LOGIN温泉旅行から帰った日曜日の夜。
佳苗は荷物を片づけながら、寝室の扉を見つめていた。
旅行先では、今夜も一緒に寝ようと約束した。
けれど、帰宅していつもの部屋に戻ると、急にその約束が気恥ずかしくなってくる。
これまでは、それぞれの寝室で眠るのが当たり前だった。
結婚してからも変わらなかった習慣を、今夜から少し変えることになる。
「佳苗」
振り返ると、雄吾が廊下に立っていた。
「荷物、片づいたか?」
「うん。もう少し」
「そうか」
雄吾は佳苗の部屋を覗き、それから尋ねた。
「今夜、どっちで寝る?」
「……どっち?」
「俺の部屋か、お前の部屋か」
佳苗は思わず笑ってしまった。
「そんなこと考えてたの?」
「一緒に寝るって言っただろ」
「言ったけど」
「嫌になったなら別にいいぞ」<
温泉旅行から帰った日曜日の夜。 佳苗は荷物を片づけながら、寝室の扉を見つめていた。 旅行先では、今夜も一緒に寝ようと約束した。 けれど、帰宅していつもの部屋に戻ると、急にその約束が気恥ずかしくなってくる。 これまでは、それぞれの寝室で眠るのが当たり前だった。 結婚してからも変わらなかった習慣を、今夜から少し変えることになる。「佳苗」 振り返ると、雄吾が廊下に立っていた。「荷物、片づいたか?」「うん。もう少し」「そうか」 雄吾は佳苗の部屋を覗き、それから尋ねた。「今夜、どっちで寝る?」「……どっち?」「俺の部屋か、お前の部屋か」 佳苗は思わず笑ってしまった。「そんなこと考えてたの?」「一緒に寝るって言っただろ」「言ったけど」「嫌になったなら別にいいぞ」「嫌じゃないよ」 佳苗は少し考えてから答えた。「じゃあ、雄吾の部屋に行こうかな」「分かった」 雄吾はそれだけ言って、廊下を戻っていった。 あまりにもあっさりしている。 けれど、少ししてから佳苗が寝室を覗くと、雄吾はベッドの片側に置いていた本やクッションを片づけていた。「……準備してる」「寝る場所が必要だろ」「そうだけど」「何だ?」「嬉しそうだなって」 雄吾は手を止めた。「嬉しいに決まってるだろ」 また、当たり前のように言われた。 佳苗は照れくさくなって、自分の枕を取りに戻った。 ◇ 翌朝。 佳苗が目を覚ますと、隣にはもう誰もいなかった。 枕元の時計を見ると、いつもより少し遅い時間だ。 慌てて起き上がり、リビングへ向かう。
目を覚ました佳苗は、いつもと違う天井を見つめていた。 障子越しに柔らかな朝の光が差し込み、遠くから鳥の声が聞こえる。 そうだ。温泉旅行に来ていたのだった。 寝返りを打とうとして、腰に回された腕に気づいた。「……雄吾?」 隣を見ると、雄吾はまだ眠っていた。 普段は佳苗より早く起きていることが多いから、こうして寝顔を見る機会はほとんどない。 佳苗はしばらく、その顔を眺めていた。 いつもは何でも分かっているような顔をしているのに、眠っていると少し無防備に見える。 そっと頬に触れようとしたところで、雄吾が目を開けた。「……何してる」「起きてたの?」「今起きた」「おはよう」「ああ。おはよう」 雄吾は佳苗を抱き寄せると、もう一度目を閉じた。「ちょっと、起きないの?」「まだ早い」「何時?」「知らん」「雄吾がそんなこと言うなんて珍しい」 佳苗が笑うと、雄吾は薄く目を開けた。「休みの日くらいいいだろ」「それはそうだけど」「もう少しこのままでいろ」 そう言われて、佳苗は素直に雄吾の胸へ頬を寄せた。 昨日の夜は、あんなに緊張していたのに。 朝になってみれば、同じベッドで眠ったことが不思議なくらい自然に感じられた。