FAZER LOGIN「待てっ…」
渉の切羽詰まったような声がした。
香織の耳は、彼の声からその必死さや、不安を感じ取っていた。
だが彼女の不安は、別のところにあった。
龍牙ー。
こんなところにまだ小さなあの子がいるなんて、考えただけで胸が押しつぶされそうなほど不安だった。
できればこの状況を見て、部屋から出ていてほしい。あの子は賢いから、そのまま警察に通報してくれるかもしれない。
それなら自分は、このまま時間を引き延ばせばいい。
香織は、龍牙が被害に遭うことだけが怖かった。
渉ならきっと、自分でなんとかするはずだから…。
そんな都合のいいことを考えていた。
*
部屋の中は薄暗く、窓の外から入る明かりだけが頼りだった。
その時渉は、手にしていたスマホが震え、画面にメッセージの通知が記された。
それは美華からのもので、一言『OK』とあった。
それを見た渉は、少しだけ余裕
翌日ー。香織は病院から出された朝食を食べ終えて、退院の準備をしていた。コンコン…ノックの音がして、頭を上げるとそこに、昨日救急車に乗り込む前に会った女性が立っていた。「あ…」香織は目を僅かに見開いて、片付けに動かしていた手を止めた。「身体の調子はどう?」彼女は親しげにそう言うと、病室の中に入って勝手に椅子をベッド脇に置いた。「おかげさまで…」何も考えずに答えると、彼女はふふっと笑った。綺麗な人……。香織はぼうっと女性を見つめ、そしてハッと気がついた。「あのっ…あなたは誰、ですか…?」「……」その言葉に、女性は虚を突かれたように一瞬口籠った。そしてー。はぁ…と一つため息をついて、「やっぱり、覚えてないのね…」と俯いた。「?」それは、小さな声だった為に香織には聞き取れなかったが、女性が困惑していることはわかった。やがて、彼女は気を取り直したように顔を上げると、にっこりと微笑んだ。「高橋美華よ。よろしく」差し出された手を見て、香織も自己紹介をした。「篠原香織…です」おずおずとその手を握ると、彼女…美華は「篠原…ね」とボソリと呟いた。香織がそれに首を傾げると、美華は「ううん」と苦笑した。そして続けた。「都月渉の婚約者よ。昨日、彼から助けを求められたの」「っ…」それに、香織の顔がピシッと強張った。婚約者……。香織の胸の中に、ズン…と重い何かが投げ込まれた気がした。そして、自嘲するように彼女はフッ&hell
しばらく、躊躇うように名乗ることを渋っていた男はやがて、「隼斗(はやと)」とボソリと答えた。渉はそれに頷くと、自分のことは好きに呼べと言い、スマホを取り出した。「何を…?」隼斗が不安げに問うのに、渉はメッセージを打ちながら「まぁ、待ってろよ」そう言って、意味ありげに口角を上げた。*香織は、龍牙と一緒に正面ロビーに出ていき、そこで連絡を受けて待っていた警備の男と共に、待ち構えていた警官のところへ行った。そこへー「香織っ」人混みをかき分けて、兼悟が現れた。彼は痛ましい顔をして、ふらつく香織を龍牙の代わりに支え、待機していた救急車へと連れていった。龍牙はそのまま香織の服の裾を掴み、置いて行かれないようにと足早について行った。その時ー。「香織さん」自分を呼ぶ声に香織が振り向くと、そこには凛とした立ち姿の一人の女性がいた。龍牙はその女性の顔を見た瞬間、ピタッと足を止めた。高橋美華ーー。それは、ネットで見た、渉の婚約者の顔だった。「お久しぶりね」「?」香織が美華の言葉に眉を寄せると、彼女は苦笑した。そして小さな声で、「噂は本当のようね…」と呟いた。龍牙には、その全てが聞こえていた。アイツ……。龍牙の胸は、渉への嫌悪に黒く染まった。ここにまでこの人を連れてきてるのか…?じゃあなんで、ママにちょっかいをかけるんだ?彼は唇をきゅっと噛みしめた。ほんの少し前、渉が香織を助けたことが、まるでただの茶番のようだった。香織は、「あの…?」と美華に物言いたげな視線を向けた。彼女が言った「お久しぶり」という言葉の意味が、分からなかったのだ。
あれは、香織が自分に借金を頼んできたのを素っ気なく断わった、数日後のことだった。その日、渉はとある会合の帰りで、運転手が車を回してくるのを待っていた。突然ー。キャーッ!と女性の叫び声が響き渡り、振り向くと、初老にさしかかった頃の一人の男が、包丁を片手に息を切らして立っていた。彼の頭髪は見苦しく乱れ、ネクタイは首にぶら下がっているだけ。シャツはよれよれで、無精髭すら生えていた。渉はその姿に嫌悪感を募らせ、自然と距離を取った。男はそれを見て激昂した。「お前も親父と同じだ!」「…なんだと…?」渉の低い声は、男の耳には届かなかった。「お前も親父と同じで、俺みたいな生まれの悪い人間をそうやって見下してるんだろう!」「……」その言葉に、渉は身体ごと向きを変えて男を正面から見据えた。そして、気がついた。「ああ…。あなたは確か…小林さん?でしたか」「そうだ!お前の親父が、理由のわからん言いがかりをつけて潰した、小林建材だ!」「……」渉は思った。要するに、この男は父親に恨みを持っている、ということだ。だから言った。「それと俺が、何の関係がある?」「なー!」その言い草に、小林は言葉を失った。手に持つ包丁をグッと力を込めて握りしめ、その目は、渉を射殺したいというように赤く血走っていた。その時ー。「お待たせしました……キャッ!」渉の忘れ物を取りに行っていた香織が、戻ってきた。それに素早く視線を向けた小林が、標的を変えて彼女を捕まえた。そして皮肉げに、「こんな美人を秘書にしてるとは…。やっぱりお前も、親父と同じ穴の狢だよ」と言った。渉は不快げに、そ
