LOGINDAY35
インターホンが鳴ったのは、台所でYuraのリンゴを切ってる時だった。 彼女はソファに丸まってドキュメンタリーを見てた。ペンギンのやつ。インターホンの音がすると、彼女の耳がピクッと動いて、それから全身がソファの隅っこに縮こまった。ペンギンのぬいぐるみを胸に抱えて。 「大丈夫。」包丁を置いて、手を拭いた。「見てくる。」 ドアスコープから、一人の男が見えた。 188センチの長身が、廊下の明かりをほとんど遮ってる。濃いグレーのシャツ、袖は腕まくり。手には果物の袋と、もう一つ包み——僕の知ってるブランドだ。Yuraが前に好きだった菓子折り。 叶初。 41歳。法医学部の教授。 僕より背が高くて、ガタイもいい。 深く息を吸って、ドアを開けた。 「叶教授。」と言った。「何か?」 彼は僕を見た。視線は平らだった。 「Yuraが退院したって聞いてね。」低い声だ。「見に来た。」 「構わないか?」 最後の言葉が終わらないうちに、後ろから物音がした。 振り返った。 Yuraがリビングの真ん中に立ってた。 いつソファから降りたんだろう。ペンギンはまだ抱えたまま。でも、縮こまってもいないし、隠れようともしてない。彼女はそこに立って、玄関を見てる。あの男を—— それから、彼女が動いた。 玄関に向かって走り出した。 「Yura——」 手を伸ばして引き留めようとしたけど、彼女の方が速かった。僕の横をすり抜けて、玄関に、あの男に—— そして彼女は、彼に抱きついた。 彼の腰に抱きついて、顔を胸に埋めて、全身を預けた。 いつも僕にぶら下がるあの「掛かり方」とは違う。 ぎゅっと、力を込めて、全身を貼り付けるような抱きつき方だ。 彼女は彼の胸に顔を擦り寄せた。一度、二度、三度。 それから声を出した: 「にゃあ。」 その声、僕は今まで聞いたことがなかった。 お腹が空いたときの短いニャじゃない。眠いときの伸びるニャじゃない。抱っこしてほしいときの甘えたにゃあでもない。 それは——喉の奥から絞り出すような、ねっとりした、子猫が何かに向かって出すみたいな声だった。 叶初はうつむいて彼女を見た。 彼は動かなかった。ただ立ったまま、彼女に抱かれて、擦り寄られて。 それから彼は手を上げた。 その手は大きくて、骨ばってる。彼はその手を上げて、そっと彼女の背中に置いた—— ポンと叩いた。 ただ、それだけ。 でも彼女は、全身から力が抜けた。 その叩かれた一瞬で、彼女は脱力した。まるで骨を抜かれたみたいに、ようやく落ち着く場所を見つけたみたいに。 彼女はもっと深く顔を埋めて、全身を彼に預けて、微動だにしない。 僕は彼女の後ろに立って、まだ手を伸ばしたまま。 何も掴めなかった。 「Yura。」叶初が口を開いた。 彼の声はすごく低くて、沈んでた。 彼女は顔を上げて、彼を見た。 目がキラキラしてる。その輝きは、普段僕に向けるそれとは違う。 「にゃあ。」彼女は鳴いた。顎はまだ彼の胸に乗せたまま。 叶初はうつむいて彼女を見た。 見てた。数秒。 それからまた手を上げた。 今度は背中を叩くんじゃない。 彼女の頭の上に手を置いた。 置いた。 それからそっと、撫でた。 ただそれだけ。 彼女は目を閉じて、声を出した—— ニャじゃない。 「ゴロゴロ……」 猫が気持ちよく撫でられたときに出す、あの音だ。 「Yura。」 自分の声が聞こえた。かすれてて、沈んでた。 彼女は動かない。 「Yura。」もう一度呼んだ。 彼女はやっぱり動かない。 叶初が僕を見た。 一瞬だけの、淡々とした視線だった。 彼は彼女の頭に置いた手を下ろし、肩をトントンと叩いた。 