Masuk「直哉さんが、こちらに……?」 佳苗は思わず玄関のほうを振り返った。『ええ。主人が止めたんですけれど、聞く耳を持ってくださらなくて』「分かりました。知らせてくださってありがとうございます」『本当に申し訳ありません。私たちのことで、佳苗さんまで巻き込んでしまって』「そんなことありません。絢子さんのこと、よろしくお願いします」 電話を切ると、佳苗はすぐに雄吾を呼んだ。 出勤前の雄吾は、寝室でネクタイを締めていた。「どうした?」「直哉さんが、うちに来るって」 事情を説明すると、雄吾はネクタイから手を離した。「今からか?」「うん。一条さんのお宅を出たところみたい」「分かった。今日は少し出社を遅らせる」「でも、お仕事は?」「連絡すれば済む。あいつを佳苗一人で相手にさせるつもりはない」 雄吾は会社に電話をかけ、出社が遅れることを伝えた。 佳苗も職場に連絡を入れた。 直哉が本当に来るかどうかは分からない。けれど、もし押しかけてきたら、落ち着いて出勤などできそうになかった。「雄吾、直哉さんは私が絢子さんをそそのかしたと思ってるみたい」「だろうな」「でも、離婚したいって言ったのは絢子さん自身なのに」「あいつには、それが認められないんだろう」 雄吾は腕時計を着けながら答えた。「自分の妻が、自分の意思で出ていったとは考えたくないんだ」 佳苗は眉を寄せた。 絢子を一人の人間として見ていれば、そんな発想にはならないはずだった。 それから三十分ほど経った頃、インターホンが鳴った。 モニターに映っていたのは、久世直哉だった。 上等なスーツを着て、いつもの人当たりのよさそうな笑みを浮かべている。『おはようございます。久世です』 佳苗の背筋に緊張が走った。 雄吾が
『あなたの奥さん、何かご存じじゃありませんか?』 電話越しに聞こえた直哉の声に、佳苗は思わず雄吾を見た。 雄吾は表情を変えずに答えた。「なぜ佳苗に聞く?」『妻が最近、佳苗さんと親しくしていたようなので。今日も連絡を取っていたんじゃないかと思いまして』「絢子がいなくなったなら、まず実家に確認すればいいだろう」『もちろん連絡しましたよ。でも、お義母さんは何も教えてくれないんです』 直哉は小さく笑った。『まるで、僕が何か悪いことでもしたみたいにね』「絢子が自分の意思で出ていったなら、まず本人の気持ちを尊重するべきじゃないか」『……ずいぶん事情に詳しいんですね』 直哉の声から笑みが消えた。『やっぱり、あなた方が手引きしたんですか?』「俺たちがどうこう言う話じゃない。夫婦の問題なら、絢子本人と話し合え」『その本人が逃げているんですよ!』 突然、直哉が声を荒らげた。 佳苗は肩を震わせた。 結婚式では、あれほど余裕たっぷりに振る舞っていた男だ。 その直哉が、電話の向こうで怒りを隠そうともしていない。『妻が勝手に家を出て、僕が黙っていると思いますか?』「絢子は成人した人間だ。外出にお前の許可は要らない」『……榊原さん』 低い声が返ってきた。『昔から、あなたはそうやって僕を見下してきた』「今は絢子の話をしている」『僕の妻ですよ。あなたの昔の女じゃない』 佳苗は思わず顔をしかめた。 絢子は雄吾の恋人だったことなど一度もない。 直哉は、それさえ気に入らないのだろうか。「言いたいことはそれだけか」『奥さんにも伝えてください。余計なことをしないように、と』「佳苗を脅すつもりなら、今後はその発言も記録する」 雄吾の声が一段低くなっ
「分かりました。絢子さん、今いるコンビニの名前と場所を教えてください」 佳苗はスマートフォンを握り直した。『駅前の……久世の家から、歩いて十分くらいのところよ』 絢子が告げた店名を、佳苗は急いでメモした。「お母様に連絡します。絢子さんは、迎えが来るまでお店の中にいてください」『でも、直哉さんが探しに来たら……』「そのときは店員さんに助けを求めてください。危険を感じたら、警察を呼んでもらって」『……分かったわ』「今は電話を切って大丈夫です。お母様が迎えに行きますから」『佳苗さん』「はい?」『……ありがとう』 その声は、今にも泣き出しそうだった。 通話が終わると、佳苗はすぐに一条夫人へ電話をかけた。『もしもし、佳苗さん?』