LOGIN資格試験まで、あと一週間。
佳苗の毎日は、仕事と勉強であっという間に過ぎていった。
仕事を終えて帰宅すると、夕食を済ませ、二時間だけ机へ向かう。
休日は雄吾が向かいで仕事をしながら付き合ってくれる。
そんな生活がすっかり当たり前になっていた。
「ふぅ……」
佳苗は参考書を閉じ、小さく息を吐く。
時計を見ると、午後十時を回っていた。
「今日はここまでにします」
向かいでパソコンを開いていた雄吾が顔を上げる。
「進んだか」
「はい」
佳苗は嬉しそうにノートを見せた。
「苦手だったところが、少し分かるようになってきました」
「それは良かった」
雄吾は穏やかに微笑む。
佳苗はノートを閉じながら、小さく笑った。
「最初は絶対無理だと思っていたんです」
「でも、やっているうちに少しずつできるよう
母の家から帰る途中、佳苗は何度か今日の会話を思い返した。 言いすぎただろうか。 母を傷つけたのではないか。 そんな考えが浮かぶたび、以前の癖がまだ残っていることに気づく。 けれど、言ったことを後悔はしていなかった。 母を嫌いになったわけではない。 だからこそ、我慢を積み重ねて、いつか本当に会いたくなくなるような関係にはしたくなかった。 ◇「ただいま」「おかえり」 帰宅すると、雄吾がリビングにいた。「どうだった?」「ちゃんと話してきました」 佳苗は隣に座り、母との会話を簡単に説明した。「何でも言うことを聞く娘には戻れないって言いました」「そうか」「お母さん、黙っちゃいましたけど」「佳苗はどうした?」「私も黙ってました」 雄吾が少し笑った。「成長したな」「子供みたいに言わないでください」「前なら慌てて機嫌取ってただろ」「……そうですけど」 図星だった。「でも、難しいですね」「何が?」「お母さんのこと、大事なんです。困ってたら助けたいとも思うし」「なら助ければいい」「でも、どこまで?」 雄吾は少し考えた。「佳苗が助けたいと思えるところまででいいんじゃないか」「そんな基準でいいんですか?」「ほかに誰が決める?」 佳苗は黙った。 母親だから、ここまでしなければならない。 娘だから、これくらい当然。 そんな明確な線が、どこかに存在するような気がしていた。「自分で決めていいんですね」「佳苗の母親だろ。俺が決めることじゃない」「はい」 佳苗は少しだけ笑った。 ◇ 数日後、母から珍しく短いメッセージが届いた。『この前はごめんね』 佳苗は驚いて画面を見つめた。 続けて届く。『ちょっと寂しくなってたみたい』 佳苗はすぐには返信しなかった。 母が自分からそんなことを認めるとは思っていなかった。『うん』『寂しいなら、またご飯食べよう』 少しして返事が来る。『来週は?』 佳苗は予定を確認した。『土曜日なら空いてるよ』『雄吾さんも来る?』『聞いてみるけど、二人でもいいよ』『じゃあ二人でいい』 その返事に、佳苗は少し安心した。 雄吾を連れてくることにも、何かを期待することにもこだわらず、ただ娘と食事をする。 それなら、自分も嬉しい。 ◇ けれど、
それから母からの連絡は、ぱたりと途絶えた。 三日経っても、一週間経っても来ない。 佳苗からも連絡しなかった。「気になるのか?」 夕食を終えたあと、雄吾に尋ねられ、佳苗は少し迷ってから頷いた。「気にはなります」「連絡したい?」「……分かりません」 以前なら、母を怒らせたと思った時点で自分から謝っていただろう。 けれど今回は、謝るようなことをしたとは思っていない。「連絡したら、また私が折れたことになるのかなって」「別に連絡することと、言うことを聞くことは同じじゃないだろ」 佳苗は顔を上げた。「会いたいなら会えばいいし、話したいなら話せばいい。嫌なことを言われたら断ればいい」「……そうですね」 距離を取ることと、縁を切ることも違う。 佳苗はようやく、少しだけ肩の力を抜いた。 ◇ 翌日、佳苗は母へメッセージを送った。『元気?』 返事が来たのは一時間ほど後だった。『元気よ』『ならよかった』 それだけで終わらせようとしたところで、もう一通届く。『もう私のことなんて気にしてないと思ってた』 佳苗は画面を見つめた。『そんなことないよ』『だって連絡もくれなかったでしょう』『お母さんからも来なかったよ』 既読がつく。『私が連絡しなかったら、そのままだったの?』 佳苗はため息をつきそうになった。 また試されている。『今日は私から連絡したでしょう?』 しばらくして。『そうね』 返ってきたのは、それだけだった。 ◇ その週末、佳苗は一人で母の家を訪れた。「雄吾さんは?」 玄関を開けるなり聞かれた。「今日は私だけ」「そう」 どこか残念そうだったが、母は佳苗を中へ通した。 お茶を飲みながら話していると、母がぽつりと言った。「昔の佳苗は、もっと優しかったわよね」「そう?」「私が困ってたらすぐ来てくれたし、何でも話してくれたでしょう?」 佳苗はカップを置いた。「昔は、お母さんに嫌われたくなかったから」「……何よ、それ」「怒らせたくなかったし、がっかりされたくなかった。だから嫌でも言うこと聞いてたこと、結構あったよ」 母の表情が固まる。「そんなふうに思ってたの?」「うん」「私はあなたのためを思って――」「分かってるよ」 佳苗は遮るように否定しなかった。「お母さんがわざ
