「ねえ啓介?私たち、結婚しよう」
週末の日曜日、予約が取れない人気のフレンチレストランで食事をしながら彼氏の啓介にプロポーズをした。
「え、佳奈?どうしたの?急に?」
啓介はティラミスを食べる手を止めて、驚いた顔をして私を見ている。
「啓介が結婚に前向きじゃないのも知っている。だから私たち最高の夫婦になると思うの。」
ーーーーーーーーーー時を遡ること、3分前。
「啓介。私のこと、好き?」
「ん?どうしたの急に。」
女性の扱いに慣れている啓介は私の手に自分の手を重ねてきた。
「好きか嫌いかで言ったら好き?」
「え、もちろん。佳奈のことが好きだよ。だから付き合っているんじゃないか。」
「良かった。私も啓介が好き。だから、私たち結婚しよう」
私は宣言するように声を張って言った。
「え、今、なんて?」
聞こえていないはずはないのだが、啓介は聞き返す。
「だから、結婚。啓介、結婚しよう。」
「え、佳奈?どうしたの?急に?」
啓介は目を丸くして驚いている。先程までの優しい微笑みは姿を消し困惑とどのような返答をしようか考えているようだった。
「佳奈、なんでそうなったか聞かせてもらえないかな。この前、同僚が結婚したと話をした時に君は結婚の意味が分からないって否定的なことを言ってたよね。それが今日は急に結婚しようだなんて。言っていることが矛盾していると思うんだ。」
啓介は手を額に当てて厄介なことになったと言う顔でこちらを見ている。彼は結婚願望がない。『結婚できない男』ではなく『結婚したくない男』だった。しかし、そんなことは気にせずに私は続けた。
「結婚の意味が分からないのは今でもそうだよ。啓介が結婚に前向きじゃないのも知っている。だから私たち最高の夫婦になると思うの。」
「……ごめん、意味が分からない」
「啓介はなんで結婚したくないんだっけ?」
「それは……別に一人の生活に不自由もないし困っていないからだよ。一人でも生活できるスキルはあるし好きなことも出来る。」
周りから結婚して金銭面や時間の面で自由がなくなったと聞いていて、今の生活を楽しみたい啓介は否定的らしい。
「そう、私もなの!仕事が好きでこれからもっと上に行きたい。遊びやプライベートも充実させたいけど一番したいことは出世。出世してお金を稼いで自分の好きなこともして自由を手に入れたいの。」
「それなら今の関係のままで良くない?」
「ううん、良くない。啓介は、一人息子だからご両親から結婚はまだかとかお見合いや彼女の有無を聞かれるのにうんざりしているでしょ?」
「私は、今の会社は結婚していないと性格に問題があるんじゃないか?って疑われる。うちの会社には男性でも独身の役員はいない。役職クラスの昇進試験でも独身だと分かると性格とか内面の人間性を確認しているの。それって偏見じゃない?」
「それはそうだけど……。だから結婚って無茶苦茶すぎないか?」
「普通ならね。制限されることの方が多いし自由を求めるなら独身の方がいい。だから私たちは今のままの生活を送ろう」
「偽装結婚……ってこと?」
「いいえ、私は啓介のことが好きだし啓介も好きだと言ってくれた。だから愛のある結婚よ。私たちはお互いの自由を守るために結婚するの。」
「ごめん、理解が追いつかない。」
「いい?結婚することで啓介は親からの催促から逃れ、私は社会で不利益な扱いを受けないで済むってわけ!」
「つまりお互いに利害関係にあるといいたいのか?」
「その通り。好きな相手と恋愛感情以外でも求めているものが一致するなんて、私たち最高にいいパートナーだと思うの。こんな人もう出逢えないんじゃないかって思うくらいあなたに惹かれている」
「佳奈が言うことは確かに一理あるけれど、そんなに上手くいくかな?」
「上手くいくよ。上手くいくために婚前誓約書を作るの!」
