INICIAR SESIÓN亮太は理解が追い付かないまま、目の前にいる日菜乃を見下ろしていた。子供が欲しくなかっただと?たかがそんな理由で、生まれてくるはずだった小さな命を手にかけたというのか?この世の誰よりも愛らしく、誰よりも優しい存在だった日菜乃。いつも彼を慈愛に満ちた目で見つめ、温かく包み込んだ。政略結婚で憔悴しきっていた亮太にとって、日菜乃の存在は女神のようだった。(今、俺の目の前にいるこの女は……一体誰なんだ?)そんな彼女から出てきたとは思えないほどに、残酷な言葉だった。「私は最初から子供なんて欲しくなかったのよ」「だからと言って……堕ろすだなんて!」子供が欲しい欲しくないは人それぞれなので理解できなくも無いが、だからといって夫に無断で堕胎するというのは到底納得できない。堕ろしたいにしても、父親である亮太に事前に相談しなければならないのではないか。「一人目はまだよかったわ……アクセサリーになるし、世話はシッターに任せちゃえばいいしね」「……アクセサリーだと?」日菜乃がよくSNSをやっていることは、亮太も知っていた。愛する彼女の行動を制限するような真似はしたくなくて特に何も言わなかったが、娘の写真を掲載されることはあまり快く思っていなかった。日菜乃が載せていた朱里は、羽川財閥の社長である亮太の娘。誘拐の心配をしなければならなくなる。彼が苦言を呈すたびに日菜乃は後ろ姿だけだからと、特に重く捉えていなかった。(しかし……娘をアクセサリー扱いしていたとは)そのような目的で載せていたのか、と亮太は絶句した。「朱里がいるおかげで、あなたと離婚することになってもお金には困らないし?そういう意味も込めて、一人は子が欲しかったのよ」日菜乃はもはや、醜い本性を隠すこともなく、亮太の前で堂々と露わにした。今の発言を娘が聞いたらどう思うか。彼女はそのことをまるで考えていないようだ。「……それが、お前の本当の姿なのか?」「本当の姿?私はあの日から何も変わっていないわ。ただあなたがそのことに気付かなかっただけよ」「変わっていない……か。そうだな……」日菜乃の言う通り、彼女は何も変わっていなかった。周囲の人間は彼女の性格が歪んでいることに、とっくに気付いていたのだ。――何も知らずに浮かれていたのは、亮太だけだったのだ。「ねぇ、社長……たしかに社長は私と出会ったときに言った
香織が帰宅した頃、羽川邸では。亮太が日菜乃と、部屋で向き合っていた。つい先日結婚式を挙げたばかりの新婚夫婦とは思えないほどにピリピリした空気。亮太は愛する女に向けるとは思えないような険しい顔で、日菜乃を見つめていた。彼女もまた、そんな彼を冷めた目で見つめ返している。亮太の後ろでは、芹沢が二人を止めようとしていたが、案の定何の役にも立たなかった。先に口を開いたのは亮太だった。「日菜乃……一体どういうことだ?」「亮太?何のこと?」何を言っているのかわからない、と日菜乃はわざとらしく首をかしげた。日菜乃は昔から、都合の悪いことにはすぐにはぐらかして答えない。開き直ったようなその態度に、亮太はもう限界だった。「とぼけるな……――お前、俺に内緒で子供を堕ろしていたのか!?」「……」日菜乃はその言葉を聞いたところで、動じなかった。一方、後ろにいた芹沢は信じられない、というような表情で二人を交互に見つめている。彼は第二子を妊娠したとき、日菜乃がどれだけ喜んでいたかを知っていた。そしてそれは亮太もだった。彼女の第二子妊娠を聞いた亮太は子供たちも含めて一生幸せにすると誓い、彼女はそれを聞いて涙まで流したのだ。そんな彼女が、妊娠した子供を自分から堕ろすだなんてとても信じられなかったのだ。「しゃ、社長……落ち着いてください……何かの間違いでは……」「芹沢、お前は黙っていろ。夫婦間の問題に、秘書ごときが口を挟むな」余程気が立っていたのか、亮太は芹沢にも敵意を露わにした。いくら日菜乃を好いているとはいえ、彼は亮太の秘書。そう言われてしまえば、表立って庇うことなどできなかった。日菜乃はしばらく黙ったあと、冷静に言葉を発した。詰められてもなお、彼女は全く動揺していなかった。「……何を言い出すかと思えば、そんなこと」「認めるのか?」「認めるも何も……既に裏が取れているんでしょう?そうでなければこうやって問い詰めたりしないはずだもの」日菜乃は亮太が確信していることを察していた。その状況で否定したところで、余計に面倒臭くなるだけ。そのことを知っていて、いちいちそんな真似はしない。亮太は否定も肯定もしない日菜乃に、強いショックを受けた。あぁ、嘘でもいいからどうか違うと言ってほしかったのに。彼は続けざまに日菜乃を責めた。「何故だ?何故そんなことをした?妊娠したとき、
