LOGIN星は正道を部屋へ招き入れ、コップに水を注いで差し出した。正道はひと口飲むと、長く息を吐く。「星、余計なことは考えるな。お前は俺と夜の娘だ。そこは、これからもずっと変わらない。星野家がどれだけ陥れようとしても、俺は信じない」正道がこの件を盾に、彼女に噛みついてこなかった。それは星にとって、少し意外だった。だが、すぐに腑に落ちる。朝陽の一手は、一見すると単純で、暴かれやすい。けれど雲井家が誘惑に負ければ、家の中で潰し合いになる。しかも最終的に露見しても、彼女を糾弾するのは星野家。朝陽は表に出ない。どちらに転んでも、朝陽は損をしない。星は尋ねた。「私、父さんともう一度、DNA鑑定をしたほうがいいかな?」正道は首を振る。「不要だ。星野家が仕掛けてきた以上、結果に細工をされる。やる意味がない」少し間を置き、言葉を重ねる。「星。これで分かっただろう。ここ数年、お前の三人の兄が、どうして星野家と距離を取ってきたのか。あいつらは目的のためなら手段を選ばない。昔の夜は、何度売られたか分からない。それに、星野家は女が権力を握るのを嫌う。今後は、なるべく近づかないほうがいい」星は小さく頷いた。「……分かった、父さん」正道も頷き、立ち上がる。「もう遅い。休め。明日、会社で取締役会が開かれる可能性が高い」正道を見送ったあと、星は身支度を整え、そのままベッドに横になった。……翌日。星は雲井グループの会議室で、会議テーブルに座り、皆の議論を黙って聞いていた。ある取締役が口を開く。「昨日の星野家の件、もうニュースになっています。正道さん、DNA鑑定をやり直して世間に説明しますか。それとも、黙って沈静化させますか」正道は淡々と言った。「鑑定をやり直すのは、星の身元を疑っていると認めるのと同じだ。俺は、静観でいいと思う」夜派の株主、宗一郎も続ける。「そうだ。自分で自分を証明する泥沼に入る必要はない。星が雲井グループの株主であり続け、雲井家の娘として扱われ続ける。それが一番強い反撃だ。相手が言うたびに、こちらが証明していたらきりがない。極端な話、明日正道さんの三人の息子が雲井家の子じゃないと言われたら、また鑑定するか?」別の株主が慎重に言う。「ただ、外部では星野さんの素性について憶測が出ています。株価も小幅ですが下がりました」夜派の別の
正道がどれほど星を信じていようと、あの場で鑑定をしなかった以上、彼女の素性は疑われ続ける。今後、雲井グループでの立場だって盤石にはならない。今の世の中は、どれほど稚拙な嘘でも、信じたい者は信じる。雲井家が今すぐ星に牙をむくことはないかもしれない。だが時間が経ち、星が簡単には折れない厄介な相手だと分かれば――いつか、どこかで、常道を外れた手に出る可能性もある。彼はただ、星と雲井家の間に「疑い」という種を先に埋め込んだだけだ。夜や、靖たち三兄弟、正道の評判など、どうでもいい。彼が助けるのは明日香だけ。つまりこの計画は、どう転んでも損がない。怜央はグラスを軽く揺らしながら、この一幕を面白がるように眺めていた。星野家の連中は、本当に純粋だ。星を引きずり下ろせば、彼女の原株を分け前にあずかれるとでも思っている。だが星野家は、朝陽に押し出された駒にすぎない。朝陽が、彼らが生きようが死のうが、星や雲井家を敵に回そうが、気にするはずがない。本当に揉め始めたら、朝陽はむしろ、傍で高みの見物をするだろう。――ただ。怜央は赤ワインをひと口舐め、低く笑った。「朝陽の手は……相変わらず陰湿だな」視線を舞台上の星へ移す。彼は小さく笑みを漏らす。「けど、これは始まりにすぎない。次はどう捌く?見せてもらおうか」正道が乗らなかったことで、星野家がその場で星を暴く算段は、ひとまず外れた。ここまで話が進んだ以上、星野家も公然と鑑定を迫る勇気はない。強行すれば、最後は両家の縁を、その場で断ち切ることになりかねないからだ。星は、とりあえず「難」を逃れた。だが本人は、少しも喜べなかった――この程度で終わるはずがない。そんな予感が、胸の奥で静かに膨らんでいた。……星の書斎。彼女は仁志に、あの件を持ち出した。「星野家は、たぶん朝陽に銃として使われたんだと思う。狙いは外れたけど、手を汚さずに、他人に始末させる。あいつにとっては、どっちに転んでも損がない」仁志は、すぐには答えなかった。星は気づく。仁志が、ぼんやりしている。こんな彼を見るのは珍しい。これまで、生死の際でも彼は怯んだことがない。「……仁志」思わず呼びかける。「別のことを考えてる?」今の星は、一歩進む前に三歩先を読む。だが仁志は、一歩で十歩先を見る男だ。誰も気づかないものを、いつも先に見つ
