Masuk入社して二週間が過ぎた頃。
佳苗は少しずつ職場にも馴染み始めていた。
まだ分からないことは多い。
それでも。
毎日緊張で胃が痛くなることはなくなった。
電話対応も慣れてきた。
来客対応も何とかこなせる。
書類整理も以前より早くなった。
小さなことばかりだ。
けれど。
佳苗にとっては大きな変化だった。
「佳苗さん」
午後。
上司に呼ばれる。
「はい」
「この資料、まとめてもらえる?」
「分かりました」
佳苗は資料を受け取った。
少し前なら。
こんな頼まれ方をするだけで緊張していた。
失敗したらどうしよう。
迷惑をかけたらどうしよう。
そんなことばかり考えていた。
だが今は違う。
もちろん不安はある。
<「私宛て、ですか?」 佳苗は高瀬の差し出した封筒を見つめた。 宛名は確かに自分の名前だった。けれど、差出人の記載はない。「総務から回ってきたんだ。心当たりはある?」「……いえ」 佳苗は封筒を受け取った。 見覚えがあるように感じた筆跡も、よく見ると誰のものなのか分からなかった。「最近の件もあるから、念のため僕のところに持ってきたらしい」「そうだったんですね」「開けるなら、ここで確認する?」「はい。お願いします」 佳苗は封を切り、中に入っていた紙を取り出した。 便箋ではなく、パソコンで印刷された一枚の紙だった。『榊原佳苗様 あなたは久世絢子さんの家庭に介入し、ご主人から奥様を引き離しました。 他人の夫婦関係に口を出すことが、どれほど無責任な行為か理解していますか。 あなたがしていることを、ご主人や勤務先の方々は本当にご存じなのでしょうか』 そこまで読んで、佳苗はため息をついた。「……久世さんだと思います」「例の電話の男性?」「はい。書いてある内容が、電話でおっしゃっていたことと同じなので」 高瀬も紙に目を通し、眉をひそめた。「これは、会社に送ってくるようなものじゃないね」「すみません。何度も……」「朝倉さんが謝ることじゃないよ。むしろ、ここまでされるなら記録を残しておいたほうがいい」 高瀬は封筒を指さした。「それも捨てずに持っておいて。こちらでも、届いた日時は控えておくから」「ありがとうございます」 佳苗は紙を折り直そうとして、ふと手を止めた。 文章の最後に、もう一行あったのだ。『なお、あなたの周囲には、あなたの行動を快く思っていない方がいることもお忘れなく』 昨日のメッセージと、ほとんど同じ内容だった。 佳苗は紙を封筒に戻した。 直哉は、職場の誰かが自分に不満を持っていると思わせたいらしい。 けれど、それが事実かどうかは分からない。「課長、もしまた何か届いたら、教えていただけますか?」「もちろん。ただ、仕事中はあまり気にしないようにね」「はい」 佳苗は席に戻った。 佐藤がいつものように書類を渡してくれる。「榊原さん、これ、確認お願いしてもいい?」「はい。午後までで大丈夫ですか?」「うん、助かる!」 何も変わらない会話だった。 それなのに、佳苗は一瞬、佐藤の顔をじっと見てしまった。
『その方が何を教えてくださったか、知りたくありませんか?』 佳苗はメッセージを見つめたまま、しばらく動けなかった。 職場に、自分を快く思っていない人がいる。 そんなことを言われれば、誰だって気になるだろう。 けれど、直哉が親切心で教えてくれるはずがない。 佳苗は画面を保存すると、雄吾に転送した。『久世さんからこんな連絡が来たの。返事はしてないよ』 雄吾からは、すぐに返信があった。『そのまま無視していい。今、帰宅途中か?』『うん。駅に向かってるところ』『気をつけて帰れ。俺も今日は早めに戻る』 佳苗はスマートフォンをバッグにしまった。 それでも、直哉の言葉が頭から離れない。 