LOGIN翌日。
佳苗は朝から落ち着かなかった。
昨日の紙袋の件が、
まだ頭から離れない。悟が本当にここまで来た。
その事実が、
思っていた以上に重かった。リビングへ入ると。
雄吾は既に仕事の準備をしていた。
「おはようございます」
「眠れたか」
低い声。
佳苗は少しだけ迷う。
「……あんまり」
「だろうな」
即答だった。
隠せていなかったらしい。
その時。
テーブルの上に置かれていたスマホが震えた。
佳苗の肩が反射的に強張る。
だが。
雄吾は落ち着いたまま画面を確認した。
「三浦だ」
佳苗は少しだけ息を吐く。
まだ慣れない。
通知音だけで身体が反応してしまう。
雄
洋菓子店から帰ってきた佳苗は、買ってきたケーキを冷蔵庫へしまおうとして、ふと手を止めた。「ねえ、雄吾」「どうした?」「お義母さんにも買ってくればよかったかな」「母さんに?」「うん。ここのケーキ、好きそうじゃない?」「好きだろうな。甘いものなら何でも喜ぶ」「そんなこと言って」「実際そうだぞ」 雄吾が笑う。 佳苗は少し考えてから、スマートフォンを取り出した。「今度、一緒に行きませんかって誘ってみようかな」「いいんじゃないか」 美佐子とは、結婚してからも何度か食事をしている。以前のように緊張することは、もうほとんどなかった。 だからこそ、佳苗は自分から誘ってみたいと思ったのだ。 ◇ 数日後。 佳苗は美佐子と、例の洋菓子店で待ち合わせをした。「まあ、可愛らしいお店ね」「この前、雄吾と来たんです。ケーキがおいしかったので」「それは楽しみだわ」 二人でショーケースを眺めながら、どれにしようかと相談する。 美佐子は季節限定のモンブランを選び、佳苗は苺のタルトにした。 席についてからも、話題は仕事や最近出かけた場所など、ごく普通のものだった。「そういえば、雄吾が小さい頃も、こういうお店によく連れていったのよ」 美佐子が懐かしそうに笑った。「あの子、昔から甘いものが好きでね。ケーキを選ぶのに随分時間がかかったの」「今でもそうですよ。先日は二個買ってました」「あら、相変わらずなのね」 二人で笑う。 そのとき、美佐子が何気なく言った。「いつか佳苗さんたちにも子供ができたら、三人でケーキを選ぶのかしらね」 佳苗のフォークが止まった。 美佐子は気づかず、楽しそうに続ける。「雄吾に似たら、きっと選ぶのに時間がかかるでしょうね」「
日曜日の午後、佳苗はリビングで洗濯物を畳んでいた。 雄吾は向かいのソファで仕事の資料を読んでいる。 昨日、子供について話してから、二人の間でその話題が出ることはなかった。 雄吾は子供がいたら嬉しいと思っている。 けれど、今すぐ欲しいわけではない。 その答えを聞けたことは、佳苗にとって大きかった。 ただ、ひとつ気になっていることがある。「ねえ、雄吾」「ん?」「昨日の話なんだけど」 雄吾が資料から顔を上げた。「子供のことか?」「うん。雄吾って、どうして子供が欲しいと思うの?」「どうして?」「そう。なんとなく聞いてみたくて」 雄吾は資料を閉じ、少し考えた。「佳苗との子供なら、可愛いだろうなとは思う」「……そういう理由?」「他に何がある?」「いや、もっと何かあるのかと思って」「例えば?」「会社の跡継ぎとか」 雄吾が眉を上げた。「またその話か」「だって、普通の家庭とは違うでしょう?」「普通の家庭でも、親の仕事を継ぐとは限らないだろ」「それはそうだけど」「そもそも、生まれてくるかも分からない子供に、今から会社を継がせるつもりはない」 雄吾はそう言って、再び資料を手に取った。「俺の会社は俺が何とかする」「……頼もしいね」「今さらだな」 その返事がおかしくて、佳苗は笑った。 ◇ 洗濯物を片づけながら、佳苗は考えた。 雄吾との子供なら可愛いと思う。 自分も、同じことを考えた。 けれど、そこから先が違う。 雄吾は、その子が生まれたあとのことを自然に想像できるのだろう。 一緒に出かけたり、遊んだり。 きっと、美佐子も喜ぶ。 佳苗だって、そんな未来を見てみたい。 それなのに。 子供が生まれるまでのことを考えると、どうしても別の記憶が入り込んでくる。 前の人生でも、同じように未来を想像していた。 生まれてくる子供を抱いて、悟と三人で暮らす。 それが幸せなのだと信じていた。 けれど、実際には違った。 自分が知らないところで悟と恵は関係を持ち、佳苗が命懸けで子供を産んでいる間に、自分を切り捨てる話をしていた。 あのときの絶望を思い出すと、今でも胸が苦しくなる。 子供が生まれることを楽しみにしていた記憶さえ、あの日の出来事に塗り潰されてしまっていた。「……もったいないな」 思わず呟い