忠は反射的に叩かれた頬を押さえ、怒鳴った。「このクソ女……いきなり何するんだ!?」「恥をさらしたくないだけよ」結羽は冷たく言い放つ。「忠。雲井家が母親を売って栄達を図る、見苦しい一家なんて評判を背負いたくないなら、口を閉じなさい。星が雲井家の人間かどうか、あなたたちは腹の底では分かってる。それでも利益のために、母親が別の男と関係を持ったなんて言いがかりをつけて、母親の名誉を踏みにじるつもり?見せてもらうわ」忠は顔を紅くして食ってかかる。「何をでたらめ言ってる!母さんが浮気なんてするはずないだろ!星が母さんの娘を名乗って、俺たちを騙して――」「忠」翔が低い声で遮った。「黙れ」忠は一瞬固まった。だが翔の瞳は氷のように冷たく、露骨な警告が滲んでいる。忠はそれ以上言えなくなった。その瞬間、彼は気づく。もし星が、「私は夜の実の娘。夜は養女だったから星野家と血が繋がっていない」と言い張ったら――そのうえで、星が雲井家とも血縁がないと出た場合、世間はどう受け取る?つまりそれは、夜が不貞で産んだ子だと示すことになる。夜が正道に知られるのを恐れて、雲井家から逃げた――そんな話にすり替わってしまう。そうなれば、夜の名声は完全に潰れる。何より、夜は三兄弟の実母で、すでに亡くなっている。死んだあとまで不貞の汚名を背負わせるわけにはいかない。そして、もし最終的に真実が明らかになり、夜が不貞などしていなかったと判明したら――株のために母親を売り、母親を貶めた自分たちは、世間から軽蔑される。実母への中傷を止めもしない人間が、人として扱われるはずがない。それは正道にとっても同じだ。正道は長年深情な男として振る舞い、再婚もしていない。もしこの場で「夜が不貞をした」と広まれば、彼の深情は笑いものになる。夜は、正道が正式に迎えた妻だ。それが事実として固定されれば、明日の雲井グループの株価も下がりかねない――仁志が皆の視線を正道へ誘導した狙いの一つが、それだった。案の定、正道は低く言い切った。「星は俺の実の娘だ。そこに疑いはない。星が雲井家に戻った時点で、鑑定は済んでいる。よって、ここで改めて鑑定する必要はない。星と星野家に血縁があるかどうかは……俺の関知するところではない」彼は一拍置き、冷ややかな視線を智子へ向ける。「夜と星が星野家の人間かどうか、俺は
人は、あれもこれも欲張ってはいけない。どれほど完璧に見える計画でも、必ず綻びはある。星野家の狙いはこうだ。来賓たちに、星が手にしている「自分たちには到底届かないもの」の多さを意識させる。嫉妬を煽り、星を袋叩きにする。そして、百の口があっても弁明できない状況に追い込む。だが――彼らは欲が深すぎた。そのせいで、仁志は短時間で穴を見つけ、逆に一軍当ててきた。今回の星との衝突で、星野家はたいした利益を得られていない。自分たちから仕掛け、証拠まで揃えてこの程度だ。せいぜい五分五分に持ち込んだだけだった。怜央は、人混みの中にいる朝陽へちらりと視線を投げた。星野家が使えない味方だということを、朝陽が知らないはずがない。あの男の陰険さで、ここまで長く仕込んでおいて、これだけで星を倒すとは思えない。――これは始まりに過ぎない。朝陽には、まだ後手がある。智子は、狙いが外れたことに気づく。それどころか、自分を疑う目のほうが増えている。瞳に、わずかな焦りが走った。星の正体を暴く役は、本来、星野おばあ様や父の信也がやるべきではなかった。星野家の当初の狙いは、星の傍にいる仁志にやらせることだった。星の人間が言えば、それだけで信憑性が増す。だが仁志に一度翻弄されて、智子は悟った。この男を短期間で落とすのは無理だ、と。