誰かが自分のことを話したというのは、本当なのだろうか。 佐藤は電話の内容を教えてくれた。高瀬も事情を理解してくれている。 ほかの同僚たちとも、これまで大きな問題はなかったはずだ。 だが、直哉はわざわざ「快く思っていない人がいる」と言った。 もしかしたら、何か具体的な話を聞き出したのかもしれない。「……だめだ」 佳苗は小さく呟いた。 こんなふうに疑い始めたら、きりがない。 誰が何を言ったのか分からないまま、周囲の人を疑うことこそ、直哉の思うつぼではないだろうか。 帰宅すると、佳苗は夕食の支度を始めた。 いつもどおりに過ごそうと思ったが、包丁を動かしていても、つい職場のことを考えてしまう。 やがて雄吾が帰ってきた。「ただいま」「おかえりなさい」 雄吾は上着を脱ぐと、佳苗の顔を見た。「久世からの連絡、見た」「うん。なんだか嫌な感じだよね」「ああ。相手にする必要はない」「でも、本当に誰かが私のことを話したのかな」「それは分からない。あいつが嘘をついている可能性もある」
「……榊原さんって、久世さんという方の奥様と、何かあったの?」 佳苗は一瞬、言葉に詰まった。 やはり、先ほどの電話は直哉からだったのだろうか。「どうして、そんなことを?」「ごめんなさい。変なことを聞いて」 同僚の佐藤は、気まずそうに視線を落とした。「さっき電話があってね。久世さんっていう男性からだったんだけど……」「その方、何とおっしゃっていました?」「榊原さんが奥様に近づいて、家庭を壊そうとしているって」「……えっ?」 予想していたとはいえ、あまりにもひどい言い方だった。「それから、奥様を無理やり連れ出して、ご主人に会わせないようにしているとも言ってた」「そんなこと、していません」 佳苗が答えると、佐藤は慌てて頷いた。「うん。私もおかしいと思ったの。だから、そんな話を会社にされても困りますって切ったんだけど」「そうだったんですね……」「でも、榊原さんの名前も知ってるし、何だか怖くなっちゃって」 佐藤は申し訳なさそうに続けた。「さっき田中さんに相談したのも、その電話のことなの。変な噂を広めるつもりじゃなかったんだけど……」「いえ。教えてくださってありがとうございます」 佳苗は小さく頭を下げた。 佐藤が悪いわけではない。 突然そんな電話を受ければ、誰だって戸惑うだろう。 それでも、佳苗は胸の奥が冷たくなるのを感じた。 直哉は、自分が電話を取らなくても構わないのだ。 佳苗の周囲にいる人間に、少しずつ疑いを植えつければいい。 そう考えているのかもしれなかった。「その方、また電話してくるかもしれません」 佳苗は佐藤に告げた。「実は、個人的な事情で一方的に責められていて……。高瀬課長には相談しています」「そうなの?」「はい。もしまた連絡があったら、課長に伝えていただけますか?」「もちろん。ごめんね、余計なこと聞いちゃって」「いいえ。気にしないでください」 佐藤が席に戻ったあと、佳苗はしばらく仕事に集中できなかった。 直哉は何をしたいのだろう。 絢子を連れ戻したいのなら、佳苗の職場に電話をかけたところで意味はない。 ただ、自分に逆らった人間を困らせたい。 そう考えると、結婚式での直哉の態度にも納得がいった。 あの人にとって、妻も、その周囲の人間も、自分の思い通りに動くべき存在なのだ。 退勤時間にな
