LOGIN「藤倉さん、少しお時間よろしいでしょうか」
内部監査担当者は穏やかな口調だった。
だが、その一言だけで悟の背中に冷たい汗が流れる。
「……はい」
「会議室でお話しできますか」
「分かりました」
悟は努めて平静を装いながら、担当者の後を歩く。
会議室のドアが閉まる。
中には監査担当者がもう一人と、総務部の社員が一人座っていた。
「お忙しいところ申し訳ありません」
「いえ……」
悟は椅子へ腰を下ろす。
机の上には数枚の伝票のコピーが並べられていた。
「今日は確認したいことがあります」
担当者は一枚の書類を悟の前へ置く。
「こちらの経費精算ですが、藤倉さんが処理されたもので間違いありませんか?」
悟は書類を見る。
見覚えがあった。
「…&hellip
『佳苗に、お金を貸してもらえないか聞いてもらえませんか』 電話の向こうで、母親はしばらく黙っていた。『……お金?』「はい」『どれくらい?』「とりあえず、三十万くらいあれば」『三十万?』 思っていたより大きな声が返ってきて、悟は慌てて言葉を足した。「もちろん、ずっと借りるつもりじゃありません。仕事が決まったら返します」『でも、あなた……会社からもお金を請求されてるんでしょう?』「それは別です」『別って言ってもねえ』「今、本当に厳しいんです」 悟は声を落とした。「家賃もありますし、生活費も必要で。再就職だって探してます。でも、前の会社を辞めた理由を聞かれると、なかなか……」 正確には、辞めたのではない。 懲戒解雇された。 それを母親も知っているはずだったが、あえて言い直してはこなかった。『ご実家は?』「頼れません」『恵は?』 その名前に、悟の顔が歪んだ。「もう連絡取ってません」『……そう』「佳苗なら、三十万くらい何とかなるでしょう?」『それはまあ……』 母親の声が曖昧になる。 悟はそこに望みを見つけた。「貸してくれるだけでいいんです。返しますから」『でも、あの子、この前あれだけ嫌がってたでしょう』「だから、お義母さんから言ってほしいんです」『また私が?』「俺からはもう連絡できないんです。ブロックされてるから」 悟は少し間を置いてから続けた。「俺たち、夫婦だったんですよ。今ちょっと困ってるときくらい、助けてくれてもいいと思うんです」『元夫婦でしょう』「&helli
『絢子ちゃん……それ、本当なの?』 長い沈黙のあと、美佐子がようやく口を開いた。「うん」『佳苗さんの元旦那さんを、自分で調べたの?』「……うん」『どうしてそんなこと……』 責めるというより、信じられないという声だった。 絢子は唇を噛んだ。「佳苗さんのことを知りたかったの。雄吾さんが、どうしてあんなに佳苗さんを大切にするのか……分からなくて」『だからって、元旦那さんに?』「分かってる。おかしいことしたって」 雄吾にも、佳苗にも同じことを言った。二人はもう知っているのだと説明すると、美佐子はさらに驚いた。『雄吾も知ってるの?』「うん。私から話した」『……そう』「もう二度としないって約束したし、藤倉さんにも佳苗さんへ無理に連絡しない方がいいって言ったの。本当よ」『でも、その人は会社まで来たのよね』「……うん」 そこだけは、絢子にもどうしようもなかった。「私が連絡したから、佳苗さんと雄吾さんが今付き合ってることも知った。雄吾さんの名前だって……私が出したの」『絢子ちゃん』「だから、私が余計なことをしなかったらって思って」 絢子は目元を押さえた。 嫉妬した。 佳苗の過去を知れば、何かが分かると思った。 もしかしたら、雄吾の気持ちを揺らす材料が見つかるかもしれないと、心のどこかでは期待していたのかもしれない。 