なら、面倒で損な役回りは自分が背負うしかない。――その結果がこれだ。仁志の反応は速すぎた。世論戦では、どうやっても上に立てない。智子は慌てて戦術を変えた。「納得できないなら、その場でDNA鑑定をすればいい!今回は葛西グループ傘下の鑑定機関を呼んでいる。星は葛西先生と関係が深い。葛西グループの結果なら、間違いようがないでしょう!?」先手を打って、わざわざ葛西グループの名を出した。仁志に、これ以上話を作らせないためだ。智子は続ける。「あなたはまた、姑母・夜の血液サンプルが偽物かもしれないって言うんでしょ。でも、夜のサンプルが本物かどうかは関係ない。星が私たち星野家、そして雲井家と親子関係だと証明できれば、それで十分だ。つまり、夜のサンプルなんて重要じゃないの」星が星野家の人間なら、夜がいようがいまいが、星野家の誰かと血縁が出るはずだ。同様に、仮に夜が星野家と血縁のない人物だったとしても、星が正道の娘なら、雲井家とは血縁が出る。
検査をしなければ、口さがない噂を塞ぐことはできない。だが検査をすれば、取り返しのつかない結果になるかもしれない。憶測はどのみち広まり続ける。まさに進むも地獄、退くも地獄だった。ざわめきは膨らみ、もう収拾がつかなくなりそうだった。しかも星は壇上にいる。切り返すのは難しい。そのとき――人混みの中から、澄んだ乾いた声が静かに響いた。「智子さん。星野さんが正道さんと夜さんの娘かどうか、あなたが一人で決められる話ではありません。確認が必要です。それに、はっきりした証拠も出ないうちから、星野おばあ様の寿宴で、公然とこの話を暴きます。家の恥を、世界中に触れ回りたいみたいに……智子さん、あなたは星野家と何か因縁でも?それとも雲井家と?聞くところによると、あなたは一度も夜さんに会ったこともないそうです。恨みがあるとは考えにくいですね。では――あなたの目的は、いったい何ですか?」全員が声の主を見た。それは他でもない、仁志だった。整った容姿と星との関係もあって、仁志はこの街の社交界では有名だ。会場に来ている者の八、九割は彼を知っている。そして彼が星のボディガードだということも。智子は仁志を睨み、顔を陰らせた。あのとき散々弄ばれた記憶がよみがえり、歯ぎしりするほど憎しみが湧く。「仁志。あなたは星のボディガードでしょう。こんな場で口を挟む資格はないわ」智子は内心で冷笑した。仁志は身分を隠すのが好きだ。なら今日は、徹底的に押さえつけてやる。星の肩を持つ一言すら言わせない。――だが、仁志の一言が、その算段を粉々にした。「智子さん、勘違いしています。僕が星野さんのボディガードなのは事実です。ですが今は、星野さんのエスコートです。ボディガードとしては発言権がありませんが、エスコートとして――自分の同伴者が中傷されているのを見過ごす理由はありません」智子は言い返せなかった。「あなた……」会場の人々も、今の一言で我に返った。そうだ。星が本物の令嬢かどうかとは別に、これは家の恥だ。誰が、わざわざ家の恥を人前でさらして、酒の肴にされたいと思う?そんなことをするのは、頭がおかしいとしか言いようがない。疑いの視線が自分に集まったのを見て、智子は苛立ちを爆発させた。「だって、私だって今日初めて知ったんです!星が姑母の実の子じゃないって。それなのに、お
「もし私が雲井家の娘じゃないのなら、雲井家が私の言葉だけで私を迎え入れて、しかも株まで渡すと思う?」星は淡々と言い切った。「雲井家にはこれだけ人がいる。あなたみたいな小娘より、よほど周到に考えるはずだ。違う?」智子の瞳に、毒々しい冷たい光が走った。「星野家の財産を手に入れるために、姑母に似せて顔まで作った。鑑定機関にお金を握らせるくらい、あなたならどうってことないでしょ?」智子は嘲るように続ける。「危ない橋を渡らなきゃ、旨い汁は吸えないよね。成功すれば、雲井家の財産を切り取れる。そんな莫大な金額を前に、心が動かない人がいます?少しのリスクくらい、安いものだよね?」そう言って、声をさらに張り上げた。智子の目には悪意がむき出しだ。「姑母は外であなたを産んだのよ。そもそも姑母が当時、本当に妊娠していたかどうかすら不明だわ。