「榊原佳苗さん、とね」 高瀬の言葉に、佳苗は思わず息を呑んだ。 直哉が自宅に押しかけてきたのは、つい数時間前のことだ。それなのに、もう勤務先にまで連絡してきたというのか。「……その方、お名前は名乗られましたか?」「久世と名乗っていたそうだ。心当たりはある?」「はい。知っている方です」 佳苗は膝の上で手を握った。 高瀬は椅子を勧めると、落ち着いた声で尋ねた。「差し支えなければ、事情を聞かせてもらえるかな」「実は、知人の女性がご主人との関係に悩んでいて……」 佳苗は、絢子から助けを求められ、彼女の母親に連絡したことを説明した。 ただし、絢子の私生活について必要以上に話すつもりはなかった。「そのご主人が、私が奥様をそそのかしたと思っているようなんです」「なるほど。それで会社に電話を?」「はい。今朝は自宅にも来られました」 高瀬は眉をひそめた。「それは困ったね」「申し訳ありません。私のことで会社にご迷惑をおかけして……」「いや、謝る必要はないよ」 高瀬は手元の紙を机に置いた。「今の説明を聞く限り、業務とは関係のない話だ。会社が責任を問われる筋合いもない」「……ありがとうございます」「また連絡が来るかもしれないから、総務にも事情を伝えておくよ。君の連絡先や勤務状況は、外部に教えないようにしておく」 佳苗は深く頭を下げた。 高瀬が事情を聞いてくれたことには安心した。 けれど、胸の奥には嫌なものが残っていた。 直哉は、佳苗が困ると分かっていて職場に電話したのだ。 しかも、自分ではなく会社に責任を問う形で。 これでは、佳苗の立場を悪くしようとしているとしか思えない。 席に戻った佳苗は、仕事を始める前に雄吾へ短い
「直哉さんが、こちらに……?」 佳苗は思わず玄関のほうを振り返った。『ええ。主人が止めたんですけれど、聞く耳を持ってくださらなくて』「分かりました。知らせてくださってありがとうございます」『本当に申し訳ありません。私たちのことで、佳苗さんまで巻き込んでしまって』「そんなことありません。絢子さんのこと、よろしくお願いします」 電話を切ると、佳苗はすぐに雄吾を呼んだ。 出勤前の雄吾は、寝室でネクタイを締めていた。「どうした?」「直哉さんが、うちに来るって」 事情を説明すると、雄吾はネクタイから手を離した。「今からか?」「うん。一条さんのお宅を出たところみたい」「分かった。今日は少し出社を遅らせる」「でも、お仕事は?」「連絡すれば済む。あいつを佳苗一人で相手にさせるつもりはない」 雄吾は会社に電話をかけ、出社が遅れることを伝えた。 佳苗も職場に連絡を入れた。 直哉が本当に来るかどうかは分からない。けれど、もし押しかけてきたら、落ち着いて出勤などできそうになかった。「雄吾、直哉さんは私が絢子さんをそそのかしたと思ってるみたい」「だろうな」「でも、離婚したいって言ったのは絢子さん自身なのに」「あいつには、それが認められないんだろう」 雄吾は腕時計を着けながら答えた。「自分の妻が、自分の意思で出ていったとは考えたくないんだ」 佳苗は眉を寄せた。 絢子を一人の人間として見ていれば、そんな発想にはならないはずだった。 それから三十分ほど経った頃、インターホンが鳴った。 モニターに映っていたのは、久世直哉だった。 上等なスーツを着て、いつもの人当たりのよさそうな笑みを浮かべている。『おはようございます。久世です』 佳苗の背筋に緊張が走った。 雄吾が
『あなたの奥さん、何かご存じじゃありませんか?』 電話越しに聞こえた直哉の声に、佳苗は思わず雄吾を見た。 雄吾は表情を変えずに答えた。「なぜ佳苗に聞く?」『妻が最近、佳苗さんと親しくしていたようなので。今日も連絡を取っていたんじゃないかと思いまして』「絢子がいなくなったなら、まず実家に確認すればいいだろう」『もちろん連絡しましたよ。でも、お義母さんは何も教えてくれないんです』 直哉は小さく笑った。『まるで、僕が何か悪いことでもしたみたいにね』「絢子が自分の意思で出ていったなら、まず本人の気持ちを尊重するべきじゃないか」『……ずいぶん事情に詳しいんですね』 直哉の声から笑みが消えた。