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紙の蝶

紙の蝶

By:  烏沢(うざわ)Completed
Language: Japanese
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高木慎吾と婚姻届を出した年、私・清水花音は、大学院の一年生だった。 戸籍課を出ると、彼は会社の経営に戻るため急ぎ足で去り、私は学業へと駆け戻った。 再会は数か月後の冬休み。 胸を躍らせ、重いスーツケースを引きずって彼のもとへ向かった。 けれど扉を開けたのは、鮮やかな顔立ちの女だった。 彼女の視線は険しく、「あなたは?」と警戒の色を帯びていた。 私が答えるより先に、慎吾はその背後から姿を現した。 彼は私を見つめ、複雑な顔をしながら口を開いた。 「ただの親戚だ。しばらくうちに居候している」

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Chapter 1

第1話

高木慎吾(たかぎ しんご)と婚姻届を出した年、私・清水花音(しみず かのん)は大学院の一年生だった。

戸籍課を出ると、彼は会社の経営に戻るため急ぎ足で去り、私は学業へと駆け戻った。

再会は数か月後の冬休み。

胸を躍らせ、重いスーツケースを引きずって彼のもとへ向かった。

けれど扉を開けたのは、鮮やかな顔立ちの女だった。

彼女の視線は険しく、「あなたは?」と警戒の色を帯びていた。

私が答えるより先に、慎吾はその背後から姿を現した。

彼は私を見つめ、複雑な顔をしながら口を開いた。

「ただの親戚だ。しばらくうちに居候している」

私は口を開こうとしたが、喉に綿を詰め込まれたように声が出なかった。

慎吾の冷ややかな視線を受け止めながら、「私は彼の妻だ」という言葉を飲み込んだ。

少し迷った末に、私は視線を落として小さくつぶやく。

「お邪魔しました」

その言葉に、林彩乃(はやし あやの)はほっと安堵の息を漏らした。

だが依然として私を警戒し、慎吾は自分のものだっていう独占欲が滲み出ている。

「はじめまして、私は慎吾の彼女、林彩乃だよ」

私は掠れた声で相槌を打った。

本当は彼女に自己紹介なんて必要なかった。

二年前から、私は彼女を知っていたから。

慎吾が青春を費やしても忘れられなかった存在。

大学一年、私は親友の佐藤梨花(さとう りか)と出会った。

そして慎吾は、梨花の叔父だった。

二年間も好きでいながら、親友の口から初めて知った。

彼の心には、どうしても手に入らない初恋の人がいると。

二十七になっても独身なのも、彩乃のせいだろうと。

その事実を、梨花は最初は黙っていた。

彼女は「慎吾はあなたにだけ態度が違う」と言って、私の心に隔たりが生まれるのを恐れた。

本当は構わなかった。

あの頃の私は無謀なほど一途で、知ったとしても退くことはなかっただろう。

ただ天真爛漫に「彼がまだ吹っ切れてないなら、私が少し時間をあげればいい」と思ったはずだ。

けれど待ったのはさらに二年。

その間、彼は贈り物を用意してくれたり、海外から珍しいものを持ってきてくれたりした。

生理痛で苦しむ私のために、何億円もの契約を捨ててまでEVEと生姜湯を届けに来たこともあった。

慎吾は私にとてもよくしてくれた。

ただ一つ、私のこの気持ちには見て見ぬふりをしている。

大学四年の時、大学院への推薦入学が決まった後、私は彼との未来はもうないんだと悟った。

最後に会ったのは、初めて出会ったあのレストラン。

私は笑いながら、ようやく吹っ切れたように言った。

「慎吾、私は花ノ江市で学ぶことになったの。おめでとう、やっと私っていう厄介者から解放されたな」冗談めかした声色の奥で、どうしても沈む響きが混じった。「ごめんね、四年間もあなたを巻き込んで」

