LOGIN「本日の聞き取りは以上です」
内部監査担当者は資料を閉じた。
「正式な処分につきましては、後日改めて通知いたします」
「……はい」
悟は力なく頷くことしかできなかった。
部長も静かに立ち上がる。
「藤倉くん」
「はい」
「非常に残念だ」
その一言が胸に刺さる。
「君は仕事ができる社員だった」
「期待もしていた」
だからこそ裏切られた気持ちが大きい。
部長はそう言いたかったのだろう。
悟は俯いたまま、
「申し訳ありません」
としか言えなかった。
◇
会社を出ると、空はどんよりと曇っていた。
駅へ向かう足取りは重い。
周囲では会社員たちが笑いながら昼食へ向かっている。
その輪の中へ、自分はもう戻れないかもしれない。
そ
『あなたの奥さん、何かご存じじゃありませんか?』 電話越しに聞こえた直哉の声に、佳苗は思わず雄吾を見た。 雄吾は表情を変えずに答えた。「なぜ佳苗に聞く?」『妻が最近、佳苗さんと親しくしていたようなので。今日も連絡を取っていたんじゃないかと思いまして』「絢子がいなくなったなら、まず実家に確認すればいいだろう」『もちろん連絡しましたよ。でも、お義母さんは何も教えてくれないんです』 直哉は小さく笑った。『まるで、僕が何か悪いことでもしたみたいにね』「絢子が自分の意思で出ていったなら、まず本人の気持ちを尊重するべきじゃないか」『……ずいぶん事情に詳しいんですね』 直哉の声から笑みが消えた。『やっぱり、あなた方が手引きしたんですか?』「俺たちがどうこう言う話じゃない。夫婦の問題なら、絢子本人と話し合え」『その本人が逃げているんですよ!』 突然、直哉が声を荒らげた。 佳苗は肩を震わせた。 結婚式では、あれほど余裕たっぷりに振る舞っていた男だ。 その直哉が、電話の向こうで怒りを隠そうともしていない。『妻が勝手に家を出て、僕が黙っていると思いますか?』「絢子は成人した人間だ。外出にお前の許可は要らない」『……榊原さん』 低い声が返ってきた。『昔から、あなたはそうやって僕を見下してきた』「今は絢子の話をしている」『僕の妻ですよ。あなたの昔の女じゃない』 佳苗は思わず顔をしかめた。 絢子は雄吾の恋人だったことなど一度もない。 直哉は、それさえ気に入らないのだろうか。「言いたいことはそれだけか」『奥さんにも伝えてください。余計なことをしないように、と』「佳苗を脅すつもりなら、今後はその発言も記録する」 雄吾の声が一段低くなっ
「分かりました。絢子さん、今いるコンビニの名前と場所を教えてください」 佳苗はスマートフォンを握り直した。『駅前の……久世の家から、歩いて十分くらいのところよ』 絢子が告げた店名を、佳苗は急いでメモした。「お母様に連絡します。絢子さんは、迎えが来るまでお店の中にいてください」『でも、直哉さんが探しに来たら……』「そのときは店員さんに助けを求めてください。危険を感じたら、警察を呼んでもらって」『……分かったわ』「今は電話を切って大丈夫です。お母様が迎えに行きますから」『佳苗さん』「はい?」『……ありがとう』 その声は、今にも泣き出しそうだった。 通話が終わると、佳苗はすぐに一条夫人へ電話をかけた。『もしもし、佳苗さん?』「絢子さんが家を出ました。今、駅前のコンビニにいます!」『えっ……絢子が?』「はい。迎えに来てほしいと言っています」 場所を伝えると、夫人は声を詰まらせた。『すぐに行きます。主人にも連絡して……本当に、ありがとうございます』「気をつけてください。直哉さんが探しているかもしれません」『ええ。分かりました』 電話を切った佳苗は、続けて雄吾にも連絡した。『佳苗、どうした?』「絢子さんが家から出られたの。今、お母様が迎えに向かってる」『そうか。場所は?』 佳苗が説明すると、雄吾は短く答えた。『分かった。俺も一条さんに連絡する』「雄吾、絢子さん、大丈夫かな……」『まだ安心はできない。だが、自分の意思で家を出られたのは大きい』「……うん」『佳苗は今、会