「絢子さんが家を出ました。今、駅前のコンビニにいます!」『えっ……絢子が?』「はい。迎えに来てほしいと言っています」 場所を伝えると、夫人は声を詰まらせた。『すぐに行きます。主人にも連絡して……本当に、ありがとうございます』「気をつけてください。直哉さんが探しているかもしれません」『ええ。分かりました』 電話を切った佳苗は、続けて雄吾にも連絡した。『佳苗、どうした?』「絢子さんが家から出られたの。今、お母様が迎えに向かってる」『そうか。場所は?』 佳苗が説明すると、雄吾は短く答えた。『分かった。俺も一条さんに連絡する』「雄吾、絢子さん、大丈夫かな……」『まだ安心はできない。だが、自分の意思で家を出られたのは大きい』「……うん」『佳苗は今、会
突然切れた電話を見つめながら、佳苗はその場に立ち尽くした。 直哉が帰ってきた。 絢子は確かにそう言った。しかも、ひどく怯えた声だった。 もう一度電話をかけようとして、佳苗は指を止めた。 もし直哉が絢子の携帯を取り上げていたら、自分からの着信がかえって彼女を追い詰めるかもしれない。「……どうしよう」 佳苗は急いで雄吾に電話をかけた。『佳苗? どうした』「雄吾、絢子さんから電話があったの」 佳苗は、絢子が離婚したがっていること、直哉を怖がっていること、そして突然電話が切れたことを伝えた。 雄吾は黙って聞いていた。『今、どこにいる?』「買い物の帰り。もうすぐ家に着くところ」『分かった。まず帰れ。俺もできるだけ早く戻る』「でも、絢子さんが……」『一条さんには俺から連絡する。佳苗は久世に連絡するな』「……うん」『絢子が助けを求めたことは、誰にも知られないようにしておけ』 その言葉に、佳苗は頷いた。 電話を切ると、急いで帰宅した。 それから一時間ほどして、雄吾が帰ってきた。「絢子さんは?」 玄関まで迎えに出た佳苗が尋ねると、雄吾は首を横に振った。「まだ確認できてない」「そう……」「母親には話した。絢子から連絡があっても、直哉の前では離婚の話を出さないよう伝えてある」 雄吾は上着を脱ぎながら続けた。「一条さんは、明日にも弁護士に相談するそうだ」「よかった……」 少なくとも、絢子を助けるために動き始めている人がいる。 それだけで、佳苗は少し安心した。 けれど、その夜になっても絢子から連絡はなかった。 翌朝も、状況は変わらなかった。
『今帰ったら、直哉さんに何をされるか分からない』 絢子の母親から届いたメッセージを、佳苗は何度も読み返した。「雄吾、これ……」 画面を見せると、雄吾の表情が険しくなった。「母親に電話する」 雄吾はすぐに一条夫人へ連絡した。「榊原です。絢子からの電話は、もう切れたんですね?」 佳苗は隣で息を詰めていた。「……分かりました。もう一度連絡が取れたら、無理に帰宅を迫らず、まず安全な場所で話せるか確認してください」 電話を終えた雄吾は、佳苗に向き直った。「絢子は母親に、家には来ないでほしいと言ったそうだ」「どうして……」「直哉に知られたら困る、と」 佳苗は唇を噛んだ。 結婚式で見た絢子の姿が、脳裏に浮かぶ。 美しいドレスを着て、誰よりも華やかに微笑んでいた女性。 あのとき、彼女はもう夫を怖がっていたのだろうか。「雄吾、私たちに何かできないかな」「まずは絢子自身と話す必要がある」「でも、電話も自由にできないんでしょう?」「ああ。だから、慎重に動く」 雄吾は佳苗の肩に手を置いた。「母親には、必要なら警察や専門の相談窓口にも相談するよう伝えた。俺たちだけで解決しようとする話じゃない」「……うん」 佳苗は頷いた。 それでも、何もできずに待つのはつらかった。 翌日、佳苗は美佐子から連絡を受けた。『絢子さんのお母様と相談したんだけれど、しばらく私たちも様子を見ながら連絡を取ることにしたの』「そうですか……」『ただ、直哉さんに知られないようにしないとね』 美佐子の声には、いつになく緊張が滲んでいた。『あの子、昔から気丈なところがあったでしょう。そんな絢子さんが