けれど、その時彼が差し出したのは、指輪だった。

「花音、結婚しようか」

答えはもちろん、肯定だった。

理由を深く追及しなかった。

ようやく雲が晴れたと思っただけだった。

籍を入れたあと、ちょうど大学院の新学期。

慎吾は会社の経営に追われ、私は花ノ江市へ。

彼に一日でも早く会いたくて、何度も徹夜して指導教授から課された課題を前倒しで終わらせた。

そうして戻った時、目の前で夢の泡が弾けるのを見届けることになった。

この時私はわかっていた。

怒り、問い詰め、泣き叫ぶべきだと。

けれど、不思議と立場がないように思えた。

最初からわかっていた。

この結婚には何か事情がある。

私はそれを深掘りしなかった。

彼が後悔するのが怖かったから。

だけど、心の底の恐れはこんなにも早く現実になった。

ぼんやりしている間に、慎吾は私の重い荷物を受け取った。

先に歩き、私を自分の寝室の隣のゲストルームに案内した。

荷物を置いたあと、彼はなかなか出ていかなかった。

私はこれ以上ないほど疲れていて、ただ静かに横になりたかった。

だから、そっと追い出すように言った。

「慎吾、あなたの彼女が外で待ってるわ」

慎吾は深い眼差しで私を見つめた。

しばらくしてようやく口を開く。

「彩乃は俺の彼女じゃない」

彼女かどうかなんて、もうどうでもよかった。

彩乃がこの家に住み、慎吾が私との関係を否定した、その瞬間にすべて終わっていたから。
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第1話
高木慎吾(たかぎ しんご)と婚姻届を出した年、私・清水花音(しみず かのん)は大学院の一年生だった。戸籍課を出ると、彼は会社の経営に戻るため急ぎ足で去り、私は学業へと駆け戻った。再会は数か月後の冬休み。胸を躍らせ、重いスーツケースを引きずって彼のもとへ向かった。けれど扉を開けたのは、鮮やかな顔立ちの女だった。彼女の視線は険しく、「あなたは?」と警戒の色を帯びていた。私が答えるより先に、慎吾はその背後から姿を現した。彼は私を見つめ、複雑な顔をしながら口を開いた。「ただの親戚だ。しばらくうちに居候している」私は口を開こうとしたが、喉に綿を詰め込まれたように声が出なかった。慎吾の冷ややかな視線を受け止めながら、「私は彼の妻だ」という言葉を飲み込んだ。少し迷った末に、私は視線を落として小さくつぶやく。「お邪魔しました」その言葉に、林彩乃(はやし あやの)はほっと安堵の息を漏らした。だが依然として私を警戒し、慎吾は自分のものだっていう独占欲が滲み出ている。「はじめまして、私は慎吾の彼女、林彩乃だよ」私は掠れた声で相槌を打った。本当は彼女に自己紹介なんて必要なかった。二年前から、私は彼女を知っていたから。慎吾が青春を費やしても忘れられなかった存在。大学一年、私は親友の佐藤梨花(さとう りか)と出会った。そして慎吾は、梨花の叔父だった。二年間も好きでいながら、親友の口から初めて知った。彼の心には、どうしても手に入らない初恋の人がいると。二十七になっても独身なのも、彩乃のせいだろうと。その事実を、梨花は最初は黙っていた。彼女は「慎吾はあなたにだけ態度が違う」と言って、私の心に隔たりが生まれるのを恐れた。本当は構わなかった。あの頃の私は無謀なほど一途で、知ったとしても退くことはなかっただろう。ただ天真爛漫に「彼がまだ吹っ切れてないなら、私が少し時間をあげればいい」と思ったはずだ。けれど待ったのはさらに二年。その間、彼は贈り物を用意してくれたり、海外から珍しいものを持ってきてくれたりした。生理痛で苦しむ私のために、何億円もの契約を捨ててまでEVEと生姜湯を届けに来たこともあった。慎吾は私にとてもよくしてくれた。ただ一つ、私のこの気持ちには見て見ぬふりを
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第2話