母からの連絡は、翌日には何事もなかったように届いた。『昨日買ったもの、何だったの?』 佳苗は少し迷ったが、隠すほどのことでもない。『マグカップとか日用品だよ』『写真見せて』 言われるまま送る必要はないと思った。それでも、これくらいなら構わないかと、昨日撮ったマグカップの写真を送る。『かわいいじゃない』『雄吾さんと色違い?』『うん』『新婚さんって感じね』 母の機嫌はよさそうだった。 佳苗も安心しかけたところで、次のメッセージが届いた。『今度から出かけるとき、どこに行くか教えてね』 佳苗の指が止まる。『どうして?』『何かあったとき心配だから』『雄吾さんと一緒だったよ』『それでも私は母親でしょう?』 また、その言葉だった。 佳苗は少し考えてから返信した。『心配してくれるのはありがとう。でも、出かけるたびに報告はしないよ』 しばらく返事は来なかった。 ◇ その日の夜、今度は恵から電話が掛かってきた。『お姉ちゃん、お母さんに何か言った?』「昨日からいろいろ」『やっぱり』「恵にも?」『位置情報共有しないかって言われた』「位置情報?」 佳苗は思わず声を上げた。『最近物騒だから、家族で共有しておけば安心だって』「それ、断った?」『断ったよ。何で二十四時間お母さんに居場所知られなきゃいけないの』 恵らしい答えに、佳苗は苦笑する。『そしたら、やましいことがなければ困らないでしょうって』「そういう問題じゃないよね」『でしょ?』 恵はため息をついた。『お母さん、どうしちゃったんだろ』「多分、不安なんだと思う」『何が?』
日曜日、佳苗は予定通り雄吾と出かけた。 目的は、新生活に必要なものを買うことだった。 とはいえ、結婚前から一緒に暮らしていたため、大きく買い足すものはない。タオルや食器などを見ながら、気に入ったものがあれば買おうという程度だった。「これ、どうですか?」 佳苗が白いマグカップを手に取る。「同じの二つ?」「色違いもありますけど」「佳苗はどっちがいい?」「私は白かな」「じゃあ俺は黒」「即決ですね」「悩む理由がない」 そんな他愛のない会話をしながら店内を歩く。 ふと、佳苗のスマートフォンが震えた。 母からだった。『今日、本当に出かけてるの?』 佳苗は画面を見つめた。「どうした?」「お母さんです」 雄吾には画面を見せず、簡単に説明する。「この前、今日買い物に付き合ってって言われたんです。でも雄吾さんと約束があるから、別の日ならって断ったんですよ」「それで?」「本当に出かけてるのかって」 雄吾が眉を寄せた。「確認する必要あるのか?」「ないと思います」 佳苗は少し考えてから返信した。『出かけてるよ』『どこ?』 今度は答えなかった。 ◇ その頃、母は返信の来ない画面を見つめていた。「どこにいるかくらい教えてくれてもいいじゃない」 別に邪魔をするつもりなどない。 ただ、娘がどこで何をしているのか知りたいだけだ。 以前なら、佳苗はもっと話してくれた。 何を買った。 どこへ行った。 悟と何があった。 困ったことがあれば相談もしてきた。 それなのに今は、何を聞いても必要最低限しか答えない。 母は恵へメッセージを送った。
三人で食事をした日の夜、佳苗は雄吾に母とのやり取りを話した。「お正月か」「まだだいぶ先ですけどね」「今から決めたいんだろうな」「多分」 佳苗はソファに座り、少し考える。「お母さん、前はここまでじゃなかった気がするんです」「佳苗が結婚したからじゃないか?」「やっぱりそう思います?」「ああ。結婚したことで、自分から離れたって感じてるんだろ」 雄吾の言葉は、美佐子から聞いた話とも重なった。「でも、別に会わないって言ってるわけじゃないんですよ。恵も、たまには帰るって言ってるし」「それじゃ足りないんだろ」「何が欲しいんでしょう」「優先されたいんじゃないか」 佳苗は黙った。 今日の母の言葉を思い出す。『家族なのに、予定が空いてたらなの?』 確かに、母が気にしていたのは会えるかどうかではなかった。「私、冷たいですか?」「俺に聞くな」「どうしてです?」「佳苗が母親とどれだけ会うかは、佳苗が決めることだから」 雄吾は当然のように言った。「俺が『もっと会ってやれ』って言ったら、会うのか?」「……嫌です」「なら答え出てるだろ」 佳苗は思わず笑った。「そうですね」 ◇ 一方、母は一人で食事から帰り、静かな部屋を見回していた。 佳苗は雄吾のところへ帰った。 恵も自分の部屋へ帰った。 当然のことなのに、取り残されたような気がする。 スマートフォンを開くと、三人で撮った写真があった。 今日、恵が「せっかくだから」と撮ったものだ。 三人とも笑っている。 楽しかった。 娘たちも楽しそうだった。 それなのに。「どうして&helli
