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第385話

Author: かおる
「お母さんが急に亡くなって、私も雲井家を追い出されたあの時......もし先輩が助けてくれなかったら、私は路頭に迷って、お母さんの最期に立ち会うことすらできなかったわ」

けれど奏は、彼女の慰めで心が晴れることはなかった。

「それでも、私は自分が無力すぎると思う。

今も君を守れず、あの時も夜先生を守れなかった。

彼女が病を抱えていたことさえ、知らなかったんだ」

星は静かに言った。

「先輩、それはあなたのせいじゃない。

自分を責めないで」

母の病は、誰にも明かされなかった。

娘に悟られることを恐れて、むしろ彼女を雲井家へ送り出したほどだ。

母は一人で星を育てていたが、よくある悲惨なドラマとは違い、生活は困窮していなかった。

むしろ、ささやかな裕福さすらあった。

それもあって、奏の援助をする余裕すらあったのだ。

雲井家を出るとき、母はまとまった資産を持ち出していた。

さらに彼女自身が優秀なヴァイオリニストであり、演奏や指導で十分な収入を得ていた。

そのため星の衣食住は、常に最良を尽くされた。

母は娘に与えるものは、すべて自分の力の及ぶ範囲で最高のものを選んだ。

やがて星が成長し、倹約の心を覚えると、「もうそこまで良いものは必要ない」と伝えたこともある。

だが母は首を振り、こう言った。

「あなたに良いものを与えるのは、視野を広げさせるためよ。

大きくなってから、男のちょっとした施しでだまされないようにね」

母は彼女を旅行へ連れ出し、ファッションショーや音楽会に同行させることも多かった。

その一方で、星に課す要求は厳しかった。

ヴァイオリンで頭角を現しても、学業で手を抜くことは許されなかった。

彼女も翔太と同じように、物心ついた頃から複数の外国語を学び始めていた。

学校に入れば、常に成績は首位。

さらに母は、様々な習い事を次々と与えた。

絵画、書道、礼儀作法――青春のほとんどを埋め尽くすほど。

恋愛にうつつを抜かす余地など、どこにもなかった。

当時は理解できなかった。

なぜ母がそこまで厳しかったのか。

だが雲井家に戻ったとき、ようやく母の思いを悟った。

母は彼女を「良家の令嬢」として育てていたのだ。

多くの経験を積ませ、確かに星の視野は広くなった。

雲井家に帰るまでは、自分の暮らしは充分に恵まれていると思って
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雨降る雪降る
385話でやっと三馬鹿トリオの呪縛から解放され、さてどんな情景で星乃が落ち着くか?と思いきやまだまだ続く受難の予感。
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