けれど、こんなことになるとは思わなかった。『……雄吾には、私からも話しておくわ』「待って」『でも』「私が話す」 絢子はすぐに言った。「藤倉さんから連絡が続いてたことも、今日ブロックしたことも、私から雄吾さんに言う」『大丈夫?』「大丈夫じゃなくても、言わなきゃ」 ここで美佐子の後ろに隠れれば、また同じことになる。 絢子はそう思った。 ◇ 翌日。『少しだけ、お時間をいただけますか』 絢子から連絡を受けた雄吾は、仕事が終わったあとならと返した。 指定された時間に絢子は会社へやって来た。 以前のような親しげな笑顔はない。「何だ?」「藤倉さんのこと」 雄吾の表情が険しくなる。「連絡したのか?」「してない。向こうから来たの」 絢子はスマートフォンを取り出し、悟から届いたメッセージを雄吾に見せた。『今日、佳苗に会いました』『会社まで行ったんです』『でも榊原が迎えに来て』『結
『今日、佳苗に会いました』 絢子は、そのメッセージをしばらく見つめていた。 会った。佳苗に。 胸の奥に嫌な予感が広がったが、返信はしなかった。自分はもう悟に関わらない。そう決めたのだから。 数分後、またメッセージが届いた。『会社まで行ったんです』『でも榊原が迎えに来て』『結局まともに話せませんでした』 絢子の指が止まった。 会社まで行ったのか。『あいつ、いつも邪魔するんですよ』 続けて届いた言葉に、絢子は眉を寄せた。 以前、悟と話したときにも感じていたことだった。 この男は、佳苗自身の意思を認めようとしない。佳苗が自分を拒絶しているのではなく、雄吾が邪魔をしているのだと思い込んでいる。『一条さんなら分かるでしょう?』『あんただって榊原と話したいのに、佳苗のせいで距離置かれてるんだから』「……違う」 思わず声が漏れた。 確かに、佳苗さえいなければと思ったことは何度もある。今だって佳苗が羨ましい。雄吾に選ばれた佳苗が、どうしようもなく妬ましい。 けれど、だからといって嫌がる佳苗の会社まで押しかけていいとは思わない。 絢子は画面を閉じた。 返事をするつもりはなかった。 ◇ 翌朝。「今日は送る」 朝食を終えた雄吾が言った。「会社までですか?」「ああ」「大丈夫ですよ」「昨日の今日だ」「でも、悟もさすがに――」 言いかけて、佳苗は口をつぐんだ。 ――さすがに。 その言葉はもう、悟には使えない気がした。「……お願いします」「ああ」 以前なら、雄吾に迷惑を掛けたくないと断っていたかもしれない。けれど今は、一人で何もかも抱えることだけが自立ではないと
翌朝。「本当に会社へ連絡するんですか?」「ああ」 雄吾は迷わなかった。「悟が来ると決まったわけじゃないです」「来てからじゃ遅い」「……」「大げさだと思うか?」「少しだけ」「佳苗」 雄吾が真っ直ぐ佳苗を見る。「連絡するなと言われて、普通は母親に連絡しない」「……はい」「しかも母親を使って会わせようともしない」 そう言われると、何も返せなかった。「会社には、元夫が来ても取り次がないでほしいと伝えるだけでいい」「分かりました」「帰りも、しばらく気をつけろ」「はい」「迎えが必要なら言え」「そこまでは大丈夫です」「そうか」 雄吾はそれ以上言わなかった。 佳苗も、自分の会社へ事情を伝えた。 離婚した元夫から繰り返し連絡を受けていること。 今後、訪ねてくる可能性があること。 もし来ても、自分を呼び出さないでほしいこと。 少し恥ずかしかった。 けれど。 伝え終わると、不思議と安心した。 ◇ その日の夕方。「朝倉さん」 退勤の準備をしていた佳苗に、同僚が声を掛けた。「はい?」「受付から連絡」 胸がざわつく。「……何でしょう」「藤倉悟って人、知ってる?」 