私は無表情のまま口を引きつらせた。胸の奥ではどうしても納得がいかなかった。「慎吾、忘れられない人がいるなら、どうして私と結婚したの?」そう言って、ため息をつきながら続けた。「……離婚しましょう」言葉を吐いた瞬間、慎吾の整った眉がきゅっと寄った。彼は不満げに私を見つめ、苛立ったような声で言った。「馬鹿なこと言うな。少し時間をくれ。必ず片をつける」私は答えず、ただ黙って睨み返した。どうしても可笑しく思えてしまう。本当に片をつけられるなら、二人の女の間でこんなにも揺れ動くことはないはずだから。重苦しい沈黙は長くは続かなかった。彩乃が笑みを浮かべながら突然入ってきた。彼女は慎吾の腕に絡みつき、甘えた声で言った。「ここで何してるの?早く一緒にご飯作ろうよ。お客さんを迎えなきゃ」「お客さん」という言葉をわざと強調して。そして私に向かって警告するような視線を投げた。慎吾の視線は彩乃へと移った。だが彼は動かず、腕を振りほどいて冷ややかに言った。「俺たちは恋人じゃない」その言葉は、私への説明だった。聞いた途端、彩乃の顔色がさっと変わった。気まずそうにしたが、すぐに感情を切り替える。女は不満げに唇を尖らせ、甘え声を上げた。「すぐにそうなるもん」そう言うや否や、彼女は素早く慎吾の唇を奪った。反応が遅れたのか、彼は避けなかった。そして十数秒も呆然としながら、彩乃に引かれるまま連れ出されていった。私の胸に込み上げるのは、どうしようもない苦さ。けれど驚きはしなかった。慎吾はいつだってそうだ。近づいては突き放し、また何事もなかったように庇ってくる。だから私は断ち切れなかった。でも今度は、本当に諦められる気がした。二人が出ていったあと、私は特に反応もせず、深い眠りに落ちた。その間、慎吾が何度か扉を叩き、夕食に呼んでいたようだった。けれど眠気に勝てず、適当に言葉を濁してしまった。目を覚ますと、窓の外は真っ暗。別荘の灯りはすべて消えていた。階下からは、鈴のような彩乃の笑い声が聞こえてきた。「慎吾、これ綺麗でしょ?」「もう、どうしてそんなに不器用なの?貸して、俺が撮ってあげる」彼の低く掠れた声も、静寂の中ではっきりと届いた。「わかった
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第3話
彩乃は今にも泣き出しそうに首を振った。「私は大丈夫。ただ、さっき何かに足を取られただけ」その言葉を終えると、彼女の視線が無意識のように私へと向けられた。慎吾はその瞬間、すべてを悟った。彼は顔を上げ、厳しい色を宿した目で私を見つめている。「花音、そんな卑怯な手は使うな」私は痛む耳を押さえたまま、何も言わず、ただ冷ややかに彼を見つめ返した。しばらくして、慎吾はようやく違和感に気づいた。「お前、どうして……」その言葉を、私は無表情で遮った。「慎吾、今日言ったこと、早めに片をつけて。それとね、一つだけ正しかった。彩乃みたいなやり方、本当に卑怯だわ」そう吐き捨て、私は振り返ることなく部屋へ戻った。すぐに冷水で耳を洗う。幸い、少し皮が赤く腫れただけで、大きな怪我には至らなかった。携帯を開くと、教授からメッセージが届いていた。【考えてくれたか?プロジェクトに参加しないか。これは滅多にない機会だ。学業にも将来にも必ず役立つ】教授が進めている研究プロジェクトだった。本来、大学院生は対象外だったが、私の能力を買って声をかけてくれた。ただし、期間は二年間。その間はどこにも行けない。当時の私は即座に断った。慎吾と籍を入れたばかりで、一緒にやりたいことが山ほどあったから。教授も強くは言わず、「また考えてみろ」とだけ残した。そして今、再び連絡が来た。私は素直に返信した。【先生、決めました。休みが終わったら参加します】四年経った。過去も人も、もう捨てるべきだ。送信を終えた直後、扉を叩く音が響いた。「花音、俺だ」慎吾の声だった。会いたくなくて、私は扉越しに問い返した。「何の用?」「薬を用意した」彼の答えに、私はうんざりして即座に拒んだ。「いらない。帰って」けれど次の瞬間、扉は外から開かれ、長身の男が入ってきた。私が反応するより早く、彼は薬を指に取り、火傷に塗り込んできた。「まだ痛むか?」私は眉を寄せたが、その問いには答えず、直球で切り出した。「慎吾、時間を決めて、戸籍課に行きましょう」そう言い切ると、彼は突然私を抱きしめた。慎吾の声はどこかくぐもり、少し拗ねた色を帯びていた。「俺は言ったはずだ。この件は必ず片をつけるって」私は慎