兼悟が車を飛ばして会社に辿り着くと、深夜にも拘らず、そこには大勢の警官によって物々しく包囲されていた。「なんだ、これは…」規制線の外で呆然としていると、人混みの中から一人の女性が歩いてきた。「失礼ですが、中村社長でいらっしゃいますか?」彼女はこんな時間なのに、完璧なメイクをして隙なく身だしなみを整えていた。「君は…?」問いかけると、彼女は淡く微笑んでスッと手を差し出した。「高橋美華と申します。都月社長に言われて、ここに彼らを引っ張ってきました」彼女の言う〝彼ら〟とは、この大勢の警官のことらしい。「……」兼悟は差し出された手を見て、そして次に彼女の顔を見て、眉を顰めた。「どういうことか、説明してもらえますか?」「もちろんです」美華は無視された手を下ろして、兼悟を規制線の中へと案内した。そしてこれまでの経緯ーー香織がここの資料室に監禁されているらしいこと。彼女の息子が渉に助けを求めたこと。そして今、2人が彼女を助ける為に犯人と対峙していること。…などを語って聞かせた。兼悟は、彼女の話に驚きつつも、龍牙がよりにもよって「渉に助けを求めた」ということに、苛立ちを覚えた。なぜあの男なんだ…。兼悟は、思わず拳を握りしめていた。*「どうする?もう時間がないぞ?」渉の言葉に男は焦った。本当に、自分は騙されていたのか?本当に、警察が動くのか?もし、嘘だったら…?迷った末に、改めて香織にナイフを突きつけ「警察をここに来させるな」と警告した。だが、「もう遅い」という渉にハッとして、窓の外に視線を向けると、そこにはどんな凶悪犯を追い詰めているんだ、と言いたくなるほどの警官がいた。「は…?」
「待てっ…」渉の切羽詰まったような声がした。香織の耳は、彼の声からその必死さや、不安を感じ取っていた。だが彼女の不安は、別のところにあった。龍牙ー。こんなところにまだ小さなあの子がいるなんて、考えただけで胸が押しつぶされそうなほど不安だった。できればこの状況を見て、部屋から出ていてほしい。あの子は賢いから、そのまま警察に通報してくれるかもしれない。それなら自分は、このまま時間を引き延ばせばいい。香織は、龍牙が被害に遭うことだけが怖かった。渉ならきっと、自分でなんとかするはずだから…。そんな都合のいいことを考えていた。*部屋の中は薄暗く、窓の外から入る明かりだけが頼りだった。その時渉は、手にしていたスマホが震え、画面にメッセージの通知が記された。それは美華からのもので、一言『OK』とあった。それを見た渉は、少しだけ余裕を取り戻した。突入する前、彼は美華に警察を連れてここの下に待機してもらうよう依頼していたのだ。そしてその返事がきた。渉は、今こそこの膠着状態を打破する時だと決断した。「何が目的だ?金か?」問いかけながら、ジリジリと2人に近づいていく。「提案がある。…人質を交換しないか?」その言葉に、香織も、離れたところにいた龍牙も、驚いて目を見張った。なんで……。2人が驚いているように、犯人の男も一瞬、その目を呆れたように瞬かせた。そして、「お前と?」とバカにしたように鼻で笑った。だが渉はそんな男をまっすぐに見据え、一段低くした声で言った。「よく聞け。彼女を人質にしたところで、大した金にはならない。彼女はただの会社員だ。そんな者の為に、いったい誰が大金を払う?」「そーー」「だが、俺は違う」渉は、男に口を挟ませ
龍牙は渉に視線で合図をして、ドアから少し離れたところに移動した。そしてコソコソと小さな声で罵倒した。「おじさん、バカなの!?中にいる奴に僕らがいることバレたら、どうするのさっ」「いや、だってお前……」渉は、チラリと龍牙のパソコン画面を見た。そこにはこの建物内の監視カメラの映像がいくつも映し出されていて、それはつまり、龍牙がここの管理システムに潜り込んだことを証明していた。「いいのか?兼悟おじさんの会社だぞ?」「だから何?」龍牙はふんっと鼻を鳴らした。「別に初めてじゃないし。ママを助ける為なんだから、別にいいでしょ?」「……」その言い草に、渉は呆れて思わず苦笑を漏らした。なんてことだ。共感できる。渉はこの小さな子の大胆で、不遜な言動に、図らずも同意してしまった。ただ彼が子供だというだけで、つい常識ぶったことを言ってしまった自分を恥じたくらいだった。そうだ。香織は今、何らかの事件にきっと巻き込まれているのだ。そんな時にハッキングは犯罪だとか、知り合いの会社のシステムを弄るようなことをしてはいけないだとか、そんなことを言っている場合ではなかった。よし…。渉は意を決すると、自分にもできることをする為に、スマホを取り出した。そして素早くメッセージを送り始めた。*その頃、兼悟は白鳥家との食事からようやく解放されて車に乗り込んでいた。そしてポケットからスマホを取り出し、画面を確認した。着信履歴が1件。メッセージの受信が1件。いずれも香織からだった。兼悟はそれを目にすると、すぐに彼女にかけ直した。トゥルルルル…トゥルルルル…そしてー『おかけになった番号はー』届いた音声に、すぐさま電話を切った。何か、嫌な予感がした。







