LOGIN復縁を望んでいる。
三浦から伝えられた悟の言葉は、思ったよりも長く佳苗の心に残った。
未練ではない。
戻りたいわけでもない。
ただ、不思議な感覚だった。
かつてあれほど欲しかった言葉を、今になって差し出されても何も変わらない。
それが少し切なかった。
週明けの昼休み。
佳苗は会社の休憩スペースで昼食を取っていた。
窓際の席に座り、サンドイッチの袋を開く。
その時だった。
「佳苗さん」
同じ部署の女性社員が声を掛けてくる。
「今度の土曜日って空いてる?」
佳苗は顔を上げた。
「土曜日ですか?」
「うん。駅前で雑貨市やるらしくて」
女性は楽しそうに笑う。
「何人かで行こうって話してるんだけど」
佳苗は少し驚いた。
歓迎会の時以来、職場の人たちと話す機会は増えていた。
<子供の話をしてから数日。 佳苗の気持ちは、ひとまず落ち着いていた。 今すぐ答えを出す必要はない。 そう思えるようになっただけでも、ずいぶん楽になった。 その週末、佳苗と雄吾は美佐子に誘われ、三人でホテルのレストランを訪れていた。「そうでしたの。職場の方も、少し落ち着いてきたのね」「はい。まだちょっと気まずい人はいますけど、仕事は普通にできてます」「それならよかった。せっかく佳苗さんが続けたいと思っているお仕事ですものね」 食事をしながら、最近の出来事を話す。 デザートが運ばれてきた頃、近くの席にいた年配の女性がこちらに気づいた。「あら、美佐子さん。お久しぶり」「まあ。ご無沙汰しています」 どうやら美佐子の知人らしい。 しばらく近況を話したあと、女性の視線が佳苗へ向いた。「こちらが雄吾さんのお嫁さん?」「ええ。佳苗さんです」「榊原佳苗です。初めまして」「まあ、おめでとうございます」「ありがとうございます」 女性は嬉しそうに笑った。「じゃあ、美佐子さんも次はお孫さんね」「あら、そうなのよ」 美佐子の顔がぱっと明るくなった。「まだ何も聞いていないんですけどね。いつか孫の顔を見られたらいいなと思っているの」「楽しみでしょう?」「もちろん。男の子でも女の子でも可愛いでしょうねえ」 佳苗は笑顔のまま、二人の会話を聞いていた。「雄吾さん、小さい頃は可愛かったものね」「今は?」「今も可愛いわよ。母親から見ればね」「いらない、その情報」 雄吾が嫌そうな顔をして、二人の女性が笑う。「佳苗さんに似た女の子も可愛いでしょうね」「まあ、それは絶対に可愛いと思うわ」「母さん、まだできてもないから」「想像するくらいいいでしょう?」「俺を巻き込むな」 いつもの親子のやり取りに、佳苗も思わず笑った。「男の子だったら、雄吾さんみたいになるのかしら」「それも楽しそうですね」「でしょう?」 美佐子はすっかり楽しそうだった。 そこへ知人が何気なく続ける。「会社のことを考えたら、跡継ぎも必要でしょうしね」「ああ、それもあるわね」 美佐子も深く考えずに頷いた。「まあ、今は男の子でなくてもいいのでしょうけど」「母さん」「何?」「話が早すぎる」「まだ何も決まってないのに、先のことばっかり言うなよ」「あら、ごめん
帰宅すると、雄吾はまだ帰っていなかった。 佳苗は着替えを済ませ、冷蔵庫から飲み物を取り出した。 いつもならテレビでもつけるところなのに、今日はその気になれない。 ソファに座ると、昼間の言葉がまた浮かんだ。『跡継ぎとか言われそう』 雄吾はそんなことを一度も言っていない。 結婚前に子供の話をしたときも、佳苗が怖いなら無理をする必要はないと言ってくれた。 それなのに、どうしてこんなに落ち着かないのだろう。「ただいま」 玄関から声がした。「おかえり」 佳苗が立ち上がると、リビングへ入ってきた雄吾がすぐに足を止めた。「どうした?」「何が?」「なんかあっただろ」「……そんなに分かりやすい?」