仕事終わり、香織は迎えの車の中でスマートフォンをいじっていた。あの一件以降、香織は一人で外を出歩くのは危ないと、どこへ行くにも必ず送迎が付くようになった。(父さんったら、心配性なんだから)子供ではないのだし一人でもいいと言ったのだが、継母有真からも止められてしまい、結局毎日送り迎えされることとなった。職場は家から近く、車で十分もかからない。今までは徒歩で通勤していたが、送迎になったおかげで僅かだが時間に余裕ができた。家に帰るために車に乗っている間が休息の時間となったのだ。そんな彼女が今見ていたのは、日菜乃のSNSアカウントだった。(結局気になってまた戻ってきちゃったわ……)香織は娘の後ろ姿が映っている写真をタップした。『今日は愛する娘の誕生日。一歳になりました。こうして無事に生まれて、誕生日を迎えられたことがとっても嬉しい。私たちの元に来てくれてありがとう』その投稿には、誕生日のケーキや娘へのプレゼントが載せられていた。その写真に写る女の子の後ろ姿は、間違いなく以前見た日菜乃と亮太の娘のものだった。「娘……たしか朱里ちゃんって言ったっけ……」香織は前世を含めても、日菜乃と亮太の娘にはあまり関わったことがなかった。亮太が朱里と彼女が関わることを嫌ったし、幼すぎて状況を理解することもできていなかったのだからそのようになるのも当然だろう。あの二人の子として生まれた時点で同情せざるを得ないが、子には何の罪もない。せめて、両親のことなど気にせず幸せに暮らしていることを願うばかりだ。「あら?そういえば……もう一人の子供はいつ生まれるのかしら?」日菜乃のお腹の中にいる亮太との第二子。もうとっくにお腹が膨らんでいてもおかしくないはずだ。それなのに、昨日の結婚式では日菜乃のお腹が膨らんでいるようには見えなかった。「まだまだ先なのかしら……まぁ、私にとってはどうでもいいけどさ」今は考えることがたくさんある。日菜乃のことを気にしている暇なんて無いのだ。彼女がどれだけSNSで幸せアピールをしていようと、香織の知ったことではない。「私は私のことを気にしていればいいのよ……」――あんな人たちのことなんて知らない。香織はそう考えながら、スマートフォンをポケットにしまった。そしてちょうどその頃、亮太は日菜乃にあることを問い詰めていた――
香織は日菜乃のSNSに投稿された内容を読んだ。どうやら彼女はアカウントを開設してからまだ一ヵ月しか経っていないというのに、フォロワーは既に一万人を超えていた。有名人でもない、一般人にしてはすごい数字だ。最も新しい投稿は、亮太との結婚式だった。豪華な挙式会場に、亮太との仲睦まじいウエディングフォトが載っている。『今日は愛する夫との結婚式を執り行いました。挙式会場は夫と相談して、憧れのグランドプリンセスティアラホテルに決めました。ウエディングドレスは夫に選んでもらった最高級のものを着ました。予期せぬお客様が現れたけど、とっても幸せな一日になりました』その投稿はなかなかにバズったようで、一日で一万いいねを超えていた。香織と亮太の離婚、そして日菜乃との再婚は世間的にもかなり注目を集めた話題だった。「……ずいぶんとまぁ、好き勝手言ってくれるわねぇ」予期せぬお客様とは、おそらく香織のことだろう。香織と日菜乃が結婚式でバチバチに火花を散らしていたことは、招待客しか知らない事実だ。(いや、あなたが招待したんでしょうよ。私に恥をかかせるために)コメント欄を開くと、そこには日菜乃への祝福コメントで溢れていた。略奪婚で結ばれた彼らを非難する声はほとんどない。まぁ、SNSなんて元々ファンしか集まっていないからそうなるのも当然だろう。