「婚前契約書……?」
「婚前契約書って言うのはね、入籍をする前に今後のルールを決めていくの。財産分与やハラスメント・浮気とかが多いけれど内容は自分たちで自由に決めていいの。海外では資産家や芸能人が当たり前のように結んでいるわ。」
「婚前契約書というのは分かったよ。でも、著名人でもない俺たちがわざわざ契約書を作成、締結にする意図は何かな?」
「著名人の場合は、金銭面の対策だけれど私たちは違うわ。『自由』のための契約。お互いが親族や社会から色眼鏡で見られたり、『余計なお世話』と思うことから開放されるための契約なの。」
「余計なお世話からの開放……。」
「啓介も長男だから結婚して跡取りが欲しいとかご両親からよく連絡くるでしょ?でもそれって親の都合だと思わない?そこに啓介の意思はないじゃない。意思がないのにこれから何十年も一緒にいる相手を選べっておかしな話だと思わない?」
この言葉は啓介に響いたようで、考え事をするように真剣な目つきになっていた。以前、啓介の両親が縁談の話を勝手に進めていたそうだ。興味がないのに女性と会うことに気が引けたのと万が一自分以外が結婚に前向きになったらと考え会うこと自体を丁重に断ったそうだが、気が重かったと話していた。
私の言葉にただ丸め込まれるのではなく、一方的に無理だと否定するわけでもなく、冷静に物事を考え慎重に事を進めようとするところも私は好きだ。自由とは言ってもリスクは伴う。様々な角度から物事を捉えようとする啓介だからこそ私はこの話を持ち出したのだ。「確かに魅力的だね。結婚したら今度は会うたびに子どもってうるさそうだけど……。」
「だから、その煩わしいことを止めるの。親戚づきあいはどうするとかお互いが楽しく暮らせるために話し合って契約書を作っていこう!とりあえずやってみようよ。」
「……。」
啓介はしばらく黙り込んでいた。私は、啓介から発せられる言葉を緊張した面持ちで待っていたが、あまりに長いので目の前にあるティラミスを堪能することにした。
(はああ~さすが人気店のティラミス。コンビニも十分美味しいけれど別格。口に入れた瞬間のマスカルポーネも滑らかさも上にかかっているコーヒーの香りも主張し過ぎなくて最高。)
私がティラミスに舌鼓を打ち微笑んでいると、啓介も小さく笑いだした。
「ふふふ、こんな話を持ち出しておいて自分はティラミスを楽しんでいるなんて佳奈の行動は想定外でいつもやられるよ。でも、こんなに楽しそうにしているなら不条理な結婚も案外、最善でいいのかもしれないな。」
「本当?それなら、私と結婚してくれる?」
「ああ、よろしくお願いします。」
啓介が手を差し出してきたので重ねると、自分の口元に持っていき私の手の甲に少しだけ唇を触れさせた。ひざまずいてはいないが王子様がお姫様にキスをするようなロマンチックな絵に私は微笑みながら甘さと冷静さと大胆さを兼ね備えた未来の夫を眺めていた。
「ね、今からうちにこない?結婚のお祝いしよう」
「佳奈の大胆さと行動力には感服するよ。なにか買ってから行こうか」
「さすが私の夫になる人だわ、これからもお互い自由に楽しんで素敵な結婚生活を送ろうね。」
「自由な生活と結婚が結びつかなかったけれど、佳奈となら出来るかもしれないな。」
「必ず出来る。私が幸せと自由をあげるから楽しみにしていて。」
私は啓介の手を取り颯爽と店を出た。
