LOGIN打ち合わせ当日。 佳苗は朝から少し緊張していた。 資料は何度も確認したし、話す順番も考えてある。それでも、自分が中心になって進めるのは初めてだ。「大丈夫。ちゃんと準備したんだから」 小さく呟いて、会議室へ向かう。 高瀬は予定どおり遅れることになり、佳苗が進行を任された。 最初こそ声が硬くなったものの、話し始めてしまえば意外と落ち着いていた。 質問にも答えられたし、その場で決められないことは無理に結論を出さず、確認事項として残した。 気づけば、予定していた時間が過ぎていた。「榊原さん、ありがとうございました」 参加者に声をかけられ、佳苗はほっと息を吐いた。「こちらこそ、ありがとうございました」 会議室を出ると、ちょうど高瀬が戻ってきたところだった。「どうでした?」「無事に終わりました。確認が必要なことはまとめてあります」「それなら十分です。お疲れさまでした」 その一言が嬉しかった。 誰かに頼りきりにならず、自分で仕事を進められた。 少しだけ、自信がついた気がする。 ◇ 帰宅すると、佳苗は玄関から雄吾を呼んだ。「ただいま!」「おかえり」「雄吾、聞いて!」 リビングへ入ると、雄吾が笑った。「うまくいったんだな」「なんで分かるの?」「その顔で失敗したとは思えないだろ」「そうなの! ちゃんとできた!」 佳苗は嬉しくなって、雄吾の前に立った。「最初は緊張したけど、途中から落ち着いて話せたし、質問にも答えられたの」「よかったな」「うん!」 雄吾は佳苗の頭を軽く撫でた。「よく頑張った」 その言葉を聞いた瞬間、佳苗の胸が温かくなった。「……もっと褒めて」「何だ
夕食のあと、佳苗は雄吾と並んでソファに座っていた。「それで、今日は雄吾の話を聞かせてくれるんでしょう?」「ああ。何が聞きたい?」「そうだなあ……会社ではどんな感じなの?」「どんな感じって?」「部下の人と話したり、会議したりするとき。家にいる雄吾とは違うのかなって」 雄吾は少し考えた。「そんなに変わらないと思うが」「本当?」「何を期待してるんだ」「だって、社長なんでしょう? 会社ではもっと怖かったりするのかなって」「必要なら厳しいことも言う」「例えば?」「結果が出てなければ理由を聞くし、判断を間違えたら責任も取らせる」「……やっぱり怖そう」「怒鳴ったりはしないぞ」「それは分かるけど」 佳苗は雄吾の顔を眺めた。 この人が大勢の社員の前で話しているところを、佳苗はほとんど見たことがない。 自分に向ける顔とは、きっと違うのだろう。「ちょっと見てみたいな」「俺が仕事してるところを?」「うん」「前に会社へ来たことはあるだろ」「でも、普通に仕事してるところじゃなかったし」 雄吾は少し笑った。「見ても面白くないと思うぞ」「そんなことないよ。私の知らない雄吾を見てみたい」 そう言うと、雄吾は佳苗をじっと見つめた。「……何?」「いや。お前もそう思うんだな」「どういうこと?」「俺がお前の仕事のことを知りたいのと、同じかと思って」 佳苗は目を瞬いた。 なるほど、と納得する。 雄吾が高瀬に嫉妬するのは、単にほかの男だからというだけではないのかもしれない。 自分の知らない佳苗を、毎日見ている人がいる。 そのことが面白くないのだ。「じゃあ、今度会社で会議してるところ見せてよ」「それは無理だろ」「冗談だよ」 佳苗が笑うと、雄吾も笑った。 ◇ 数日後。 佳苗は新しい担当の仕事にも、少しずつ慣れ始めていた。 まだ分からないことは多いが、以前ほど緊張せずに意見を言えるようになっている。 その日の帰り際、高瀬から声をかけられた。「榊原さん、来週の打ち合わせ、私が少し遅れるかもしれません」「そうなんですか?」「ええ。先に始めていただいても大丈夫ですか?」 佳苗は一瞬迷った。 これまでは、高瀬が中心になって進めていた。 自分だけで大丈夫だろうか。「……分かりました。やってみます」「お願いしま
