Masuk母と距離を置くと決めてから、十日ほどが過ぎた。
その間、母から連絡はなかった。
佳苗も連絡しなかった。
以前なら、数日もすれば気になっていたかもしれない。
けれど今は、スマートフォンを見るたびに少し身構えてしまう。
「まだ連絡ない?」
夕食のあと、雄吾に聞かれて佳苗は頷いた。
「うん。恵からも何も聞いてない」
「なら、今はそれでいいんじゃないか」
「そうだね」
そう答えながらも、佳苗は自分の気持ちが少し複雑なのを感じていた。
母がどうしているのかは気になる。
けれど、自分から連絡を取るのはまだ怖い。
また具合が悪いと言われたら。
今度は、本当なのか。
嘘なのか。
最初にそこを疑ってしまう。
◇
翌日の昼休み。
恵からメッセージが届いた。
『今度の日曜、暇?』
母から「会いたい」と言われてから、一週間が過ぎた。 その間、催促の連絡はなかった。 佳苗は何度か母とのやり取りを開いたが、自分から連絡することもなかった。 まだ会いたいとは思えない。 けれど、以前のように母の名前を見るだけで身構えることはなくなっていた。 ◇ 土曜日の昼過ぎ。 恵から写真が送られてきた。 テーブルの上に、ケーキが二つ並んでいる。『またお母さんとお茶してる』『仲良しじゃん』『別に。暇だっただけ』『はいはい』 すぐに返信が来る。『お母さん、お姉ちゃんの話しなくなったよ』 佳苗は指を止めた。『そうなの?』『今日はまだ一回もしてない』『それを数えてる恵もどうなの』『私も気になってんの!』 思わず笑ってしまう。 その日の夕方、今度は母からメッセージが届いた。『今日、恵とケーキを食べました』 写真はない。 佳苗に何かを求める言葉もなかった。『写真見たよ。おいしそうだった』『恵が送ったの?』『うん』『そう。楽しかったわ』『よかったね』 それで会話は終わった。 佳苗は少し迷ってから、もう一度メッセージを打った。『来週の日曜、午後なら空いてるよ』 送信する。 数秒で既読がついた。 けれど、返事が来たのは少し経ってからだった。『会ってくれるの?』『うん。駅前でお茶しよう』『分かったわ。ありがとう』 それだけだった。 ◇「会うことにしたのか」 夜、佳苗から話を聞いた雄吾が言った。「うん。外でお茶だけ」「そうか」「まだ家に行くのは、ちょっと嫌な
恵が母の家を訪ねてから数日後。 佳苗のもとに、恵からメッセージが届いた。『この前、お母さんのとこ行ってきた』『どうだった?』『普通。元気だったよ』 その一言に、佳苗はほっとした。『よかった』『お姉ちゃんのことは聞かれたけど、私は知らないって言っといた』『ありがとう』『あと、今度お母さんと買い物行くことになった』 佳苗は少し驚いた。『二人で?』『うん。私が服見たいから付き合ってって言った』 そこまで読んで、佳苗はふっと笑った。『楽しんできて』『なんか買わせたりしないから安心して笑』『そこは心配してないよ』 ◇ 週末。 佳苗は雄吾と昼食を取ったあと、家具売り場を歩いていた。「これ、どう?」 雄吾が足を止めたのは、二人掛けの小さなソファだった。「今のよりちょっと小さくない?」「その分、横に棚置ける」「あ、それはいいかも」 佳苗も隣に並んで座ってみる。「……近いね」「二人掛けだからな」「今の方がゆったりしてない?」「俺はこっちでもいい」「雄吾、大きいから狭そう」「佳苗が小さいから問題ない」「それ私の分で帳尻合わせてない?」 佳苗が笑ったところで、スマートフォンが震えた。 画面には母の名前。 一瞬だけ、指が止まる。「出るか?」「……うん」 佳苗は通話ボタンを押した。「もしもし」『佳苗?』「うん」『今、大丈夫?』 母の声はいつも通りだった。「大丈夫だよ」『あのね……恵と買い