「絢子を助けていただけませんか」 一条夫人の言葉に、雄吾はすぐには答えなかった。 佳苗も胸が痛んだ。娘の身を案じる母親が、どんな思いでここまで来たのか、想像するだけで苦しかった。「一条さん、絢子とは最後にいつ会いましたか」「十日ほど前です。あの子が一人で実家に来たときで……」「そのとき、何か相談は?」「いいえ。ただ、結婚生活はどうだと聞いたら、うまくやっていると」 夫人は膝の上でハンカチを握りしめた。「でも、あの子、私が少し大きな声を出しただけで、びくっとしたんです。昔はそんな子じゃなかったのに」「……そうですか」「直哉さんに何かされたのかと尋ねても、何も言ってくれなくて」 夫人の目から涙がこぼれた。「私、あのとき無理にでも連れて帰ればよかった」 佳苗はそっとティッシュを差し出した。「まだ、遅くないと思います」 夫人が顔を上げる。「絢子さんは、お母様に何も言わないでほしいとお願いしたんですよね。それは、何かを怖がっているからかもしれません」「ええ……」「だから、まずは絢子さんと直接お話しできるようにしませんか」 佳苗の言葉に、雄吾も頷いた。「俺から久世に連絡します。ただ、絢子を会わせろと要求したところで、素直に応じるとは思えません」「では、どうすれば……」「まずは本人の無事を確認する。会えない理由をはっきりさせる必要もある」 雄吾は落ち着いた声で続けた。「それと、写真は残しておいてください。いつ撮ったものかも記録しておいたほうがいい」「分かりました」 夫人は何度も頷いた。 それから一時間ほど話をして、夫人は帰っていった。 玄関で見送る際、佳苗は彼女の手を握った。「絢子さんから連絡があったら、教え
「……っ、はぁ……ぁっ……!」 全身を引き裂かれるような痛みに、藤倉佳苗は汗で濡れたシーツを握り締めた。 眩しい手術灯。鼻を刺す消毒液の匂い。何度も響く機械音。 苦しい。 息ができない。「もう少しです! 頑張ってください!」 医師の声が遠い。 お腹の奥が裂けるように熱い。 それでも佳苗は必死に意識を繋いだ。(赤ちゃん……) やっと会える。 悟との子供。 愛する夫との、大切な命。 その一心だけで耐えていた。 けれど次の瞬間、医師たちの声色が変わった。「血圧低下!」「出血が止まりません!」「急げ!」 視界がぐらりと揺れる。 寒い。 急激に体温が奪われていく。
ホテルへ入る佳苗と雄吾。 暗い夜道で撮られたはずなのに、驚くほど鮮明だった。「……どうして」 佳苗の指先が震える。 まるで誰かに見張られていたみたいだった。『ねぇお姉ちゃん』『その人、誰?』『もしかして浮気?』 次々届くメッセージ。 佳苗は顔を青ざめさせた。 浮気。 その言葉に胸が痛む。 裏切っていたのは悟たちの方なのに、なぜ自分が責められなければいけないのだろう。「見せろ」 雄吾が静かにスマホを受け取る。 メッセージ画面を見た瞬間、その目が冷えた。「……なるほど」「先輩」「撮られていたな」 低い声。 感情を押し殺したような響き。「どうしよう……」
「俺は昔から、お前しか欲しくない」 低い声が耳元で響く。 佳苗は息を呑んだ。 車内の空気が熱い。 逃げ場がない。 雄吾の視線は真っ直ぐで、冗談の気配なんて微塵もなかった。「……先輩」 喉が震える。 理解が追いつかない。 昔から? ずっと? そんなはずない。 自分は特別な人間じゃない。 妹みたいに愛嬌があるわけでも、美人なわけでもない。 ただ都合よく利用されるだけの女だった。「信じられないか」 雄吾が静かに言う。 佳苗は答えられなかった。 すると雄吾は小さく息を吐き、身体を離す。「まあいい」「え……」「今すぐ答えを求める気はない」 その言葉に、佳苗は
もう二度と、お前をあいつらのところへ戻したりしない。 その言葉が、佳苗の胸に重く落ちる。「……どうして」 気づけば口にしていた。 雄吾が視線を向ける。「どうして、そこまでしてくれるんですか」 本当に分からなかった。 大学時代、少し関わりがあっただけ。 卒業後は一度も会っていない。 それなのに、この男は突然現れて、自分を助けると言う。 しかも、まるで最初から全部知っていたみたいに。「昔世話になった」 雄吾は短く答えた。「レポート、覚えてるか」 佳苗は目を瞬く。 大学二年の頃。 雄吾が長期入院していた時期があった。 単位が危ないと聞いて、佳苗は講義ノートをまと







