Masuk「初めまして、朝倉さん」
女性は上品に微笑みながら名刺を差し出した。
「榊原グループで広報をしております、西園寺と申します」
「は、初めまして」
佳苗も慌てて頭を下げる。
「朝倉佳苗です」
「先ほど、社長にご紹介いただいていましたね」
西園寺は柔らかく笑う。
「とても素敵でした」
「ありがとうございます」
佳苗は少し照れくさそうに笑った。
「緊張してしまって……」
「ふふ、そうは見えませんでしたよ」
穏やかな口調だった。
けれど、西園寺の視線は佳苗を静かに観察している。
「社長が女性をお連れになるなんて初めてなので、社内は大騒ぎなんです」
「そうなんですか?」
「ええ」
西園寺は苦笑する。
「皆さん、本当に驚いていました」
佳苗は困ったように微笑んだ。
「今度こそ、私が勝手に決めつけたんじゃないものね」 絢子の言葉に、佳苗は何も返せなかった。 確かに、自分で言った。 雄吾と絢子が仕事以外で連絡を取り合うのは嫌だと。 嘘ではない。 けれど――。「佳苗さん」 美佐子が戸惑ったように口を開いた。「それは……二人に友達をやめてほしいってこと?」「違います」「でも、仕事以外で連絡するのも嫌なんでしょう?」「それは……」 どう説明すればいいのだろう。 絢子が雄吾を今も好きだから。 そう言えばいい。 美佐子も、それはもう知っている。 けれど、それだけではない。 何度も雄吾との出来事を報告されたこと。 事実とは違うことまで伝えられたこと。 雄吾に触れようとしたこと。 その積み重ねがあって、今は嫌なのだ。「母さん」 雄吾が口を挟んだ。「それで何か問題あるか?」「雄吾?」「俺も仕事以外で絢子に連絡する必要はないと思ってる」 絢子の表情がわずかに固まった。「雄吾さんまで……」「佳苗だけが決めたことじゃない」「でも」 美佐子は納得できないようだった。「あなたたち、子供の頃からずっと友達だったでしょう?」「だからって、一生同じ距離で付き合わなきゃならないわけじゃない」「そんな言い方……」「おばさま」 絢子が美佐子を止めた。「もういいんです」「絢子ちゃん」「佳苗さんの気持ちは、ちゃんと分かりましたから」 絢子は穏やかに笑う。「雄吾さんも同じなら、私が口を出すことじゃありません」「&h
数日後。 佳苗のもとへ、久しぶりに絢子からメッセージが届いた。『佳苗さん、この前は本当にごめんなさい』 佳苗は画面を見つめた。 以前のように、すぐ返事はしない。 しばらくして、もう一件。『おばさまから、二人でお話ししたって聞きました』『ちゃんと誤解が解けたみたいで安心したわ』「……」 佳苗は少し迷ってから返信した。『はい。お母様とお話しできてよかったです』 それだけ。 余計なことは書かない。 すると絢子から、『本当によかった』 と返ってきた。 それ以上、連絡はなかった。(これで終わればいいな) 佳苗はそう思った。 ◇ その週末。「母がまた食事に来ないかって」 雄吾に言われ、佳苗は少し驚いた。「またですか?」「ああ。今度は家で」「行きたいです」 美佐子とは、この前二人で話したばかりだ。 以前ほど怖くはなかった。「絢子も来るらしい」「……そうですか」「嫌なら断っていい」「大丈夫です」 佳苗は首を横に振った。「お母様と一条さんが会うことは、私もいいって言いましたから」「それと佳苗が一緒にいることは別だぞ」「分かっています」 それでも。 いつまでも絢子を避け続けるのも違うと思った。「行きます」「……分かった」 ◇ 日曜日。「いらっしゃい、佳苗さん」 美佐子は以前と変わらない笑顔で迎えてくれた。「こんにちは」「この前はありがとうね」「こちらこそ」
翌朝。 佳苗は目を覚ましてから、しばらくベッドの中でぼんやりしていた。 昨夜のことを思い出す。『この子のことも、少し分かってあげてほしいの』 美佐子の言葉が胸に残っていた。(お母様……やっぱり、一条さんの方が大切なのかな) 当然なのかもしれない。 美佐子にとって、自分はまだ知り合って間もない雄吾の恋人。 絢子は幼い頃から知っている、娘のような存在。 比べること自体がおかしい。 そう分かっているのに、寂しかった。「佳苗」「……はい?」 隣から声を掛けられる。「また考えてるだろ」「少しだけ」「母のこと?」 佳苗は少し迷って、頷いた。「はい」「母が何を思うかまで、佳苗が背負う必要はない」「でも、嫌われたくないです」「分かってる」「雄吾さんの大切なお母様だから」 雄吾は少し黙ってから、佳苗の手を握った。「なら、なおさら時間をかければいい」「時間……」「母だって、昨日のことだけで佳苗を決めつけたりしない」「……はい」 佳苗はその言葉を信じることにした。 ◇ しかし、その日の午後。 美佐子は一人で考え込んでいた。 昨夜、駅で別れる直前。 絢子は笑っていた。『大丈夫です』『私が我慢すればいいだけだから』 その言葉が、どうしても頭から離れない。「……」 美佐子はスマートフォンを手に取った。 佳苗へ連絡しようとして――やめる。 何と聞けばいいのだろう。 本当は絢子と会ってほしくないの?