「分かりやすい」 少し迷ってから、佳苗はソファへ座り直した。「今日、会社で子供のこと聞かれた」「子供?」「妊娠してるのかって。ちょっと疲れて見えたみたい」 雄吾の眉が寄る。「また会社で何か言われたのか?」「違う違う。今回はそんな感じじゃないよ」 佳苗は慌てて否定した。「普通の雑談。聞いた人もすぐ謝ってくれたし」「ならいいけど」「それでね」 佳苗は膝の上で指を組んだ。「雄吾が会社の社長だから、跡継ぎとか言われそうって」「誰に?」「その人に。雄吾じゃないよ」「俺は言わない」「分かってる」 佳苗は小さく笑った。「分かってるんだけど……ちょっと怖くなった」 雄吾が隣に座る。 何も言わず、続きを待ってくれた。「前に子供のこと話したでしょう?」「ああ」「そのときは、まだ先のことだと思ってた。でも結婚したら、周りか
職場の空気が落ち着き始めてから、二週間ほどが経った。 以前のように露骨なことを言う人はいなくなった。 仕事も普通に回ってくる。「榊原さん、これ午後までにいけます?」「大丈夫です」「助かります」 そんなやり取りが戻ってきたことに、佳苗はほっとしていた。 まだ少し距離を取っている人もいるけれど、それまで無理に元通りにする必要はない。 仕事に支障がなければ十分だ。「榊原さん」「はい?」 昼休み、同僚の女性に声を掛けられた。「今日、お昼一緒に行かない?」「行く」 以前から時々一緒に食事をしていた相手だった。 近くの店へ入り、ランチを注文する。「最近、大変だったね」「まあ……ちょっとね」「私はああいうこと言ってなかったけど、止めてもなかったから。ごめんね」 思いがけない言葉に、佳苗は目を瞬いた。「謝ってもらうほどじゃないよ」「でも、聞いてて変だなとは思ってたんだよね」「ありがとう」 料理が運ばれてくる。 ようやく普通の雑談ができる。 そう思ったところで、相手が何気なく尋ねた。「ところでさ。榊原さん、最近体調悪かったりする?」「え?」「なんか、前より疲れてるように見えるから」「そうかな?」 佳苗は首を傾げた。 仕事のことで気疲れはしていた。 けれど、体調が悪い自覚はない。「別に大丈夫だよ」「そっか」 相手は頷き、それから少し笑った。「じゃあ違うか」「何が?」「いや、結婚したばっかりだし、もしかしてって」 その瞬間。 佳苗の箸が止まった。「……もしかして?」「赤ちゃん」 さらりと言われた一言だった。 悪意などない。「まだそういう予定はないよ」「そっか。ごめん、勝手に」「ううん」 佳苗は笑って流した。 ◇ 会社へ戻る途中。「でも、結婚したらやっぱり聞かれるよね」 同僚が苦笑する。「私も結婚したとき、親戚にずっと言われたもん。子供はまだかって」「そうなんだ」「榊原さんのところなんて、旦那さん会社経営してるんでしょう? 跡継ぎとか言われそう」 また、足が止まりそうになった。「……どうだろうね」「そういうのない?」「ないよ」 雄吾から、一度も言われたことはない。 美佐子からも。 だから、気にする必要などないはずだった。 けれど――。 跡継ぎ。 その
雄吾が帰宅したのは、午後九時を少し過ぎた頃だった。「ただいま」「おかえり」 佳苗がリビングから顔を出すと、雄吾はいつも通りだった。 ただ、佳苗が何も言わないうちから会社のことを尋ねてはこなかった。「ご飯、温める?」「ああ。ありがとう」 雄吾が着替えている間に夕食を用意する。 二人で食べ始めてしばらくしてから、佳苗は自分から口を開いた。「今日ね、課長と話した」 雄吾は箸を置かなかった。「うん」「人事から、調査のあとに私が不利益な扱いを受けてないか確認するように言われてるんだって」「そうか」「それで、仕事を頼まれなくなるのも困るって話した。