Masuk母から「会いたい」と言われてから、一週間が過ぎた。
その間、催促の連絡はなかった。
佳苗は何度か母とのやり取りを開いたが、自分から連絡することもなかった。
まだ会いたいとは思えない。
けれど、以前のように母の名前を見るだけで身構えることはなくなっていた。
◇
土曜日の昼過ぎ。
恵から写真が送られてきた。
テーブルの上に、ケーキが二つ並んでいる。
『またお母さんとお茶してる』
『仲良しじゃん』
『別に。暇だっただけ』
『はいはい』
すぐに返信が来る。
『お母さん、お姉ちゃんの話しなくなったよ』
佳苗は指を止めた。
『そうなの?』
『今日はまだ一回もしてない』
『それを数えてる恵もどうなの』
『私も気になってんの!』
思わず笑ってしまう。
その日の夕方、今度は母
母から「会いたい」と言われてから、一週間が過ぎた。 その間、催促の連絡はなかった。 佳苗は何度か母とのやり取りを開いたが、自分から連絡することもなかった。 まだ会いたいとは思えない。 けれど、以前のように母の名前を見るだけで身構えることはなくなっていた。 ◇ 土曜日の昼過ぎ。 恵から写真が送られてきた。 テーブルの上に、ケーキが二つ並んでいる。『またお母さんとお茶してる』『仲良しじゃん』『別に。暇だっただけ』『はいはい』 すぐに返信が来る。『お母さん、お姉ちゃんの話しなくなったよ』 佳苗は指を止めた。『そうなの?』『今日はまだ一回もしてない』『それを数えてる恵もどうなの』『私も気になってんの!』 思わず笑ってしまう。 その日の夕方、今度は母からメッセージが届いた。『今日、恵とケーキを食べました』 写真はない。 佳苗に何かを求める言葉もなかった。『写真見たよ。おいしそうだった』『恵が送ったの?』『うん』『そう。楽しかったわ』『よかったね』 それで会話は終わった。 佳苗は少し迷ってから、もう一度メッセージを打った。『来週の日曜、午後なら空いてるよ』 送信する。 数秒で既読がついた。 けれど、返事が来たのは少し経ってからだった。『会ってくれるの?』『うん。駅前でお茶しよう』『分かったわ。ありがとう』 それだけだった。 ◇「会うことにしたのか」 夜、佳苗から話を聞いた雄吾が言った。「うん。外でお茶だけ」「そうか」「まだ家に行くのは、ちょっと嫌な
恵が母の家を訪ねてから数日後。 佳苗のもとに、恵からメッセージが届いた。『この前、お母さんのとこ行ってきた』『どうだった?』『普通。元気だったよ』 その一言に、佳苗はほっとした。『よかった』『お姉ちゃんのことは聞かれたけど、私は知らないって言っといた』『ありがとう』『あと、今度お母さんと買い物行くことになった』 佳苗は少し驚いた。『二人で?』『うん。私が服見たいから付き合ってって言った』 そこまで読んで、佳苗はふっと笑った。『楽しんできて』『なんか買わせたりしないから安心して笑』『そこは心配してないよ』 ◇ 週末。 佳苗は雄吾と昼食を取ったあと、家具売り場を歩いていた。「これ、どう?」 雄吾が足を止めたのは、二人掛けの小さなソファだった。「今のよりちょっと小さくない?」「その分、横に棚置ける」「あ、それはいいかも」 佳苗も隣に並んで座ってみる。「……近いね」「二人掛けだからな」「今の方がゆったりしてない?」「俺はこっちでもいい」「雄吾、大きいから狭そう」「佳苗が小さいから問題ない」「それ私の分で帳尻合わせてない?」 佳苗が笑ったところで、スマートフォンが震えた。 画面には母の名前。 一瞬だけ、指が止まる。「出るか?」「……うん」 佳苗は通話ボタンを押した。「もしもし」『佳苗?』「うん」『今、大丈夫?』 母の声はいつも通りだった。「大丈夫だよ」『あのね……恵と買い