「佳苗さん、本当は私に消えてほしいんでしょう?」 絢子は涙を浮かべたまま、佳苗を見つめた。「雄吾さんの前からも。おばさまの前からも」「違います」 佳苗ははっきり答えた。「そんなこと、一度も思っていません」「でも、私が雄吾さんと一緒にいると嫌なんでしょう?」「二人きりで食事をしたり、必要以上に触れたりするのは嫌です」 絢子の顔が強張った。 以前なら、ここでも曖昧にしていた。 けれど佳苗はもう逃げなかった。「だって一条さんは、自分でも言いましたよね。今も雄吾さんを好きじゃないとは言い切れないって」「……」「そんな人が私の恋人に触れるのを嫌だと思うことと、一条さんに消えてほしいと思うことは同じじゃありません」「佳苗さん……」「お母様と会うことなんて、もっと関係ありません」 美佐子が黙って佳苗を見ている。「だから、私が言っていないことまで私の気持ちにしないでください」「……ごめんなさい」 絢子は俯いた。「やっぱり私、邪魔なのね」「だから!」 思わず佳苗の声が大きくなる。 絢子の肩がびくりと揺れた。 周囲の視線が集まる。「佳苗」 雄吾がそっと佳苗の肩に手を置いた。 佳苗は唇を噛んだ。「……すみません」「違う。謝らなくていい」「でも……」「同じ話を繰り返してるだけだ」 雄吾は絢子を見る。「佳苗は、消えろとは言ってない」「……」「なのに絢子は、何を言われてもそこへ話を戻す」「そんなつもりじゃないわ」「じゃあ、佳苗が言ったことだけ聞け」 絢子は何も答えなかった。 ◇「今日はもう帰るわ」 しばらくして、絢子がバッグを手に取った。「絢子ちゃん」 美佐子が心配そうに立ち上がる。「大丈夫です、おばさま」「でも……」「私がいたら、また雰囲気を悪くしてしまうから」「そんなことないわ」「ありがとうございます」 絢子は寂しそうに微笑んだ。「でも、少し一人になりたいんです」「送るわ」「大丈夫です」「こんな状態で一人にできないでしょう?」 美佐子が言う。 絢子は一度断ったものの、最後には小さく頷いた。「……じゃあ、駅まで」「ええ」 美佐子が佳苗を見る。 その表情には、先ほどまでの険しさはなかった。 けれど困惑は残っていた。「佳苗さん」「はい」「ごめんなさいね。私も少し
「佳苗さんを責めないでください」 絢子の言葉が、佳苗の胸に重くのしかかった。 美佐子は困惑した表情のまま、佳苗を見る。「でも……私にはよく分からないわ」「母さん」「雄吾は少し黙っていて」 美佐子は息子を制した。「佳苗さん。あなたが絢子ちゃんを嫌なのは分かるの」「嫌だなんて……」「だって、不安なんでしょう?」「それは……」 否定できなかった。 絢子が今も雄吾を好きかもしれないと知ってから、不安になったのは事実だ。「でも、それとお母様とのことは関係ありません」「だったら絢子ちゃんは、今まで通り私に会ってもいいのよね?」「もちろんです」 佳苗は即座に答えた。「私にそんなことを決める権利はありません」「ほら、絢子ちゃん」 美佐子が絢子の手を握る。「佳苗さんもこう言ってるでしょう?」「……はい」 絢子は小さく頷いた。 けれど、その表情は晴れなかった。「でも、やっぱりしばらくは控えます」「どうして?」「これ以上、誰かを傷つけたくないから」「一条さん」「佳苗さんは優しいから、きっと嫌でも嫌だって言えないでしょう?」「……え?」「だから、私がちゃんと考えないと」 佳苗は言葉を失った。 自分が「会っていい」と言っても。 それすら本心ではないことにされてしまう。「違います」 佳苗は首を横に振った。「本当に、お母様と一条さんのことは関係ありません」「ありがとう」 絢子は寂しそうに微笑んだ。「そう言ってくれるだけで十分よ」「そうじゃなくて――」「もういい」 雄吾の低い声が響いた。 佳苗が振り返る。 雄吾は絢子を見ていた。「絢子。佳苗が関係ないと言ってるんだから、それ以上勝手に佳苗の気持ちを決めるな」「……勝手に?」「ああ」「私はそんなつもりじゃ……」「さっきからそうだろ」 雄吾は淡々と続けた。「佳苗は母と会うなとは言ってない。仕事から外れろとも言ってない。なのに全部、佳苗を理由にしてる」「それは、私が気を遣って――」「頼まれてもいないのに?」 絢子が黙る。「雄吾」 美佐子が険しい顔をした。「そんな言い方しなくてもいいでしょう?」「母さんこそ、佳苗に何を聞いてた?」「何って……」「絢子と会うのが嫌なのか。母さんと絢子が会うのも嫌なのか。全部、絢子が言い出したことだろ」「