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第4話
私は静かに彩乃を見つめ、ふと哀れみを覚えた。「彩乃、考えたことはない?本当の浮気相手はあなたなんだよ。それに、慎吾はあなたを大して好きじゃない」その言葉に、彩乃の声は一瞬で尖り、私の隙を突いて頬を打った。「クソ女、何をほざいてる!信じないなら今すぐ叩き出してやる!」頬が焼けつくように痛む。私は口角を上げ、そのまま一発叩き返した。彩乃は床に倒れ込む。私は見下ろし、冷えた声を落とした。「私の言葉が全部事実だから怖いの?だったらおめでとう、大当たりね!私と慎吾は数か月前に籍を入れたの。わかる?あなたこそ、人の家庭を壊す愛人だよ!」言葉を吐き出すと、私の胸の奥が驚くほど晴れやかだった。彩乃は一瞬固まったが、すぐに飛びかかってきた。鋭い爪で私の顔を狙って。「小娘、嘘つくな!この世界で知らない人はいない、慎吾は十年も私を想ってる!どうしてあなたなんかと結婚するはずがある!その嘘つきの口を裂いてやる!」彼女の動きは速く、私が必死に抵抗しても顔にはいくつもの赤い傷が刻まれた。慎吾が駆けつけた時、目にしたのはその光景だった。彼はすぐに彩乃を引き離し、叱責した。「何をしてる!」彩乃の瞳には涙が溢れ、顔には哀れみを誘う色が浮かんでいた。「慎吾、彼女を追い出して!嘘をついてるのよ、あなたと結婚したなんて。あり得ないでしょ?」言葉が落ちた瞬間、慎吾の視線は私に注がれた。その目には不満も叱責も、そして驚きも混ざっていた。まさか私がここで真実を口にするとは思わなかったのだろう。彼は低い声で私の名を呼んだ。「花音」その声音には警告が滲んでいた。意味は分かっていた。けれど私はただ笑い、彼の思惑を裏切った。「どうしたの? 私の言葉、間違ってる?」張り詰めた空気の中、彩乃も何かを察したように慎吾の袖を掴み、恐る恐る尋ねた。「慎吾、彼女の言葉、本当なの?」だが彼は答えなかった。その視線はずっと私に注がれたままだった。やがて慎吾はため息を吐き、失望を滲ませて言った。「花音、俺は言ったはずだ。時間をくれれば必ず片をつける。お前がこんな真似をする必要はない。離婚なんて本気じゃないだろ。彩乃を挑発したかっただけだ。四年間も俺に執着したお前が、簡単に諦められるはずがない」胸の奥
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第5話
彼はまるで私の声など耳に入らないかのように、一方的に言葉を重ねた。「花音、俺の限界を試すな。お前が先に彩乃を挑発したんだ。今回は目をつぶるから、この数日は別荘で大人しく反省していろ」そう言い捨て、彩乃を抱き上げて出ていった。私は無感覚に口の端を引き上げた。どうして私が先に挑発したと結論づけたのか、不思議でならなかった。いや、きっと彼の中で私は、いつだって彩乃に及ばない存在だから。もうどうでもよかった。答えなんて、とっくに重要じゃない。慎吾が出て行くのと入れ違いに、私はすぐ荷物をまとめて別荘を出た。手頃な値段のホテルを探して宿を取った。教授は私に半月の休みを与えてくれたが、できるだけ早く研究室に戻ってほしいらしかった。だから予定していた切符を払い戻し、数日早い便を買い直した。ホテルに着いたところで、親友の梨花から電話がかかってきた。「ちょっと花音、色に溺れて友達を忘れた?帰ってきたなら一言くらい言いなさいよ!」私は笑いながら宥めた。「今ちょうど知らせようと思ってたところ。会う?」「もちろん!」大学を卒業したあと、梨花は進学せず、家業の会社で経営を学んでいた。思えば本当に久しぶりの再会だった。彼女の性格は昔と変わらない。顔を合わせるなり大げさな身振りで楽しげに噂話をまくしたててきた。「で、私の叔父との進展は?体格いいでしょ?隠さないで、どこまで行ったの?」私は笑って、少し意地悪な気持ちで答えた。