「ねえ、雄吾」「何だ?」「家でも、たまには一緒に寝る?」 言ってから、少しだけ恥ずかしくなった。 雄吾が目を開ける。「いいのか?」「嫌だったら言わないよ」「そうか」 その声が妙に嬉しそうで、佳苗は顔を上げた。「……そんなに嬉しい?」「ああ」 迷いのない返事だった。「ずっと別々だったからな」「そうだね」「俺から言って、お前に気を遣わせるのも違うと思ってた」 佳苗は少し考えた。 雄吾はいつも、佳苗の気持ちを優先してくれる。 それがありがたいと思う一方で、遠慮ばかりさせているのかもしれない。「これからは、雄吾も言ってね」「何を?」「こうしたいとか、一緒にいたいとか」 雄吾が佳苗を見つめる。「言ったら聞いてくれるのか?」「できることなら」「じゃあ、今夜も一緒に寝たい」「……早速?」「お前が言えって言ったんだろ」 佳苗は吹き出した。「分かった。今夜もね」「ああ」 雄吾は満足そうに笑うと、佳苗の額に口づけた。 ◇ 朝食を終え、チェックアウトまでの時間を使って、二
露天風呂から上がった佳苗は、用意されていた浴衣に着替え、鏡の前で髪を整えていた。 普段なら、風呂上がりはそのまま自分の部屋へ戻る。 けれど今日は、そうはいかない。 寝室には大きなベッドが一つ。 旅館へ着いたときから分かっていたことなのに、今になって妙に気になってしまう。「佳苗、まだか?」「もう出る!」 返事をしてから、佳苗は小さく息を吐いた。 何をそんなに緊張しているのだろう。 雄吾とはもう夫婦なのに。 部屋へ戻ると、雄吾はソファに座ってテレビを見ていた。「髪、乾かしたか?」「うん」「こっち来いよ」 隣を示され、佳苗は素直に腰を下ろした。 窓の外では、庭の灯りが静かに揺れている。「いい旅館だね」「ああ」「ご飯もおいしかったし、温泉もよかった」「気に入ったなら、また来ればいい」「そんな簡単に言うけど、高いでしょう?」「気に入った場所にまた来るくらい、別にいいだろ」 雄吾らしい答えに、佳苗は笑った。 しばらくテレビを眺めていると、雄吾が肩を抱き寄せてきた。 佳苗は抵抗せず、その胸に頭を預ける。「眠いか?」「まだ眠くない」「そうか」 雄吾の手が、佳苗の髪をゆっくり撫でた。 その心地よさに目を閉じかけたところで、ふと気づく。 こんなふうに甘えているうちに、夜はどんどん更けていく。 やがて寝る時間になれば、二人であのベッドに入るのだ。「……雄吾」「何だ?」「今日、同じベッドだね」「ああ」「気づいてた?」「気づかないわけないだろ」 あまりにも当然の返事に、佳苗は少しむっとした。「なんでそんなに平気なの?」「平気だと
旅館へ戻るころには、外はすっかり暗くなっていた。 部屋に入ると、夕食の準備が整えられている。「すごい」 佳苗は並んだ料理を見て、思わず声を上げた。「温泉まんじゅう食べなきゃよかったかも」「だから言っただろ」「一個だけだもん。これくらい食べられるよ」「無理するなよ」「しないって」 向かい合って食事を始める。 季節の料理を少しずつ味わいながら、他愛のない話をした。 仕事の話はしなかった。 どちらからそう決めたわけでもないのに、今日は自然と別の話ばかりになった。 次はどこへ行きたいとか、帰りに何を買うとか。 そんな話をしているだけで楽しかった。 ◇ 食事が終わり、しばらくして。「先に入っていいよ」 佳苗は露天風呂を指した。「佳苗は?」「あとで入る」「一緒に入らないのか?」「えっ」 あまりにも普通に聞かれて、佳苗は固まった。「……入るの?」