身体が固まった。「……元夫です」「やっぱり」 同僚の表情が曇る。「来てるみたい」「……」「でも朝言ってたから、受付で断ってくれてるって」 来た。 本当に。「ありがとうございます」「大丈夫?」「はい」 そう答えたものの。 指先が冷たかった。 ◇「佳苗に会わせてください」 悟は受付で苛立っていた。「申し訳ございません。お取り次ぎできません」「何でですか?」「本人から、そのように申しつかっておりますので」「俺、元夫なんですよ」「存じ上げております」「だったら少しくらい――」「お取り次ぎできません」 同じ答えしか返ってこない。「話すだけなんです」「申し訳ございません」「じゃあ、ここで待ちます」「業務の妨げになりますので、お引き取りください」 悟の顔が歪む。「……佳苗がそう言ったんですか?」「お答えできません」「本人に聞くだけでも――」「できません」 周囲から視線を感じる。 悟は舌打ちした。「分かりましたよ」 仕方なく、建物を出た。 だが。 帰るつもりはなかった。
佳苗の母親の連絡先は、まだ悟のスマートフォンに残っていた。 離婚してから、一度も連絡していない。 さすがに気まずさはある。 だが。 悟はしばらく迷った末、電話を掛けた。 数回の呼び出し音。『……もしもし?』「ご無沙汰しています。藤倉です」『藤倉……悟さん?』「はい」 母親の声が明らかに変わった。『どうしたの、突然』「佳苗のことで、少しお話ししたくて」『佳苗?』「俺、佳苗に連絡してるんですけど、全部無視されてて」『……』「とうとうブロックまでされたみたいなんです」『そうなの?』「はい」 悟は少し声を落とした。「俺も、悪かったと思ってます」『……』「離婚のときは色々ありましたけど、今は反省してるんです」『そう……』「だから、一度ちゃんと話したいだけなんです」 嘘ではない。 少なくとも悟自身は、そう思っていた。「でも、佳苗が話も聞いてくれなくて」『あの子、昔から頑固なところがあるからねえ』 その言葉に。 悟の顔が少し明るくなる。 やはり。 この人なら分かってくれる。「そうなんですよ」『一度こうって決めたら、人の話を聞かないところがあるのよ』「はい」『私にも最近、ずいぶん冷たいし』「……そうなんですか?」『そうなのよ』 母親の声に、不満が混じる。『雄吾さんと暮らすようになってからかしらねえ。何だかすっかり変わっちゃって』 悟の眉が動いた。「や
『佳苗にどうしても話したいことがある』 絢子は画面を見つめた。 返信するつもりはなかった。 雄吾にも佳苗にも、もう悟とは関わらないと約束した。 それに。 佳苗が今どこにいるかなど、自分も知らない。 美佐子から聞いたのは、二人で旅行に行っているということだけだ。『知りません』 それだけ送った。 すぐに返信が来る。『旅行行ってるんですよね?』 絢子の指が止まった。『何で知ってるんですか』『一条さんが前に榊原の母親と仲いいって言ってたから』『知ってるかと思っただけです』 悟は知らない。 探りを入れただけ。 絢子は小さく息を吐いた。『場所は知りません』『知っていても教えません』『もう私に連絡しないでください』 送信する。 今度こそ。 これで終わり。 そう思った。 ◇ 一方。「……使えねえな」 悟は舌打ちした。 絢子なら何か知っていると思った。 だが。 佳苗が旅行に行っていることだけは分かった。 榊原と。 二人きりで。「何なんだよ……」 自分はこんな状態なのに。 仕事を失って。 金にも困って。 毎日どうするか考えているのに。 佳苗は金持ちの男と旅行。 あまりにも不公平ではないか。 自分と結婚していた頃。 佳苗はそんな女ではなかった。 