Masuk仁志は、確かに星を助けてきた。だが、何から何まで段取りしてやるような真似はしない。彼がやるのは、星が本当に必要としたとき――自力では崩せない局面で、背中をひと押しすることだけ。溝口家の力を本気で使えば、星が外へ出て交渉する手間などいくらでも省ける。仁志が人を動かせば、提携ごときは秒でまとまるだろう。それでも彼は、そうしない。一方の明日香はどうか。朝陽や怜央の助けがあったとしても、いまの彼女は星の一歩後ろにいる。明日香の視線が、ふと仁志をかすめた。――この人は、星のために、どこまでやれるの?その思いが、胸の底に静かに沈む。そのとき、戻ってきた明日香に気づいた星が、仁志へ声をかけた。「明日香さんも戻られたみたいですし、先に曦光を見に行きましょう」怜央が明日香を呼び出した際に告げたのは「曦光の件がある」だけ。ここに来るまで、明日香は星と仁志が同席するとは思っていない。現場で二人を見つけ、しかもあの無茶な突進騒ぎ――明日香は、怜央が星と仁志を詰問するつもりで来たのだと受け取っていた。――曦光を壊したのは仁志で――しかも曦光は怜央が自分の手で組み上げた車。そう聞かされていたからだ。気持ちを整えた明日香は、軽くうなずく。「……分かったわ」星は曦光のために、専用の場所を借りていた。扉をくぐった瞬間、すでに原型を成した曦光が目に飛び込んでくる。明日香の足が、ふっと止まった。星が「弁償する」と言ったのは、体裁のための言葉――そう思っていた。同じ車を、本当に用意できるとは考えていなかったのだ。もっとも、彼女は忠ではない。仮に弁償できなくても、星に難癖をつけるつもりはなかった。ただ――この世には「やりたい」と思っても叶わないことがある。それを分からせられれば、それで十分だと。だが今、目の前の曦光を見て、明日香は数秒、驚きを隠せなかった。すぐに納得した。。曦光のような高性能車は、組立の精度が命だ。わずかなズレが、致命傷になる。外形は真似られても、完全再現は容易ではない――その直後、怜央が手を上げる。曦光に使われる全パーツと素材が、次々と運び込まれた。「今回の曦光の材料とパーツだ。確認してくれ」その光景に、明日香は完全に言葉を失う。――どういうつもり?星と仁志を困らせに来たのだと思
明日香は、生死をさまようような瞬間をくぐり抜け、あそこまで無様な姿をさらされた。どんな上品な人間でも、あれでは怒りを抑えられない。彼女は冷たく言い放つ。「冗談?あなた、明らかに故意でしょ!殺人よ」仁志は眉をわずかに上げた。「僕らは自衛のために撃っただけです。それを殺人と呼ぶなら、さっき怜央さんが減速もせず僕らに突っ込んできたのは、何と呼ぶんです?」明日香は言葉を詰まらせた。確かに、怜央は「脅かすだけ」と言っていた。実際、直前で減速していたのも見ている。それでも――もし減速が一瞬でも遅れていれば、彼らはもうこの世にいなかっただろう。彼女の腕にも、擦り傷が残っていた。だが、挑発を始めたのは怜央だった。その事実は覆らない。明日香は怒りを押し殺し、怜央に言った。「司馬さん……私、少しお手洗いに行ってくるわ」みっともない姿を整えるためだった。彼女は女神としての姿を絶対に崩したくない。怜央は何も答えず、ただ仁志を睨みつけていた。仁志からは、以前漂っていた陰りが薄れ、どこか晴れやかな気配すらある。機嫌が良さそうに見えた。怜央の視線がふと動く。仁志の手元には、新しいキーホルダーが光っていた。――あれは、星が贈ったものだ。以前、怜央は嘲っていた。「星が贈るのは安っぽい小物ばかりだ」と。だが今、金に不自由しない仁志がそれを身につけている。視線に気づいた仁志が、穏やかに微笑む。「どうしました?怜央さん、僕のキーホルダーに興味でも?」怜央が口を開く前に、仁志は続けた。口調は丁寧だが、切れ味は鋭い。「これは星野さんが僕にくれた贈り物です。お見せするだけならまだしも、貸すのは無理ですね。欲しいなら――明日香さんに頼めばいいんです。明日香さんは秀才ですから、器用でしょう?あなたのために一つ作ってもらえばいいんですよ」怜央の目が暗く沈む。明日香がそんなことを自分で作るはずがない。作れないし、やる気もない。怜央は冷ややかに言い返した。「誰もが星みたいに、暇を持て余してるわけじゃない」仁志は笑った。声は軽いが、言葉は逃げ場を塞ぐ。「でも雲井グループでは、星野さんの実績は明日香さんよりずっと上ですよ。もし星野さんが暇なら、明日香さんはもっと暇なはずです」怜央をじっと見据え、言葉を重ねる。「司馬家として