「部屋の風呂なんだから、別にいいだろ」「いいけど!」 夫婦なのだから、おかしくはない。 分かっている。 分かっているのだが、雄吾が平然としているせいで、自分ばかり意識しているような気がして悔しい。「嫌なら別でいいぞ」「嫌とは言ってない」「じゃあ入るか?」「……入る」 言ってから、早まったかもしれないと思った。 けれど今さら撤回するのも恥ずかしい。 佳苗は浴衣を持って立ち上がった。 ◇ 湯気の向こうに夜の庭が見える。 肩まで湯に浸かりながら、佳苗はなるべくそちらを見るようにしていた。「佳苗」「何?」「さ
旅行の日は、思ったより早くやってきた。 土曜日の朝、佳苗は小さな旅行バッグを持って玄関へ向かった。「これくらいでいいかな」「一泊だろ。十分だ」「忘れ物しても知らないよ?」「現地で買えばいい」「雄吾はそう言うと思った」 結局、行き先を決めたのは雄吾だった。 都心から車で二時間ほど。山あいにある温泉地だという。「宿は?」「着いてからのお楽しみ」「またそれ?」「部屋に露天風呂があるところ、って希望は聞いた」「じゃあ期待していいんだ」「ああ」 助手席に座りながら、佳苗は笑った。 ◇ 途中で昼食を取り、温泉街へ着いたのは午後三時前だった。 車窓から古い旅館や土産物店が見える。「あとで歩きたい」「いいぞ」「温泉まんじゅうも食べたい」「夕飯食えなくなるぞ」「一個くらい平気」 そんな話をしているうちに、車が一軒の旅館へ入っていく。 派手ではないが、門をくぐった先には手入れされた庭が広がっていた。「ここ?」「ああ」 案内された部屋へ入った佳苗は、思わず足を止めた。 広い和洋室の向こうに、小さな庭と露天風呂が見える。「すごい……」「気に入ったか?」「うん。でも、これ絶対高いでしょう」「また値段を気にしてるのか」「するよ」「俺が泊まりたくて選んだんだからいいだろ」 そう言われてしまえば、それ以上は何も言えない。 佳苗は窓際まで歩き、外を覗いた。「本当に二人だけで入れるんだ」「そのための部屋風呂だろ」「そうだけど」 そこでようやく、自分の言葉の意味に気づいた。 夫婦なのだから、別におかし
水族館から帰った翌日。 佳苗は昼休みにスマートフォンを開き、昨日撮った写真を見返していた。 大きな水槽、ペンギン、色鮮やかな魚。 その中に一枚だけ、雄吾の写真がある。 佳苗が何気なく撮ったもので、雄吾は水槽の前でこちらを見ていた。「榊原さん、楽しそうですね」 声をかけられて顔を上げると、高瀬が近くに立っていた。「あ、お疲れさまです」「昨日どこか行ったんですか?」「夫と水族館に行ってきました」「いいですね。休日らしい」「はい。久しぶりに一日遊びました」 答えながら、佳苗は自然と笑っていた。「じゃあ、午後もよろしくお願いします」「はい」 それだけで高瀬は離れていく。 佳苗は再び画面へ目を落とした。 少し前なら、家に帰ってから雄吾に「高瀬課長に水族館のこと聞かれたよ」と報告していたかもしれない。 けれど、さすがにこれは言わなくてもいいだろう。 別に隠すことでもない。 単に、雄吾をからかうためだけに高瀬の名前を出すのは、そろそろやめようと思った。 ◇ その夜。「雄吾、これ」 夕食のあと、佳苗は昨日買ったペンを指した。 雄吾の胸ポケットに挿さっている。「今日使ったの?」「ああ」「本当に会社に持っていったんだ」「使うって言っただろ」「そうだけど」 佳苗はなんとなく嬉しくなって、そのペンを眺めた。「会社の人に何か言われなかった?」「部下に珍しいって言われた」「何て答えたの?」