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第169話

Author: かおる
「それは、雅臣が離婚したくない口実にすぎないわ。

星ちゃんが本当に無一文で出ていくと承諾したとしても、どうせ離婚なんてしない」

彩香は怒りをあらわにした。

「さっきの神谷家の態度を見たでしょう?

星の前でさえあれなんだから、裏ではもう清子を嫁として扱っているに決まってる!」

「そんなに清子に未練があるなら、さっさと星と別れて彼女と結婚すればいいのよ。

すでに手元にあるものに満足せず、他のものまで欲しがる......下劣にもほどがある!」

影斗は淡々とした口調で言った。

「雅臣の考えは単純だ。

星ちゃんは良き妻であり、良き母親。

対して清子の余命はそう長くない。

お前は、雅臣が、残り数か月の女のために星ちゃんを捨てると思うか?」

「それじゃ、うちの星を粗大ごみ同然の扱いをしてるってこと?」

彩香は怒気を募らせた。

「でも、もし本当に居直るつもりなら、どうしようもないの?」

星は冷ややかに言い放った。

「奴が一日でも離婚を渋るなら、私はその一日ごとに、奴と神谷家を引っくり返してやるわ」

影斗の暗い瞳が底なしの淵のように光る。

「奴がお前の家族に危害を加えるかもしれないのに、怖くないのか?」

「私には家族なんていない」

星は淡々とした表情で答えた。

「もし本当に彼が何か仕掛けてきても、むしろ望むところよ」

――家族はいない。

それなのに、むしろ望むところだと?

影斗の瞳に、一瞬異様な光がきらめいた。

面白い女だ。

やがて、休憩室の扉がノックされた。

影斗の助手が入ってきて告げる。

「榊さん、星野さんのお衣装が届きました」

星のドレスが汚れたと知るや、影斗はすぐに新しい衣装を手配していたのだ。

それも、彼女の舞台衣装と似た白いドレスばかりを。

着替えに向かう星を見送りながら、影斗は彩香に問うた。

「さっきの清子との賭けだが......審査員に少し圧力をかけて、裏で手を回しておこうか?」

「裏で......?」

彩香は一瞬呆気にとられた。

「清子は人間性に問題はあるが、実力は否めない。

すでに調べさせた。

たしかにA大の卒業生で、しかも成績は上の中だった」

「星ちゃんが彼女に勝つのは、難しいだろう」

「え?」

彩香は驚愕して影斗を見つめた。

「あなた、清子のことは調べておいて......星のこと
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