FAZER LOGIN三日後。
悟は再び会社へ呼び出されていた。
応接室の扉を開くと、部長と人事部長、それに内部監査担当者が席についている。
「失礼します」
悟は静かに頭を下げ、椅子へ腰を下ろした。
重苦しい沈黙が流れる。
やがて人事部長が口を開いた。
「藤倉さん」
「はい」
「内部監査の結果ですが、経費処理において不適切な申請が複数確認されました」
悟は黙って頷く。
もう結果は分かっていた。
「また、ご本人からも事実関係について認める発言がありました」
机の上に一枚の書類が置かれる。
「会社として協議した結果、本日付で懲戒解雇といたします」
その一言で、部屋が静まり返る。
「……はい」
悟は驚くほど冷静だった。
覚悟はしていた。
だから叫ぶことも、取り乱すこともなかった。
「直哉さんが、こちらに……?」 佳苗は思わず玄関のほうを振り返った。『ええ。主人が止めたんですけれど、聞く耳を持ってくださらなくて』「分かりました。知らせてくださってありがとうございます」『本当に申し訳ありません。私たちのことで、佳苗さんまで巻き込んでしまって』「そんなことありません。絢子さんのこと、よろしくお願いします」 電話を切ると、佳苗はすぐに雄吾を呼んだ。 出勤前の雄吾は、寝室でネクタイを締めていた。「どうした?」「直哉さんが、うちに来るって」 事情を説明すると、雄吾はネクタイから手を離した。「今からか?」「うん。一条さんのお宅を出たところみたい」「分かった。今日は少し出社を遅らせる」「でも、お仕事は?」「連絡すれば済む。あいつを佳苗一人で相手にさせるつもりはない」 雄吾は会社に電話をかけ、出社が遅れることを伝えた。 佳苗も職場に連絡を入れた。 直哉が本当に来るかどうかは分からない。けれど、もし押しかけてきたら、落ち着いて出勤などできそうになかった。「雄吾、直哉さんは私が絢子さんをそそのかしたと思ってるみたい」「だろうな」「でも、離婚したいって言ったのは絢子さん自身なのに」「あいつには、それが認められないんだろう」 雄吾は腕時計を着けながら答えた。「自分の妻が、自分の意思で出ていったとは考えたくないんだ」 佳苗は眉を寄せた。 絢子を一人の人間として見ていれば、そんな発想にはならないはずだった。 それから三十分ほど経った頃、インターホンが鳴った。 モニターに映っていたのは、久世直哉だった。 上等なスーツを着て、いつもの人当たりのよさそうな笑みを浮かべている。『おはようございます。久世です』 佳苗の背筋に緊張が走った。 雄吾が
『あなたの奥さん、何かご存じじゃありませんか?』 電話越しに聞こえた直哉の声に、佳苗は思わず雄吾を見た。 雄吾は表情を変えずに答えた。「なぜ佳苗に聞く?」『妻が最近、佳苗さんと親しくしていたようなので。今日も連絡を取っていたんじゃないかと思いまして』「絢子がいなくなったなら、まず実家に確認すればいいだろう」『もちろん連絡しましたよ。でも、お義母さんは何も教えてくれないんです』 直哉は小さく笑った。『まるで、僕が何か悪いことでもしたみたいにね』「絢子が自分の意思で出ていったなら、まず本人の気持ちを尊重するべきじゃないか」『……ずいぶん事情に詳しいんですね』 直哉の声から笑みが消えた。『やっぱり、あなた方が手引きしたんですか?』「俺たちがどうこう言う話じゃない。夫婦の問題なら、絢子本人と話し合え」『その本人が逃げているんですよ!』 突然、直哉が声を荒らげた。 佳苗は肩を震わせた。 結婚式では、あれほど余裕たっぷりに振る舞っていた男だ。 その直哉が、電話の向こうで怒りを隠そうともしていない。『妻が勝手に家を出て、僕が黙っていると思いますか?』「絢子は成人した人間だ。外出にお前の許可は要らない」『……榊原さん』 低い声が返ってきた。『昔から、あなたはそうやって僕を見下してきた』「今は絢子の話をしている」『僕の妻ですよ。あなたの昔の女じゃない』 佳苗は思わず顔をしかめた。 絢子は雄吾の恋人だったことなど一度もない。 直哉は、それさえ気に入らないのだろうか。「言いたいことはそれだけか」『奥さんにも伝えてください。余計なことをしないように、と』「佳苗を脅すつもりなら、今後はその発言も記録する」 雄吾の声が一段低くなっ
