどとても幸せだった。しかし六年前、慎二の幼馴染の流連梓(りゅうれんあずさ)が海外から帰国した時、この生活が徐々に壊れ始めた。――慎二は梓さんの事が好きなの…よね…梓が帰国してからの慎二は、梓が生活における何よりの優先事項になっていた。どんなに忙しくても梓が寂しいと言えば、家からすぐに出て行き一日中戻らない。帰国したすぐ後に歓迎パーティーをすると言って、お金を何億とつぎ込みクルーズ船で行い花火を上げたりとそれはとても豪華な歓迎パーティだったそうだ。梓が友莉子の事を嫌っている為、歓迎パーティには来るなと言われ、そして当時一歳だった翔まで連れていかれた。友莉子一人が家に残った。友莉子が風邪を引き苦しんでいる時、梓もまた風邪を引き、慎二は翔を連れて梓の看病に行った。――それに…友莉子が一番傷ついたのは半年前の出来事だった。梓から夜の港に呼び出されてこう言われた。「そろそろ慎二から離れてくれないかしら?もちろん翔君は大切に育ててあげるから…」「何を言っているの…」「フフ。だって慎二は今も昔も私が好きなんだもの…翔君だって、貴方より私が好きだって。あなたが邪魔なの。私は慎二をずっと愛していたのに、帰ってきたら貴方がいたのよ…本当に腹立たしいったらないわ!」「私は!!!!」友莉子が反論しようとした所で、梓は友莉子の後ろに何かを見て目を光らせてこう続けた。「そうだ…賭けましょう。慎二は私と貴方のどちらを優先するか…そしてどちらの言い分を信じるか…」梓の口元が怪しい笑みを浮かべた瞬間に叫び始めた。「きゃ~~!!友莉子さんや