贅沢などほとんど言わなかった。 自分のために金を使うことも少なかった。「榊原に変えられたんだ」 悟はそう呟いた。 自分が知っている佳苗なら。 こんな自分を放っておくはずがない。 困っていると言えば心配した。 頼めば助けた。 それが。 今は連絡すら無視する。「一回、ちゃんと会えば……」 話せば分かる。 そう思っていた。 ◇ 温泉地の朝。 佳苗は目を覚ますと、しばらく布団の中でぼんやりしていた。 昨夜。 雄吾と話したことを思い出す。『俺は、佳苗との先を考えてる』『ちゃんと俺たちの始まりにする』「……」 思い出すだけで顔が熱くなった。 プロポーズではなかった。 けれど。 いつか結婚する。 それを二人で確かめられた。 佳苗にとっては、それだけで十分だった。「起きたか?」「……はい」 隣の部屋から雄吾の声がする。 この旅館でも、寝室は別にしてもらっていた。 雄吾は急かさない。 何も。 佳苗
もう二度と、お前をあいつらのところへ戻したりしない。 その言葉が、佳苗の胸に重く落ちる。「……どうして」 気づけば口にしていた。 雄吾が視線を向ける。「どうして、そこまでしてくれるんですか」 本当に分からなかった。 大学時代、少し関わりがあっただけ。 卒業後は一度も会っていない。 それなのに、この男は突然現れて、自分を助けると言う。 しかも、まるで最初から全部知っていたみたいに。「昔世話になった」 雄吾は短く答えた。「レポート、覚えてるか」 佳苗は目を瞬く。 大学二年の頃。 雄吾が長期入院していた時期があった。 単位が危ないと聞いて、佳苗は講義ノートをまと
「やっと捕まえた」 耳元で囁かれた低い声に、佳苗の心臓が大きく跳ねた。 捕まえた。 その言葉は、優しいのにどこか危険だった。「榊原、先輩……?」 佳苗が戸惑う中、雄吾は佳苗の手首を掴んだまま、ゆっくり顔を上げる。 その視線の先には、こちらへ歩いてくる悟がいた。「佳苗!」 苛立った声。 悟は佳苗を見るなり、露骨に顔をしかめた。「何やってんだよ」 だが次の瞬間、雄吾の姿に気づき、動きが止まる。「……誰?」 警戒した声音。 雄吾は答えない。 ただ静かに佳苗の前へ立った。 庇うように。 その背中の広さに、佳苗は息を呑む。「佳苗、こっち来い」 悟が手を伸ばす。
恵が帰ったあとも、佳苗はしばらく動けなかった。 心臓が嫌なほど脈打っている。 あの目。 一瞬だけ見せた、冷たい視線。 前世では最後まで気づかなかった。 恵はずっと、自分から奪うことを楽しんでいたのだ。「……っ」 佳苗は唇を噛み締める。 怖い。 けれど、それ以上に悔しかった。 どうして自分は、あんな人たちのために命まで懸けてしまったのだろう。 テーブルの上に置かれた結婚写真が目に入る。 幸せそうに笑う自分。 悟の腕に寄り添って、未来を信じ切っていた頃の自分。 ――滑稽。 佳苗は震える手で写真立てを伏せた。 もう戻れない。 戻りたくもない。 今度こそ終わらせ
「……今、泣いてるのか?」 低く静かな声が耳に落ちる。 その一言だけで、張り詰めていた感情が崩れそうになった。 佳苗は慌てて口元を押さえた。「な、泣いてません」『嘘が下手だな、お前は昔から』 昔から。 その言葉に、大学時代の記憶が蘇る。 榊原雄吾。 成績優秀、容姿端麗、誰にも媚びない孤高の男。 学生の頃から有名だった。 近寄りがたい人だったのに、なぜか佳苗にはよく話しかけてきた。『また他人の仕事押し付けられてるのか』『断れないのか、お前は』 呆れたように言いながら、結局いつも助けてくれた。 けれど卒業後は一度も会っていない。 それなのに、どうして今。「どうし