突然切れた電話を見つめながら、佳苗はその場に立ち尽くした。 直哉が帰ってきた。 絢子は確かにそう言った。しかも、ひどく怯えた声だった。 もう一度電話をかけようとして、佳苗は指を止めた。 もし直哉が絢子の携帯を取り上げていたら、自分からの着信がかえって彼女を追い詰めるかもしれない。「……どうしよう」 佳苗は急いで雄吾に電話をかけた。『佳苗? どうした』「雄吾、絢子さんから電話があったの」 佳苗は、絢子が離婚したがっていること、直哉を怖がっていること、そして突然電話が切れたことを伝えた。 雄吾は黙って聞いていた。『今、どこにいる?』「買い物の帰り。もうすぐ家に着くところ」『分かった。まず帰れ。俺もできるだけ早く戻る』「でも、絢子さんが……」『一条さんには俺から連絡する。佳苗は久世に連絡するな』「……うん」『絢子が助けを求めたことは、誰にも知られないようにしておけ』 その言葉に、佳苗は頷いた。 電話を切ると、急いで帰宅した。 それから一時間ほどして、雄吾が帰ってきた。「絢子さんは?」 玄関まで迎えに出た佳苗が尋ねると、雄吾は首を横に振った。「まだ確認できてない」「そう……」「母親には話した。絢子から連絡があっても、直哉の前では離婚の話を出さないよう伝えてある」 雄吾は上着を脱ぎながら続けた。「一条さんは、明日にも弁護士に相談するそうだ」「よかった……」 少なくとも、絢子を助けるために動き始めている人がいる。 それだけで、佳苗は少し安心した。 けれど、その夜になっても絢子から連絡はなかった。 翌朝も、状況は変わらなかった。
『今帰ったら、直哉さんに何をされるか分からない』 絢子の母親から届いたメッセージを、佳苗は何度も読み返した。「雄吾、これ……」 画面を見せると、雄吾の表情が険しくなった。「母親に電話する」 雄吾はすぐに一条夫人へ連絡した。「榊原です。絢子からの電話は、もう切れたんですね?」 佳苗は隣で息を詰めていた。「……分かりました。もう一度連絡が取れたら、無理に帰宅を迫らず、まず安全な場所で話せるか確認してください」 電話を終えた雄吾は、佳苗に向き直った。「絢子は母親に、家には来ないでほしいと言ったそうだ」「どうして……」「直哉に知られたら困る、と」 佳苗は唇を噛んだ。 結婚式で見た絢子の姿が、脳裏に浮かぶ。 美しいドレスを着て、誰よりも華やかに微笑んでいた女性。 あのとき、彼女はもう夫を怖がっていたのだろうか。「雄吾、私たちに何かできないかな」「まずは絢子自身と話す必要がある」「でも、電話も自由にできないんでしょう?」「ああ。だから、慎重に動く」 雄吾は佳苗の肩に手を置いた。「母親には、必要なら警察や専門の相談窓口にも相談するよう伝えた。俺たちだけで解決しようとする話じゃない」「……うん」 佳苗は頷いた。 それでも、何もできずに待つのはつらかった。 翌日、佳苗は美佐子から連絡を受けた。『絢子さんのお母様と相談したんだけれど、しばらく私たちも様子を見ながら連絡を取ることにしたの』「そうですか……」『ただ、直哉さんに知られないようにしないとね』 美佐子の声には、いつになく緊張が滲んでいた。『あの子、昔から気丈なところがあったでしょう。そんな絢子さんが
「絢子を助けていただけませんか」 一条夫人の言葉に、雄吾はすぐには答えなかった。 佳苗も胸が痛んだ。娘の身を案じる母親が、どんな思いでここまで来たのか、想像するだけで苦しかった。「一条さん、絢子とは最後にいつ会いましたか」「十日ほど前です。あの子が一人で実家に来たときで……」「そのとき、何か相談は?」「いいえ。ただ、結婚生活はどうだと聞いたら、うまくやっていると」 夫人は膝の上でハンカチを握りしめた。「でも、あの子、私が少し大きな声を出しただけで、びくっとしたんです。昔はそんな子じゃなかったのに」「……そうですか」「直哉さんに何かされたのかと尋ねても、何も言ってくれなくて」 夫人の目から涙がこぼれた。「私、あのとき無理にでも連れて帰ればよかった」 佳苗はそっとティッシュを差し出した。「まだ、遅くないと思います」 夫人が顔を上げる。「絢子さんは、お母様に何も言わないでほしいとお願いしたんですよね。それは、何かを怖がっているからかもしれません」「ええ……」「だから、まずは絢子さんと直接お話しできるようにしませんか」 佳苗の言葉に、雄吾も頷いた。「俺から久世に連絡します。ただ、絢子を会わせろと要求したところで、素直に応じるとは思えません」「では、どうすれば……」「まずは本人の無事を確認する。会えない理由をはっきりさせる必要もある」 雄吾は落ち着いた声で続けた。「それと、写真は残しておいてください。いつ撮ったものかも記録しておいたほうがいい」「分かりました」 夫人は何度も頷いた。 それから一時間ほど話をして、夫人は帰っていった。 玄関で見送る際、佳苗は彼女の手を握った。「絢子さんから連絡があったら、教え