「分かりました。絢子さん、今いるコンビニの名前と場所を教えてください」 佳苗はスマートフォンを握り直した。『駅前の……久世の家から、歩いて十分くらいのところよ』 絢子が告げた店名を、佳苗は急いでメモした。「お母様に連絡します。絢子さんは、迎えが来るまでお店の中にいてください」『でも、直哉さんが探しに来たら……』「そのときは店員さんに助けを求めてください。危険を感じたら、警察を呼んでもらって」『……分かったわ』「今は電話を切って大丈夫です。お母様が迎えに行きますから」『佳苗さん』「はい?」『……ありがとう』 その声は、今にも泣き出しそうだった。 通話が終わると、佳苗はすぐに一条夫人へ電話をかけた。『もしもし、佳苗さん?』「絢子さんが家を出ました。今、駅前のコンビニにいます!」『えっ……絢子が?』「はい。迎えに来てほしいと言っています」 場所を伝えると、夫人は声を詰まらせた。『すぐに行きます。主人にも連絡して……本当に、ありがとうございます』「気をつけてください。直哉さんが探しているかもしれません」『ええ。分かりました』 電話を切った佳苗は、続けて雄吾にも連絡した。『佳苗、どうした?』「絢子さんが家から出られたの。今、お母様が迎えに向かってる」『そうか。場所は?』 佳苗が説明すると、雄吾は短く答えた。『分かった。俺も一条さんに連絡する』「雄吾、絢子さん、大丈夫かな……」『まだ安心はできない。だが、自分の意思で家を出られたのは大きい』「……うん」『佳苗は今、会
突然切れた電話を見つめながら、佳苗はその場に立ち尽くした。 直哉が帰ってきた。 絢子は確かにそう言った。しかも、ひどく怯えた声だった。 もう一度電話をかけようとして、佳苗は指を止めた。 もし直哉が絢子の携帯を取り上げていたら、自分からの着信がかえって彼女を追い詰めるかもしれない。「……どうしよう」 佳苗は急いで雄吾に電話をかけた。『佳苗? どうした』「雄吾、絢子さんから電話があったの」 佳苗は、絢子が離婚したがっていること、直哉を怖がっていること、そして突然電話が切れたことを伝えた。 雄吾は黙って聞いていた。『今、どこにいる?』「買い物の帰り。もうすぐ家に着くところ」『分かった。まず帰れ。俺もできるだけ早く戻る』「でも、絢子さんが……」『一条さんには俺から連絡する。佳苗は久世に連絡するな』「……うん」『絢子が助けを求めたことは、誰にも知られないようにしておけ』 その言葉に、佳苗は頷いた。 電話を切ると、急いで帰宅した。 それから一時間ほどして、雄吾が帰ってきた。「絢子さんは?」 玄関まで迎えに出た佳苗が尋ねると、雄吾は首を横に振った。「まだ確認できてない」「そう……」「母親には話した。絢子から連絡があっても、直哉の前では離婚の話を出さないよう伝えてある」 雄吾は上着を脱ぎながら続けた。「一条さんは、明日にも弁護士に相談するそうだ」「よかった……」 少なくとも、絢子を助けるために動き始めている人がいる。 それだけで、佳苗は少し安心した。 けれど、その夜になっても絢子から連絡はなかった。 翌朝も、状況は変わらなかった。
『今帰ったら、直哉さんに何をされるか分からない』 絢子の母親から届いたメッセージを、佳苗は何度も読み返した。「雄吾、これ……」 画面を見せると、雄吾の表情が険しくなった。「母親に電話する」 雄吾はすぐに一条夫人へ連絡した。「榊原です。絢子からの電話は、もう切れたんですね?」 佳苗は隣で息を詰めていた。「……分かりました。もう一度連絡が取れたら、無理に帰宅を迫らず、まず安全な場所で話せるか確認してください」 電話を終えた雄吾は、佳苗に向き直った。「絢子は母親に、家には来ないでほしいと言ったそうだ」「どうして……」「直哉に知られたら困る、と」 佳苗は唇を噛んだ。 結婚式で見た絢子の姿が、脳裏に浮かぶ。 美しいドレスを着て、誰よりも華やかに微笑んでいた女性。 あのとき、彼女はもう夫を怖がっていたのだろうか。「雄吾、私たちに何かできないかな」「まずは絢子自身と話す必要がある」「でも、電話も自由にできないんでしょう?」「ああ。だから、慎重に動く」 雄吾は佳苗の肩に手を置いた。「母親には、必要なら警察や専門の相談窓口にも相談するよう伝えた。俺たちだけで解決しようとする話じゃない」「……うん」 佳苗は頷いた。 それでも、何もできずに待つのはつらかった。 翌日、佳苗は美佐子から連絡を受けた。『絢子さんのお母様と相談したんだけれど、しばらく私たちも様子を見ながら連絡を取ることにしたの』「そうですか……」『ただ、直哉さんに知られないようにしないとね』 美佐子の声には、いつになく緊張が滲んでいた。『あの子、昔から気丈なところがあったでしょう。そんな絢子さんが