その日の夕方、恵は母の家を訪ねた。 インターホンを鳴らすと、少し間があってから扉が開く。「……恵?」「来ちゃ駄目だった?」「そんなことないけど」 母は驚いていたものの、具合が悪そうには見えなかった。「入っていい?」「もちろんよ」 リビングへ入ると、テーブルの上には読みかけの雑誌とマグカップが置かれている。「元気そうじゃん」「何よ、急に」「別に。最近連絡ないから」 母が一瞬、黙った。「私から連絡しないと、あなたも来ないのね」「今日は来たじゃん」「そうだけど」 恵はソファに座った。「お姉ちゃんから聞いたよ」 母の動きが止まる。「……何を?」「お風呂のこと」「佳苗、あなたに話したの?」「うん」「そんなことまで言わなくてもいいのに」「言われたら困るようなこと、しなきゃいいじゃん」「恵まで私を責めるの?」「責めるよ。あれはさすがにおかしいでしょ」 母は唇を結んだ。「お姉ちゃんに心配してほしかったんでしょう?」「……もうその話はしたくないわ」「じゃあ、しなくていいけど」 恵はあっさり引いた。「今日は私が来たかったから来ただけだし」 母が顔を上げる。「私?」「うん」「佳苗に言われたんじゃないの?」「違うよ」「でも、佳苗から聞いたんでしょう?」「聞いたから気にはなった。でも、来るって決めたのは私」 母はしばらく恵を見ていた。「……佳苗は?」「知らない」「何か言ってなかった?」
母と距離を置くと決めてから、十日ほどが過ぎた。 その間、母から連絡はなかった。 佳苗も連絡しなかった。 以前なら、数日もすれば気になっていたかもしれない。 けれど今は、スマートフォンを見るたびに少し身構えてしまう。「まだ連絡ない?」 夕食のあと、雄吾に聞かれて佳苗は頷いた。「うん。恵からも何も聞いてない」「なら、今はそれでいいんじゃないか」「そうだね」 そう答えながらも、佳苗は自分の気持ちが少し複雑なのを感じていた。 母がどうしているのかは気になる。 けれど、自分から連絡を取るのはまだ怖い。 また具合が悪いと言われたら。 今度は、本当なのか。 嘘なのか。 最初にそこを疑ってしまう。 ◇ 翌日の昼休み。 恵からメッセージが届いた。『今度の日曜、暇?』『午後なら空いてるよ』『じゃあお茶しない?』『いいよ』 母の名前は出てこなかった。 佳苗も聞かなかった。 日曜日、駅前のカフェで会った恵は、注文を済ませるなり佳苗の顔を見た。「お姉ちゃん、最近お母さんと連絡取ってない?」「うん」「やっぱり」「お母さん、何か言ってた?」「別に。私にも何も言ってない」 佳苗は少し意外だった。「恵にも?」「うん。この前まではどうでもいいことで連絡してきてたのに、急に静か」「そうなんだ」 恵がストローを指で弄る。「喧嘩した?」 佳苗は迷った。 けれど、隠しておくことでもない。「ちょっとね」「また何か言われた?」「言われたっていうか……」 服を着たままシャワーを浴びていたこと。
「どうして?」 母は信じられないものを見るように佳苗を見た。「私が寂しかったって言ったから?」「違うよ」「じゃあ何よ。もうしないわよ。こんなこと」「うん。でも、今すぐ普通に戻るのは無理」「佳苗」「今日、私が来なかったらどうしてたの?」 母の口が閉じる。「もっと何かしてた?」「そんなこと――」「分からないでしょう?」 佳苗自身にも分からなかった。 だからこそ、怖かった。「お母さんが『具合が悪い』って言っても、これから私は、本当なのか嘘なのか考えちゃうと思う」「もう嘘なんてつかないわよ」「今そう言われても、すぐには信じられない」 母の顔が強張った。「じゃあ、本当に具合が悪くなっても、もう来てくれないの?」「そういう言い方やめて」「だってそういうことでしょう!」「違う!」 佳苗は強く言った。「本当に困ったときは助けるよ。でも、お母さんが具合悪くならないと私が来ないみたいに考えるのは、もうやめてほしい」「だったら、もっと会いに来てくれれば――」「それを決めるために、今は距離を置きたいの」 佳苗は立ち上がった。「今日は帰るね」「待って」 母も立ち上がる。「いつまで?」「分からない」「一週間? 一か月?」「決められないよ」「そんなの困るわよ!」「お母さん」 佳苗は玄関へ向かいかけた足を止めた。「私、怒ってるだけじゃないんだよ」 母を見る。「怖かったの」「……何が?」「お母さんが、服着たままシャワー浴びてるの見たとき」 事故なのかと思った。 倒れたのかもしれないと思った。 何か普通ではないことが起きていると、本気で怖くなった。「私に心配してほしくて、自分で具合悪くなろうとしたんだって分かったら、もっと怖かった」「私は別に――」「大したことじゃないって言わないで」 母の言葉を遮った。「私には大したことだったから」 母は黙り込んだ。「お母さんが元気だから、私は安心して自分の生活をしていられるんだよ」 佳苗はバッグを持った。「元気でいてくれる方がいいに決まってるでしょう」 母は何も答えなかった。 ◇ 家へ帰ると、雄吾がリビングにいた。「遅かったな」「うん」 佳苗の顔を見て、雄吾の表情が変わる。「何かあったか?」 佳苗はバッグを置いた。 何から話せばいいの