「最後の段階」その瞬間、梨花の目が輝き、私の手を握りしめて身を乗り出した。「で、どうだったの?ねえ!」「離婚の話を切り出したとこ」「は?」梨花は凍りつくような驚きの表情を浮かべていた。「叔父が切り出したの?ちょっと待って、私が代わりにぶん殴ってくる!」私は慌てて止めて、静かに言った。「私が切り出したの」彼女の顔に複雑な色が走った。「でも、四年間も好きで、やっと結ばれたのに、なんで?」「彩乃が戻ってきた」梨花はすぐに察し、真っ赤な目で叫んだ。もう「叔父」なんて呼ばなかった。「慎吾は結婚しておきながら、まだあの女に未練?ふざけんな、最低!いいわ、今から行こう。私が後ろ盾になってやる!」私は笑って首を振った。「梨花、落ち着いて。離婚
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第6話
慎吾は言葉を失い、唇がわずかに動き、何かを言いかけたようだったが、彩乃が姿を現した瞬間、そのすべてを飲み込んでしまった。彩乃は唇を噛み、弱々しい声で訴える。「慎吾、心臓が少し苦しいの……」その一言で、慎吾は迷わず彼女を抱え、車に乗せて病院へ向かった。背を向けて去ろうとする二人に向かって、私は声を張った。「あなたがサインしないなら、裁判離婚にするしかないな」その瞬間、慎吾の背中がぴくりと硬直した。結果はわかっていたはずなのに、彼は迷いなく彩乃を選んだ。梨花は激昂し、コップを叩きつけて罵った。「クソ女とクソ男!」数日後、私がここを離れると知って、彼女は鼻水と涙でぐしゃぐしゃになりながら泣いた。「行かないでよ……」私は笑って肩を押した。「もういいでしょ」やることがなく、私は教授に連絡して資料をお願いし、プロジェクトを少しでも進めようと思った。すぐにメッセージが届く。【私じゃなくて君の先輩に聞け。彼も帰省してる。同郷だからちょうどいい】そして紹介された先輩の連絡先が送られてきた。私はすぐに申請を送ったが、なかなか承認されなかった。退屈しのぎに携帯をいじっていると、突然一通のメッセージが届いた。【慎吾があなたと結婚したのは好きだからじゃない。家族に急かされたからだよ。身の程をわきまえて早く引き下がれ。さもないと手を使ってでも教えてやる】誰が送ったのか、考えるまでもなかった。でも、私はどうでもよかった。彼が何の理由で結婚したとしても、もう気にしない。私はすぐに返信した。【じゃあ祝ってあげる。お似合いのクソ男女、末永くお幸せに】そして、そのメッセージをスクショして慎吾に転送した。【これがあなたの優しくてか弱い愛人よ。私がいじめたなんて言わせないでね】返事はすぐに届いた。【花音、ふざけるな。俺と彼女はただの友達だ。女の子が一人で外に住むのは危ないし、早く帰ってこい】私は無言で白目を剥き、無視した。夜十時を回った頃、ようやく教授の言っていた先輩が申請を承認してくれた。【遅れてごめん。ずっと忙しくて申請に気づかなかった】【大丈夫です。先輩、都合のいい時にプロジェクトを説明してください】【明日の午後でいい?】【はい】時間を決めて顔を洗ったあと、私
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第7話
この四年間、毎年必ず慎吾は私のそばにいた。慎吾はいつも自分で作ったたこ焼きの箱を抱え、雪の中を欠かさず私の安アパートへやって来た。外は凍えるほど寒いのに、そのたこ焼きの箱は手を焼くほど熱かった。私は何度も言った、「毎回こんな時期に来なくていい。家族と過ごすべきじゃないの?」けれど彼の黒い瞳は強く光り、こう返してきた。「花音、お前は大切じゃないとでも思ってるのか?」その一言を、私はずっと胸に刻んでいた。だからといって、私は慎吾を激しく憎んでいるわけではなかった。あの頃の温かな思い出は確かに本物で、それがあったからこそ私は長い時間を歩いてこれた。ただ今は、道が分かれただけ。同じ道を進めなくなったということ。カップラーメンを数口つついていると、大地からメッセージが届いた。【ご飯食べない?】【今?】【うん】【さすがに不自然じゃない?】【大丈夫、作りすぎただけ】その理由を見て、私は言葉を失った。