早速、母に電話をかけると私の報告に弾んだ声が返ってきた。「もちろんよ!私たちはいつでもいいんだけど、三奈が啓介さんに会いたいって言ってるのよ。今度の連休はどう? みんなで一緒にご飯食べましょう!」母の声からは、私以上に喜んでいる様子が伝わってきた。妹の三奈も前回のテレビ電話で啓介のことをかっこいいと興奮気味で何度も口にしていたことを思い出す。こうして来月の連休に、実家への訪問が決定した。週末、二人で連休の計画を立てていると、啓介は一大プロジェクトの準備をするかのように、真剣な顔で私に問いかけてきた。「どんな服装がいいかな? やっぱりスーツかな? フォーマルすぎると引かれるかな。でも、砕けすぎても失礼だし……。あと、手土産は何がいいかな? お父さんの好みは? お母さんの好きなものは?」その質問攻めに私は思わず目を丸くしてしまった。普段のクールで冷静な啓介からは想像もつかないほど、緊張しているのが分かる。「えー、そんなに気にしなくても大丈夫だよ。適当でいいって。うちの親、そんなに堅苦しいタイプじゃないし。」私は笑いながらそう答えたが、啓介は首を傾げた。「そんなこと言って。俺の実家に行くときは佳奈もこんな感じだったのに、なんか立場が逆転したみたいだな。」啓介はわざと少しだけ
「坂本の親に挨拶ってことは、社長さんの家の問題は解決したんだな?」佐藤くんの眼差しが急に真剣になった。彼が、私がこの数ヶ月で経験してきた困難を、どこまで知っているのかは分からない。しかし、彼が私を気遣ってくれていることは確かだ。「うん、お母さんも承諾してくれた。」「あのDVDのことはちゃんと話せたか?」さっきまでの陽気な声とは違い、周りには聞こえないようボリュームを下げて低く冷静な声になっている。あのパーティーで映像を担当していた佐藤くんは誰よりも早く、DVDの中身を確認していた。そして、機転を利かせ少しだけ流した後に本来流す映像に切り替えたのだ。その際に会場にいる人たちの表情を観察し、動揺や怒りなど他の招待客と違う反応をしている凜を姿を見つけていた。佐藤くんの洞察力と瞬時の判断力には感心させられる。「うん、啓介に伝えてお母さんからもちゃんと話を聞くことが出来た。映像が流れなくて本当によかったって泣いていたよ。佐藤くんのおかげ。本当に助かった、ありがとう。」私は心からの感謝を伝えた。彼の機転がなければパーティーは修羅場と化していたはずだ。「問題が解決して良かったよ。それに俺は任された仕事をしただけで大したことはしていないよ。なんたってプロだからな!」今日の佐藤くんはい
「そんなんじゃないけど……。」私は慌ててスマホの画面を伏せた。しかし、佐藤くんは興味津々でこちらを見ている。彼は私の隣の席に座ると、さも当然のようにコーヒーを一口飲み、続きを促すように私を見つめた。私は観念し、両親への正式な挨拶へ行くこと、そして初めて顔を合わせたのがテレビ電話越しで、しかも啓介がスウェット姿だったことを話した。それを聞いた佐藤くんは、腹を抱えて豪快に笑い始めた。その笑い声は、休憩室中に響き渡り、周りの同僚たちがチラリとこちらを見た。「いやー、それは男としたら気にするよ!マジかよ、スウェットはねーわ!ドラマとかでもあるじゃん。スーツをバシッと決めて、『娘さんを僕にください!』的な挨拶。それくらいの気合いで臨まなきゃ、って男は思ってるもんだって。」佐藤くんは涙を拭いながら熱弁する。「戦に行くのに武器なし、防御する盾もなく向かうようなものだって。そんな状態で大切な戦に挑めるかよ、社長さんだってそう思っただろうよ!」彼の例えに、私は再び苦笑した。確かに、啓介も後で「あの時は焦った」とこっそり私に打ち明けていた。「戦って。うちの親、そんな攻撃的な感じじゃないけれど。」「会ったことないなら、どんな相手か分からないから身構えるもんだって