香織はその下に投稿されていた、ハイブランドの指輪の写真をタップした。『な、な、何と!夫からプロポーズをされました!突然海外旅行に行こうと言われたので何かあるのかと思いきや、、、百本の薔薇の花束を出されたときには感動で泣いてしまいました。明日から正式に羽川になります。色々あったけれど、幸せになろうね』二枚目には亮太に貰ったであろう百本の薔薇の花束。そして三枚目には、指輪をはめられて嬉しそうに微笑む日菜乃の姿が載せられていた。香織はそんな投稿を冷めた目で眺めていた。(ただ自慢したいだけでしょう)他にも亮太や子供との旅行、高級ホテルのアフターヌーンティーに行ったことなどが日記のように綴られていた。コメント欄はセレブ生活を送る日菜乃に対する憧れのものばかりで、時には元妻である香織を中傷するものまで含まれていた。(くだらないわ……いちいち相手にするまでもない)苛立った香織は日菜乃のアカウントを閉じ、仕事を始めた。
結婚式の翌日から、香織は仕事に復帰した。いつも通り出勤した彼女を、大勢の社員たちが取り囲んだ。「九条さん、おはよう。体は平気なの?」「心配かけてすみません。見ての通り、ピンピンしてますよ」あの一件は既に社内で広まっており、真面目で人当たりの良い柚果がそのようなことをしていたということに、全員が驚きを隠せなかった。もちろん、香織も最初はかなり驚いたものだ。優しくしてくれた柚果が悪人だったのはショックだったが、彼女のおかげで自分にはまだまだ危機感が足りないのだということを学んだ。二度と同じ失敗を犯すことは無いだろう。今ならハッキリとそう言える。「それにしても、桜庭さんがあんなに残忍なことを主導しただなんて驚きだわ」「ええ、とてもそんな人には見えなかったけど……」「人は見かけによらないんだな」社員たちは柚果の裏の顔に驚愕していた。彼女が日菜乃の手下であるということは、香織だけが知っている秘密だった。(そういえば、あの結婚式で日菜乃に言われたわね)昨日の結婚式で、日菜乃は心配そうに眉を下げて香織に言った。『香織さん、良くないことがあったとお聞きしました』『……ええ、知っていたんですね』香織が拉致監禁されていたことは関係者以外に知らされることはなく、どの新聞にも載っていない。それなのに、何故彼女が知っているのか。(……やっぱり、あの事件の主犯はあなたでしょう?)心配そうな顔をしていたものの、何の感情も感じられなかった。その時点で香織は日菜乃が主犯であることを察した。『私、香織さんのことをずっと心配していたんですよ。でもこうして無事で帰ってこられたようで何よりです』日菜乃はそう言いながら、香織の手を強く握った。痛い、と感じてしまうほどに力を込められた手。彼女の華奢な体から、こんなにも強い力が出るとは驚きだ。『……ええ、ありがとうございます。私も何も無くてよかったと思っています』香織は周囲の人々にバレないよう、笑顔で言葉を返した。一見穏やかに見える会話だったが、香織だけがその言葉に込められた意味を悟った。「あのとき、九条さんを桜庭さんに預けたのは間違いだったわね……ごめんなさいね、私が二人きりにしたから……」「いえ、そんなこと言わないでください。皆さんは何も悪くありませんから」社員たちは香織が失踪したという話を聞いてからというもの
香織が背を向けて立ち去るその姿を、亮太は複雑な目で後ろから眺めていた。その手には、彼女からプレゼントされた入浴剤がしっかりと握られていた。いや、プレゼントと言うべきなのかもわからない。贈り物として包装もされていない、買ったときのまま店のテープが貼られていた。亮太はそんな入浴剤を眺め、笑みを溢した。(香織からプレゼントを貰ったのなんていつぶりだろうか……)香織との結婚生活はたった数年で終わってしまったものの、それでも彼らの夫婦関係を思えばかなり続いた方だった。元々、そこに愛なんて存在しない。亮太は権力を使って自身の妻の座に収まった香織を毛嫌いしており、絶対に妻としては認めなかった。どれだけ彼女が努力しようとも、彼はまともに香織を見ようともせず、指一本触れずに放置し続けた。『亮太、誕生日おめでとう。私からのプレゼントよ』結婚してからすぐに迎えた亮太の誕生日。