Masuk恵と会うことになったのは、次の日曜日だった。 待ち合わせに選んだのは駅近くのカフェだ。人通りも多く、食事を終えればそのまま別れられる。 約束の時間より少し早く着いた佳苗は、店の前で恵を待った。「お姉ちゃん!」 声に振り向くと、恵が手を振りながら歩いてくる。「久しぶり」「うん。待った?」「今来たところ」「よかった」 思っていたより、普通だった。 以前のような険悪な空気もない。 二人で店へ入り、向かい合って座る。「お姉ちゃん、何にする?」「私はこれかな」「じゃあ私もそれにしようかな」 注文を済ませると、恵は佳苗の顔をじっと見た。「何?」「なんか変わったなって」「そう?」「うん。前より明るくなった」 悪意のない言い方だった。「そうかも」「幸せ?」 佳苗は少し驚いた。 けれど、迷わず頷く。「うん」「そっか」 恵は笑った。「よかったね」「……ありがとう」 本当に。 ただ祝ってくれるだけなのかもしれない。 佳苗の警戒心が、ほんの少し緩んだ。 ◇ 料理が運ばれてくると、話題は自然と近況へ移った。 佳苗は仕事を続けていることを話し、恵も今の生活について簡単に話した。「仕事は?」「今ちょっと探してる」「そうなんだ」「お母さんとも喧嘩しちゃったしね」 恵は苦笑した。「この前は家に行ったみたいだけど」「聞いた?」「お母さんからじゃないよ。結婚のことを聞いたって言ってたから」「ああ」 恵は肩をすくめる。「まあ、ずっと喧嘩してるわけにもいかないし」「そうだね」「でも、一緒に暮らすのは無理かな」「それは二人で決めたらいいと思う」 以前なら、母親と仲直りするよう勧めていたかもしれない。 あるいは、恵が困っているなら自分が何とかしなければと思ったかもしれない。 けれど今は、それぞれの問題だと思える。 恵はそんな佳苗を少し不思議そうに見た。「お姉ちゃん、本当に変わったね」「最近よく言われる」「榊原さんのおかげ?」 その言葉に、佳苗は少しだけ笑った。「違うよ」「違うの?」「雄吾さんにはたくさん助けてもらったけど、私が変わろうって決めたのは私だから」「……ふうん」 恵はストローを指で弄んだ。「お母さんも言ってた。お姉ちゃん、前と違うって」「そう」「悟もそう思ってる
顔合わせから数日。 佳苗の母親からは、何の連絡もなかった。 普段なら、少し言い合いになったあとでも翌日には何事もなかったように連絡してくることが多い。それが今回は珍しく静かだった。「怒ってるのかな……」 佳苗はスマートフォンを見ながら呟いた。「母親?」 向かいに座っていた雄吾が顔を上げる。「はい。顔合わせから一度も連絡がなくて」「放っておけばいいだろ」「そうなんですけど」 嫌われたくない。 怒らせたくない。 そう思う癖は、まだ完全には消えていない。 けれど、だからといって自分から謝るのは違う。「私、言いすぎましたか?」「何を?」「お母さんの生活が変わるって期待しないで、って」「事実だろ」「そうなんですけど……」「じゃあ、謝る必要はない」 雄吾はそう言ってから、少し考えるように続けた。「ただ、今後どう付き合うかは佳苗が決めればいい。縁を切れって話でもない」「はい」「普通に話したくなったら話せばいいし、今は話したくないなら連絡しなくていい」 佳苗は頷いた。 何も、母親との関係をすべて断つ必要はない。 ただ、自分が嫌だと言ったことまで受け入れなくていい。「もう少し、このままにしておきます」「ああ」 ◇ 一方。 母親もまた、佳苗から連絡が来ないことを気にしていた。「……普通、娘の方から何か言ってくるでしょう」 顔合わせでは恥をかいた。 そう思っている。 服の話など、ほんの軽い冗談のようなものだった。それなのに佳苗は皆の前で止め、雄吾まで自分を拒絶した。 ただ。 冷静になればなるほど、母親にも一つ
顔合わせの日程は、翌月の土曜日に決まった。 雄吾が選んだのは、ホテル内にある日本料理店の個室だった。格式ばりすぎず、それでも両家が初めて顔を合わせる場としては十分に落ち着いている。 佳苗も店の写真を見せてもらい、すぐに賛成した。「ここなら、お母さんも文句ないと思います」「文句が出る前提なのか」「この前、ホテルじゃないのって言われたので」「じゃあ条件は満たしたな」 雄吾はそう言って笑った。 母親には店名と時間だけを伝えた。 すると、すぐに返信が来る。『ここ、結構いいところじゃない!』 続けて。『やっぱりちゃんとした顔合わせにするのね。安心したわ』 佳苗は画面を見て、何とも言えない気持ちになった。 自分たちは「ちゃんとした顔合わせ」にするためにこの店を選んだわけではない。個室でゆっくり話せて、両家が落ち着いて食事のできる場所を探した結果だ。 けれど、わざわざ訂正するほどでもないだろう。『当日はよろしくね』 それだけ返した。 ◇ 顔合わせ当日。「佳苗!」 待ち合わせ場所へ現れた母親を見て、佳苗は目を瞬いた。 見覚えのない服だった。 落ち着いた色合いではあるが、普段の母親が着ているものより明らかに華やかだ。「その服……」「買ったのよ」「そうなんだ」「せっかくの顔合わせだもの。さすがに普段着ってわけにはいかないでしょう?」「似合ってるよ」「でしょう?」 母親は満足そうだった。 自分で用意したのなら、それでいい。「雄吾さんは?」「もうご両親と中にいるよ」「そう」 母親は少し緊張したように服を整えた。「変じゃない?」「大丈夫だよ」「本当に?