普通に扱ってほしいって」「うん」 相槌だけが返ってくる。 佳苗は思わず雄吾を見た。「……それだけ?」「何が?」「もっと何か言うかと思った」「聞くって言っただろ」「言ったけど」「佳苗が意見を聞きたいなら言う。でも、まずは聞く」 あまりにも律儀で、佳苗は少しだけ笑ってしまった。「極端なんだから」「反省中だからな」「じゃあ、意見を聞いてもいい?」「ああ」「私の言ったこと、おかしくないよね?」「おかしくないと思う」 雄吾は少し考えてから続けた。「仕事を押しつけるのも、逆に仕事から外すのも、佳苗が望んでることじゃないんだろ」「うん」「なら、普通に仕事を割り振ってくれっていうのは当然じゃないか」「そうだよね」 佳苗はほっと息を吐いた。 雄吾と喧嘩をしたからといって、意見を聞きたくなくなったわけではない。「昨日のことなんだけど」 佳苗が言うと、雄吾の表情が少し引き締まった。「うん」
翌朝。 佳苗がリビングへ行くと、雄吾はすでに起きていた。「おはよう」「……おはよう」 いつもと同じ挨拶なのに、少しだけぎこちない。 テーブルには朝食が用意されていた。「食べる?」「うん」 向かい合って座る。 雄吾は昨夜のことを蒸し返さなかった。 佳苗も、出勤前にもう一度話し合う気にはなれなかった。「行ってきます」「ああ。行ってらっしゃい」 玄関を出る直前、佳苗は振り返った。「雄吾」「ん?」「昨日のこと、まだ怒ってるから」「ああ」「でも、嫌いになったわけじゃないからね」 雄吾が少しだけ目を見開いた。「分かってる」「ならいい」 佳苗は扉を閉めた。 ◇ 出社すると、異動が決まった社員の机はすでに片づけが始まっていた。「来週からだって」「早いね」「まあ、あれだけ大事になったらね」 そんな声を聞きながら、佳苗はパソコンを立ち上げる。 午前中は何事もなかった。 けれど昼前、別部署から届いた書類を確認していると、一か所数字が合わないことに気づいた。「すみません。ここの金額なんですけど」 担当者へ声を掛ける。「あ、本当だ。すみません」「こちらで直していいですか?」「お願いします」 いつものやり取りだった。 それだけのことなのに、少し嬉しかった。 夫が誰でも関係ない。 佳苗が確認したから、間違いに気づいた。 自分が欲しいのは、こういう当たり前のことだった。 ◇ 午後、上司から声を掛けられた。「榊原さん、最近どう?」「どう、というと?」「周りの態度。ヒアリングのあと、ちょっと変になってるだろ」 佳苗は苦笑した。「気づいてました?」「そりゃね」 上司は困ったように頭を掻いた。「人事からも、調査後に不利益な扱いがないか確認するよう言われてる」「不利益……」「仕事を回さないとか、仲間外れにするとか。そういうのも含めて」 佳苗は少し考えた。「じゃあ、一つお願いしてもいいですか?」「何?」「私を特別扱いしないでください」「してないつもりだけど」「課長じゃなくて、部署全体としてです」 佳苗は言葉を選んだ。「私に仕事を押しつけないでほしい。でも、怖がって仕事を頼まないのもやめてほしいです」「なるほど」「必要なら頼んでください。無理なら断ります。間違ってたら注
「確かに言った」 雄吾は言い訳をせずに認めた。「でも、佳苗の会社に連絡したわけじゃない。交流会でたまたま役員に会って、向こうから佳苗の話をされた。それで――」「それで話したの?」「ああ」「同じじゃない」 佳苗の声が少し強くなる。「私、雄吾に何もしないでって言ったよね?」「分かってる」「分かってないよ」 佳苗は立ち上がった。「私がどんな気持ちで会社にいるか、話したじゃない。社長夫人だから働かなくてもいいとか、仕事は暇つぶしみたいなものだとか、そういう扱いが嫌だって」「ああ」「だから自分で言ったの。上司にも相談した。