三人での食事は、翌週の日曜日になった。 佳苗が選んだのは、駅近くの気軽なレストランだった。「こうやって三人で食事するの、久しぶりね」 母は嬉しそうだった。「そうだね」「昔はもっと一緒に出かけたのに」「二人とも大人になったんだから、仕方ないでしょ」 恵が笑う。 母も笑い返した。 最初のうちは穏やかだった。 料理を食べながら、恵の仕事の話を聞き、佳苗の新しい名字にもまだ慣れないと笑う。「そういえば、会社ではもう榊原さんって呼ばれてるの?」「うん。まだ自分のことじゃないみたいだけど」「いいわねえ、榊原佳苗か」 母がどこか満足そうに言った。「立派な名字になったわね」「朝倉だって別に悪くないでしょう」 恵が呆れる。「そういう意味じゃないわよ」「じゃあ、どういう意味?」「雄吾さんの家に入ったんだなって思っただけ」 佳苗は箸を置いた。「私は雄吾さんの家に入ったわけじゃないよ」「結婚したんだから同じでしょう?」「同じじゃないよ。雄吾さんと私で新しい家庭を作ったの」 母は納得していない様子だったが、それ以上は言わなかった。 ◇ 食後のコーヒーが運ばれてきた頃、母が何気ない調子で言った。「そういえば、お正月はどうするの?」「お正月?」「今年から結婚したんでしょう? 榊原家に行くの?」「まだ決めてないよ」「じゃあ、うちにも来られるわよね?」 佳苗は少し考えた。「予定が合えばね」「予定って、お正月くらい家族で過ごすものでしょう?」 隣で恵が顔を上げた。「お母さん、またそれ?」「何が?」「この前も私に毎週帰ってこいって言ってたじゃん」「毎週なんて言
恵が帰ったあとも、佳苗はしばらく動けなかった。 心臓が嫌なほど脈打っている。 あの目。 一瞬だけ見せた、冷たい視線。 前世では最後まで気づかなかった。 恵はずっと、自分から奪うことを楽しんでいたのだ。「……っ」 佳苗は唇を噛み締める。 怖い。 けれど、それ以上に悔しかった。 どうして自分は、あんな人たちのために命まで懸けてしまったのだろう。 テーブルの上に置かれた結婚写真が目に入る。 幸せそうに笑う自分。 悟の腕に寄り添って、未来を信じ切っていた頃の自分。 ――滑稽。 佳苗は震える手で写真立てを伏せた。 もう戻れない。 戻りたくもない。 今度こそ終わらせ
「……今、泣いてるのか?」 低く静かな声が耳に落ちる。 その一言だけで、張り詰めていた感情が崩れそうになった。 佳苗は慌てて口元を押さえた。「な、泣いてません」『嘘が下手だな、お前は昔から』 昔から。 その言葉に、大学時代の記憶が蘇る。 榊原雄吾。 成績優秀、容姿端麗、誰にも媚びない孤高の男。 学生の頃から有名だった。 近寄りがたい人だったのに、なぜか佳苗にはよく話しかけてきた。『また他人の仕事押し付けられてるのか』『断れないのか、お前は』 呆れたように言いながら、結局いつも助けてくれた。 けれど卒業後は一度も会っていない。 それなのに、どうして今。「どうし
「佳苗? 本当にどうしたんだよ」 怪訝そうな顔で、悟がこちらを見る。 その優しげな声に、佳苗は思わず身を強張らせた。 前世でも、この男はこんな顔をしていた。 穏やかで、頼れて、優しくて。 だから信じてしまったのだ。 まさか裏で妹と不倫し、自分を“代理母”として利用していたなんて、夢にも思わなかった。「顔色悪いぞ。熱でもある?」 悟が立ち上がり、額に触れようと手を伸ばしてくる。「っ……!」 佳苗は反射的にその手を振り払った。 ぱしん、と乾いた音が響く。 悟が目を見開いた。「……佳苗?」 しまった、と思った。 前世の記憶が蘇ったとはいえ、今の悟はまだ“何も知らない夫
「……っ、はぁ……ぁっ……!」 全身を引き裂かれるような痛みに、藤倉佳苗は汗で濡れたシーツを握り締めた。 眩しい手術灯。鼻を刺す消毒液の匂い。何度も響く機械音。 苦しい。 息ができない。「もう少しです! 頑張ってください!」 医師の声が遠い。 お腹の奥が裂けるように熱い。 それでも佳苗は必死に意識を繋いだ。(赤ちゃん……) やっと会える。 悟との子供。 愛する夫との、大切な命。 その一心だけで耐えていた。 けれど次の瞬間、医師たちの声色が変わった。「血圧低下!」「出血が止まりません!」「急げ!」 視界がぐらりと揺れる。 寒い。 急激に体温が奪われていく。