彼は当然、その日も家には帰らず、別の女の元で一日を過ごしていた。亮太が家に帰ったのはその翌日で、およそ一週間ぶりの帰宅だった。香織は丁寧に包装されたネクタイを亮太にプレゼントした。もちろん受け取りもしなかったが、彼女は着けなくてもいいからと彼の部屋に強引に置いて行った。結局、捨てることもできずにそのネクタイは部屋に置いたままだった。今も探せば、出てくるだろう。――あれが、香織に貰った最初で最後のプレゼントだった。あのときの自分を心から愛していた彼女はもういないのだと、亮太は今になって悟った。嬉しいような悲しいような。いや、嫌悪を通り超して憎悪していた女からの好意が無くなったのだから喜ぶべきなのだろう。しかし、亮太は何故かいつまでも気分が浮かないままだった。前のパーティーで香織の隣にいた男。まるで彼女の恋人のように振舞っていた。そのことが彼の癪に障った。「それより……最近誰かにつけられているような気がする……」亮太は謎の視線を感じ、周囲を見渡した。しかし、誰もいない。最近疲れているせいか、そのような勘違いをしてしまうようだ。「――社長、こんなところにいらしたんですね」「……芹沢」会場の外で立ち尽くしていた亮太の元へやって来たのは芹沢だった。ずっと彼を探していたのか、額には汗が滲んでいる。「式を抜け出してくるだなんて……一体何をしていらっしゃったのですか?」「……ちょっと用があってな
あっという間に五日が過ぎ、パーティーの日になった。「香織お嬢様、本当によくお似合いです。会場にいる全員がお嬢様に目を奪われるでしょう!」「そうかしら?」華やかな青いドレスに身を包み、長い黒髪を結い上げた香織は、行きつけの美容院の店長――鏑木壮太(かぶらぎそうた)の手を取り、彼の車へと向かっていた。「あなたの腕がいいのよ、いつも感謝しているわ」「それはこちらのほうですよ、お嬢様。お嬢様の父君には感謝してもしきれません」壮太は優雅に香織をエスコートし、車のドアを開けた。香織が黒のSUVの後部座席に乗り込むと、壮太が運転席に座った。「あなたが運転してくれるのね」「安物の車で申し訳
有真は結婚する十年前まで、忠嗣の経営する会社の社員として働いていた。彼女は一般家庭の生まれだったが、努力を重ねて有名大学を卒業後、大企業へと就職することができた。そんな有真は、学生時代から明るい性格でクラスの人気者だった。絶世の美人というわけではなかったが、穏やかで優しく、いつだって周囲に気さくに振舞うその姿は男女問わず魅了した。――そんなところが、彼を虜にしたのかもしれない。彼女が九条グループに入社してから一ヵ月、有真は広い会社内で迷子になっていた。(道に迷っちゃったわ……会議室はどこかしら……)会議が始まるまではあと少しだ。入社早々遅刻するわけにはいかない。有真は焦っていた。彼
夜になり、ドキドキ初出勤を終えた香織は九条邸へと戻った。結婚前はどんな小さな用でも車で送り迎えをしてもらっていた香織だったが、今日は歩きだった。(職場まではそう遠くないし……運動のためにも歩こう)羽川家では車に乗れないのが普通だったせいか、歩きに慣れてしまったようだ。しばらく歩くと、羽川家の邸宅に到着した。(今でもここへ帰るのは慣れないわね)香織はそう思いながら鍵を使って中に入った。「香織さん、おかえりなさい」「ただいま、有真さん」帰宅した香織を、継母の有真が出迎えた。夜ご飯を作っている最中だったのか、長い髪を一つにまとめてエプロンを着ていた。有真は忠嗣の二十歳年下で、香織の
それから一週間後。「初めまして、九条香織です。これからよろしくお願いいたします」「……」香織は父親の会社で新入社員として入社していた。彼女を見た社員たちはしばらく固まったあと、ヒソヒソと噂話をし始めた。「九条って言った……?もしかして社長の娘さん……?」「間違いないわ。社長の娘、夫と離婚して実家に帰ったらしいわよ」「よりによって何でこの部署に……社長の娘とか気使うわー……」「……」香織の第一印象はあまり良くなかった。コネ入社、血筋が良いだけ、だとか散々な言われようだ。しかし香織はそんな中傷など気にも留めなかった。彼女が羽川家で受けた屈辱に比べれば、こんなもの大したことないか