「婚前契約書……?」
こうして私の猛烈なプロポーズから、私たちの結婚生活は幕を開けた。
「俺たちは子どもを産む道具じゃないんだよ?」啓介の言葉が私の心を深くえぐった。私が、いつ啓介を道具のように扱ったと言うのか。私は、啓介のことを誰よりも真剣に考えているというのに。私の目に映る啓介は、佳奈にすっかり心を奪われ別の人間になってしまったかのようだった。(この子までこんなことを言うようになるなんて…一体、この女が何を吹き込んだのよ!)私は佳奈への憎しみが募るのを感じた。一人でも味方が欲しいと藁にもすがる思いで最後の砦に矛先を向けた。(この子の親を引き合いに出せば少しは考え直すかもしれない。自分の親が悲しむと考えたら、さすがに無責任なことは言えないだろう。)「子どもを作らないなんて、あなたのご両親も悲しむんじゃないかしら。」私の言葉に、佳奈は驚いたように答えた。「いえ、両親は何も言わないと思います。私は妹と二人姉妹で跡継ぎは気にしていないようです。結婚もしてもしなくてもどちらでもいい。自分の好きなように生きればいいと常日頃から言われていますので。」その言葉は私の価値観を真っ向から否定するようだった。私には、子どもの意思を尊重すると言いながら結婚や子育てについて何一つ口出
「何もあなたが産むわけじゃないんだからサポートすればいいの。育てるのは母親なんだから!!」私は完全に感情的になって声を荒げて狂っていた。妻とは夫を支え家庭を守るものだと信じてきた。私がそうしてきたように、啓介が安心して仕事に打ち込めるように、妻になる女が尽くすべきなのだ。「そんなの佳奈の負担が大きすぎる。佳奈だって働いているんだし一人じゃ無理だ」啓介が佳奈を庇うように反論してくる。啓介が佳奈の肩を持つことに胸を締め付けられるような痛みを感じた。息子はこの女に甘すぎる。「だから今のままでは難しいし、急に抜けてもいいようにって忠告したんじゃない!!!」私だって彼女のキャリアを全く考えていないわけではない。だから仕事をセーブすることも一時的に休むことも視野に入れて考えてほしいと言ったのだ。私の感情はもはや頂点に達していた。私の怒り狂った声がリビングに響き渡る。啓介は、私の激しい言葉に静かにしかし明確な怒りを込めて反論した。
不妊治療をしてまで子どもを作る気がないと言った啓介に対し、佳奈に同意を求めたが『啓介さんと同じ考えなので問題ありません』と特に気にした様子もなく返してきたのだった。「で、でも、それで子どもが出来なくて後悔しても遅いのよ?」ようやく絞り出した声は震えていた。親として息子夫婦の未来を案じる気持ちが私には痛いほどあった。しかし、啓介は私の問いに全く動じなかった。「それでもいいと思っているよ。子どもが出来たら責任もって育てるし、出来なければ夫婦で支え合いながら暮らすつもり」佳奈の目を見て微笑みながら言う息子に、私は目を見開いた。私には啓介の言葉がただの無責任な言い訳にしか聞こえなかった。啓介が高柳家の家系をこんなにも軽んじていることに深い悲しみと怒りを感じた。「何言っているの! あなたは高柳家の長男よ! お金なら援助するわ、いくらでも協力する」私の声はもはや抑えきれない怒りに満ちていた。高柳家の血筋を絶やすなどあってはならないことだ。子どもが出来なければ医学の力を借りてでも授かるために専念して欲しかった。啓介は私の剣幕に押し黙った。息子も私と同じように高柳家の長男としての責任を感じているはずだ。それなのになぜこんなにも無責任なことを言うのか。