彼女の絵が相手に認められ、心から気に入られた――それは、二人の感性が確かに通じ合っている証だった。星はすぐにメールを返信した。【気に入ってくださって嬉しいです。ただ、もうお金には困っていません。本当に好きでいてくださるなら、これからは時間のあるときに、描いた作品をお贈りしますね】相手はパソコンの前にいたらしく、返信はすぐに届いた。だが、その内容は簡単だった――【感謝します】星は小さく笑い、それ以上返さなかった。彼女はスマホを取り上げ、怜央に電話をかけた。しばらく呼び出し音が続いたあと、ようやく通話がつながる。受話口の向こうから聞こえてきたのは、冷笑を含んだ男の声だった。「これはこれは。星野さん、もう曦光の件なんて忘れたかと思ってたよ」星は無駄話をする気はなかった。単刀直入に切り出す。「いつお時間ある?」その頃、怜央はsummerが描いた夕焼けの絵を見つめていた。淡々とした声で答える。「いつでも」星はスケジュールを確認しながら言った。「二日後の午前十時。自動車部品の問屋街の入口で――いい?」怜央がふと問い返した。「仁志も来るか?」その名を聞いた瞬間、星の全身に緊張が走る。「……どういう意味?」彼女の張りつめた声に、怜央はなぜか愉快そうに笑った。「そんなに身構えて。俺が彼に危害を加えるとでも?」星の声は、氷のように冷たくなった。「怜央。あなたが今どんな立場にいるか、自分で分かってるはずよ。これ以上、仁志に手を出すなら――もっと悲惨な末路を迎えることになるわ」怜央は、これまで数えきれないほどの悪意や呪詛を浴びてきた男だ。星の警告など、痛くもかゆくもない。彼は鼻で笑う。「人を殺したこともないお前が?どうやって俺を、今以上に惨めにできる?」星は、それ以上彼の声を一秒たりとも聞いていられなかった。通話を一方的に切る。怜央は切断された画面を眺め、鼻で笑うと、今度は明日香に電話をかけた。「明日香。明後日、時間ある?」……二日後。星と仁志は、約束通り自動車部品の問屋街の入口に到着した。車を降りたその直後――遠くから一台の車が、二人めがけて猛スピードで突っ込んできた。ナンバーを見た星は、眉をひそめる。こんな狂気じみた真似をするのは、ただ一人。――怜
それでも――怜央は結局、どこであの景色を見たのかを思い出せなかった。三枚の絵を丁寧に仕舞うと、彼は助手に電話をかけた。「summerの行方は掴めたか?」受話器の向こうで助手が答える。「まだです。澄玲が絵を受け取りに行った時も、かなり用心していました。意図的に足取りを隠しているようです」少し間を置いてから、助手が提案した。「それなら、澄玲が最近誰と接触しているか、調べてみましょうか?」怜央はすぐに切り捨てる。「不要だ。澄玲は志村家のお嬢さんだ。探ればすぐ気づかれる。それに――summerが絵を送ったのは、澄玲への義理だろう。彼女に嫌われるような真似はしない」「承知しました」助手が電話を切ろうとしたそのとき、怜央が言葉を継いだ。「澄玲に連絡しろ。summerの連絡先を聞いてみろ。もし新作があるなら、直接俺に売ればいい。値段は向こうの言い値で構わない」「承知いたしました」通話が終わると、怜央は静かに目を閉じた。部屋の中には、絵の匂いと乾いた静寂だけが残っていた。翌日。星のもとに、澄玲から電話が入る。「星、絵はもう相手に届けたわ……ただ、困ったことがあってね。あちらが、あなたの連絡先を知りたがっているの」星は落ち着いた声で尋ねる。「それ以外に、何か言ってた?」「今のところは、特には」星は少し考え、私用のメールアドレスを伝えた。澄玲は一瞬ためらい、低く尋ねる。「……また別の要求をしてくる可能性は?」「このメールを渡せば、分かるはずよ」連絡手段はいくらでもある。電話、メッセージ、チャット――その中で、あえてメールを選ぶのは距離を置くという意思表示。淡々とした、線を越えない付き合いのためだ。澄玲は小さく息をついた。「分かったわ」通話を終えた星は、朝食を済ませてから仁志と共に会社へ向かった。車内で、星は曦光の件を切り出す。仁志は運転しながら、静かに答えた。「前にも言ってましたね。怜央さんの様子がおかしいと。会う時間を決めましょう。僕も見ておきたいんです。あいつが何を企んでいますのか」星は少し眉をひそめる。「私たちを呼び出して、待ち伏せ……とか?」仁志はあっさりと言い切った。「待ち伏せするなら僕を狙います。あなたには何もしません。今のあなたには力も基盤もあります。もう簡単には動けません」淡々とした
