「彼女はまだ未練があって啓介のことが大好きなのね。」
先程の彼の説明でタクシーに乗り込むことを許した啓介の判断に、正直納得できない部分は残る。だけど、凛の執拗さや啓介自身も困惑していたであろうことは分かった。彼の申し訳なさそうな表情に私の怒りは少しずつ薄れていった。私は、今までの話を冷静に分析した。
「……それはどうかな。別れた時も信じていたのに裏切られたとか色々言っていたから、単に悔しいだけかもしれないよ。」
啓介は少し面倒くさそうに答えた。
「そうだとしても、私たちの結婚がおもしろくないと思っているってことよね。」
彼の言葉に重ねて核心に触れた。未練にせよ、悔しさにせよ、凛の行動は、私たちの結婚を素直に祝福するものではない。私たちにとって無視できない事実だ。
「そうかもな。俺は相手にする気はないんだけど、母さんのブログを見て趣味を把握するくらいだから何をするか怖いんだ。」
啓介はそう言って少し震えた声で続けた。
凛にいくつか質問していくうちに、料理教室に通うようになったのは、やはり偶然ではないことが分かったそうだ。彼女は、啓介の母親の料理教室のブログを隅々まで読み込み、趣味や興味を持ちそうな話題を徹底的に調べ上げたらしい。そして、思惑通り、母親は彼女が提供した展示会の情報を喜び、啓介を誘うために会場に足を運んだのだと。
<啓介は少し照れたように言った。彼の言葉から、今までどれだけ建前だけの言葉に囲まれて生きてきたかが伺えた。「肩書きって努力が評価された成功の証で誇らしいものだもの。そんな輝いているものがあるのに魅力的に見えないわけない。そんなの宝石が好きだと言っているのにダイヤモンドを見て『カラット数なんて関係ない。存在しているだけでいい』って言ってるようなものよ。本当は1ct、2ctの大ぶりな光り輝くダイヤが欲しいのに謙虚ぶっているだけ。」私は、彼の言葉に反論するようにさらに畳み掛けた。宝石に興味がない啓介は今の例えがよく分からなかったようだ。彼は、首を傾げながら困ったように私を見つめていた。「例えばね、あなたがもし何の肩書きも持たないただの会社員だったとするわ。それでも、私はあなたの知性や、物事を深く考える姿勢、そして、私に真剣に向き合ってくれる誠実さとかそういう内面的な魅力に惹かれたと思う。」啓介の顔を覗き込んでゆっくりと説明した。「でもね、素敵な人で終わったかもしれない。そこに『若くしてCEOになった』という肩書きが加わることで魅力はさらに増幅されるの。どれだけ努力して、どれだけ困難を乗り越えてきたかの証拠でその努力の結晶が輝きになっているの。もともと美しい原石が磨かれてさらに輝きを増したようなもの、それが啓介の魅力でもあり、肩書きの価値なのよ。」私の言葉に少しずつ納得したような表情を浮かべた。彼の顔に微かな笑みが浮かんだ。「そういうものなのか?」
「啓介ってモテるのね」私は、啓介の言葉を思い出しながらふと口にした。「え……。そんなことないよ。突然どうしたの?」啓介は自分がモテるという事実を全く認識していないようで驚いたように目を丸くした。「だって女性たちから結婚したいと言われたけど結婚を考えられないから別れて、結婚願望がないって事前に言っても偽って女性たちが近付いてくるでしょ?」「まあ、そうだけど……。」啓介は曖昧に言葉を濁した。自分の地位をひけらかすこともなく、変な下心もなくスマートで機転の利く啓介の周りには常に言い寄る女性の影があった。モテを意識しなくても自然と引き寄せてしまう魅力を啓介が持ち合わせているからだ。「それって十分モテているじゃない。世の中、結婚したくても相手にされない人もいるのよ。それが啓介のところには女性が寄ってくるんだもん。」私は少し呆れたように言った。彼の謙虚さ、あるいは鈍感さには時々驚かされる。しかし私の指摘に、自分がモテるということに納得していない様子だった。「傍から見るとそうかもしれないけれど、彼女たちは俺の肩書きや経歴で判断していると思うよ。それで性格とか生活していく上で問題ないと思って
「彼女はまだ未練があって啓介のことが大好きなのね。」先程の彼の説明でタクシーに乗り込むことを許した啓介の判断に、正直納得できない部分は残る。だけど、凛の執拗さや啓介自身も困惑していたであろうことは分かった。彼の申し訳なさそうな表情に私の怒りは少しずつ薄れていった。私は、今までの話を冷静に分析した。「……それはどうかな。別れた時も信じていたのに裏切られたとか色々言っていたから、単に悔しいだけかもしれないよ。」啓介は少し面倒くさそうに答えた。「そうだとしても、私たちの結婚がおもしろくないと思っているってことよね。」彼の言葉に重ねて核心に触れた。未練にせよ、悔しさにせよ、凛の行動は、私たちの結婚を素直に祝福するものではない。私たちにとって無視できない事実だ。「そうかもな。俺は相手にする気はないんだけど、母さんのブログを見て趣味を把握するくらいだから何をするか怖いんだ。」啓介はそう言って少し震えた声で続けた。凛にいくつか質問していくうちに、料理教室に通うようになったのは、やはり偶然ではないことが分かったそうだ。彼女は、啓介の母親の料理教室のブログを隅々まで読み込み、趣味や興味を持ちそうな話題を徹底的に調べ上げたらしい。そして、思惑通り、母親は彼女が提供した展示会の情報を喜び、啓介を誘うために会場に足を運んだのだと。
