Masuk雄吾が嫉妬している。
一度そう分かってしまうと、佳苗には以前まで気づかなかったことまで見えるようになった。
「今日、少し遅くなるから」
朝、出かける前にそう告げると、雄吾が時計を見た。
「何時くらいだ?」
「七時半くらいかな」
「また打ち合わせ?」
「うん」
「高瀬もいるのか?」
佳苗は思わず雄吾を見る。
「いるけど」
「そうか」
それだけ言って、雄吾はコーヒーを飲む。
別に止められたわけではない。
嫌な顔をされたわけでもない。
けれど、今の質問が必要だったのかと考えれば、たぶん必要ではない。
「気になるの?」
「何が?」
「高瀬課長」
「別に」
「昨日は気に入らないって言ってたのに?」
「気に入らないのと、気になるのは違う」
「同じじゃない?」
雄吾が嫉妬している。 一度そう分かってしまうと、佳苗には以前まで気づかなかったことまで見えるようになった。「今日、少し遅くなるから」 朝、出かける前にそう告げると、雄吾が時計を見た。「何時くらいだ?」「七時半くらいかな」「また打ち合わせ?」「うん」「高瀬もいるのか?」 佳苗は思わず雄吾を見る。「いるけど」「そうか」 それだけ言って、雄吾はコーヒーを飲む。 別に止められたわけではない。 嫌な顔をされたわけでもない。 けれど、今の質問が必要だったのかと考えれば、たぶん必要ではない。「気になるの?」「何が?」「高瀬課長」「別に」「昨日は気に入らないって言ってたのに?」「気に入らないのと、気になるのは違う」「同じじゃない?」「違う」 きっぱり言い切られて、佳苗は笑った。「じゃあ、行ってきます」「ああ。遅くなるなら連絡しろ」「分かってる」 玄関を出る直前、振り返る。「雄吾」「何だ?」「ちゃんと帰ってくるからね」「当たり前だろ」 そう答えた雄吾の機嫌が、ほんの少しだけ直った気がした。 ◇ その日の帰宅は、予定より早かった。「ただいま」「おかえり」 雄吾はソファに座っていた。 佳苗は時計を見る。「七時前だ」「見れば分かる」「思ったより早く終わったの」「そうか」 相変わらず素っ気ない。 けれど、テーブルには佳苗の分の夕食が用意されていた。「待ってた?」「飯はまだ食ってない」「それ、待ってたって言うんじゃない?」
翌日の打ち合わせは、佳苗が思っていた以上に順調に進んだ。 別部署の担当者から実際の処理方法を聞き、どこを共通化できるのかを整理する。「この項目だけ、契約ごとに分けた方がいいと思います」 佳苗が資料を指すと、高瀬が頷いた。「理由は?」「ここまで共通化すると、例外処理のときにかえって確認が増えるので。入力する人にも分かりにくくなると思います」「確かに。では、そこは残しましょう」 あっさり採用されて、佳苗は少し驚いた。 以前なら、自分はただ指示されたものを作る側だった。 今は違う。 自分の意見を聞かれ、それが実際の仕事に反映されている。「榊原さん、この部分のたたき台をお願いできますか?」「はい!」「急がなくて大丈夫です。通常業務を優先してください」「分かりました」 打ち合わせを終えて席へ戻る途中、佳苗は自然と笑っていた。 もっとできることを増やしたい。 そんなふうに仕事について思ったのは、初めてかもしれなかった。 ◇ 結局、その日は予定より三十分ほど遅くなった。 マンションへ帰ると、雄吾はすでにリビングにいた。「ただいま」「おかえり」「今日の打ち合わせ、すごくうまくいったよ」 靴を脱ぎながら話し始めると、雄吾がこちらを見る。「例のやつか?」「そう。私が言った案、そのまま採用してもらえたの」「よかったな」「うん。高瀬課長がちゃんと理由まで聞いてくれて――」 そこで、雄吾の眉がわずかに動いた。「また高瀬か」「え?」「いや」 佳苗は首を傾げた。「何?」「お前、最近そいつの話ばかりしてないか?」「そうかな?」「してる」 妙に即答されて、佳苗は記憶を辿った。「新しい課長なんだから、仕事の話をしたら出てくるでしょう?」「それは分かってる」「じゃあ何?」 雄吾はしばらく黙った。 佳苗が不思議そうに見ていると、やがて視線を逸らす。「……気に入らないだけだ」「何が?」「お前が毎日、ほかの男に褒められたって嬉しそうに帰ってくるのが」「え」 佳苗は目を瞬いた。 意味を理解するまで、少し時間がかかった。「もしかして、嫉妬してる?」「悪いか?」「……本当に?」「なんでそこで驚くんだ」「だって、仕事だよ?」「分かってる」「高瀬課長は上司だし」「それも分かってる」「私、仕事の