翌日、高瀬から新しい担当について説明を受けた佳苗は、少し驚いていた。 これまでの事務処理に加えて、部署をまたいだ業務の調整にも関わってほしいという。「私が、ですか?」「ええ。榊原さんは問題を見つけるだけでなく、どうすれば改善できるかまで考えてくれますから」 高瀬は穏やかに答えた。「もちろん、いきなり全部任せるつもりはありません。最初は私も一緒に進めます」「ありがとうございます」 佳苗は頭を下げた。 これまで、言われた仕事をきちんとこなすことが自分の役割だと思っていた。 それが今は、仕事の進め方そのものを考える立場になろうとしている。 嬉しい反面、本当に自分に務まるのかという不安もあった。「何か心配なことはありますか?」「少しだけ、自信がなくて」「最初から完璧にできる人はいませんよ。分からないことは聞いてください」 高瀬はそう言って、今後の予定を簡単に説明した。 佳苗は話を聞きながら、少しずつ気持ちが落ち着いていくのを感じた。 ◇ 昼休み、佳苗はスマートフォンを取り出した。 雄吾に報告したい。 けれど、仕事中にわざわざ連絡するほどのことだろうか。 少し迷ってから、短いメッセージを送る。『新しい仕事の説明を聞いたよ。思ったより責任のある仕事だった!』 返信は十分ほどして届いた。『よかったな。帰ったら聞かせてくれ』 それだけの短い文章なのに、佳苗は嬉しくなった。 さらにもう一通。『今日は早く帰れそうか?』『いつもどおりだと思うよ』『分かった。待ってる』 佳苗は思わず笑った。 最近の雄吾は、以前よりずっと素直だ。 会いたいとか、一緒にいたいとか。 そういう気持ちを、隠さなくなった。 ◇ 帰宅すると、雄吾はキッチンで飲
その日の夜、佳苗は帰宅するなり雄吾を探した。「ただいま!」「おかえり。随分機嫌がいいな」 リビングにいた雄吾が顔を上げる。「分かる?」「顔を見ればな」「今日ね、すごく嬉しいことがあったの」 佳苗はバッグを置くと、雄吾の隣へ座った。「来月から、新しい仕事を任せてもらえることになりそうなの!」「そうか。よかったな」「うん! 今までの仕事もちゃんと評価してもらえてるみたいで」「何を任されるんだ?」「まだ詳しくは聞いてないけど、ほかの部署とも関わる仕事になるみたい。今の担当を少し減らして、そっちを任せてもらえるんだって」「それなら、単に仕事が増えるわけじゃないんだな」「そうなの。そこもちゃんと考えてくれてて」 佳苗は嬉しくて、つい身を乗り出した。「高瀬課長が、私の仕事ぶりを見て決めたって言ってくれたの」 雄吾の表情が、ほんのわずかに変わった。「あ」 佳苗は思わず口を押さえた。「また名前出しちゃった」「別に禁止してないだろ」「でも、嫌なんでしょう?」「気に入らないだけだ」「同じじゃない?」「違う」 いつものやり取りに、佳苗は笑ってしまった。 雄吾は呆れたように息を吐いたが、すぐに佳苗の頭を撫でた。「それだけ嬉しいなら、いい仕事なんだろうな」「うん。頑張りたい」「頑張れ」 短い言葉だった。 けれど、雄吾が本当に喜んでくれていることは分かった。 ◇ 夕食を終えたあと、佳苗はソファで新しい仕事のことを考えていた。 詳しい説明は明日だ。 どんなことを任されるのだろう。 期待もあるが、少し不安もある。