子供のことを考えるたびに、前の結婚まで一緒に思い出してしまう。 そのことに気づいてから数日。 佳苗の中で何かが劇的に変わったわけではなかった。 ただ、以前よりは自分の気持ちを見分けられるようになった気がする。 怖い。 だから嫌なのだと、すぐに決めつけなくなった。 ◇ 土曜日。 佳苗は雄吾と買い物に出ていた。「これ、なくなりそうだったよね」 日用品売り場で洗剤を手に取る。「ああ」「詰め替えでいい?」「いいんじゃないか」「じゃあ、これ」 カートへ入れて、そのまま歩く。 特別なことなど何もない休日だった。 途中、子供用品の売り場の前を通った。 小さな靴。 動物の耳がついた帽子。 以前なら、特に気に留めなかったはずなのに、今日は自然と目が向いた。「小さい」 思わず呟く。 雄吾もそちらを見た。「靴か?」「うん。こんなに小さいんだね」「赤ん坊ならそんなもんだろ」「そうなんだけど」 佳苗は少し笑った。 黄色い靴を手に取る。 手のひらに乗りそうなほど小さい。「可愛い」「欲しいのか?」「え?」「それ」「あ、靴?」「他に何がある」「びっくりした……」 佳苗は靴を棚へ戻した。 何を聞かれたと思ったのか。 自分で分かってしまって、少しだけ気まずくなる。「どうした?」「なんでもない」「そうか?」「うん。行こう」 先に歩き出すと、雄吾がカートを押してついてくる。 そのまま別の売り場へ移った。 それだけだった。
翌朝になっても、佳苗の中には昨夜考えたことが残っていた。 子供が嫌なのではない。 雄吾との子供を想像することさえ、本当は嫌ではない。 ただ、そこに昔の記憶が重なってしまう。 妊娠していた頃のことだけを、きれいに切り取ることができない。 あの頃の自分が感じていたことも、最後に知ったことも、全部がひとつながりになっている。 だから、子供のことを考えると苦しくなる。 それが分かっただけでも、昨日までとは少し違った。「佳苗、今日は遅いのか?」 コーヒーを飲んでいた雄吾に聞かれて、佳苗は時計を見る。「たぶん普通。月末前だから、少し残るかもしれないけど」「夕飯は?」「遅くなるなら連絡する」「分かった」 いつもの会話だった。 佳苗はバッグを手に取ってから、雄吾を見る。「……なに?」「ううん」「なんだよ」「なんでもない。行ってきます」「行ってらっしゃい」 玄関を出てから、佳苗は小さく息を吐いた。 今朝はまだ、うまく話せそうになかった。 ◇ その日の夜。 夕食を終えて、雄吾が食器を片づけているときだった。「雄吾」「ん?」「この前の、子供の話なんだけど」 雄吾が振り返った。「私、やっぱり前の結婚のこと、まだ引きずってるのかもしれない」 口にすると、思っていたより自然に出てきた。「もう終わったことだし、今は全然違うって分かってるんだけどね。子供とか、家族とか、そういうことを考えると……なんか、あの頃の嫌な気持ちまで一緒に出てくるみたい」「そうか」「うん」 雄吾はそれ以上、何も聞かなかった。 佳苗は少し迷ってから続ける。「でも、雄吾との子
子供を産むことが怖い。 そう思っていたけれど、本当にそれだけなのだろうか。 佳苗は最近、何度も同じことを考えていた。 子供が欲しくないのかと聞かれれば、分からない。 雄吾との子供を想像したことはある。 雄吾に似た男の子。 自分に似た女の子。 美佐子が楽しそうに話していた光景を思い出せば、そんな未来も悪くないと思う。 むしろ、少し見てみたい。 それなのに。 そこから先を考えようとすると、胸の奥が重くなる。 ◇ 夜。 雄吾が風呂に入っている間、佳苗は一人でベッドに横になっていた。 前の人生でも、子供が嫌だったわけではない。 妊娠したと分かったときは驚いた。 けれど、少しずつ大きくなるお腹を見ながら、生まれてくる日を待っていた。 初めて胎動を感じた日のことも覚えている。 お腹の中で動いた。 ただそれだけのことが不思議で、何度も手を当てた。 名前はどうしよう。 どんな子になるだろう。 悟はどんな父親になるのだろう。 そんな未来を、当たり前のように考えていた。 幸せになるのだと思っていた。 それなのに。 佳苗は目を閉じた。 思い出そうとしたわけではない。 けれど、子供のことを考えていると、いつもそこへ辿り着いてしまう。 身体から力が抜けていく中で聞いた声。 悟と、恵。 自分が知らなかった二人の関係。 そして――もう、自分は必要ないのだと知った。「……」 佳苗は目を開けた。 雄吾との子供を考えていたはずなのに。 いつの間にか、悟と恵の声を思い出している。 雄吾は悟ではない。 そんなことは分かっている。 佳苗が妊娠したからと