「妻にもらったって」「……普通に言ったんだ」「隠す理由がないだろ」 雄吾にとっては当たり前らしい。 佳苗は少し照れながら、隣へ座った。「そういえば、次のデートは?」「もう考えてる」「早い!」「お前が楽しみにしてるって言ったからな」「どこ?」「まだ決めてない」「考えてるだけ?」「ああ」 雄吾はスマートフォンを取り出した。「泊まりでもいいか?」「え?」「次の土日。予定は?」 突然話の規模が大きくなった。「ちょっと待って」 佳苗も予定表を確認する。「今のところ何もないけど……旅行するの?」「近場で一泊くらいならいいだろ」「いいけど、急だね」「最近、まともに二人で出かけてなかったからな」 その言葉に、佳苗は少し考えた。 確かに結婚してから、生活そのものはずっと一緒にある。 朝起きて、仕
「……今、泣いてるのか?」 低く静かな声が耳に落ちる。 その一言だけで、張り詰めていた感情が崩れそうになった。 佳苗は慌てて口元を押さえた。「な、泣いてません」『嘘が下手だな、お前は昔から』 昔から。 その言葉に、大学時代の記憶が蘇る。 榊原雄吾。 成績優秀、容姿端麗、誰にも媚びない孤高の男。 学生の頃から有名だった。 近寄りがたい人だったのに、なぜか佳苗にはよく話しかけてきた。『また他人の仕事押し付けられてるのか』『断れないのか、お前は』 呆れたように言いながら、結局いつも助けてくれた。 けれど卒業後は一度も会っていない。 それなのに、どうして今。「どうし
恵が帰ったあとも、佳苗はしばらく動けなかった。 心臓が嫌なほど脈打っている。 あの目。 一瞬だけ見せた、冷たい視線。 前世では最後まで気づかなかった。 恵はずっと、自分から奪うことを楽しんでいたのだ。「……っ」 佳苗は唇を噛み締める。 怖い。 けれど、それ以上に悔しかった。 どうして自分は、あんな人たちのために命まで懸けてしまったのだろう。 テーブルの上に置かれた結婚写真が目に入る。 幸せそうに笑う自分。 悟の腕に寄り添って、未来を信じ切っていた頃の自分。 ――滑稽。 佳苗は震える手で写真立てを伏せた。 もう戻れない。 戻りたくもない。 今度こそ終わらせ
「佳苗? 本当にどうしたんだよ」 怪訝そうな顔で、悟がこちらを見る。 その優しげな声に、佳苗は思わず身を強張らせた。 前世でも、この男はこんな顔をしていた。 穏やかで、頼れて、優しくて。 だから信じてしまったのだ。 まさか裏で妹と不倫し、自分を“代理母”として利用していたなんて、夢にも思わなかった。「顔色悪いぞ。熱でもある?」 悟が立ち上がり、額に触れようと手を伸ばしてくる。「っ……!」 佳苗は反射的にその手を振り払った。 ぱしん、と乾いた音が響く。 悟が目を見開いた。「……佳苗?」 しまった、と思った。 前世の記憶が蘇ったとはいえ、今の悟はまだ“何も知らない夫
「……っ、はぁ……ぁっ……!」 全身を引き裂かれるような痛みに、藤倉佳苗は汗で濡れたシーツを握り締めた。 眩しい手術灯。鼻を刺す消毒液の匂い。何度も響く機械音。 苦しい。 息ができない。「もう少しです! 頑張ってください!」 医師の声が遠い。 お腹の奥が裂けるように熱い。 それでも佳苗は必死に意識を繋いだ。(赤ちゃん……) やっと会える。 悟との子供。 愛する夫との、大切な命。 その一心だけで耐えていた。 けれど次の瞬間、医師たちの声色が変わった。「血圧低下!」「出血が止まりません!」「急げ!」 視界がぐらりと揺れる。 寒い。 急激に体温が奪われていく。







