INICIAR SESIÓN離婚協議の前日。
佳苗は仕事を終え、まっすぐマンションへ帰ってきた。
「ただいまです」
「おかえり」
リビングから雄吾の声が返ってくる。
いつもと変わらない。
その何気ないやり取りに、少しだけ肩の力が抜けた。
夕食を終えたあと、佳苗は自室で明日の持ち物を確認していた。
バッグの中には、三浦から送られてきた資料。
身分証。
印鑑。
ハンカチ。
何度確認しても落ち着かない。
「忘れ物はないよね……」
小さく呟いた、その時だった。
コンコン、とドアが鳴る。
「佳苗」
雄吾だった。
「はい」
ドアを開けると、雄吾は湯気の立つマグカップを差し出した。
「温かいものでも飲め」
カモミールティーだった。
ふわりと優しい香りが漂う。
『ずっと誰かを守り続けるのは、とても大変なことだから』 佳苗は何度もその文章を読み返した。 悪意のある言葉ではない。 少なくとも、表面上は。 絢子はきっと、自分が自立しようとしていることを応援してくれている。 それなのに。(雄吾さんは……私を守ることに疲れているの?) そんな考えが浮かんでしまう。 佳苗は慌ててスマートフォンを伏せた。「違う……」 雄吾はそんなことを一度も言っていない。 迷惑そうな顔をされたことだってない。 むしろ、いつも自分を大切にしてくれている。 分かっている。 分かっているのに――。「佳苗?」「……っ」 突然声を掛けられ、佳苗は肩を震わせた。 振り返ると、風呂から上がった雄吾が立っている。「どうした?」「何でもありません」 佳苗は反射的に答えた。 雄吾の視線が、伏せられたスマートフォンへ向かう。「誰かから連絡か?」「一条さんです」「絢子?」「はい。今日のお礼を……」「そうか」 雄吾は佳苗の隣へ腰を下ろした。 その距離が近い。 いつもなら安心するはずなのに、今は絢子の言葉が頭から離れなかった。「雄吾さん」「ん?」「私……」 佳苗は膝の上で両手を握った。「最近、一人でできることが増えたと思いませんか?」 唐突な質問だった。 雄吾は少し驚いたようだったが、すぐに頷く。「ああ」「仕事も始めて、お給料もいただけるようになって」「ああ」「少しずつですけど、自分のことは自
「ただいま」 雄吾の声が聞こえる。 佳苗はようやく立ち上がった。「……おかえりなさい」 リビングへ入ってきた雄吾が、佳苗を見て足を止める。「どうした?」「え?」「元気がない」 すぐに気づかれてしまった。「そんなことないですよ」「そうか?」「はい」 佳苗は笑ってみせる。「今日は一条さんとお買い物に行って、少し歩き疲れただけです」「絢子と?」「はい。この前、誘っていただいて」 雄吾はジャケットを脱ぎながら頷いた。「そうだったのか」「とても素敵なお店に連れていっていただきました」「何か買ったのか?」「私は何も」 佳苗は苦笑する。「私にはまだ少し高くて」「そうか」「一条さんはドレスを買っていました。とても似合っていて……」 そこまで話したところで、佳苗は口を閉じた。 絢子が言っていた。 雄吾の母親も好きな色なのだと。 そのことを話そうとして、やめた。「佳苗?」「何でもありません」 雄吾はしばらく佳苗を見つめる。「絢子に何か言われたのか?」 心臓が跳ねた。「どうしてですか?」「この前、絢子と会ったあとも様子がおかしかった」「……」「今日も同じだ」 佳苗は視線を逸らした。「何も言われていません」 嘘ではない。 絢子は何も酷いことなど言っていない。 仕事を応援してくれた。 一人でも歩いていけるようになると言ってくれた。 雄吾の昔の話を教えてくれた。 ただ、それだけだ。「
