LOGIN「え、誰?」
思わず聞き返したら、パウラは補足してもう一度言ってくれた。 「王子殿下です。アディノス王子殿下。ナノリア様ご執心の」 「やめて。執心してないから」 正確には私は、していない。 「何の用?」 「聞いてませんけど、聞いてきましょうか?」 「普通聞くものじゃないの?」 取次ぎってそういう者じゃないのか。 パウラがさあ、と首を傾げた。 「だってナノリア様は用件を聞いたことなんてなかったので」 そうか、好きな人が来たらすぐさま招き入れてたか。 いや、それでもさ。普段、まったく交流のないレディーの部屋に来るんだから、向こうから用件を言ってしかるべきでは。 コンコン、とノックの音が響く。待ちきれなくて催促のノック。 「あ、来ちゃいましたね」 「え、なに、はやいはやい」 「いつもより遅いからですよ多分。いつも、はーい! って走っていくじゃないですか」 はーい、の所を高い声で再現された。ちょっと悪意を感じる。 それは置いておいて。 私は、王子には特に会いたくもない。それよりお昼ご飯が食べたい。 断ったら駄目だろうか。まだこの体に入って昨日の今日だし、因縁の相手にはもう少し馴染んでから会いたい。 いや、次期国王だし、無碍にしたらだめなんだろうか。 そんなことを考えていたら。 「開けろ」 若い男の声が響く。——アディノスの声だ。 条件反射で体に緊張が走った。 そしてこの侍従に開けさせたのだろうが、入って来たのはアディノス一人だった。
こちらを見て、あからさまに眉を寄せる。 「いるなら早く開けろよ」 すっごい、偉そう。 そのまま遠慮もなく入ってくると、部屋の中にある椅子にどかりと座った。 ものすごく久し振りに見たような、映画の中の人に会ったような、不思議な感覚だ。 確かに目鼻立ちは整った方かな。母親似の綺麗な顔をしている。 明るい茶髪に、翡翠色の目はいかにも王子様と言った風貌だ。 長い脚を組んで肘をついてる。 態度悪いな。 一周回ってかっこよく見え……ない。全く見えない。 え、この王子のどこが良かったんだろう。 ついまじまじと見つめてしまったけど、一ミリも魅力を感じない。会いたくて追いかけた記憶はあるけど、実際何が良かったのか、その時の感情が抜け落ちてしまったみたいだ。 だって今だって、パウラに顎で出て行けって指図をしている。 偉そうに。 人を顎で動かすって……慣用句の世界だけかと思ってたわ。 「ナノリア」 呼ばれてはっと目を合わせる。 あ、私か。 アディノスが不機嫌そうに私を見つめている。 「何を呆けている」 「いえ」 「いつまで俺を見降ろすつもりだ?」 座れって普通に言えばよくないか? ため息を押し殺して私は対面の椅子に座った。 「何をしている」 「え?」 座ったんですけど。 「お前は、そこ」 アディノスは床を指さした。 「ここ……?」 くくっ、とアディノスは嫌らしい笑みを浮かべた。 「お前が俺の同じ高さに座れるわけないだろ?」 ——うわあ。 私は口を開けたまま一瞬固まってしまった。同時に一昔前の記憶が蘇る。 ——床に這って俺の靴を舐めてみろよ。その間は側にいてやる。 一緒にいたいと縋るナノリアにアディノスはそう言い放った。 ナノリアを嘲笑い、楽しそうにもてあそんでいた。そうしてナノリアに馬鹿にしたように言い放つんだ。 ——お前は本当に俺の事が好きなんだな。恥ずかしくないのか? ナノリア。そんな誇りも持たない惨めなお前を、一体誰が好きになる。本当に、浅ましく、救いようのない奴だよお前は。 繰り返し、繰り返し……。刻み込まれていく言葉の歩き方、姿勢、礼儀作法、言葉遣い。 淑女としての知識にはそのほかにも一般的な勉強は、前世の知識を以てしても慣れない事の連続で。 ブレイクの隣に立つのにふさわしい女性になりたい、その一心でひたすら勉強に打ち込んだ。 ずっと燃える気持ちで——燃えすぎたのかもしれない。 ほんの少しだけ、熱をだしてしまった。「今日は休んでください」 そうセレナに珍しく強めに言われて、私はベッドに横になった。 少し頭が重いけれど、寝込むほどではないのに。 ただ、体がぽうっと熱い。「熱が出たと聞いた」 ブレイクがいつもの朝の時間にやってきた。「少しだけです。そんなに心配しなくても……」「心配するに決まっているだろう」 ブレイク様は椅子を引き寄せ、私のそばに座った。 座るんだ。——そう思ったら、そのままごそごそと色々と取り出して……。 水とか、果物とか、本とか。「ブレイク様が看病してくれるんですか」「もちろんだ」 忙しいはずなのに。 でも、久しぶりに一緒にいれると思うとちょっと嬉しい。 とはいえ……そこまで重症じゃないから、暇だ。 ブレイクはいつも話をしてくれるのに、今日は看病だからなのか、私に寝るように言って横で本を読んでる。 じゃあ私も——そう思って昨日読みかけていた本に手を伸ばす。その手をそっと遮られた。「どうした? 何が欲しいんだ」「あ、ちょっと。暇なので、本でも読もうかと」「病人なのに?」 ブレイクが眉を寄せた。 私って大病を患ってたんだっけ——と思うような反応だ。 本当に問題ない程度なのに。「そんながっかりした顔をするんじゃないよ。私が読んであげよう」「え、ブレイク様が」「ああ。だからほら、目をつぶっていなさい」 ブレ