数日後。 佳苗のもとへ、母親から電話がかかってきた。『ねえ、佳苗。結婚のことなんだけど』「うん」『入籍はいつにするの?』「まだ決めてないよ。これから二人で話すところ」『式は?』「それもまだ」『そうなの? 雄吾さんの家なら、ちゃんとした式をするんでしょう?』 母親の声には、妙な期待が滲んでいた。 佳苗は少しだけ眉を寄せる。「分からないよ。私たちの結婚だから、二人で決めるつもり」『でも、雄吾さんは会社の社長でしょう? 取引先とか呼ばなくていいの?』「仕事のために結婚するわけじゃないから」『そういうものなのかしら』 納得していないらしい。『それより、顔合わせはするでしょう?』「それはすると思う」『いつ?』「だから、まだ決まってないって」『早めに教えてよ。私だって準備があるんだから』「準備?」『着ていくものとか。相手は雄吾さんのご両親でしょう? 変な格好じゃ行けないじゃない』 それは確かにそうかもしれない。「決まったら早めに連絡するね」『お願いね』 そこで話が終わるかと思った。 しかし、母親は少し間を置いてから続けた。『それでね、佳苗』「何?」『結婚したら、今のマンションに住み続けるの?』「まだ決めてないよ」『新しい家を買ったりするのかしら』「どうだろう」『雄吾さんなら一戸建てだって買えるでしょう?』「買えるかどうかじゃなくて、必要かどうかで決めるよ」『そうだけど……』 母親はなぜか歯切れが悪い。 佳苗は嫌な予感がした。「お母さん、何が聞きたいの?」『別に。ただ、あなたがこれからどんな生活をするのかなって』
週が明けても、佳苗はまだ左手の指輪に慣れなかった。 パソコンへ文字を入力しているとき。書類を受け取るために手を伸ばしたとき。ふと視界に入るたびに、土曜日のことを思い出してしまう。「朝倉さん、それ」 昼休み、向かいに座った同僚が佳苗の左手を見て目を丸くした。「もしかして婚約指輪?」「あ……はい」「えっ、本当に!? おめでとう!」 声が少し大きくなり、近くにいた同僚まで振り返った。 あっという間に何人かから祝福され、佳苗は照れながら頭を下げる。「ありがとうございます」「いつ結婚するの?」「まだ何も決めてなくて。プロポーズされたばかりなんです」「いいなあ。幸せそう」 そう言われて、佳苗は自然に笑った。「はい」 以前なら、こんなふうに迷わず答えられただろうか。 幸せだと口にすることさえ、誰かに遠慮していたような気がする。 けれど今は。 嬉しいものは、嬉しいと言っていい。 佳苗はもう一度、指輪へ目を落とした。 ◇ その日の午後。 美佐子は絢子と会っていた。 以前から約束していた用事があり、二人で買い物をしたあと、近くのカフェへ入ったのだ。「この前言ってたもの、見つかってよかったわね」「ええ。付き合ってくれてありがとう」「私も楽しかったもの」 絢子はいつも通り笑っている。 雄吾との距離を置くようになってからも、美佐子との付き合いまでなくなったわけではない。 それでいい。 佳苗も、美佐子と絢子が会うこと自体を嫌がってはいない。 分かっているのに、美佐子は今日ずっと落ち着かなかった。「……ねえ、絢子ちゃん」「何?」「ちょっと、話しておきたいことがあるの」 絢子の手が止まった。 美佐子の表情を見ただけで、何かを察したのかもしれない。「雄吾のことなんだけど」「……うん」「佳苗さんに、プロポーズしたの」 一瞬。 本当に一瞬だけ。 絢子の顔から表情が消えた。 だが、すぐに微笑む。「そう」「佳苗さんも受けてくれたって」「……よかったじゃない」「ええ」「雄吾さん、ずっと佳苗さんのこと大切にしてたものね」 穏やかな声だった。 けれど、美佐子には分かった。 カップを持つ絢子の指に、わずかに力が入っている。「絢子ちゃん」「何?」「無理しなくていいのよ」 その言葉を聞いた瞬間、絢子