ちゃんと自分でどうにかしようとしてた」「それで状況が悪くなってただろ」 雄吾の言葉に、佳苗は詰まった。 確かにそうだった。 けれど、それとこれとは違う。「だからって、雄吾が出てきたら駄目なんだよ」「俺は誰かを処分しろとは言ってない」「そういうことじゃない!」 思わず声が大きくなった。「雄吾が言えば、それだけで普通の人が言うのとは違うでしょう?」 雄吾が黙る。「私の会社の役員に、別の会社の社長が『妻がこんな扱いを受けてる』って言ったんでしょう? それで何も起きないと思ったの?」「問題がなければ、調査されても何も出なかったはずだ」「問題があったことを否定してるんじゃないよ」 佳苗は首を振った。「会社が調べて、問題があったから処分した。それは分かってる。でもみんなには、そんなの分からない」 今日聞いた言葉を思い出す。 役員まで知っていた。 上から指示が来た。「今だって、社長夫人には逆らわない方がいいって思われてるの。それなのに、本当に夫の社長が出てきて会社の上を動かしたら……」「俺が動かしたわけじゃない」
「やっと捕まえた」 耳元で囁かれた低い声に、佳苗の心臓が大きく跳ねた。 捕まえた。 その言葉は、優しいのにどこか危険だった。「榊原、先輩……?」 佳苗が戸惑う中、雄吾は佳苗の手首を掴んだまま、ゆっくり顔を上げる。 その視線の先には、こちらへ歩いてくる悟がいた。「佳苗!」 苛立った声。 悟は佳苗を見るなり、露骨に顔をしかめた。「何やってんだよ」 だが次の瞬間、雄吾の姿に気づき、動きが止まる。「……誰?」 警戒した声音。 雄吾は答えない。 ただ静かに佳苗の前へ立った。 庇うように。 その背中の広さに、佳苗は息を呑む。「佳苗、こっち来い」 悟が手を伸ばす。
恵が帰ったあとも、佳苗はしばらく動けなかった。 心臓が嫌なほど脈打っている。 あの目。 一瞬だけ見せた、冷たい視線。 前世では最後まで気づかなかった。 恵はずっと、自分から奪うことを楽しんでいたのだ。「……っ」 佳苗は唇を噛み締める。 怖い。 けれど、それ以上に悔しかった。 どうして自分は、あんな人たちのために命まで懸けてしまったのだろう。 テーブルの上に置かれた結婚写真が目に入る。 幸せそうに笑う自分。 悟の腕に寄り添って、未来を信じ切っていた頃の自分。 ――滑稽。 佳苗は震える手で写真立てを伏せた。 もう戻れない。 戻りたくもない。 今度こそ終わらせ
「……今、泣いてるのか?」 低く静かな声が耳に落ちる。 その一言だけで、張り詰めていた感情が崩れそうになった。 佳苗は慌てて口元を押さえた。「な、泣いてません」『嘘が下手だな、お前は昔から』 昔から。 その言葉に、大学時代の記憶が蘇る。 榊原雄吾。 成績優秀、容姿端麗、誰にも媚びない孤高の男。 学生の頃から有名だった。 近寄りがたい人だったのに、なぜか佳苗にはよく話しかけてきた。『また他人の仕事押し付けられてるのか』『断れないのか、お前は』 呆れたように言いながら、結局いつも助けてくれた。 けれど卒業後は一度も会っていない。 それなのに、どうして今。「どうし
「佳苗? 本当にどうしたんだよ」 怪訝そうな顔で、悟がこちらを見る。 その優しげな声に、佳苗は思わず身を強張らせた。 前世でも、この男はこんな顔をしていた。 穏やかで、頼れて、優しくて。 だから信じてしまったのだ。 まさか裏で妹と不倫し、自分を“代理母”として利用していたなんて、夢にも思わなかった。「顔色悪いぞ。熱でもある?」 悟が立ち上がり、額に触れようと手を伸ばしてくる。「っ……!」 佳苗は反射的にその手を振り払った。 ぱしん、と乾いた音が響く。 悟が目を見開いた。「……佳苗?」 しまった、と思った。 前世の記憶が蘇ったとはいえ、今の悟はまだ“何も知らない夫