「痣があったんですか……?」 佳苗は思わず聞き返した。『ええ。手首から肘にかけて、青紫色になっていたそうなの』「それって、もしかして……」『分からないわ。お母様も、何度聞いても転んだとしか答えてくれなかったって』 美佐子の声は沈んでいた。『私、あの子が結婚すると聞いたとき、本当に嬉しかったのよ。雄吾のお嫁さんになってくれたらと思っていた時期もあったけれど、こうして別の方と幸せになれるなら、それが一番だと思っていたの』「……はい」『小さい頃から知っている子だから、幸せになってほしくて。でも、こんな話を聞いてしまうと、心配で……』 佳苗は返す言葉が見つからなかった。 痣があるからといって、直哉が暴力を振るったとは限らない。けれど、結婚式での態度や、その後の連絡を思い返すと、嫌な想像ばかり浮かんでしまう。「お義母さん、絢子さんのお母様はどうされるつもりなんですか?」『もう一度、娘に会わせてほしいと連絡するそうよ。でも、直哉さんが取り次いでくれるかどうか……』「そうですか……」『佳苗さんにも心配をかけてしまったわね』「いえ。教えていただいてよかったです」 電話を切ったあと、佳苗はソファに座り込んだ。 絢子とは、決して仲がよかったわけではない。 以前の嫌がらせを忘れたわけでもないし、すべて許したつもりもなかった。 それでも、誰にも会えず、夫の顔色をうかがいながら暮らしているのだとしたら。 そんな生活を、幸せな結婚とは呼べないだろう。 昼過ぎ、雄吾が帰宅した。「ただいま。待たせたな」「おかえりなさい」 佳苗の顔を見るなり、雄吾は足を止めた。「何かあったのか?」「……うん。絢子さんのことで」 佳苗は美佐子から聞いた話を伝えた。 雄吾は最後まで黙って聞いていたが、痣の話になると表情を険しくした。「母さんは絢子の両親と連絡を取ってるんだな?」「うん。お母様も心配してるみたい」「なら、まずは家族に任せるべきだ」「そうだよね……」 佳苗は頷いたものの、胸のつかえは消えなかった。「でも、絢子さんが助けてって言えない状態だったら?」 雄吾は佳苗を見た。「何かあれば、俺たちにもできることはある。ただ、本人の意思も確かめずに動くのは危険だ」「……うん」「佳苗が心配する気持ちは分かる。だが、久世に直接会いに行くような真似
ホテルへ入る佳苗と雄吾。 暗い夜道で撮られたはずなのに、驚くほど鮮明だった。「……どうして」 佳苗の指先が震える。 まるで誰かに見張られていたみたいだった。『ねぇお姉ちゃん』『その人、誰?』『もしかして浮気?』 次々届くメッセージ。 佳苗は顔を青ざめさせた。 浮気。 その言葉に胸が痛む。 裏切っていたのは悟たちの方なのに、なぜ自分が責められなければいけないのだろう。「見せろ」 雄吾が静かにスマホを受け取る。 メッセージ画面を見た瞬間、その目が冷えた。「……なるほど」「先輩」「撮られていたな」 低い声。 感情を押し殺したような響き。「どうしよう……」
「……今、泣いてるのか?」 低く静かな声が耳に落ちる。 その一言だけで、張り詰めていた感情が崩れそうになった。 佳苗は慌てて口元を押さえた。「な、泣いてません」『嘘が下手だな、お前は昔から』 昔から。 その言葉に、大学時代の記憶が蘇る。 榊原雄吾。 成績優秀、容姿端麗、誰にも媚びない孤高の男。 学生の頃から有名だった。 近寄りがたい人だったのに、なぜか佳苗にはよく話しかけてきた。『また他人の仕事押し付けられてるのか』『断れないのか、お前は』 呆れたように言いながら、結局いつも助けてくれた。 けれど卒業後は一度も会っていない。 それなのに、どうして今。「どうし
「佳苗? 本当にどうしたんだよ」 怪訝そうな顔で、悟がこちらを見る。 その優しげな声に、佳苗は思わず身を強張らせた。 前世でも、この男はこんな顔をしていた。 穏やかで、頼れて、優しくて。 だから信じてしまったのだ。 まさか裏で妹と不倫し、自分を“代理母”として利用していたなんて、夢にも思わなかった。「顔色悪いぞ。熱でもある?」 悟が立ち上がり、額に触れようと手を伸ばしてくる。「っ……!」 佳苗は反射的にその手を振り払った。 ぱしん、と乾いた音が響く。 悟が目を見開いた。「……佳苗?」 しまった、と思った。 前世の記憶が蘇ったとはいえ、今の悟はまだ“何も知らない夫
「……っ、はぁ……ぁっ……!」 全身を引き裂かれるような痛みに、藤倉佳苗は汗で濡れたシーツを握り締めた。 眩しい手術灯。鼻を刺す消毒液の匂い。何度も響く機械音。 苦しい。 息ができない。「もう少しです! 頑張ってください!」 医師の声が遠い。 お腹の奥が裂けるように熱い。 それでも佳苗は必死に意識を繋いだ。(赤ちゃん……) やっと会える。 悟との子供。 愛する夫との、大切な命。 その一心だけで耐えていた。 けれど次の瞬間、医師たちの声色が変わった。「血圧低下!」「出血が止まりません!」「急げ!」 視界がぐらりと揺れる。 寒い。 急激に体温が奪われていく。







