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第563話

Author: かおる
翔太は、そっと父の顔をうかがった。

その表情には期待と不安が入り混じっている。

物心ついたころから、祖母はいつも言っていた。

「翔太、おまえは将来、神谷家を継ぐ子なのよ。

ほかの子とは違うの」

その言葉が、幼い心にもずっと残っている。

だからこそ分かっていた。

「母と暮らしたい」という願いが、どれほど難しいことか。

けれど、最近になって怜が母のそばにいると聞いた。

その瞬間、胸の奥がざらつくように痛んだ。

まるで、誰かに母を取られてしまうようで。

それでも雅臣は、顔をしかめることもなく穏やかに尋ねた。

「どうして急に、ママと暮らしたいと思ったんだ?

パパと一緒じゃ、だめなのか?」

翔太は小さな声で答えた。

「パパは忙しいでしょ。

いつも仕事で家にいない。

僕、一人でいる時間が長くて、寂しいんだ。

それに......ママのごはんも、もうずっと食べてない。

寝る前にお話をしてくれたのも、もうずいぶん前で......」

言葉の途中で、目の奥に涙が滲んだ。

「ママに、そばにいてほしいの。

清子おばさんがどんなに優しくても、ママの代わりにはならない......」

雅臣は驚いた様子を見せなかった。

翔太が夏星の手で育てられたのだから、当然のことだ。

しかし沈黙が長く続くと、翔太は不安そうに声を震わせた。

「パパ、僕、ちゃんと勉強もするし、宿題も忘れない。

ママのところにいても、立派な跡取りになれるようにがんばる。

それに、時間があるときは、パパとおばあちゃんにも会いに来るから......」

その幼い言葉に、雅臣の黒い瞳が静かに揺れた。

深い海の底で、潮がゆっくりと渦を巻くように。

「......翔太。

おまえは、パパとママと三人で暮らしたいと思うか?」

「もちろん!」

翔太は即座にうなずいた。

「だってパパもママも大好きだから!」

雅臣の唇に、わずかな笑みが浮かぶ。

「そうか。

......それなら、パパはおまえの望むようにしよう。

ママのところで暮らしてもいい」

「ほんと!」

翔太の顔がぱっと輝いた。

「でも、その代わりにパパと約束をしてほしい」

「うん!なんでも約束する!」

「ママと暮らしている間に、ひとつだけお願いがあるんだ。

――どうにかして、ママを家に戻すんだ」

翔太の瞳が大き
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