『やっぱり、あなた方が手引きしたんですか?』「俺たちがどうこう言う話じゃない。夫婦の問題なら、絢子本人と話し合え」『その本人が逃げているんですよ!』 突然、直哉が声を荒らげた。 佳苗は肩を震わせた。 結婚式では、あれほど余裕たっぷりに振る舞っていた男だ。 その直哉が、電話の向こうで怒りを隠そうともしていない。『妻が勝手に家を出て、僕が黙っていると思いますか?』「絢子は成人した人間だ。外出にお前の許可は要らない」『……榊原さん』 低い声が返ってきた。『昔から、あなたはそうやって僕を見下してきた』「今は絢子の話をしている」『僕の妻ですよ。あなたの昔の女じゃない』 佳苗は思わず顔をしかめた。 絢子は雄吾の恋人だったことなど一度もない。 直哉は、それさえ気に入らないのだろうか。「言いたいことはそれだけか」『奥さんにも伝えてください。余計なことをしないように、と』「佳苗を脅すつもりなら、今後はその発言も記録する」 雄吾の声が一段低くなっ
恵が帰ったあとも、佳苗はしばらく動けなかった。 心臓が嫌なほど脈打っている。 あの目。 一瞬だけ見せた、冷たい視線。 前世では最後まで気づかなかった。 恵はずっと、自分から奪うことを楽しんでいたのだ。「……っ」 佳苗は唇を噛み締める。 怖い。 けれど、それ以上に悔しかった。 どうして自分は、あんな人たちのために命まで懸けてしまったのだろう。 テーブルの上に置かれた結婚写真が目に入る。 幸せそうに笑う自分。 悟の腕に寄り添って、未来を信じ切っていた頃の自分。 ――滑稽。 佳苗は震える手で写真立てを伏せた。 もう戻れない。 戻りたくもない。 今度こそ終わらせ
「……今、泣いてるのか?」 低く静かな声が耳に落ちる。 その一言だけで、張り詰めていた感情が崩れそうになった。 佳苗は慌てて口元を押さえた。「な、泣いてません」『嘘が下手だな、お前は昔から』 昔から。 その言葉に、大学時代の記憶が蘇る。 榊原雄吾。 成績優秀、容姿端麗、誰にも媚びない孤高の男。 学生の頃から有名だった。 近寄りがたい人だったのに、なぜか佳苗にはよく話しかけてきた。『また他人の仕事押し付けられてるのか』『断れないのか、お前は』 呆れたように言いながら、結局いつも助けてくれた。 けれど卒業後は一度も会っていない。 それなのに、どうして今。「どうし
「佳苗? 本当にどうしたんだよ」 怪訝そうな顔で、悟がこちらを見る。 その優しげな声に、佳苗は思わず身を強張らせた。 前世でも、この男はこんな顔をしていた。 穏やかで、頼れて、優しくて。 だから信じてしまったのだ。 まさか裏で妹と不倫し、自分を“代理母”として利用していたなんて、夢にも思わなかった。「顔色悪いぞ。熱でもある?」 悟が立ち上がり、額に触れようと手を伸ばしてくる。「っ……!」 佳苗は反射的にその手を振り払った。 ぱしん、と乾いた音が響く。 悟が目を見開いた。「……佳苗?」 しまった、と思った。 前世の記憶が蘇ったとはいえ、今の悟はまだ“何も知らない夫
「……っ、はぁ……ぁっ……!」 全身を引き裂かれるような痛みに、藤倉佳苗は汗で濡れたシーツを握り締めた。 眩しい手術灯。鼻を刺す消毒液の匂い。何度も響く機械音。 苦しい。 息ができない。「もう少しです! 頑張ってください!」 医師の声が遠い。 お腹の奥が裂けるように熱い。 それでも佳苗は必死に意識を繋いだ。(赤ちゃん……) やっと会える。 悟との子供。 愛する夫との、大切な命。 その一心だけで耐えていた。 けれど次の瞬間、医師たちの声色が変わった。「血圧低下!」「出血が止まりません!」「急げ!」 視界がぐらりと揺れる。 寒い。 急激に体温が奪われていく。