(子どもは授かりものですからって?私たちが跡継ぎ、孫の誕生を楽しみにしているのが分からないのか。なんて無責任なの…!)私は怒りでわずかに声が震え始めていた。子どもが産める時期や自然に妊娠しなかった場合のことも考えて不妊治療も考慮するように諭した時だった。隣に座っていた啓介が静かに口を開いた。彼の声は穏やかだったが目つきはひどく鋭かった。「母さん、今はお互い仕事が好きで大切なんだ。子どもが欲しいと思ったら、その時に俺と佳奈で考えていくよ。」(何を言っているの、啓介! あなたは高柳家の長男なのよ! 私がどれだけ孫を望んでいるかを知っているはずだわ!)私の心臓が激しく波打った。息子までこの女に感化されてしまったのか。啓介までが高柳家の未来を軽く見ているというのか。私は、睨みつけるように今度は佳奈に問いかけた。啓介がどうであれ、女性であれば結婚して子どもが欲しいと思うのは当然のことだろうと信じていたからだ。佳奈が私に同調し啓介を説得してくれることを期待していた。「でも佳奈さんはそれでいいの?出産や子育てのことを考えるのであれば年齢的に早い方がいいんじゃないかしら?」しかし、私の期待は残酷なまでに打ち砕かれた。「ありがとうございます。でも、私も啓介さんと同じ考えなので問題ありま
リビングに漂う香ばしい紅茶の匂いと、時折響くカップとソーサーの触れる音だけが高柳家の静寂を破っていた。啓介と佳奈、そして啓介の母親の三人の間に流れる空気は、さっきまでよりも一層重く冷ややかになっている。私の胸の奥には、熱く煮えたぎるような感情が渦巻いていた。(私は夫を支え家庭を守ることに人生を捧げてきた。それが、妻としての当然の務めであり、家族の幸福を築く礎だと信じて疑わなかった。家庭を守ってきたからこそ、夫も安心して仕事に邁進できたはず。だから、息子の妻にも同じように啓介を心から支えたいと願う女性であって欲しいと思っていたのに……。)先ほどの佳奈の「結婚後も働き続けたい、上を目指したい」という言葉が私の心に深く引っかかっていた。私が描く「理想の息子の嫁」の姿とはあまりにもかけ離れていたからだ。私は、この女性が本当に啓介の妻としてふさわしいのか試すような気持ちで、穏やかな口調を装いながら佳奈に尋ねた。「でも、子どもが産まれたらお仕事だって今のままというわけにはいかないでしょ?」妻として、そして母としての佳奈の覚悟を問うための私なりの最終確認のつもりだった。結婚したら、子どもを産み育てるのは女性にとって当然のことだろう。そして、それを前提にキャリアを考えるべきだというのが私の揺るぎない信念だった。しかし、佳奈は私の期待を裏切った。彼女は一瞬考えた後に朗らかな笑顔で迷いなく答えたのだ。
結婚しても仕事を続け出世にも意欲を示す目の前の女性に私は不信感を露わにしていた。「…そう。女性が活躍する時代ですものね」明らかに沈んだ冷たい声で言った。「でも、結婚となると家庭も大切になってきますわ。啓介も、会社を経営していて大変だと思うの。それに結婚したら夫を支えるのも妻の役目でしょう? お仕事が忙しくて家庭を放っておくことになるのはどうかしら」「仕事への情熱」に水を差そうとする発言に息子がたまらず口を開こうとしていたのを佳奈はそっと手で制した。「もちろん家庭も大切にします。啓介さんとは、お互いの人生を尊重し支え合っていくと決めております。彼の仕事に支障をきたすようなことは決してございませんし、私も、彼がいるからこそ一層仕事に打ち込めると思っております。」佳奈は穏やかに微笑んだが、私は面白くなくて表情は険しくなるばかりだった。先ほどから佳奈の言葉がひどく耳障りに聞こえている。自身のキャリアを優先し輝くことを目的とする佳奈の言葉からは、啓介を「支える」「尽くす」という言葉が一切出てこない。(結婚して妻になるということは、夫を支え、家庭を守り、子育てに励むことなのに……この子まるで分かってない!)「啓介は、昔から本当に頑張り屋でね。私も、啓介