「ご主人が呼んでるよ。」彼が言った。 彼女はやっとゆっくりと振り向いて、僕を見た。 目はまだキラキラしてる。でもその輝きが、引いていく。彼女は僕を見てる。まるで夢から覚めたばかりみたいに、まだ僕って人間がいたことを思い出したみたいに。 「U?」彼女は首をかしげた。声が甘い。 「おいで。」僕は言った。 彼女は彼を抱く手を離して、僕の方に歩いてきた。 すごくゆっくり。何度も振り返って、まだ彼を見てる。 僕の前に来て、手を伸ばして僕の服の裾を掴んだ。 「U。」呼んだ。声はまだ甘い。 うつむいて彼女を見た。 その目は、さっきまであんなに輝いてた。彼に向かって。 今、僕に向かってるそれは、甘くて、依存してて—— でも、あの輝きはない。 「叶教授。」顔を上げて、彼を見た。「来てくれてありがとうございます。彼女、休ませないといけないので。」 叶初は僕を見て、それから僕の後ろのYuraを見た。 彼はうなずいた。 「じゃあ、俺はこれで。」彼は荷物を差し出した。「これ、彼女に。ちゃんと世話してやれ。」 荷物を受け取って、何も言わなかった。 彼はエレベーターの方に歩いていく。 エレベーターの前に着いたとき、彼は一瞬止まって、振り返った。 見てるのは僕じゃない。 彼女だ。 一瞥だけ。とても短い。 それからエレベーターのドアが開いて、彼は中に入り、ドアが閉まった。 僕はその場に立って、まだその袋を手に持ったまま。 後ろで、Yuraが僕の服の裾を引っ張った。 「U?」 動かなかった。 もう一度引っ張った。 やっぱり動かなかった。 荷物を靴箱の上に置いて、振り返って彼女を見た。 彼女はそこに立って、顔を上げて僕を見てる。ペンギンはまだ抱えたまま。目はキラキラしてる——僕が慣れてるあの輝きで。 「にゃあ?」首をかしげる。 その顔を、その目を見た。 「さっき、あの男に抱かれてたな。」言った。 彼女はパチパチ瞬きした。 「あいつに抱かせたな。」言った。「あいつを抱いたな。」 彼女はまだパチパチ瞬きしてる。 「あいつにあんな声出したな。」声が震え始めた。「あんな声、一度も出したことなかった。」 彼女はそこに立って、ペンギンを抱えて、僕を見てる。 それから彼女は笑った。 嬉しそうな笑いじゃない。「どうしたの?」っていう笑いだ。何も分かってないっていう笑いだ。 手を伸ばして僕の服の裾を引っ張る。 「U。」呼んだ。甘い声で、いつもみたいに。 その声も、その仕草も、その目つきも—— 全部、いつも通りだ。 全部、僕に向かってる。 でも、今日はそれじゃ足りなかった。 今日、彼女があいつに向かってあんな声を出すのを見た。あいつに向かってあんなに甘えるのを見た。あいつに一発叩かれただけで全身を溶かすのを見た—— 僕は振り返って寝室に入った。 ドアを閉めた。 ベッドの縁に座って、両手で額を支えた。 外からは、何の音もしない。 長い時間が経って、ドアのノブが動いた。 ドアが少し開いた。彼女の頭が覗いて、僕を見てる。 「U。」呼んだ。声は小さかった。 動かなかった。 彼女は部屋に入ってきて、僕の前に来て、手を伸ばして僕の服の裾を引っ張った。 「U。」 顔を背けて、彼女を見ないようにした。 彼女の手が、そこで止まった。 数秒後、また引っ張った。 やっぱり無視した。 彼女はそこに立ったまま、僕の服の裾を引っ張って、何度も何度も呼んだ: 「U。」 「U。」 「U。」 応えなかった。 彼女は呼び続けた。呼び続けて、どんどん声が小さくなった。 その後、呼ぶのをやめた。 手も離した。 足音がゆっくりと遠ざかって、寝室を出て、僕の視界から消えた。 