新しい課長が赴任してから、一週間が経った。 高瀬は、佳苗が最初に受けた印象の通り、仕事のできる上司だった。 何かを変更するときには必ず担当者に理由を説明し、現場の意見も聞く。分からないことがあれば、役職に関係なく質問する。 何より佳苗がありがたかったのは、仕事を任せるときに、その目的まで説明してくれることだった。「榊原さん、少しいいですか?」「はい」 高瀬に呼ばれ、佳苗は資料を持って席を立った。「先日話していた、請求処理の確認方法についてなんですが」「あ、はい。何か問題がありましたか?」「いえ。むしろ、ほかの部署でも使えそうだと思いまして」 高瀬はパソコンの画面を示した。「こちらの部署では、同じ項目を毎月手作業で照合しているんです。榊原さんの確認表を応用できませんか?」 佳苗は画面を覗き込んだ。「できると思います。ただ、こちらは契約の種類によって確認項目が変わるので、そのまま使うのは難しいかもしれません」「なるほど。では、一度担当者と打ち合わせをしましょう」「私も参加していいんですか?」「もちろん。作った本人がいないと話が進まないでしょう」 高瀬は当然のように答えた。 佳苗は思わず笑顔になった。「ありがとうございます!」 ◇ 昼休み。「榊原さん、最近忙しそうですね」 同僚に声をかけられ、佳苗は弁当を開きながら頷いた。「ちょっと新しい仕事が増えそうで」「高瀬課長から?」「そう。ほかの部署の業務改善にも参加させてもらえるみたい」「すごいじゃないですか!」「まだ何も決まってないけどね」 そう答えながらも、佳苗は嬉しかった。 以前は、言われた仕事を間違えずに終わらせることばかり考えていた。 けれど今は、自分の工夫が別の仕事にも役立つかもしれない。 それが楽
月曜日の朝、佳苗が出社すると、部署内がいつもより少し騒がしかった。「今日から新しい課長が来るんですよね」 隣の席の同僚が、パソコンを立ち上げながら話しかけてきた。「そういえば、今日でしたね」「本社から来るらしいですよ。結構仕事ができる人だとか」 佳苗も異動の話は聞いていたが、詳しいことまでは知らなかった。 ほどなくして朝礼が始まり、部長が一人の男性を連れてきた。「本日付で着任した高瀬課長です」「高瀬です。よろしくお願いします」 三十代後半くらいだろうか。すらりと背が高く、落ち着いた雰囲気の男性だった。 高瀬は簡単に自己紹介を済ませると、部署全体を見渡した。「まずは皆さんの仕事を把握したいと思っています。今までのやり方を急に変えるつもりはありませんので、いろいろ教えてください」 穏やかな口調だった。 もっとも、新しい上司がどんな人物なのかは、一緒に仕事をしてみなければ分からない。 佳苗はそう考えながら、自分の席へ戻った。 ◇ 午前中、高瀬は部署内を回り、担当者から業務内容の説明を受けていた。 佳苗の順番が来たのは、昼休みの少し前だった。「榊原さんは、請求書の照合と契約関係の事務を担当されているんですね」「はい。ほかに月次の集計資料も作成しています」「少し見せてもらってもいいですか?」「もちろんです」 佳苗は管理している資料を開き、処理の流れを説明した。 高瀬は途中で何度か質問したものの、話を遮ることなく最後まで聞いていた。「なるほど。こちらの確認表も榊原さんが?」「はい。以前、発注金額と請求金額に食い違いがあったので、確認項目を追加しました」「ああ、その件は引き継ぎ資料にもありました。十万円の差額を発見されたんですよね」「そうです」「これなら担当者が変わっても確認できますね。よく整理されていると思います」
翌週、佳苗は仕事帰りに書店へ立ち寄った。 特に欲しい本があったわけではない。夕食まで少し時間があったので、気になった棚を眺めていただけだった。 ところが、女性向けの実用書が並ぶ一角で、思わず足を止める。 妊娠、出産、育児。 色鮮やかな表紙には、赤ん坊を抱いて微笑む女性の写真が使われていた。 佳苗は一冊を手に取った。 以前の自分も、こんな本を読んでいた。 初めての妊娠で分からないことが多く、出産までに何を準備すればいいのか、熱心に調べていた記憶がある。 あの頃は、それが楽しかった。 赤ん坊の服を選ぶことも、名前を考えることも。 だからこそ、最後に知った真実が、あまりにも残酷だった。 佳苗は本を棚へ戻した。 今の自分には、まだ早い。 そう思ったところで、ふと疑問が浮かんだ。 もし、前の人生であんなことが起きていなかったら。 自分は今、雄吾との子供を素直に望めていたのだろうか。 その答えは、意外なほど簡単には出なかった。 ◇ 帰宅すると、雄吾はリビングで電話をしていた。「……分かった。月曜に確認する」 短く答えて電話を切る。「おかえり。遅かったな」「ちょっと本屋さんに寄ってた」「何か買ったのか?」「ううん。見ただけ」 佳苗はバッグを置き、雄吾の隣に腰を下ろした。「ねえ、ひとつ聞いていい?」「何だ?」「雄吾って、もし子供ができたら、どんなお父さんになると思う?」 雄吾は一瞬、意外そうな顔をした。「自分じゃ分からないな」「えー、想像くらいしてよ」「そうだな……」 雄吾は少し考える。「少なくとも、仕事ばかりで家に帰らない父親にはなりたくない」「今だって結構忙