正道はいくつかのプレゼント袋を提げ、静かにドアの前に立っていた。星が扉を開けると、彼は穏やかな声で言った。「星。友だちと誕生日を過ごして、いま戻ったところかい?」星は軽くうなずき、微笑んで部屋へ招き入れる。「お父さん、どうぞ中へ」部屋に入ると、正道の視線は自然と机の上に置かれたプレゼントの袋に留まった。彼は目を細めて、優しく笑う。「今日はお前の誕生日だからね。本当はパーティーを開こうと思っていたんだ。でも、翔太から友だちと過ごすと聞いてね。今回は遠慮したよ」そう言って、手にしていた袋を差し出す。「これは、父さんとお前の兄さんたち、それから明日香からのプレゼントだ」星は受け取り、丁寧に礼を述べた。「ありがとう」正道は何か言いかけたが、ふと視線を止めた。机の上に置かれた、木製の錦箱――仁志が渡したものだ。「星。この箱は……友だちからの贈り物かい?」「うん。そうよ」「少し見せてもらってもいいかな?」星は箱を手渡した。正道はしばらくその造りを眺め、感慨深げに微笑んだ。「数年前、あるオークションに参加したことがあってね。その目玉が樹齢千年を超える金絲楠だった。開始価格が、すでに二十億円を超えていたんだ」遠い目をしながら、彼は続ける。「俺もかなり惹かれて、落札しようとしたんだが……値を入れる前に、誰かが買い切り宣言をした。結局、諦めるしかなかった」もう一度、箱を見つめながら小さく笑った。「これほどの金絲楠を、物を入れる箱にしてしまうとは……お前にこれを贈った人は、本当に心を込めている」正道は、この箱そのものが贈り物だと思い込んでいた。まさか中にさらに何かが入っているとは、夢にも思っていない。星は胸の奥でふと、服の下に隠したペンダントがわずかに熱を帯びていることに気づいた。その後、正道は他愛のない話を少し交わしただけで、部屋を後にした。翌日。「summer」の絵が、ついに怜央のもとへ届けられた。彼女が送ったのは三枚。一枚は星空、一枚は夕焼け、そしてもう一枚は花々。年月を経ても、summerの画風は変わらない。「絵は人を映す」と言うが、彼女の作品はいまも柔らかな感情に満ちていた。怜央は思う――summerは、きっと心の温かい人だ。きっと温もりのある家庭で育ったのだろう。自分のように、冷たさと打算にま
仁志が部屋を出ていったあと、星はゆっくりと自室でプレゼントの包みを開け始めた。翔太、怜、彩香――三人からの贈り物は、どれも手作りのハンドメイド品だった。澄玲と凛からは、丁寧に選ばれたアクセサリー。街に並ぶような量産品とは違い、洗練された静かな趣がある。男性陣の贈り物は、どちらかといえば実用的だった。奏と影斗がくれたのは、星にとって有利になる提携の話。一種のビジネスギフトと言える。そして――雅臣の包みを開けた瞬間、星は思わず小さく笑ってしまった。――二百億円の小切手。彼は、あの時の二百億円をいまだに気にしていたのだ。星は数秒間だけ迷い、やがて静かにその小切手を受け取った。過去は過去。もう、憎しみや痛みではなく、穏やかに共存していくほうがいい――そう思えた。すべてのプレゼントを開け終えた……はずだった。けれど、袋のいちばん底に、見覚えのない箱がひとつ残っている。星の手が止まった。誕生日会のとき、こんな箱を見た覚えはない。胸の奥に小さなざわめきを覚えながら、彼女は蓋を開けた。中には、透明なクリスタルのオルゴール。その上には、彼女自身の姿が精緻に彫り込まれていた。星はしばらくそれを見つめ、胸の奥がざわざわと波立つのを感じた。――プレゼントの取りまとめは彩香。きっと彼女が入れたのだろう。そう思った、その時。携帯が震えた。画面には「彩香」の名。「星、プレゼント、もう開けた?」電話口の声は少し焦っていた。「航平の分、私が袋に入れたの。ごめんね。誕生日前に航平から連絡があって、急用で行けないからって、私に預けてきたの。その時はまだ、航平が仁志をあんな目に遭わせたって知らなくて……勝手に受け取って渡しちゃって、本当にごめん」彩香は、少し前に奏に送ってもらう途中で、航平がどれだけのことをしたかを知ったばかりだった。もう渡してしまった以上、誤解されたくなくて説明するしかなかった。星は彼女を責めなかった。「大丈夫。気にしないで」彩香は深く息をつく。「……本当に、航平が仁志を傷つけるなんて思わなかった」言葉が途切れる。驚きはある。けれど、考えれば筋が通る。彩香は、航平がずっと星を想っていたことに気づいていた。その間に、星と仁志があんなにも近づいていた――それを見て、彼の胸が抉られないはずがない。女の嫉妬は、陰で罠を仕掛け