だが、食べかけのカップラーメンを見下ろし、すぐに決心する。厚手のコートを羽織って大地の家に向かうと、彼はちょうど最後の料理をテーブルに並べたところだった。二十皿近い料理が目の前に広がり、私は思わず呆然とする。大地は自然な顔で箸を差し出した。「ほら、冷めないうちに食べて」「……ありがとう」料理の腕前は驚くほどで、私は満腹になるまで箸を止められなかった。帰り際、彼は目尻に柔らかな笑みを浮かべ、いくつか料理を詰めて持たせてくれた。私は遠慮したが、結局受け取り、次は私がご馳走すると約束した。あとで教授から聞いたが、大地の趣味は料理だそうで、先輩たちも彼にしょっちゅうご飯を振る舞われているらしい。私が呼ばれたのも、彼にはこの町に他の親しい人がいないからだった。私は他人の過去をほじくる気はなく、それ以上は聞かなかった。そして時間は流れ、ついに慎吾と離婚の約束をした日。戸籍課の入り口で私は一時間待たされ、ようやく彼は姿を現した。軽く咳払いし、すぐには入ろうとせずに言った。「急な商談があって少し遅れた」私は無表情で頷いた。「さっさと入りましょう。手続き終わったら私も予定があるから」けれど彼は動かず、ただじっと私を見つめてきた。私は眉をひそめる。やっと口を開
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第8話
戸籍課を出たとき、慎吾が私を呼び止めた。震える声には、わずかな哀しみが滲んでいた。「花音!今度は俺が追いかける番じゃ駄目か?」駄目。私は足を速めてその場を離れた。昼食を済ませたあと、ホテルで簡単に荷物をまとめ、予定どおり駅へ向かった。大地は同じ列車を取っていて、普段は寡黙なくせに、とても細やかだった。重い荷物を網棚に上げてから自分の席に戻り、去り際に一言。「花音、困ったら呼べ」列車は八時間近く走る。私は資料に目を通し、やがて眠気に負けてうとうとした。目を覚ますと、窓の外は墨を流したような漆黒。携帯を確認すると、慎吾から十数回の不在着信。メッセージもびっしり。【梨花から聞いた。今日桜町を発つって、どうして俺に黙って?どこへ行く?花ノ江大学はまだ始まらないはずだ】さらに二十分後。【あのプロジェクトに参加するな】【研究がしたいなら俺が出資する。学校に研究室を建ててもいい。花ノ江大学には俺の知り合いがいる。彼女にお前を任せる】【花音、いい加減にしろ】私はうんざりして、すべての連絡先を即座にブロックした。調べ物をしているうちに、あっという間に到着。大地が網棚の荷物を降ろしてくれ、そのまま隣を歩いてくれる。私たちはお互い無口だから、会話はほとんどなかった。ところが、改札を抜けようとした瞬間、足が止まった。黒いコートに身を包んだ慎吾が立って、肩や髪にはまだ細かな雪が残っていた。彼の目は赤く滲み、顔色は陰鬱で、視線は私の方を射抜くように逸らさなかった。私は逃げられないと悟った。彼は歩み寄り、私の行く手を塞ぐ。「花音、どうして黙って行こうとするんだ?もし俺が探らなかったら、このまま消えるつもりだったのか?二年間、一度も会わないつもりか?」私は冷たく問い返した。「私たちに、もう繋がりは必要ある?」押しのけて通ろうとした瞬間、慎吾が私の手首を掴んだ。「花音、俺が悪かった。頼む、もう一度だけチャンスをくれ」「無理」短く返したとたん、彼の指先に力がこもる。痛みで声が漏れるが、振りほどけない。その時、大地が強く彼の手を叩いた。「花音に手を出すな」痛みに慎吾は手を離した。その目が私と大地の間を往復し、やがて冷笑を浮かべた。「花音、俺を捨て
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第9話