その日の夕方、恵は母の家を訪ねた。 インターホンを鳴らすと、少し間があってから扉が開く。「……恵?」「来ちゃ駄目だった?」「そんなことないけど」 母は驚いていたものの、具合が悪そうには見えなかった。「入っていい?」「もちろんよ」 リビングへ入ると、テーブルの上には読みかけの雑誌とマグカップが置かれている。「元気そうじゃん」「何よ、急に」「別に。最近連絡ないから」 母が一瞬、黙った。「私から連絡しないと、あなたも来ないのね」「今日は来たじゃん」「そうだけど」 恵はソファに座った。「お姉ちゃんから聞いたよ」 母の動きが止まる。「……何を?」「お風呂のこと」「佳苗、あなたに話したの?」「うん」「そんなことまで言わなくてもいいのに」「言われたら困るようなこと、しなきゃいいじゃん」「恵まで私を責めるの?」「責めるよ。あれはさすがにおかしいでしょ」 母は唇を結んだ。「お姉ちゃんに心配してほしかったんでしょう?」「……もうその話はしたくないわ」「じゃあ、しなくていいけど」 恵はあっさり引いた。「今日は私が来たかったから来ただけだし」 母が顔を上げる。「私?」「うん」「佳苗に言われたんじゃないの?」「違うよ」「でも、佳苗から聞いたんでしょう?」「聞いたから気にはなった。でも、来るって決めたのは私」 母はしばらく恵を見ていた。「……佳苗は?」「知らない」「何か言ってなかった?」
母と距離を置くと決めてから、十日ほどが過ぎた。 その間、母から連絡はなかった。 佳苗も連絡しなかった。 以前なら、数日もすれば気になっていたかもしれない。 けれど今は、スマートフォンを見るたびに少し身構えてしまう。「まだ連絡ない?」 夕食のあと、雄吾に聞かれて佳苗は頷いた。「うん。恵からも何も聞いてない」「なら、今はそれでいいんじゃないか」「そうだね」 そう答えながらも、佳苗は自分の気持ちが少し複雑なのを感じていた。 母がどうしているのかは気になる。 けれど、自分から連絡を取るのはまだ怖い。 また具合が悪いと言われたら。 今度は、本当なのか。 嘘なのか。 最初にそこを疑ってしまう。 ◇ 翌日の昼休み。 恵からメッセージが届いた。『今度の日曜、暇?』『午後なら空いてるよ』『じゃあお茶しない?』『いいよ』 母の名前は出てこなかった。 佳苗も聞かなかった。 日曜日、駅前のカフェで会った恵は、注文を済ませるなり佳苗の顔を見た。「お姉ちゃん、最近お母さんと連絡取ってない?」「うん」「やっぱり」「お母さん、何か言ってた?」「別に。私にも何も言ってない」 佳苗は少し意外だった。「恵にも?」「うん。この前まではどうでもいいことで連絡してきてたのに、急に静か」「そうなんだ」 恵がストローを指で弄る。「喧嘩した?」 佳苗は迷った。 けれど、隠しておくことでもない。「ちょっとね」「また何か言われた?」「言われたっていうか……」 服を着たままシャワーを浴びていたこと。
「どうして?」 母は信じられないものを見るように佳苗を見た。「私が寂しかったって言ったから?」「違うよ」「じゃあ何よ。もうしないわよ。こんなこと」「うん。でも、今すぐ普通に戻るのは無理」「佳苗」「今日、私が来なかったらどうしてたの?」 母の口が閉じる。「もっと何かしてた?」「そんなこと――」「分からないでしょう?」 佳苗自身にも分からなかった。 だからこそ、怖かった。「お母さんが『具合が悪い』って言っても、これから私は、本当なのか嘘なのか考えちゃうと思う」「もう嘘なんてつかないわよ」「今そう言われても、すぐには信じられない」 母の顔が強張った。「じゃあ、本当に具合が悪くなっても、もう来てくれないの?」「そういう言い方やめて」「だってそういうことでしょう!」「違う!」 佳苗は強く言った。「本当に困ったときは助けるよ。でも、お母さんが具合悪くならないと私が来ないみたいに考えるのは、もうやめてほしい」「だったら、もっと会いに来てくれれば――」「それを決めるために、今は距離を置きたいの」 佳苗は立ち上がった。「今日は帰るね」「待って」 母も立ち上がる。「いつまで?」「分からない」「一週間? 一か月?」「決められないよ」「そんなの困るわよ!」「お母さん」 佳苗は玄関へ向かいかけた足を止めた。「私、怒ってるだけじゃないんだよ」 母を見る。「怖かったの」「……何が?」「お母さんが、服着たままシャワー浴びてるの見たとき」 事故なのかと思った。 倒れたのかもしれないと思った。 何か普通ではないことが起きていると、本気で怖くなった。「私に心配してほしくて、自分で具合悪くなろうとしたんだって分かったら、もっと怖かった」「私は別に――」「大したことじゃないって言わないで」 母の言葉を遮った。「私には大したことだったから」 母は黙り込んだ。「お母さんが元気だから、私は安心して自分の生活をしていられるんだよ」 佳苗はバッグを持った。「元気でいてくれる方がいいに決まってるでしょう」 母は何も答えなかった。 ◇ 家へ帰ると、雄吾がリビングにいた。「遅かったな」「うん」 佳苗の顔を見て、雄吾の表情が変わる。「何かあったか?」 佳苗はバッグを置いた。 何から話せばいいの