「佳苗さん、お待たせ」 試着室から出てきた絢子を見て、佳苗は思わず息を呑んだ。「……すごくお似合いです」「本当?」「はい。とても綺麗です」 深い色合いのドレスは、絢子の華やかな顔立ちによく似合っていた。 店員も笑顔で頷く。「一条様にぴったりでございます」「じゃあ、これにしようかしら」 絢子は鏡の前で一度確認すると、迷うことなく購入を決めた。 その姿を見ながら、佳苗は先ほど絢子が言っていたことを思い出す。『雄吾さんの隣に立つって、案外大変なの』 確かにそうなのかもしれない。 絢子なら、こういう場所でも戸惑うことはない。 パーティーへ行っても堂々としている。 雄吾の仕事関係の人とも自然に話せる。 雄吾の家族とも昔から親しい。 自分とは、あまりにも違った。 ◇ 買い物を終えたあと、二人は近くのカフェへ入った。「今日は付き合ってくれてありがとう」「いえ。私も楽しかったです」「本当に?」「はい」 それは嘘ではなかった。 絢子と過ごす時間そのものは楽しい。 話題も豊富で、気遣いもできる。 嫌いになる理由など一つもなかった。「佳苗さんは優しいのね」「そんなこと……」「雄吾さんが放っておけなかったのも分かる気がする」 また、その言葉だった。 佳苗の胸が小さくざわつく。「……一条さん」「なあに?」 少し迷ってから、佳苗は尋ねた。「雄吾さんって、昔から女性に優しかったんですか?」「そうね……」 絢子は少し考える。「誰にでも愛想がいい人ではなかったわ」
それから数日。 佳苗はいつも通りに過ごしていた。 仕事へ行き、帰れば雄吾と食事をする。 表面上は、何も変わっていない。 けれど、ときどき絢子の言葉を思い出してしまう。『雄吾さんって、頼られると放っておけないでしょう?』『傷ついている人を見ると、なおさらね』 考えないようにしようと思うほど、頭から離れなかった。 そんな日の昼休み。 佳苗のスマートフォンにメッセージが届いた。『佳苗さん、突然ごめんなさい。今度の日曜日、お時間ある?』 絢子だった。『はい。特に予定はありません』『よかった。実はお買い物に付き合ってほしいの』 佳苗は少し驚いた。『私でよければ』『ありがとう。佳苗さんに似合いそうなお店もあるから、一緒に見ましょう』 相変わらず親切な人だ。 先日のもやもやも、自分が勝手に気にしすぎていただけなのかもしれない。 そう思いながら、佳苗は待ち合わせの約束をした。 ◇ 日曜日。 絢子に連れられて訪れたのは、高級ブランドの店が並ぶ商業施設だった。「ここ、よく来るんですか?」「日本にいるときは時々ね」 絢子は慣れた様子で店へ入っていく。「いらっしゃいませ、一条様」 店員がすぐに絢子へ頭を下げた。「こんにちは」 自然に挨拶を返す絢子を見て、佳苗は少しだけ緊張した。 自分一人なら、まず入ることのない店だ。「佳苗さん」「はい?」「これ、似合いそう」 絢子が手に取ったのは、上品なワンピースだった。「素敵ですけど、私には……」「試着だけでもしてみたら?」「でも」 値札を見て、佳苗は目を見開いた。 今の自分には簡単に買える金額では
マンションへ戻ると、リビングには雄吾がいた。「おかえり」「ただいま帰りました」 佳苗が靴を脱いでいると、雄吾がこちらを見る。「絢子とは楽しかったか?」「はい」 佳苗は笑顔で頷いた。「いろいろなお話を聞かせてもらいました」「そうか」「雄吾さんの子供の頃のお話も」 雄吾がわずかに眉を上げる。「何を聞いた?」「小学生の頃、一条さんとテストの点数を競っていたとか」「……そんなことまで話したのか」「ふふ。負けず嫌いだったんですね」「絢子も同じだった」「そうなんですか?」「あいつも負けると次のテストまでずっと覚えていたからな」 雄吾が懐かしそうに話す。 佳苗は笑って聞いていた。 けれど。 また胸の奥に、あのもやが広がる。 雄吾と絢子だけが共有している思い出。 自分が知らない二人の時間。「他には?」「え?」「何か聞いたんだろう?」「……はい」 佳苗は一瞬迷った。 高校生の頃、二人でパーティーへ出席したこと。 雄吾の母親が絢子へドレスを贈ったこと。 周囲から二人がお似合いだと言われていたこと。 聞いてみたかった。 一条さんのことを、どう思っていたんですか。 お母様は、一条さんのことを気に入っているんですか。 どうして私は、まだお母様に紹介してもらえていないんですか。 いくつもの言葉が浮かぶ。 けれど、どれも口に出せなかった。「……昔、パーティーを抜け出そうとしたことがあるって」「ああ」 雄吾は苦笑した。「あれか」「本当にあったんです