私は学校に来てから、毎日実験と資料に追われ、携帯を調べる暇もほとんどなかった。やっと一息つけたのは半月後のことだった。その時ちょうど、梨花から電話がかかってきた。「花音、最近どうしてる?会いたくて仕方なかった!」私は唇の端をそっと上げて微笑み、「元気だよ」と答えた。すると彼女は待ってましたと言わんばかりに喋り出した。「絶対聞きたいことあるでしょ。叔父はこの前、花ノ江市から険しい顔で戻ってきて以来、すっかり落ちぶれてしまった。会社にも行かず、毎日別荘にこもっては、私たちが大学時代に撮った写真を眺めているらしい。この前なんて酒飲みすぎて胃に穴まで開けてしまったことさえあった。彩乃が止めに行っても無駄で、逆に突き飛ばされて階段から落ちたんだって。しかも一番許せないのは、彩乃の心臓病が全部嘘だったこと!叔父も知って、すぐに彼女の家との取引を打ち切り、以降一切関わろうとはしなかった」私は小さく「ふうん」と相槌を打った。それから梨花の近況を尋ねると、彼女は「大丈夫」とだけ答え、また話を慎吾に戻した。「花音……もう、彼にチャンスはないの?四年間一緒に歩んできた二人なのに、こんな終わり方、やっぱり切なくて」私は声を引き締めた。「梨花、愛は一途で、排他的なものだよ。あなたなら、自分の恋人が他の女のために何度も自分を傷つけても許せる?」梨花は言葉を失った。少し間を置いて、「ごめん」と小さく漏らした。「ただ、叔父があまりにも惨めで……」「それは彼自身の選択」私は淡々と返した。電話を切ると、大地が「一緒に食べよう」と私を呼んだ。半休を取った彼は、またもや大きな食卓いっぱいに料理を並べていた。教授も同じプロジェクトの先輩たちも呼ばれていた。私は夢中で食べたが、他のみんなの顔色は微妙で箸も進まない。ついに一人の先輩が耐えきれず、躊躇いながら尋ねた。「花音……あなたは味覚あんまり敏感じゃないの?」私は首をかしげて即座に否定した。「そんなことないよ」その瞬間、大地が鋭い目で周囲を制した。誰も何も言わなくなった。十分ほどして、ついに教授が立ち上がり、箸を叩きつけた。「もう限界だ!大地、いい加減にしてくれ。俺はこんな不味い飯、生まれて初めてだ!」そう言ってすぐに去ってしまった。他
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第10話
私は彼に一片の希望も残さなかった。ただ淡々とした声で告げた。「社長、ご結婚おめでとうございます」その言葉を言い終えると同時に、私は素早く通話を切った。そして再び、全身全霊を研究に注ぎ込んだ。一年後、ついに私たちは予定より早くプロジェクトを完成させた。この研究によって、とある難病の治療可能性が大きく前進したのだ。当日、記者たちはこぞって教授にインタビューを求めた。私はそういう場が苦手で、隙を見てこっそり抜け出した。夜は打ち上げで、教授が上機嫌で酒を飲み、饒舌になった。「花音、この料理どうだ?」私はひと口食べ、にっこり笑って言った。「美味しい」すると教授は、すぐに大地へ鼻で笑った。「聞いたか?これが本当に美味しい料理だ。君の飯なんて犬も食わん」後で先輩から聞いた話では、大地が「もう二度と教授とは組まない」と言い放ち、教授は仕方なく大地の料理を何皿も食べて和解したのだという。そして冬休み、私は桜町へ戻った。梨花が教えてくれた。「叔父は結局、結婚しなかったんだよ」式当日、彼は長い間待ち続けた。夜になってようやく悟った。私がもう彼を愛していないこと、そして二度と現れないことを。慎吾はその場で彩乃を捨て、一人きりで去った。それ以降、彩乃は笑い者となり、慎吾は彼女を放さなかった。自分の会社を犠牲にしてでも林家を潰し、ついに林家の会社は破産した。彩乃の両親は借金を返すために、彼女を他家へ嫁がせた。ほどなくして、慎吾が一から立ち上げた会社も破綻寸前に追い込まれ、彼の行方を耳にする者はほとんどいなくなった。梨花はここまで話すと、少し感慨深げな表情を浮かべた。けれど、私があまり興味を示さないのを見て、すぐに話題を変えた。彼女は家業の一部を継いで、将来は女社長になって私を守ってやるんだと言う。私は笑って答えた。「わかった、これから頼りにしてる!」その後、大学院を修了した私は博士課程へ進み、博士号を取ったあとには研究機関にそのまま就職した。自分がどんな人生を望んでいるのか、私ははっきりと分かっていた。
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