ベッドの縁に、長いこと座ってた。 長くて、窓の外の光の色が変わるまで。 立ち上がって、寝室を出た。 リビングに誰もいない。ソファに誰もいない。台所に誰もいない。トイレに誰もいない。 一瞬、止まった。 「Yura?」 返事がない。 探し始めた。ベランダ、書斎、物置—— いない。 最後に、寝室に戻った。 それから、あの隅っこが見えた。 クローゼットと壁の隙間。1ヶ月前、彼女が初めてうずくまってた場所。 彼女がいた。 彼女は僕の古い服を引っ張り出してた——セーターと、パーカーと、彼女が好きだったあの古いTシャツ。それらを床に積み上げて、巣を作ってた。 それから彼女はその巣に丸まって、あのTシャツを抱いて、顔を埋めてた。 肩が、震えてる。 声はない。 ただ縮こまって、僕の服を抱いて、震えてる。 僕はそこに立って、その光景を見てた。 1ヶ月前、彼女もこうだった。 あの隅に縮こまって、自分を隠して。 もう戻らないと思ってたのに。 歩いていって、しゃがみ込んだ。 「Yura。」 彼女は顔を上げない。 「Yura、ごめん。」 やっぱり顔を上げない。でも肩の震えがもっと激しくなった。 手を伸ばして抱きしめようとした。 手が彼女の肩に触れた瞬間、彼女は全身を縮めて、後ろに避けた。 喉の奥から声が漏れた—— 「にゃう……」 その声はすごく小さくて、暗くて、泣き声が混じってて、嗚咽が混じってた。 彼女の手はまだ、僕のあのTシャツをぎゅっと握りしめてた。指の関節が白くなるほど。 僕の目頭が、急に熱くなった。 「Yura。」声が嗄れた。「ごめん、無視したりして。」 彼女は僕を見ない。 もっと深く顔を埋めて、もっと小さく縮こまる。まるで僕の服で作った巣の中に、自分を完全に隠してしまおうとするみたいに。 僕はそのまましゃがんで、彼女を見てた。 彼女があの隅に縮こまって、僕の服を抱いて、あの小さな嗚咽を漏らすのを。 「にゃう……にゃう……」。何度も何度も、子猫が泣くみたいに。 手を伸ばした。今回は触れずに、ただ彼女の前に置いた。 「Yura、一緒に戻って寝よう?」 彼女は動かない。 「怒ってないよ。」言った。「僕が悪かった。あんなことするんじゃなかった。」 彼女の肩はまだ震えてる。 でもしばらくして、彼女の手がゆっくりと伸びてきた。 僕の手を取るためじゃない。 あのTシャツを、僕の方に押し出してきた。 彼女が抱いてた、握りしめてた、顔を埋めてた、僕の古いTシャツ。 それを、僕に差し出した。 それから顔を上げて、僕を見た。 目は赤くて、腫れてて、顔中が涙の跡だった。そんな顔で僕を見て、口をへの字にして、まるでひどい目にあった子供みたいに。 「にゃう……」 その声は、言ってるんだ:あげる。 僕の服なんか、いらない。 お前の服が欲しいんじゃない。 お前が欲しいんだ。 手を伸ばして、彼女を抱き寄せた。 今度は彼女は避けなかった。 でも、泣いた。 無言の泣き方じゃない。顔を僕の胸に埋めて、あの小さな、嗚咽するような泣き声をあげた。「にゃう……にゃう……」。何度も何度も、子猫が何かを訴えるみたいに。 抱きしめて、何度も何度もごめんって言った。 彼女はただ泣いて、ただ嗚咽して、ただあのTシャツを僕たち二人の間に握りしめたままだった。 どれだけ経ったか分からない。彼女は泣き疲れた。 声がだんだん小さくなって、しゃくりあげるだけになって、たまに「にゃう」って一声だけになって、最後には規則正しい呼吸になった。 眠ってしまった。 僕の腕の中で、あの隅っこのそばで、散らばった古い服の上で。 