最近、ブレイクの様子が少し変だ。 変というか……なんというか……距離が遠いような。 優しいのに、どこかぎこちない。 邪険にされているわけでも、避けられているわけでもない。「うーん……」 聞くほどの変化でもないし、言葉にできない程度なんだけど。いつもより1センチ遠い、程度の。 私は意を決して、ブレイクの執務室に向かった。 さっき執事さんから手紙を預かったから、そのお届けだ。 扉をノックすると低い声が返ってくる。「入っていい」 よそ行きの、仕事用の声だ。 ちょっとドキドキしながら扉を開けると、ブレイクは机に向かっていた。 いつものように背筋が伸びていて、姿勢が綺麗で、ずっと見て居たくなる。「——どうし……ナノリア?」 黙っていたから不思議に思って顔を上げて、ようやく私だと分かったらしい。おかしくなって笑ってしまう。 公爵として忙しくしているのは知っているけど、仕事モードの姿はあまり見ることが無いから貴重だ。 取り繕おうとしているのが分かってしまう。「はい。お手紙のおとどけです」 気づかないふりで近づくと、ブレイクが立ち上がって受け取ってくれた。「わざわざ、ありがとう。執事は——」「ブレイク様の顔が見たくて、預かって来たんです」「そ、そう、か」 不意打ちに弱かったのか、きょとんとして固まってしまった。 私は首を傾げた。「もしかして、結構疲れてますか?」「いや……ちょっと集中しすぎていて、びっくりしただけだ」 確かに、シャツの袖が少しインクで汚れている。髪も掻き上げたのか少し乱れていた。 ブレイクが眼鏡を外してふう、と息を吐いた。「すみません、お邪魔して」 そう言って帰ろうとして、ふと気づく。「ブレイク様、襟が…&
——ナノリアが変わった。 それは、ある日突然ではなく、少しずつの変化だった。いや、きっかけで言えば王城で王妃やアディノス殿下と決別をしたからかもしれない。 コーンワルドに帰ってきてやっとゆっくりしてもらえると思っていたら、ナノリアは急に忙しく勉強を始めたのだった。 そんなに頑張らなくても、ナノリアは素のままでも十分―—その先がうまく言えないままに、母に一睨みで黙らされた。 まあ、ナノリアが淑女教育を楽しんでいるうちは、それも彼女にとってはいい事なのかもしれない。 世界が広がるのは、何よりも良い事だろう。 そう思い見守ろうと思っていたら——気づけば、彼女は以前とは違う輝きを纏っていた。 朝、廊下で偶然すれ違った時。 ナノリアは淡い桃色のドレスを着ていた。 いつもより髪が丁寧に整えられていて、 歩き方もどこか淑女らしい。「おはようございます、ブレイク様」 そう言ってふわりと微笑み、完璧なお辞儀をされる。 文句のつけようのない所作、流れるような美しい動き。その声は以前より少しだけ緊張しているように聞こえた。「……おはよう、ナノリア」 言いながら、私は一瞬だけ言葉を失った。 彼女がこんなふうに変わるとは思っていなかったからだ。 日に日に美しくなっている。今にも折れそうだった体が健康的になって、活発に動く。萎れていた羽もピンと伸びて輝き、ふわふわと揺れるのから目を離せなくなる。 だが同時に——チリ、と胸の奥が痛んだ。 ナノリアは成長している。 自分の足で歩けるようになっている。 もう少しで、自分の庇護など全く必要としなくなるような気がした。*** ある日の夕方。 リーフェルの花を摘んで戻ると、庭園でナノリアがやってきた。姿を見つけると小走りで駆け寄ってきてくれる。少し息の上がったところが可愛らしく思う。「ブレイク様、その花…&