「とりあえず着替えて」 佳苗はそれだけ言った。 濡れたまま話を続ける気にはなれなかった。 母が着替えている間に、佳苗は浴室の床を簡単に拭いた。どうしてこんなことをしているのだろうと思うと、頭が混乱する。 やがて母が部屋着に着替えて戻ってきた。「温かいもの飲む?」「……いらない」「じゃあ座って」 二人で向かい合う。 しばらく、どちらも口を開かなかった。「いつから?」 佳苗が尋ねる。「何が?」「具合悪いって嘘ついてたの」「嘘って決めつけないでよ。少し頭が痛い日だってあったし、だるいことだって――」「じゃあ今日のは?」 母が黙った。「服着たままシャワー浴びてたのは、なんで?」「……」「ちゃんと教えて」 長い沈黙のあと、母が俯いた。「本当に具合が悪くなれば、嘘じゃないと思ったのよ」 佳苗は息を呑んだ。「それで私が来ると思ったの?」「だって、あのときは来てくれたじゃない」「当たり前でしょう。お母さん、本当に具合悪かったんだから」「嬉しかったのよ!」 突然、母が声を上げた。「あのとき、何も言わなくても気づいてくれたでしょう? 食べるものを買って、うどんを作って、薬の心配までしてくれて……昔の佳苗みたいだった」「昔の……?」「私のことを必要としてくれてた頃の佳苗よ」「逆でしょう?」 佳苗は思わず言った。「お母さんが私を必要としてたんでしょう?」 母が言葉を失う。「私が必要としてたんじゃない。具合が悪いお母さんが心配だったから、助けに行ったの」「同じじゃない」「同じじゃないよ」
恵が帰ったあとも、佳苗はしばらく動けなかった。 心臓が嫌なほど脈打っている。 あの目。 一瞬だけ見せた、冷たい視線。 前世では最後まで気づかなかった。 恵はずっと、自分から奪うことを楽しんでいたのだ。「……っ」 佳苗は唇を噛み締める。 怖い。 けれど、それ以上に悔しかった。 どうして自分は、あんな人たちのために命まで懸けてしまったのだろう。 テーブルの上に置かれた結婚写真が目に入る。 幸せそうに笑う自分。 悟の腕に寄り添って、未来を信じ切っていた頃の自分。 ――滑稽。 佳苗は震える手で写真立てを伏せた。 もう戻れない。 戻りたくもない。 今度こそ終わらせ
「……今、泣いてるのか?」 低く静かな声が耳に落ちる。 その一言だけで、張り詰めていた感情が崩れそうになった。 佳苗は慌てて口元を押さえた。「な、泣いてません」『嘘が下手だな、お前は昔から』 昔から。 その言葉に、大学時代の記憶が蘇る。 榊原雄吾。 成績優秀、容姿端麗、誰にも媚びない孤高の男。 学生の頃から有名だった。 近寄りがたい人だったのに、なぜか佳苗にはよく話しかけてきた。『また他人の仕事押し付けられてるのか』『断れないのか、お前は』 呆れたように言いながら、結局いつも助けてくれた。 けれど卒業後は一度も会っていない。 それなのに、どうして今。「どうし
「佳苗? 本当にどうしたんだよ」 怪訝そうな顔で、悟がこちらを見る。 その優しげな声に、佳苗は思わず身を強張らせた。 前世でも、この男はこんな顔をしていた。 穏やかで、頼れて、優しくて。 だから信じてしまったのだ。 まさか裏で妹と不倫し、自分を“代理母”として利用していたなんて、夢にも思わなかった。「顔色悪いぞ。熱でもある?」 悟が立ち上がり、額に触れようと手を伸ばしてくる。「っ……!」 佳苗は反射的にその手を振り払った。 ぱしん、と乾いた音が響く。 悟が目を見開いた。「……佳苗?」 しまった、と思った。 前世の記憶が蘇ったとはいえ、今の悟はまだ“何も知らない夫
「……っ、はぁ……ぁっ……!」 全身を引き裂かれるような痛みに、藤倉佳苗は汗で濡れたシーツを握り締めた。 眩しい手術灯。鼻を刺す消毒液の匂い。何度も響く機械音。 苦しい。 息ができない。「もう少しです! 頑張ってください!」 医師の声が遠い。 お腹の奥が裂けるように熱い。 それでも佳苗は必死に意識を繋いだ。(赤ちゃん……) やっと会える。 悟との子供。 愛する夫との、大切な命。 その一心だけで耐えていた。 けれど次の瞬間、医師たちの声色が変わった。「血圧低下!」「出血が止まりません!」「急げ!」 視界がぐらりと揺れる。 寒い。 急激に体温が奪われていく。







