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第131話

Author: かおる
「翔太の母親はお前だ。

俺も手荒な真似はしたくない。

だが、これ以上好き勝手に振る舞うなら――もう夫婦だからといって容赦はしない」

彼の顔に影が差すのを見ても、星は怯むどころか、かえって微笑を浮かべた。

「ほらね。

清子のことになると、まるで逆鱗を触れられたみたいに取り乱す。

雅臣、『二兎を追う者は一兎をも得ず』というのよ。

離婚したくないなら、それでもいい。

ただし......これからは清子と会うことも、連絡を取ることも一切禁止。

たとえ彼女が死んでも、葬儀に行くことすら許さない」

雅臣の黒い瞳が細まり、冷たい怒気が渦を巻く。

「星。

そこまで俺と敵対したいのか」

「つまり――承諾する気はないのね」

星の声は淡々としていた。

「なら、あとはお互いの力で決めましょう」

彼女は彼の脇をすり抜け、そのまま歩み去る。

今回は雅臣も引き止めなかった。

それから星は、翔太の入院に一切関わらなくなった。

雅臣もまた、彼女に電話をかけてくることはなかった。

一週間ほど経ったある日のこと。

怜が幼稚園から帰ると、星に話しかけてきた。

「星野おばさん、今日ね、翔太兄ちゃんが幼稚園に来てたよ。

神谷のおじさんと、あの悪いおばさんが一緒に送ってきたんだ」

ちょうど夕食の支度をしていた星は、一瞬手が止まった。

――かつて、彼女は何度も雅臣に「一緒に翔太を迎えに行こう」と声をかけたことがある。

だがそのたびに「時間がない。お前が行け」と突き放されてきた。

幼稚園に入って以来、雅臣が迎えに行ったことなど一度もなかったのに。

それが今では、清子と連れ立って通うほど頻繁だという。

――やっぱり、時間がなかったわけじゃない。

ただ相手が私じゃなかっただけ。

そう気づいたとき、胸の奥に冷たいものが広がった。

最近は怜の送り迎えも避けていた。

彼らの姿を見かけたくなかったからだ。

ある日「少しの間は迎えに行けないかもしれない」と打ち明けると、怜はすぐにうなずいた。

「大丈夫だよ。

運転手のおじさんに送ってもらうから。

星野おばさんはピアノの練習もあるし、僕のお世話で大変。

だから休まなきゃ」

その思いやりに、星は胸が詰まる。

――もし怜が本当の息子だったら、どんなに良かっただろう。

「星野おばさん」

怜が彼女のそばに寄り
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