「とりあえず着替えて」 佳苗はそれだけ言った。 濡れたまま話を続ける気にはなれなかった。 母が着替えている間に、佳苗は浴室の床を簡単に拭いた。どうしてこんなことをしているのだろうと思うと、頭が混乱する。 やがて母が部屋着に着替えて戻ってきた。「温かいもの飲む?」「……いらない」「じゃあ座って」 二人で向かい合う。 しばらく、どちらも口を開かなかった。「いつから?」 佳苗が尋ねる。「何が?」「具合悪いって嘘ついてたの」「嘘って決めつけないでよ。少し頭が痛い日だってあったし、だるいことだって――」「じゃあ今日のは?」 母が黙った。「服着たままシャワー浴びてたのは、なんで?」「……」「ちゃんと教えて」 長い沈黙のあと、母が俯いた。「本当に具合が悪くなれば、嘘じゃないと思ったのよ」 佳苗は息を呑んだ。「それで私が来ると思ったの?」「だって、あのときは来てくれたじゃない」「当たり前でしょう。お母さん、本当に具合悪かったんだから」「嬉しかったのよ!」 突然、母が声を上げた。「あのとき、何も言わなくても気づいてくれたでしょう? 食べるものを買って、うどんを作って、薬の心配までしてくれて……昔の佳苗みたいだった」「昔の……?」「私のことを必要としてくれてた頃の佳苗よ」「逆でしょう?」 佳苗は思わず言った。「お母さんが私を必要としてたんでしょう?」 母が言葉を失う。「私が必要としてたんじゃない。具合が悪いお母さんが心配だったから、助けに行ったの」「同じじゃない」「同じじゃないよ」
ホテルへ入る佳苗と雄吾。 暗い夜道で撮られたはずなのに、驚くほど鮮明だった。「……どうして」 佳苗の指先が震える。 まるで誰かに見張られていたみたいだった。『ねぇお姉ちゃん』『その人、誰?』『もしかして浮気?』 次々届くメッセージ。 佳苗は顔を青ざめさせた。 浮気。 その言葉に胸が痛む。 裏切っていたのは悟たちの方なのに、なぜ自分が責められなければいけないのだろう。「見せろ」 雄吾が静かにスマホを受け取る。 メッセージ画面を見た瞬間、その目が冷えた。「……なるほど」「先輩」「撮られていたな」 低い声。 感情を押し殺したような響き。「どうしよう……」
「俺は昔から、お前しか欲しくない」 低い声が耳元で響く。 佳苗は息を呑んだ。 車内の空気が熱い。 逃げ場がない。 雄吾の視線は真っ直ぐで、冗談の気配なんて微塵もなかった。「……先輩」 喉が震える。 理解が追いつかない。 昔から? ずっと? そんなはずない。 自分は特別な人間じゃない。 妹みたいに愛嬌があるわけでも、美人なわけでもない。 ただ都合よく利用されるだけの女だった。「信じられないか」 雄吾が静かに言う。 佳苗は答えられなかった。 すると雄吾は小さく息を吐き、身体を離す。「まあいい」「え……」「今すぐ答えを求める気はない」 その言葉に、佳苗は
もう二度と、お前をあいつらのところへ戻したりしない。 その言葉が、佳苗の胸に重く落ちる。「……どうして」 気づけば口にしていた。 雄吾が視線を向ける。「どうして、そこまでしてくれるんですか」 本当に分からなかった。 大学時代、少し関わりがあっただけ。 卒業後は一度も会っていない。 それなのに、この男は突然現れて、自分を助けると言う。 しかも、まるで最初から全部知っていたみたいに。「昔世話になった」 雄吾は短く答えた。「レポート、覚えてるか」 佳苗は目を瞬く。 大学二年の頃。 雄吾が長期入院していた時期があった。 単位が危ないと聞いて、佳苗は講義ノートをまと
「やっと捕まえた」 耳元で囁かれた低い声に、佳苗の心臓が大きく跳ねた。 捕まえた。 その言葉は、優しいのにどこか危険だった。「榊原、先輩……?」 佳苗が戸惑う中、雄吾は佳苗の手首を掴んだまま、ゆっくり顔を上げる。 その視線の先には、こちらへ歩いてくる悟がいた。「佳苗!」 苛立った声。 悟は佳苗を見るなり、露骨に顔をしかめた。「何やってんだよ」 だが次の瞬間、雄吾の姿に気づき、動きが止まる。「……誰?」 警戒した声音。 雄吾は答えない。 ただ静かに佳苗の前へ立った。 庇うように。 その背中の広さに、佳苗は息を呑む。「佳苗、こっち来い」 悟が手を伸ばす。