「絢子を助けていただけませんか」 一条夫人の言葉に、雄吾はすぐには答えなかった。 佳苗も胸が痛んだ。娘の身を案じる母親が、どんな思いでここまで来たのか、想像するだけで苦しかった。「一条さん、絢子とは最後にいつ会いましたか」「十日ほど前です。あの子が一人で実家に来たときで……」「そのとき、何か相談は?」「いいえ。ただ、結婚生活はどうだと聞いたら、うまくやっていると」 夫人は膝の上でハンカチを握りしめた。「でも、あの子、私が少し大きな声を出しただけで、びくっとしたんです。昔はそんな子じゃなかったのに」「……そうですか」「直哉さんに何かされたのかと尋ねても、何も言ってくれなくて」 夫人の目から涙がこぼれた。「私、あのとき無理にでも連れて帰ればよかった」 佳苗はそっとティッシュを差し出した。「まだ、遅くないと思います」 夫人が顔を上げる。「絢子さんは、お母様に何も言わないでほしいとお願いしたんですよね。それは、何かを怖がっているからかもしれません」「ええ……」「だから、まずは絢子さんと直接お話しできるようにしませんか」 佳苗の言葉に、雄吾も頷いた。「俺から久世に連絡します。ただ、絢子を会わせろと要求したところで、素直に応じるとは思えません」「では、どうすれば……」「まずは本人の無事を確認する。会えない理由をはっきりさせる必要もある」 雄吾は落ち着いた声で続けた。「それと、写真は残しておいてください。いつ撮ったものかも記録しておいたほうがいい」「分かりました」 夫人は何度も頷いた。 それから一時間ほど話をして、夫人は帰っていった。 玄関で見送る際、佳苗は彼女の手を握った。「絢子さんから連絡があったら、教え
「やっと捕まえた」 耳元で囁かれた低い声に、佳苗の心臓が大きく跳ねた。 捕まえた。 その言葉は、優しいのにどこか危険だった。「榊原、先輩……?」 佳苗が戸惑う中、雄吾は佳苗の手首を掴んだまま、ゆっくり顔を上げる。 その視線の先には、こちらへ歩いてくる悟がいた。「佳苗!」 苛立った声。 悟は佳苗を見るなり、露骨に顔をしかめた。「何やってんだよ」 だが次の瞬間、雄吾の姿に気づき、動きが止まる。「……誰?」 警戒した声音。 雄吾は答えない。 ただ静かに佳苗の前へ立った。 庇うように。 その背中の広さに、佳苗は息を呑む。「佳苗、こっち来い」 悟が手を伸ばす。
恵が帰ったあとも、佳苗はしばらく動けなかった。 心臓が嫌なほど脈打っている。 あの目。 一瞬だけ見せた、冷たい視線。 前世では最後まで気づかなかった。 恵はずっと、自分から奪うことを楽しんでいたのだ。「……っ」 佳苗は唇を噛み締める。 怖い。 けれど、それ以上に悔しかった。 どうして自分は、あんな人たちのために命まで懸けてしまったのだろう。 テーブルの上に置かれた結婚写真が目に入る。 幸せそうに笑う自分。 悟の腕に寄り添って、未来を信じ切っていた頃の自分。 ――滑稽。 佳苗は震える手で写真立てを伏せた。 もう戻れない。 戻りたくもない。 今度こそ終わらせ
「……今、泣いてるのか?」 低く静かな声が耳に落ちる。 その一言だけで、張り詰めていた感情が崩れそうになった。 佳苗は慌てて口元を押さえた。「な、泣いてません」『嘘が下手だな、お前は昔から』 昔から。 その言葉に、大学時代の記憶が蘇る。 榊原雄吾。 成績優秀、容姿端麗、誰にも媚びない孤高の男。 学生の頃から有名だった。 近寄りがたい人だったのに、なぜか佳苗にはよく話しかけてきた。『また他人の仕事押し付けられてるのか』『断れないのか、お前は』 呆れたように言いながら、結局いつも助けてくれた。 けれど卒業後は一度も会っていない。 それなのに、どうして今。「どうし
「佳苗? 本当にどうしたんだよ」 怪訝そうな顔で、悟がこちらを見る。 その優しげな声に、佳苗は思わず身を強張らせた。 前世でも、この男はこんな顔をしていた。 穏やかで、頼れて、優しくて。 だから信じてしまったのだ。 まさか裏で妹と不倫し、自分を“代理母”として利用していたなんて、夢にも思わなかった。「顔色悪いぞ。熱でもある?」 悟が立ち上がり、額に触れようと手を伸ばしてくる。「っ……!」 佳苗は反射的にその手を振り払った。 ぱしん、と乾いた音が響く。 悟が目を見開いた。「……佳苗?」 しまった、と思った。 前世の記憶が蘇ったとはいえ、今の悟はまだ“何も知らない夫