うつむいて彼女を見た。 まつげにはまだ涙が乗ってて、眉間にしわが寄ってて、手はまだ僕の服の裾を掴んでる。 そっと抱き上げて、ベッドに寝かせた。 彼女はちょっと動いて、僕の胸に擦り寄って、気持ちいい場所を見つけて、また眠りに落ちた。 彼女の隣に横たわって、見つめた。 窓の外の月はすごく明るかった。 彼女の呼吸がだんだん規則的になっていく。 抱きしめたまま、長いこと、ずっと眠れなかった。DAY35インターホンが鳴ったのは、台所でYuraのリンゴを切ってる時だった。彼女はソファに丸まってドキュメンタリーを見てた。ペンギンのやつ。インターホンの音がすると、彼女の耳がピクッと動いて、それから全身がソファの隅っこに縮こまった。ペンギンのぬいぐるみを胸に抱えて。「大丈夫。」包丁を置いて、手を拭いた。「見てくる。」ドアスコープから、一人の男が見えた。188センチの長身が、廊下の明かりをほとんど遮ってる。濃いグレーのシャツ、袖は腕まくり。手には果物の袋と、もう一つ包み——僕の知ってるブランドだ。Yuraが前に好きだった菓子折り。叶初。41歳。法医学部の教授。僕より背が高くて、ガタイもいい。深く息を吸って、ドアを開けた。「叶教授。」と言った。「何か?」彼は僕を見た。視線は平らだった。「Yuraが退院したって聞いてね。」低い声だ。「見に来た。」「構わないか?」最後の言葉が終わらないうちに、後ろから物音がした。振り返った。Yuraがリビングの真ん中に立ってた。いつソファから降りたんだろう。ペンギンはまだ抱えたまま。でも、縮こまってもいないし、隠れようともしてない。彼女はそこに立って、玄関を見てる。あの男を——それから、彼女が動いた。玄関に向かって走り出した。「Yura——」手を伸ばして引き留めようとしたけど、彼女の方が速かった。僕の横をすり抜けて、玄関に、あの男に——そして彼女は、彼に抱きついた。彼の腰に抱きついて、顔を胸に埋めて、全身を預けた。いつも僕にぶら下がるあの「掛かり方」とは違う。ぎゅっと、力を込めて、全身を貼り付けるような抱きつき方だ。彼女は彼の胸に顔を擦り寄せた。一度、二度、三度。それから声を出した:「にゃあ。」その声、僕は今まで聞いたことがなかった。お腹が空いたときの短いニャじゃない。眠いときの伸びるニャじゃない。抱っこしてほしいときの甘えたにゃあでもない。それは——喉の奥から絞り出すような、ねっとりした、子猫が何かに向かって出すみたいな声だった。叶初はうつむいて彼女を見た。彼は動かなかった。ただ立ったまま、彼女に抱かれて、擦り寄られて。それから彼は手を上げた。その手は大きくて、骨ばってる。彼はその手を上げて、そっと彼女の背中に置いた——ポンと叩いた。ただ、それだけ。でも彼女
DAY31 寝室の入り口に立って、彼女が冷蔵庫から物を取り出すのを見てた。 動作はすごく慣れたものだ。冷蔵庫のドアを開けて、腰をかがめて、手を伸ばす――取ったのは彼女の好きなヨーグルトと、昨日の残りの酢豚。彼女はお椀を二つ抱えて、膝で冷蔵庫のドアを押さえ、それから向きを変えて、電子レンジに向かう。 途中で、お椀が傾いて、酢豚の汁が何滴かこぼれた。床にポタッと。 彼女は止まって、その数滴の汁を見下ろし、また手に持ったお椀を見て、ちょっと戸惑ったような表情をした。 それからお椀をテーブルに置いて、台所に拭き布を取りに行った。 しゃがみ込んで、床を拭く。拭き終わったら、拭き布を台所に戻し、戻ってきてお椀を運び続ける。 電子レンジを開けて、中に入れて、ドアを閉める。彼女はそのパネルを数秒見つめた――文字が書いてあって、彼女はそれが読める。