ブレイクが意識してしまうと言ってくれた日から、私は少しだけ勇気を持てるようになった。 だって——ブレイクが、私を女性として見てくれている。 意識するって、そういう意味よね。そう思う事にした。 ブレイクの言葉で一喜一憂してしんどいくらいだけど。私はその一言で、突き進むと決めた。 そうすると毎日が少しだけ明るくなった。 ——よし。 焦っても仕方ない。私は何も知らない、世間知らずな何でもないただの妖精らしき生き物で。このままで何もできていないのに、守ってもらってばかりだとか、子ども扱いだとか。それは当然だったと思うから。 だから——まずはしっかりと、自分を磨くことからしようって、決めた。 以来、私は適当にしていた身だしなみをちゃんとすることにした。 いや、決して小汚くしていたわけではないんだけど。 今まではドレスなんて何でもいいと言っていたし、髪もセレナが整えてくれるままにしていた。 でも、ブレイクが「意識してしまう」と言ってくれたから……。 私は自分の見た目を少しだけ気にするようになった。 セレナは最初こそ驚いていたけれど、すぐに嬉しそうに手伝ってくれた。「ナノリア様、今日はこの色がよく似合いますよ」「え、そうかな……?」「はい。お肌が明るく見えます」 同じ赤色にも色々とあるとか、知らなかった。「ナノリア様にはこういう明るい色も良くお似合いになりますね」 そんなふうに言われると、胸がくすぐったくなる。 見かけだけじゃ意味がないから、勉強も始めた。 所作については、教師をつけてもらった。歩き方も、姿勢も、気をつけるようになった。 特にルイーナが手伝ってくれて、淑女教育の基本的な教養には何がいるかを教えてくれた。 覚えないといけないことが山ほどあって目が回るけど、勉強を始めると言うのは思っていた以上に楽しい。「任せなさい」 ルイーナは満面の笑
——やっぱり、流石にブレイクは経験豊富な大人の男性だなと思う。 朝食はぎこちなく感じたのに、次にあった時からは見事にいつも通り。 まあね、分かってた。 恋愛対象外だもん。 いつも包み込むような温かい態度で接してくれる。怒ることもなくて、私に何かを望むことも……。「——ナノリア様?」 声を掛けられてはっと気づく。「窓をすり減らしたいんですか」 パウラがそう言うのも無理はない。多分、30分くらい窓を磨き続けていた。「——そろそろやめようかな」 今日はちっとも集中できない。いつもなら、掃除をすれば少し気が晴れるのに。「はいはい。回収しますね」 パウラがそう言って私の手から雑巾を受け取った。「一体どうしたんですか。体調——は、良さそうですけど」「うん……」 思い切って、聞いてみようかな。パウラは唯一コーンワルドの人じゃないから、相談するなら彼女しかいない。「あのさ。ブレイク様は、私の事、その……なんて思ってると思う?」 パウラは目を瞬かせて、それから珍しく視線を泳がせた。「そうよね。そういう風には、見てないよね……」「いや、その……私の事をどんな風に思ってるか知りませんけど、私も男と付き合ったことないので」「えっ」「なんですか、えって。そんな暇ないですよ」「あ、それはごめん」 そうか、私のせいで王城では仲間もいなかったし、毎日王城に通ってたら忙しかったのか。 そうでなくても、そのさばさばした性格は、相手を選びそうだけど……余計なお世話だな。「公爵様がどう思ってようが、関係ありますか?」 大ありだと思う。 その発言の意味が分からなくてびっくりする私に、パウラはいつものように親指を立てた。
コーンワルド公爵領に戻って数日が経った。 屋敷のどこからも森の匂いがする。リーフェルの花の香りも。 風が柔らかいし、土の色も、空の青さも、王都とはまるで違う。 やっぱり、この素朴な香りが一番落ち着く。 私は目が覚めるとまず窓を開けて、この自然の香りを部屋に取り込むのが日課になっていた。 そうするといつもノックの音がする。「はあい」「おはようございます」 コーンワルドの侍女のセレナ達だ。私が帰還すると本当に喜んでくれた。 そして、その後ろから入って来た——パウラ。 コーンワルドに帰って来る時、パウラには王都に残るかどうかを、一度改まって聞いてみた。彼女の故郷は王都だし、結婚適齢期でもあるし。 するとパウラはあっさり、コーンワルドについて来てくれると言った。 仲良くはなったかなと思っていたけど、王都の家を引き払ってまでついて来てくれるとは思わなかったから、実はかなり嬉しかった。「本当にいいの? 次はいつ王都に帰るかわからないよ」「大丈夫です。嫌になったら帰るので」 パウラはさらりといつもの無表情でそう言った。 思わず笑ってしまった。「——じゃあ、私はパウラに嫌われないように気を付けないとね」 そんな会話をしていた。「朝のお支度をいたしますね」 セレナがそう言って、手際よくいつもの朝の支度をしてくれる。 一通り終わる頃に、もうすぐブレイクが迎えにきてくれるだろう。そんな日常——。「パウラ」 私は意を決して、パウラを呼んだ。 セレナらはもう去って、今は部屋に二人きり。パウラは今から掃除をしようとしている。「はい?」「私ね、そろそろ再開しようと思うの」「何をですか」 パウラは作業をしながら聞いて来た。 こういうところは相変わらずだ。「掃除」「え」 パウラが手を止めて私を見る。「だから、持ってきてくれる? 雑巾