翌朝。 佳苗がリビングへ行くと、雄吾はコーヒーを飲みながらスマートフォンを見ていた。「おはよう」「おはよう」 昨夜のことを引きずっているのは、自分だけらしい。 雄吾はいつもと変わらない。「母さんから連絡来てる」「何て?」「昨日会った人から、昔の俺の写真を送ってほしいって言われたらしい」「どうして?」「知らない。孫が俺に似たらどうとか、まだ盛り上がってるんじゃないか」「ふふ」 佳苗は笑った。 やっぱり美佐子は楽しみにしている。 でも、それを嫌だとは思わなかった。 ただ、胸の奥が少しざわつくだけだ。 ◇ 会社へ行けば、いつもの仕事が待っていた。 午前中に請求書を処理し、午後からは契約書類の整理をする。 昼休みには、先日一緒に食事をした同僚から声を掛けられた。「榊原さん、今日どうする?」「外行こうかな」「じゃあ一緒に行こう」 会社の近くの定食屋へ入る。 今度は子供の話も出なかった。 仕事の愚痴を言って、期間限定のメニューをどちらが頼むか迷って。 佳苗はようやく、以前のような時間が戻ってきた気がした。「そういえば、来月の研修どうする?」「申し込むつもり」「私も。終わるの遅いんだよね」「でも内容は面白そうじゃない?」「そうなんだよねえ」 来月。 その次の月。 仕事の予定なら、何の抵抗もなく先のことを考えられる。 なのに子供のことだけは、考えようとすると身体が固くなる。 その違いが、自分でも不思議だった。 ◇ 帰宅途中、ドラッグストアへ寄った。 シャンプーを買うだけのつもりだった。 目的の商品を籠に入れ、レジへ向かおうとしたと
恵が帰ったあとも、佳苗はしばらく動けなかった。 心臓が嫌なほど脈打っている。 あの目。 一瞬だけ見せた、冷たい視線。 前世では最後まで気づかなかった。 恵はずっと、自分から奪うことを楽しんでいたのだ。「……っ」 佳苗は唇を噛み締める。 怖い。 けれど、それ以上に悔しかった。 どうして自分は、あんな人たちのために命まで懸けてしまったのだろう。 テーブルの上に置かれた結婚写真が目に入る。 幸せそうに笑う自分。 悟の腕に寄り添って、未来を信じ切っていた頃の自分。 ――滑稽。 佳苗は震える手で写真立てを伏せた。 もう戻れない。 戻りたくもない。 今度こそ終わらせ
「……今、泣いてるのか?」 低く静かな声が耳に落ちる。 その一言だけで、張り詰めていた感情が崩れそうになった。 佳苗は慌てて口元を押さえた。「な、泣いてません」『嘘が下手だな、お前は昔から』 昔から。 その言葉に、大学時代の記憶が蘇る。 榊原雄吾。 成績優秀、容姿端麗、誰にも媚びない孤高の男。 学生の頃から有名だった。 近寄りがたい人だったのに、なぜか佳苗にはよく話しかけてきた。『また他人の仕事押し付けられてるのか』『断れないのか、お前は』 呆れたように言いながら、結局いつも助けてくれた。 けれど卒業後は一度も会っていない。 それなのに、どうして今。「どうし
「佳苗? 本当にどうしたんだよ」 怪訝そうな顔で、悟がこちらを見る。 その優しげな声に、佳苗は思わず身を強張らせた。 前世でも、この男はこんな顔をしていた。 穏やかで、頼れて、優しくて。 だから信じてしまったのだ。 まさか裏で妹と不倫し、自分を“代理母”として利用していたなんて、夢にも思わなかった。「顔色悪いぞ。熱でもある?」 悟が立ち上がり、額に触れようと手を伸ばしてくる。「っ……!」 佳苗は反射的にその手を振り払った。 ぱしん、と乾いた音が響く。 悟が目を見開いた。「……佳苗?」 しまった、と思った。 前世の記憶が蘇ったとはいえ、今の悟はまだ“何も知らない夫
「……っ、はぁ……ぁっ……!」 全身を引き裂かれるような痛みに、藤倉佳苗は汗で濡れたシーツを握り締めた。 眩しい手術灯。鼻を刺す消毒液の匂い。何度も響く機械音。 苦しい。 息ができない。「もう少しです! 頑張ってください!」 医師の声が遠い。 お腹の奥が裂けるように熱い。 それでも佳苗は必死に意識を繋いだ。(赤ちゃん……) やっと会える。 悟との子供。 愛する夫との、大切な命。 その一心だけで耐えていた。 けれど次の瞬間、医師たちの声色が変わった。「血圧低下!」「出血が止まりません!」「急げ!」 視界がぐらりと揺れる。 寒い。 急激に体温が奪われていく。