だから――あなたが姑母が子どもを産んだと証明できる人を連れてこない限り、何も言えないよ」星の指先が、ぎゅっと縮こまった。母が雲井家から逃げ出した直後。正道の追跡を避けるため、彼女は身を隠し、場所を転々としていた。星を産んだ場所も、Z国ではない。ただ、夜はその後に巡り巡ってZ国へ渡り、ようやく腰を落ち着けただけ。あれほど深く隠れていた母を、正道でさえ見つけられなかった。今さら、当時の足取りを追い、証人まで探し当てる――簡単なはずがない。しかも母は、もうこの世にいない。智子がこう言い切れるのは、事前に調べ尽くしたからに決まっていた。星が黙ったままでいるのを見て、智子は笑った。「もちろん、私がこう言ったところで、信じない人もいるでしょうね。私たちが捏造しているって疑う人もいるはずだ。だったら――この場で採取して、皆さんの監視の下で鑑定しよう。そうすれば、誤魔化しようがないよね?」智子は自信満々だった。公の場で鑑定しても怖くない、とでも言うように。まるで、星が本当に夜と正道の娘ではないかのように。――どうして、そこまで確信できる?星の脳裏に、数日前に仁志が告げた言葉がよぎった。「星野家は朝陽と接触していた」――葛西家は、世界中のバイオ製薬会社を複数支配している。傘下の病院や医療機関も、数え切れないほどある。ならば、智子が持ち出した鑑定機関は、葛西家の系列である可能性が高い。星と朝陽には確かに
涙が彼女の頬を伝い、まるで雨に打たれた花のように、可憐な姿だった。雅臣は、鋭い視線を星に投げつけた。清子は雅臣の腕を掴み、「雅臣、星野さんのせいじゃないわ……彼女を責めないで。私がちゃんと立っていなかっただけなの……」と言った。翔太は、慌てて駆け寄った。「清子おばさん、大丈夫?」清子は、無理やり笑顔を作って「大丈夫……」と言ったが、言葉を言い終わらないうちに、突然意識を失ってしまった。雅臣は星のことは気にかける暇もなく、清子を抱きかかえると、駐車場に向かって歩き出した。翔太も、彼の後をついて行った。二人は、星を振り返って一目見ようともしなかった。星は、二人の
影斗は眉を上げ、何か言いかけたが星に遮られた。「榊さん、先に戻ってて。神谷さんと二人で話したいことがあるから」それを見て影斗は静かにうなずいた。「わかった。何かあったらいつでも連絡して」その瞬間、雅臣の表情がどこか曇った。影斗が去ると雅臣は冷ややかな顔を向けてきた。「星、俺たちはまだ離婚してないんだぞ。もう待ちきれずに、あいつを呼びつけて関係でも深めようってのか?」この男の口から優しい言葉なんて聞いたことがない。星は淡々と答える。「誰かさんの電話が通じなかったからよ。病院に運ばれたあとも医者に支払いを催促されて、知り合いに助けを求めるしかなかったのよ」実
星は清子を一瞥すると、すぐに視線をそらした。「星野さん、翔太くんと雅臣に会いにきたの?」清子はやわらかい声で問いかける。「二人なら今ここにいないわ。案内しましょうか?」星は淡々と答える。「必要ないわ」そう言って彼女は清子を避けるようにして階段へと向かう。音楽室は階下にあり、怜を迎えに行くためだった。だが清子はすぐに追ってきた。「星野さん、少しだけお話できる?」「あなたと話すことなんて、何もないわ」星は振り返りもせず、冷ややかに言い放つ。「雅臣のことで、少し――」「それこそ、もっと話すことなんてないわ」角を曲がり、階段に差しかかる。「あ
「ふん。お前が神谷夫人の座に座ってるからって、何になるんだ?」勇は鼻で笑いながら言った。「信じるかどうかはお前次第だけどな――清子が助けてってひと言さえ言えば、雅臣は何もかも放り出して、夜中でも駆けつけるよ」「雅臣がいつ家に帰るかなんて、全部清子の都合次第だ」「ここ最近、雅臣はあんまり帰ってないんじゃないか?どこにいると思う?清子の風邪の看病で付きっきりなんだよ。たかが風邪で、あれだけ心配するんだからさ」「それだけじゃない。お前の実の息子まで、清子にべったりなんだ。体調気づかって、お前の悪口まで言ってたってさ。清子が体調崩したのは、お前のせいだってな」「そのうち、清子が