指を一本伸ばして、「快速加熱」って書いてあるボタンをツンと押した。 電子レンジが回り始めた。 彼女はそこに立って見てる。お椀が中でゆっくり回るのを、ガラスのドアに少しずつ曇りが広がるのを。 入り口でそれを見てる僕の心は、何とも言えない気持ちだった。 1ヶ月前、彼女はまだあの隅っこに縮こまって、僕に「シャーッ」って威嚇してた「猫」だった。 今は電子レンジが使える。 冷蔵庫から食べ物を出せるし、自分で温められるし、自分で食べられる。お風呂も――毎回、隣で付き添いは必要だけど、洗う動作は自分でやるようになった。携帯も使えるし、アルバムも見られるし、僕に電話もできる。 電話が一番最初に覚えたことだった。 あの日、台所で料理してたら、急に携帯が鳴った。手に取って見ると、着信表示:Yura。 何かあったのかと思って、慌てて出ながらリビングに走った。 リビングに着いて見ると、彼女はソファに座って、携帯を耳に当てて、僕を見てた。 「にゃあ。」携帯から彼女の声がした。 僕はそこに固まった。 彼女がもう一度鳴いた。「にゃあ。」 それから電話を切って、顔を上げて僕を見て、目を三日月みたいに細めて、すごく得意げだった。 その日、彼女は17回も電話をかけてきた。僕が家中を歩き回ると、彼女はリビングで僕が歩き回るのを見てて、数歩ごとに番号を押す。僕が出なければ、ずっとかけてくる。出れば、「にゃあ」って一声鳴いて、切る。
10日目。朝、目が覚めると、隣が空いてた。一瞬ぼーっとして、それからリビングから声が聞こえた――テレビの音だ。アニメじゃない。低くて落ち着いたナレーションに、動物の鳴き声が混ざってる。出て行くと、Yuraがソファに座ってた。リモコンを抱えて、画面をじっと見つめてる。テレビではドキュメンタリーが流れてた。アフリカのサバンナ、ヌーの大群が移動してる。砂煙がもうもうと。彼女は見入ってた。目もぱちぱちしない。しばらく立って見てた。映像がチーターに切り替わった。草むらに伏せて、耳をピクピクさせながら、羚羊の群れを狙ってる。Yuraの体がちょっと前のめりになって、両手をソファについて、首を長ーく伸ばして――彼女、そのチーターの真似してるんだ。耳も立てて、目も細めて、体も硬くして。それで、チーターが飛び出した。彼女も一緒に前に飛び出して、危うくソファから落ちそうになった。体勢を立て直してから、振り返って僕を見る。目がキラキラしてて、口から声が出た:「にゃあ!」それは「見た?」って意味だ。僕はうなずいた。彼女は満足そうに向き直って、また見続ける。急に思い出した。彼女、前もドキュメンタリー見るの好きだったな。特に自然系のが。アフリカのサバンナとか、深海の世界とか、極地の氷河とか、一日中見てても飽きないって言ってた。なんで好きなのって聞いたら、彼女は言ったんだ。「だって、リアルじゃん。あの動物たちは演技しないし、ただ自分たちでいるだけだから。」今、彼女はソファに座って、チーターが羚羊を追いかけるのを見てる。夢中になって。僕は台所に行って朝ごはんを作った。目玉焼き、温めた牛乳、パンを2枚焼く。皿を持って戻ると、彼女はまだ見てた。今度は海洋ドキュメンタリーに変わってて、ウミガメが珊瑚礁の間をゆっくり泳いでる。後ろから小さい魚の群れがついてく。朝ごはんをテーブルに置いた。彼女は皿をじっと見て、またテレビを見て、また皿をじっと見て――表情がすごく葛藤してる。「食べ終わったら見よう。」と言った。彼女はちょっと考えて、牛乳を一口飲んだ。目はまだテレビに釘付け。ウミガメがどっかに行って、代わりに色とりどりの小魚の群れが泳いできた。彼女の口がわあって開いて、牛乳が口の端から垂れた。ティッシュを渡す。受け取って、適当に拭いて、また見続ける。ため息をつい