「佳苗」「ん?」「何考えてる?」「明日のこと」「仕事か」「うん」 雄吾が隣へ座る。「そんなに楽しみか?」「楽しみ。でも、ちゃんとできるかなって」「できると思われたから任されるんだろ」「そうだけど」「今までやってきたことがあるんだから、自信持て」 佳苗は雄吾を見た。「……ありがとう」「ああ」 そこで雄吾が、ふと思い出したように言った。「ところで、来月から帰りは遅くなるのか?」「え?」「担当が変わるなら、しばらく忙しいだろ」「どうかな。まだ分からない」「そうか」 雄吾は少し考え込んだ。「……またデートの予定を先に押さえとくか」「えっ?」「忙しくなってからじゃ、
温泉旅行から帰った日曜日の夜。 佳苗は荷物を片づけながら、寝室の扉を見つめていた。 旅行先では、今夜も一緒に寝ようと約束した。 けれど、帰宅していつもの部屋に戻ると、急にその約束が気恥ずかしくなってくる。 これまでは、それぞれの寝室で眠るのが当たり前だった。 結婚してからも変わらなかった習慣を、今夜から少し変えることになる。「佳苗」 振り返ると、雄吾が廊下に立っていた。「荷物、片づいたか?」「うん。もう少し」「そうか」 雄吾は佳苗の部屋を覗き、それから尋ねた。「今夜、どっちで寝る?」「……どっち?」「俺の部屋か、お前の部屋か」 佳苗は思わず笑ってしまった。「そんなこと考えてたの?」「一緒に寝るって言っただろ」「言ったけど」「嫌になったなら別にいいぞ」「嫌じゃないよ」 佳苗は少し考えてから答えた。「じゃあ、雄吾の部屋に行こうかな」「分かった」 雄吾はそれだけ言って、廊下を戻っていった。 あまりにもあっさりしている。 けれど、少ししてから佳苗が寝室を覗くと、雄吾はベッドの片側に置いていた本やクッションを片づけていた。「……準備してる」「寝る場所が必要だろ」「そうだけど」「何だ?」「嬉しそうだなって」 雄吾は手を止めた。「嬉しいに決まってるだろ」 また、当たり前のように言われた。 佳苗は照れくさくなって、自分の枕を取りに戻った。 ◇ 翌朝。 佳苗が目を覚ますと、隣にはもう誰もいなかった。 枕元の時計を見ると、いつもより少し遅い時間だ。 慌てて起き上がり、リビングへ向かう。
目を覚ました佳苗は、いつもと違う天井を見つめていた。 障子越しに柔らかな朝の光が差し込み、遠くから鳥の声が聞こえる。 そうだ。温泉旅行に来ていたのだった。 寝返りを打とうとして、腰に回された腕に気づいた。「……雄吾?」 隣を見ると、雄吾はまだ眠っていた。 普段は佳苗より早く起きていることが多いから、こうして寝顔を見る機会はほとんどない。 佳苗はしばらく、その顔を眺めていた。 いつもは何でも分かっているような顔をしているのに、眠っていると少し無防備に見える。 そっと頬に触れようとしたところで、雄吾が目を開けた。「……何してる」「起きてたの?」「今起きた」「おはよう」「ああ。おはよう」 雄吾は佳苗を抱き寄せると、もう一度目を閉じた。「ちょっと、起きないの?」「まだ早い」「何時?」「知らん」「雄吾がそんなこと言うなんて珍しい」 佳苗が笑うと、雄吾は薄く目を開けた。「休みの日くらいいいだろ」「それはそうだけど」「もう少しこのままでいろ」 そう言われて、佳苗は素直に雄吾の胸へ頬を寄せた。 昨日の夜は、あんなに緊張していたのに。 朝になってみれば、同じベッドで眠ったことが不思議なくらい自然に感じられた。「ねえ、雄吾」「何だ?」「家でも、たまには一緒に寝る?」 言ってから、少しだけ恥ずかしくなった。 雄吾が目を開ける。「いいのか?」