「違うって言ってるでしょう!」 絢子の鋭い声が廊下に響いた。 佳苗は息を呑む。 絢子自身も、自分の声に驚いたように目を見開いた。「……ごめんなさい」 すぐに俯く。「大きな声を出して」「一条さん……」「でも、悲しかったの」 絢子の声が震えた。「佳苗さんなら、分かってくれると思ってたから」「……」「私、確かに雄吾さんのことが好きだったわ。今だって、完全に気持ちがなくなったのかって聞かれたら……分からない」 絢子の目に涙が浮かぶ。「でも、それってそんなに悪いこと?」「悪いなんて言ってません」「だったら、どうすればよかったの?」 絢子が佳苗を見る。「私は雄吾さんに気持ちを伝えてない。二人が付き合ってから、告白しようとしたことだって一度もない」「……」「雄吾さんと会ったときも、隠したくなかったから佳苗さんにちゃんと話したわ」「でも、それが私は――」「じゃあ、黙っていればよかった?」 佳苗の言葉が止まった。「雄吾さんと二人で食事をしても、送ってもらっても、仕事で夜まで一緒にいても。佳苗さんには何も言わずにいた方がよかったの?」「それは……」「あとから知ったら、もっと嫌だったでしょう?」 返せない。 確かに、そうだったかもしれない。「だから私は全部話したの」 絢子の頬を涙が伝った。「隠れて会っているって思われたくなかったから」「……」「それなのに、全部悪意だったって言われたら……私はどうすればよかったの?」「絢子」
恵が帰ったあとも、佳苗はしばらく動けなかった。 心臓が嫌なほど脈打っている。 あの目。 一瞬だけ見せた、冷たい視線。 前世では最後まで気づかなかった。 恵はずっと、自分から奪うことを楽しんでいたのだ。「……っ」 佳苗は唇を噛み締める。 怖い。 けれど、それ以上に悔しかった。 どうして自分は、あんな人たちのために命まで懸けてしまったのだろう。 テーブルの上に置かれた結婚写真が目に入る。 幸せそうに笑う自分。 悟の腕に寄り添って、未来を信じ切っていた頃の自分。 ――滑稽。 佳苗は震える手で写真立てを伏せた。 もう戻れない。 戻りたくもない。 今度こそ終わらせ
「……今、泣いてるのか?」 低く静かな声が耳に落ちる。 その一言だけで、張り詰めていた感情が崩れそうになった。 佳苗は慌てて口元を押さえた。「な、泣いてません」『嘘が下手だな、お前は昔から』 昔から。 その言葉に、大学時代の記憶が蘇る。 榊原雄吾。 成績優秀、容姿端麗、誰にも媚びない孤高の男。 学生の頃から有名だった。 近寄りがたい人だったのに、なぜか佳苗にはよく話しかけてきた。『また他人の仕事押し付けられてるのか』『断れないのか、お前は』 呆れたように言いながら、結局いつも助けてくれた。 けれど卒業後は一度も会っていない。 それなのに、どうして今。「どうし
「佳苗? 本当にどうしたんだよ」 怪訝そうな顔で、悟がこちらを見る。 その優しげな声に、佳苗は思わず身を強張らせた。 前世でも、この男はこんな顔をしていた。 穏やかで、頼れて、優しくて。 だから信じてしまったのだ。 まさか裏で妹と不倫し、自分を“代理母”として利用していたなんて、夢にも思わなかった。「顔色悪いぞ。熱でもある?」 悟が立ち上がり、額に触れようと手を伸ばしてくる。「っ……!」 佳苗は反射的にその手を振り払った。 ぱしん、と乾いた音が響く。 悟が目を見開いた。「……佳苗?」 しまった、と思った。 前世の記憶が蘇ったとはいえ、今の悟はまだ“何も知らない夫
「……っ、はぁ……ぁっ……!」 全身を引き裂かれるような痛みに、藤倉佳苗は汗で濡れたシーツを握り締めた。 眩しい手術灯。鼻を刺す消毒液の匂い。何度も響く機械音。 苦しい。 息ができない。「もう少しです! 頑張ってください!」 医師の声が遠い。 お腹の奥が裂けるように熱い。 それでも佳苗は必死に意識を繋いだ。(赤ちゃん……) やっと会える。 悟との子供。 愛する夫との、大切な命。 その一心だけで耐えていた。 けれど次の瞬間、医師たちの声色が変わった。「血圧低下!」「出血が止まりません!」「急げ!」 視界がぐらりと揺れる。 寒い。 急激に体温が奪われていく。