指輪をはめてもらってからも、佳苗は何度も左手を見てしまった。 歩き始めてからも、陽の光を受けて指輪がきらりと光るたびに目が吸い寄せられる。「そんなに見るものか?」 隣を歩いていた雄吾に言われ、佳苗は慌てて手を下ろした。「だって、まだ慣れないので」「さっきつけたばかりだからな」「そうですけど……」 もう一度、そっと左手を見る。 嬉しい。 ただそれだけなのに、胸の奥がふわふわして落ち着かない。「サイズ、大丈夫か?」「ぴったりです。どうして分かったんですか?」「調べた」「どうやって?」「秘密」「また秘密ですか?」 佳苗が睨むと、雄吾は笑った。「もう必要ないから、そのうち教える」「絶対ですよ?」「ああ」 そんな会話をしながら庭園を歩く。 プロポーズをされたのだから、もっと劇的に何かが変わるのかと思っていた。 けれど、雄吾はいつもの雄吾で、佳苗もいつもの佳苗だった。 ただ、左手にある指輪だけが、確かに二人の関係が一つ先へ進んだことを教えてくれている。 ◇ 帰りの車の中で、佳苗はふと思い出した。「これ、お母様にはいつ伝えます?」「母さん?」「はい。きっと喜んでくださいますよね」「今日帰ってからでいいんじゃないか」「今日?」「早い方がいいだろ。別のところから耳に入るような話でもないし」 その言葉に、佳苗は少しだけ考えた。 以前なら、美佐子が絢子に話すのではないかということまで気になったかもしれない。 けれど今は、それは美佐子と絢子の問題だと思える。「そうですね」「佳苗の母親には?」 今度は佳苗が黙った。「……伝え
ホテルへ入る佳苗と雄吾。 暗い夜道で撮られたはずなのに、驚くほど鮮明だった。「……どうして」 佳苗の指先が震える。 まるで誰かに見張られていたみたいだった。『ねぇお姉ちゃん』『その人、誰?』『もしかして浮気?』 次々届くメッセージ。 佳苗は顔を青ざめさせた。 浮気。 その言葉に胸が痛む。 裏切っていたのは悟たちの方なのに、なぜ自分が責められなければいけないのだろう。「見せろ」 雄吾が静かにスマホを受け取る。 メッセージ画面を見た瞬間、その目が冷えた。「……なるほど」「先輩」「撮られていたな」 低い声。 感情を押し殺したような響き。「どうしよう……」
「俺は昔から、お前しか欲しくない」 低い声が耳元で響く。 佳苗は息を呑んだ。 車内の空気が熱い。 逃げ場がない。 雄吾の視線は真っ直ぐで、冗談の気配なんて微塵もなかった。「……先輩」 喉が震える。 理解が追いつかない。 昔から? ずっと? そんなはずない。 自分は特別な人間じゃない。 妹みたいに愛嬌があるわけでも、美人なわけでもない。 ただ都合よく利用されるだけの女だった。「信じられないか」 雄吾が静かに言う。 佳苗は答えられなかった。 すると雄吾は小さく息を吐き、身体を離す。「まあいい」「え……」「今すぐ答えを求める気はない」 その言葉に、佳苗は
もう二度と、お前をあいつらのところへ戻したりしない。 その言葉が、佳苗の胸に重く落ちる。「……どうして」 気づけば口にしていた。 雄吾が視線を向ける。「どうして、そこまでしてくれるんですか」 本当に分からなかった。 大学時代、少し関わりがあっただけ。 卒業後は一度も会っていない。 それなのに、この男は突然現れて、自分を助けると言う。 しかも、まるで最初から全部知っていたみたいに。「昔世話になった」 雄吾は短く答えた。「レポート、覚えてるか」 佳苗は目を瞬く。 大学二年の頃。 雄吾が長期入院していた時期があった。 単位が危ないと聞いて、佳苗は講義ノートをまと
「やっと捕まえた」 耳元で囁かれた低い声に、佳苗の心臓が大きく跳ねた。 捕まえた。 その言葉は、優しいのにどこか危険だった。「榊原、先輩……?」 佳苗が戸惑う中、雄吾は佳苗の手首を掴んだまま、ゆっくり顔を上げる。 その視線の先には、こちらへ歩いてくる悟がいた。「佳苗!」 苛立った声。 悟は佳苗を見るなり、露骨に顔をしかめた。「何やってんだよ」 だが次の瞬間、雄吾の姿に気づき、動きが止まる。「……誰?」 警戒した声音。 雄吾は答えない。 ただ静かに佳苗の前へ立った。 庇うように。 その背中の広さに、佳苗は息を呑む。「佳苗、こっち来い」 悟が手を伸ばす。