「嫌だったら言わないよ」「そうか」 その声が妙に嬉しそうで、佳苗は顔を上げた。「……そんなに嬉しい?」「ああ」 迷いのない返事だった。「ずっと別々だったからな」「そうだね」「俺から言って、お前に気を遣わせるのも違うと思ってた」 佳苗は少し考えた。 雄吾はいつも、佳苗の気持ちを優先してくれる。 それがありがたいと思う一方で、遠慮ばかりさせているのかもしれない。「これからは、雄吾も言ってね」「何を?」「こうしたいとか、一緒にいたいとか」 雄吾が佳苗を見つめる。「言ったら聞いてくれるのか?」「できることなら」「じゃあ、今夜も一緒に寝たい」「……早速?」「お前が言えって言ったんだろ」 佳苗は吹き出した。「分かった。今夜もね」「ああ」 雄吾は満足そうに笑うと、佳苗の額に口づけた。 ◇ 朝食を終え、チェックアウトまでの時間を使って、二
ホテルへ入る佳苗と雄吾。 暗い夜道で撮られたはずなのに、驚くほど鮮明だった。「……どうして」 佳苗の指先が震える。 まるで誰かに見張られていたみたいだった。『ねぇお姉ちゃん』『その人、誰?』『もしかして浮気?』 次々届くメッセージ。 佳苗は顔を青ざめさせた。 浮気。 その言葉に胸が痛む。 裏切っていたのは悟たちの方なのに、なぜ自分が責められなければいけないのだろう。「見せろ」 雄吾が静かにスマホを受け取る。 メッセージ画面を見た瞬間、その目が冷えた。「……なるほど」「先輩」「撮られていたな」 低い声。 感情を押し殺したような響き。「どうしよう……」
「俺は昔から、お前しか欲しくない」 低い声が耳元で響く。 佳苗は息を呑んだ。 車内の空気が熱い。 逃げ場がない。 雄吾の視線は真っ直ぐで、冗談の気配なんて微塵もなかった。「……先輩」 喉が震える。 理解が追いつかない。 昔から? ずっと? そんなはずない。 自分は特別な人間じゃない。 妹みたいに愛嬌があるわけでも、美人なわけでもない。 ただ都合よく利用されるだけの女だった。「信じられないか」 雄吾が静かに言う。 佳苗は答えられなかった。 すると雄吾は小さく息を吐き、身体を離す。「まあいい」「え……」「今すぐ答えを求める気はない」 その言葉に、佳苗は
「佳苗? 本当にどうしたんだよ」 怪訝そうな顔で、悟がこちらを見る。 その優しげな声に、佳苗は思わず身を強張らせた。 前世でも、この男はこんな顔をしていた。 穏やかで、頼れて、優しくて。 だから信じてしまったのだ。 まさか裏で妹と不倫し、自分を“代理母”として利用していたなんて、夢にも思わなかった。「顔色悪いぞ。熱でもある?」 悟が立ち上がり、額に触れようと手を伸ばしてくる。「っ……!」 佳苗は反射的にその手を振り払った。 ぱしん、と乾いた音が響く。 悟が目を見開いた。「……佳苗?」 しまった、と思った。 前世の記憶が蘇ったとはいえ、今の悟はまだ“何も知らない夫
「……っ、はぁ……ぁっ……!」 全身を引き裂かれるような痛みに、藤倉佳苗は汗で濡れたシーツを握り締めた。 眩しい手術灯。鼻を刺す消毒液の匂い。何度も響く機械音。 苦しい。 息ができない。「もう少しです! 頑張ってください!」 医師の声が遠い。 お腹の奥が裂けるように熱い。 それでも佳苗は必死に意識を繋いだ。(赤ちゃん……) やっと会える。 悟との子供。 愛する夫との、大切な命。 その一心だけで耐えていた。 けれど次の瞬間、医師たちの声色が変わった。「血圧低下!」「出血が止まりません!」「急げ!」 視界がぐらりと揺れる。 寒い。 急激に体温が奪われていく。