彼女が僕の名前を呼ぶ回数が、だんだん増えてきた。「U」っていう音は、すごく正確に出せる。他のどんな音より正確だ。朝起きると、彼女は僕の顔をつんつんする。「U」。ご飯のとき、お椀を押し出してくる。「U」。僕がゴミを捨てに出ると、彼女は窓辺にうつ伏せになって、ガラス越しに見てる。「U——」たった、その一言だけ。それ以外のときは、やっぱり彼女はニャーニャー鳴いてる。お腹が空いたときはニャ、喉が渇いたときはニャ、遊んでほしいときはニャ、僕が見つからないときはニャ――その「ニャ」はすごく長く伸びて、何度も何度も、僕がどこかから現れるまで続くんだ。僕が出てきたら、やっと止まって、首をかしげて僕を見る。まるで「どこ行ってたの」って言ってるみたいに。病院に連れて行って再診してもらった日、彼女は最初から最後まで僕にしがみついてた。顔を僕の首筋に埋めて、誰も見ようとしない。医者は40代くらいの女性で、話し方がすごく優しかった。小さなオモチャでYuraの気を引こうとしたけど、Yuraは無視。話しかけても、Yuraは無視。「Yura?」医者が名前を呼んだ。Yuraの耳がピクって動いた。「Yura、お顔を上げて見せてくれる?」Yuraはもっと深く顔を埋めた。医者は仕方なさそうに僕を見て、彼女を下ろすように促した。試してみると、Yuraの手がすぐにギュッと締まって、爪が僕の後ろ首の肉に食い込んだ。痛くて息を呑んだ。「もういいです、もういいです。」医者は手を振った。「そのままで結構です。今の彼女の状態は……言語中枢の損傷がやはり深刻ですね。意味のある音節が出せているのは良いことですが、無理強いしないでください。彼女なりに、自分の脳で適応しようとしているんです。」「彼女は、戻りますか?」医者はしばらく黙った。「脳のことですから、誰にも断言できません。」彼女は言った。「ゆっくり良くなっていく人もいれば、ずっとこのままの人も……。お若いですし、もし――」「大丈夫です。」僕は遮った。Yuraが僕の腕の中で動いて、顔を上げて僕を見た。「U。」彼女は言った。「うん。」僕は彼女の額に自分の額をこすりつけた。「帰ろう。」帰り道、彼女は窓の外をずっと見てた。ある交差点を通りかかったとき、彼女が急に手を伸ばして窓枠に掴まり、顔をガラスにくっつけて、喉から聞いたことのない音を
5日目の朝、痛みで目が覚めた。 何かが僕の髭を引っ張ってる。 その痛みは鋭い痛みじゃない。細かい、一本一本の、皮膚の奥から引き剥がされるような痛みだ。誰かがピンセットで産毛を挟んで、一本ずつ抜いてるみたいな。 目を開けた。 顔が、真上にあった。 距離、10センチもない。 Yuraがベッドの上に正座して、両手を僕の体の両側について、全体重を自分の脚に預けてる。彼女はうつむいて、顔をこんなに近づけてて、まつげの一本一本のカーブまで見えるし、彼女の息が僕の顔にかかるのも感じるくらいだった。 彼女の目はまん丸に見開かれてた。 瞳の中に僕の顔が映ってる――痛みで歪んだ僕の顔が。 彼女は僕の髭の先を摘んでた。 一本の髭を、指先に摘んで、そーっと慎重に引っ張る。引いて、止まって、僕の反応を見る。僕が動かないのを確認して、また引っ張る。 もう一回引っ張った。 今度はもっと強く。 痛くて目尻がピクピクした。 でも、彼女はそれがすごく面白いみたいだった。首をかしげて、その髭が伸びていくのを見てる。