洋菓子店から帰ってきた佳苗は、買ってきたケーキを冷蔵庫へしまおうとして、ふと手を止めた。「ねえ、雄吾」「どうした?」「お義母さんにも買ってくればよかったかな」「母さんに?」「うん。ここのケーキ、好きそうじゃない?」「好きだろうな。甘いものなら何でも喜ぶ」「そんなこと言って」「実際そうだぞ」 雄吾が笑う。 佳苗は少し考えてから、スマートフォンを取り出した。「今度、一緒に行きませんかって誘ってみようかな」「いいんじゃないか」 美佐子とは、結婚してからも何度か食事をしている。以前のように緊張することは、もうほとんどなかった。 だからこそ、佳苗は自分から誘ってみたいと思ったのだ。 ◇ 数日後。 佳苗は美佐子と、例の洋菓子店で待ち合わせをした。「まあ、可愛らしいお店ね」「この前、雄吾と来たんです。ケーキがおいしかったので」「それは楽しみだわ」 二人でショーケースを眺めながら、どれにしようかと相談する。 美佐子は季節限定のモンブランを選び、佳苗は苺のタルトにした。 席についてからも、話題は仕事や最近出かけた場所など、ごく普通のものだった。「そういえば、雄吾が小さい頃も、こういうお店によく連れていったのよ」 美佐子が懐かしそうに笑った。「あの子、昔から甘いものが好きでね。ケーキを選ぶのに随分時間がかかったの」「今でもそうですよ。先日は二個買ってました」「あら、相変わらずなのね」 二人で笑う。 そのとき、美佐子が何気なく言った。「いつか佳苗さんたちにも子供ができたら、三人でケーキを選ぶのかしらね」 佳苗のフォークが止まった。 美佐子は気づかず、楽しそうに続ける。「雄吾に似たら、きっと選ぶのに時間がかかるでしょうね」「
恵が帰ったあとも、佳苗はしばらく動けなかった。 心臓が嫌なほど脈打っている。 あの目。 一瞬だけ見せた、冷たい視線。 前世では最後まで気づかなかった。 恵はずっと、自分から奪うことを楽しんでいたのだ。「……っ」 佳苗は唇を噛み締める。 怖い。 けれど、それ以上に悔しかった。 どうして自分は、あんな人たちのために命まで懸けてしまったのだろう。 テーブルの上に置かれた結婚写真が目に入る。 幸せそうに笑う自分。 悟の腕に寄り添って、未来を信じ切っていた頃の自分。 ――滑稽。 佳苗は震える手で写真立てを伏せた。 もう戻れない。 戻りたくもない。 今度こそ終わらせ
「……今、泣いてるのか?」 低く静かな声が耳に落ちる。 その一言だけで、張り詰めていた感情が崩れそうになった。 佳苗は慌てて口元を押さえた。「な、泣いてません」『嘘が下手だな、お前は昔から』 昔から。 その言葉に、大学時代の記憶が蘇る。 榊原雄吾。 成績優秀、容姿端麗、誰にも媚びない孤高の男。 学生の頃から有名だった。 近寄りがたい人だったのに、なぜか佳苗にはよく話しかけてきた。『また他人の仕事押し付けられてるのか』『断れないのか、お前は』 呆れたように言いながら、結局いつも助けてくれた。 けれど卒業後は一度も会っていない。 それなのに、どうして今。「どうし
「佳苗? 本当にどうしたんだよ」 怪訝そうな顔で、悟がこちらを見る。 その優しげな声に、佳苗は思わず身を強張らせた。 前世でも、この男はこんな顔をしていた。 穏やかで、頼れて、優しくて。 だから信じてしまったのだ。 まさか裏で妹と不倫し、自分を“代理母”として利用していたなんて、夢にも思わなかった。「顔色悪いぞ。熱でもある?」 悟が立ち上がり、額に触れようと手を伸ばしてくる。「っ……!」 佳苗は反射的にその手を振り払った。 ぱしん、と乾いた音が響く。 悟が目を見開いた。「……佳苗?」 しまった、と思った。 前世の記憶が蘇ったとはいえ、今の悟はまだ“何も知らない夫
「……っ、はぁ……ぁっ……!」 全身を引き裂かれるような痛みに、藤倉佳苗は汗で濡れたシーツを握り締めた。 眩しい手術灯。鼻を刺す消毒液の匂い。何度も響く機械音。 苦しい。 息ができない。「もう少しです! 頑張ってください!」 医師の声が遠い。 お腹の奥が裂けるように熱い。 それでも佳苗は必死に意識を繋いだ。(赤ちゃん……) やっと会える。 悟との子供。 愛する夫との、大切な命。 その一心だけで耐えていた。 けれど次の瞬間、医師たちの声色が変わった。「血圧低下!」「出血が止まりません!」「急げ!」 視界がぐらりと揺れる。 寒い。 急激に体温が奪われていく。