仕事が終わりオフィスの施錠をして帰ろうとすると入口で凜が待ち構えていた。「啓介、話があるの。これから少しいいかな?」凛は、まっすぐに俺を見つめ開口一番に言ってきた。その場で用件を聞こうとしたが、「ここで話せる内容ではない」と言うばかりで教えてくれなかった。最近母のことで腑に落ちない点があったため凛を無視するわけにもいかず近くのレストランで話すことにした。付き合っていた時の別れ際も彼女には酷く泣き喚かれた記憶がある。今回も、もし感情的になられたら厄介だ。人目につく場所は避けたかったし、落ち着いて話せるように個室を選んだのは、せめてもの配慮だった。早く話を済ませて帰りたかったので、店に入ってすぐに俺は凛に問いただした。「どうして母さんの料理教室に通ってるんだ?」母から凛と再会したという話を聞いて以来ずっと俺の頭を占めていた疑問をぶつける。偶然にしてはできすぎている。「え?あれはたまたま。本当に偶然だったの」凛は、まるで悪びれることなく澄んだ瞳でそう答えた。その平然とした態度がかえって俺の疑念を深めた。(偶然、ね……そんなわけがない。)俺は、彼女の言葉を
部屋に戻りシャワーを浴びて部屋着に着替えた啓介は落ち着いた口調で話し始めた。「今日、佳奈が見た女性は凛という名前で昔付き合っていたんだ。」啓介は俯きながらそう言った。彼の口から出る「昔付き合っていた」という言葉がチクリと痛む。「別れてから一度も会っていなかったけれど、先週の土曜日に母さんと食事をするために待ち合わせ場所に行ったら凛が母さんと一緒に現れたんだ。」「なんで彼女が啓介のお母さんと一緒にいるの?」私は、冷静さを保とうと努めたものの、「なぜ?」「どうして?」という疑問符が頭の中で嵐のように渦巻いていた。「分からない。凛を両親に紹介したこともなかったし、全く面識のない二人がなんで一緒にいるのか全く分からなかった。不審に思って母さんに聞いてみたんだ……」啓介は少し言葉を選びながら話を続けた。彼の困惑した表情は嘘をついているようには見えなかった。「実は、最近になって凛が母さんの料理教室の生徒として通い始めたらしいんだ。それで、土曜日の展示会も凛が母さんに教えたらしくて……。会場で会った後も、母さんが迷わないようにと待ち合わせ場所まで送ってくれたらしい。そこで再会したんだ。」まるでドラマか小説のような展開にますます
夜の街を、私はひたすら走った。どこへ行けばいいのかも分からなかったが、ただ、彼の側から離れたかった。彼の声も、彼の匂いも、彼の存在そのものから、遠く遠く逃げたかった。マンションから大通りに出るところで背後から近づく足音に気づいた。「佳奈!」啓介の声だ。私は立ち止まることなく走り続けた。「待ってくれ、佳奈!お願いだから俺の話を聞いてくれ!本当に誤解なんだ。君が想像しているようなことはないし、彼女に気持ちなんて全くない。俺は、君以外を異性として見たり好意を持ったりすることなんて絶対にないんだ!」啓介は、息を切らしながら必死に私の後を追いかけてきた。普段の啓介は、どちらかというと冷静で感情を表に出すタイプではない。彼の肩書や容姿に惹かれて近づいてくる女性は多かっただろうし、彼自身が積極的に行動を起こさなくても女性に困った経験などほとんどないだろう。結婚をせがまれれば彼女への想いはあっても願望を叶えることは出来ないと別れを選んでいた。相手の幸せを願いつつも『去るもの拒まず』なクールな一面もあると思っていた。そんな啓介が、ここまで必死になっているなんて……。啓介の必死な様子に、私は感情的になり彼の言葉を聞こうともせずに、一方的に責めてしまったことを少しだけ反省した。「……分かった」ようやく足を止め振り返った。「……本当?ありがとう、佳奈」啓介は安堵したように微笑み、私をそっと抱きしめた。お酒の匂いはしない。でも、さっきのキスで彼の服に少しだけ女性物の香水の残り香が移ってしまったのがどうしても気になった。私は、彼のネクタイを掴み自分の顔に引き寄せ口づけをした。彼のものについた香りを上書きするための私なりの抵抗だった。「分かったけど、この服からさっきの女の香水の匂いがするの。すぐに着替えて、洗濯してくれない?」私は、少し意地悪な口調で言った。「ごめん、すぐに着替えるよ……」啓介は私の言葉に素直に従い、申し訳なさそうな顔をした。私たちは彼の部屋に戻り、彼はすぐにシャワーを浴びて部屋着に着替えた。そして、改めて今日起こったことの詳細を落ち着いた口調で話し始めた。