「雄吾さんが私を助けてくれたのは……」 佳苗はそこまで考えて、慌てて思考を打ち消した。(違う) 雄吾は何度も気持ちを伝えてくれた。 自分を大切な人だと言ってくれた。 絢子の前でも、迷うことなく恋人だと紹介してくれたではないか。「佳苗さん?」「あ……すみません」 絢子が心配そうに顔を覗き込んでいた。「大丈夫? 少し顔色が悪いように見えるけれど」「大丈夫です」「そう?」「はい」 佳苗は紅茶を一口飲む。 そんな佳苗を見つめていた絢子は、ふっと微笑んだ。「でも、少し羨ましいわ」「え?」「今の雄吾さんを一番近くで見られるのは、佳苗さんでしょう?」「一番近く……」「私は昔の雄吾さんしか知らないもの」 絢子は少し寂しそうに笑った。「海外にいた間のことなんて、ほとんど知らないし」 その言葉に、佳苗は胸の奥が少し軽くなった。 自分だけが知らないわけではない。 絢子にも知らない雄吾がいる。「でも、一条さんは子供の頃の雄吾さんを知っているじゃないですか」「そうね」 絢子は懐かしそうに目を細めた。「いろいろあったわ」「どんな子供だったんですか?」 佳苗が尋ねると、絢子は楽しそうに話し始めた。「真面目だったわよ。子供の頃から」「やっぱり」「でも意外と負けず嫌いでね。小学生の頃、私とテストの点数を競っていたこともあったの」「雄吾さんが?」 佳苗は思わず笑った。「想像できません」「でしょう?」 絢子も楽しそうに笑う。「それから、中学生の頃には――」 次々と出てくる思い出。
「……今、泣いてるのか?」 低く静かな声が耳に落ちる。 その一言だけで、張り詰めていた感情が崩れそうになった。 佳苗は慌てて口元を押さえた。「な、泣いてません」『嘘が下手だな、お前は昔から』 昔から。 その言葉に、大学時代の記憶が蘇る。 榊原雄吾。 成績優秀、容姿端麗、誰にも媚びない孤高の男。 学生の頃から有名だった。 近寄りがたい人だったのに、なぜか佳苗にはよく話しかけてきた。『また他人の仕事押し付けられてるのか』『断れないのか、お前は』 呆れたように言いながら、結局いつも助けてくれた。 けれど卒業後は一度も会っていない。 それなのに、どうして今。「どうし
「佳苗? 本当にどうしたんだよ」 怪訝そうな顔で、悟がこちらを見る。 その優しげな声に、佳苗は思わず身を強張らせた。 前世でも、この男はこんな顔をしていた。 穏やかで、頼れて、優しくて。 だから信じてしまったのだ。 まさか裏で妹と不倫し、自分を“代理母”として利用していたなんて、夢にも思わなかった。「顔色悪いぞ。熱でもある?」 悟が立ち上がり、額に触れようと手を伸ばしてくる。「っ……!」 佳苗は反射的にその手を振り払った。 ぱしん、と乾いた音が響く。 悟が目を見開いた。「……佳苗?」 しまった、と思った。 前世の記憶が蘇ったとはいえ、今の悟はまだ“何も知らない夫
「……っ、はぁ……ぁっ……!」 全身を引き裂かれるような痛みに、藤倉佳苗は汗で濡れたシーツを握り締めた。 眩しい手術灯。鼻を刺す消毒液の匂い。何度も響く機械音。 苦しい。 息ができない。「もう少しです! 頑張ってください!」 医師の声が遠い。 お腹の奥が裂けるように熱い。 それでも佳苗は必死に意識を繋いだ。(赤ちゃん……) やっと会える。 悟との子供。 愛する夫との、大切な命。 その一心だけで耐えていた。 けれど次の瞬間、医師たちの声色が変わった。「血圧低下!」「出血が止まりません!」「急げ!」 視界がぐらりと揺れる。 寒い。 急激に体温が奪われていく。
ホテルへ入る佳苗と雄吾。 暗い夜道で撮られたはずなのに、驚くほど鮮明だった。「……どうして」 佳苗の指先が震える。 まるで誰かに見張られていたみたいだった。『ねぇお姉ちゃん』『その人、誰?』『もしかして浮気?』 次々届くメッセージ。 佳苗は顔を青ざめさせた。 浮気。 その言葉に胸が痛む。 裏切っていたのは悟たちの方なのに、なぜ自分が責められなければいけないのだろう。「見せろ」 雄吾が静かにスマホを受け取る。 メッセージ画面を見た瞬間、その目が冷えた。「……なるほど」「先輩」「撮られていたな」 低い声。 感情を押し殺したような響き。「どうしよう……」