啓介の母である和美さんから、ついに結婚の承諾を得たその週末。長く続いた心の重しがようやく取れ、安堵と達成感で胸がいっぱいになった。数日経っても、あの和解の瞬間が鮮やかに蘇るたびに心の奥がじんわりと温かくなるのを感じた。そして、週が明けた火曜日の昼休み。デスクでスマホを開くと啓介から新しいメッセージが届いていた。画面に表示された彼の名前を見るだけで自然と口元が緩む。「佳奈のご両親にちゃんと挨拶したいと思っているから、都合のいい日を聞いてもらえるかな?」そのメッセージを読み終えるか読まないかのうちに、すぐに次のメッセージがポンと表示された。「今度は電話じゃないからね!訪問してもいい日を聞いてね!!」その文字を見て思わず苦笑いが漏れた。同時に、あの時の光景が脳裏にフラッシュバックする。啓介の実家へ初めて訪問し、和美さんの想像以上の敵意に心が折れそうになった翌日、啓介の前では強がっていたが私はすっかり意気消沈していた。そんな時に、たまたま両親からの着信があり、顔を見て元気を貰いたかった私はテレビ電話に切り替えて掛けなおした。そして、隣にいた啓介に、つい挨拶させる羽目となってしまったのだ。あの時、啓介は部屋着のスウェット姿で、髪はくしゃくしゃ、完全なオフモードだった。
凛は、水面下で啓介の母・和美さんに近付き、ありもしない嘘の情報を吹き込んでいたのだ。初顔合わせは、和美さんの私への敵意が丸出しの修羅場となった。そしてその後も和美さんは、憑かれたかのように凛の言葉を鵜呑みにし、私たちの結婚に猛反対した。和美さんの「結婚を認めるための条件」と称する要求はエスカレートしていった。誕生日会を開くこと、和美さんの理想の嫁の条件を満たすこと……。どれもこれも私たちを試すかのようないや、追い詰めるために用意されたような無理難題ばかりだった。あの時の私は、和美さんの猛攻とその背後にいる凛の悪意に心打ちのめされそうになった。そして、創立パーティーでのあの事件。啓介が私を婚約者として発表する寸前に、和美さんが差し込んだ悪意に満ちたDVD。あの瞬間、心臓が止まるかと思った。もし、佐藤くんの機転がなければ、私たちは、そして啓介の人生は、取り返しのつかないダメージを受けていたかもしれない。全てが終わり破滅する瞬間に見えた。だが、私たちはそれを乗り越え、啓介は私を信じて和美さんと凛の策略を打ち破った。そして、和美さんもまた、自らの過ちを認め心から謝罪してくれた。ただ表面的な謝罪ではなく、彼女が長年抱き続けてきた理想の嫁像とは全く違う、私という人間をありのままに受け入れてくれた証だった。全てを乗り越えてきたからこそ、今のこの穏やかな時間が何よりも尊く感じられた。手から伝わる啓介の温もりがじんわりと満たしていく。「そういえばさ、凛さんって誰から結婚
和食店を出て、暮れなずむ街の光の中を啓介と二人並んで歩く。駅まで和美さんを見送った帰り道は、張り詰めていたすべての糸が切れたかのような全身から力が抜けるような安堵感と長旅を終えたような清々しい疲労に包まれていた。啓介も同じように、どこか憑き物が落ちたような満ち足りた表情をしている。「今日、会えてよかったね。お母さんも私たちの結婚を認めてくれたし。」私がそっと隣の啓介に語りかけると、彼は深く頷き、私の手を取り温かい掌でそっと包み込んだ。「ああ、ようやくこれで一つ問題が解決した感じだな。本当に、佳奈には感謝している。一人じゃ、あそこまで母さんと向き合えなかった。」彼は私の目をじっと見つめ、その瞳には信頼と愛情が深く宿っていた。私もまた、啓介の誠実な眼差しに応えるように微笑んだ。「それにしても、この数ヶ月、色々あったな……。」ふいに、啓介がげんなりとした表情で再び口を開いた。その言葉に、私も深く頷く。「そうだね……。」この数ヶ月、本当に様々なことがあった。遠い過去のことのように思えるが、つい数ヶ月前の出来事だ。