限界まで伸びて、それから――僕の予想だけど――手を離した。 髭がはじけて戻った。 彼女の目はその髭を追いかけて、元の位置にはじけて戻るのを見て、空気の中でプルプル震えるのを見て、だんだん止まるのを見てた。 それから、彼女の口元がゆっくりとほころんだ。 あの事故以来、初めて彼女が笑うのを見た。 声はない。 ただ口元がほんのりと緩んで、目がキラキラしてて、まるで子供が新しいオモチャを見つけたみたい、子猫が初めて猫じゃらしで遊んだみたいだった。 僕は動けなかった。 彼女はそんなふうに、ずっと僕の髭を引っ張って遊んでた。 一本終わったら、次。左側が終わったら、右。長いのが終わったら、短いのを。まるで実験してるみたいだった。この顔に生えてる変なものは何なのか、なぜはじけて戻るのか、引っ張ると僕の顔がなぜしかめるのか、研究してるみたいに。 僕は寝たまま、微動だにしなかった。 引っ張られ続けた。 首が痛くなるまで、目尻から生理的な涙がにじむまで、顔の半分が麻痺するまで。 それから彼女は急に手を離した。 横に、ぱったり倒れた。 体全体が僕の横に転がった。 頭が僕の肩について、体が小さくひとつに縮こまってる。お腹――もう少しだけ膨らんでる――が僕の腰
僕はU。○○大学の准教授だ。43歳。ウイルスを研究してる。研究室に15年いて、それなりの論文も何本か書いたし、何度か学生も指導してきた。生活はまるで淀みのない水みたいに静かなものだった――Yuraに出会うまでは。Yuraは僕の妻だ。元々は、僕の学生だった。初めてYuraを見たときのこと、今でも覚えてる。9月の午後、階段教室の3列目、窓際の席。陽射しが彼女の後ろから差し込んで、全身が金色に縁取られて見えた。俯いてノートを取って、時々顔を上げて僕を見る。その目はきらきらしてて、まるで星が入ってるみたいだった。そのとき思ったよ。真面目な子だな、って。その後、Yuraは質問に来るようになった。授業が終わると追いかけてきて、教室から廊下へ、廊下から研究室の前まで。Yuraの質問はいつもいい質問だった――ちょっと本を調べれば分かるようなやつじゃなくて、本当に考え抜いて、本当に悩んで、本当に理解したいって思ってることが伝わってくるような質問だった。僕が聞いたんだ。「なんでそんなに色々考えるの?」Yuraは言った。「だって、先生の講義、面白いからですよ。」そう言ってYuraは笑った。目を三日月みたいに細めて。そのとき思ったよ。可愛い子だな、って。それから時が経って、Yuraは卒業して、大学院に行って、そのまま大学に残った。キャンパスで時々すれ違うたびに、Yuraは相変わらず走ってきて質問して、あのきらきらした目で僕を見るんだ。そして、もっと時が経って――僕たちは一緒になった。僕はYuraと結婚した。僕の学生が、妻になったんだ。結婚式の日、Yuraは白いウエディングドレスを着て、僕の腕を取って、目を三日月みたいに細めて笑ってた。お酌して回るとき、Yuraは僕の同僚に向かって言ったんだ。「私、ずっと追いかけて、やっと彼が結婚してくれる気になったんです。」僕が言った。「違うよ、僕が追いかけたんだ。」Yuraが言った。「私が追いかけさせるチャンスをあげたのよ。」みんな笑った。あれは、人生で一番幸せな日だった。結婚して3年。3年間、Yuraは毎朝起きるとまず僕の顔を撫でるんだ。眉を、鼻を、唇を触って、それから甘えるように言う。「U〜るーしーて」3年間、Yuraは台所で僕の背中にぶら下がって、僕が料理してる間、顎を僕の肩に乗せて、野菜切るのも、炒め







