LOGIN私の名前は柏木穂香(かしわぎ ほのか)。桐島蒼介(きりしま そうすけ)と離婚して七年目。 久しぶりに戻った故郷で、私はカメラを首から下げた小さな男の子に出会った。 その子は、ずいぶんとませてる口調でこう言った。 「お姉さん、僕のパパは有名なカメラマンなんだよ。 僕も将来絶対に、パパみたいにカメラマンなるから。 今、もしモデルになってくれたら、お姉さんは僕のスポンサー様ってことだよ」 思わず吹き出してしまい、私はその申し出を引き受けた。 撮影の途中、男の子がいきなり興奮して私の背後に向けて手を振り、「パパ!」と叫んだ。 つられて振り返り、私は視線の先にいた人物を見て凍りついた。 蒼介も、その場に立ち尽くしていた。 気まずい沈黙が流れた。 それでも私は何食わぬ顔で、男の子が満足するまで撮影に付き合ってあげた。 別れ際、ずっと黙り込んでいた蒼介が突然、口を開いた。 「穂香……お前がもう二度と、この町には戻らないと思っていた」 私は薄く笑って答えた。 「昔の話よ。もうとっくに過ぎたことだわ」
View More清香は頬を押さえ、信じられないといった様子で目を見開いた。綺麗にセットした髪がほつれて、頬に張り付いているのが余計に惨めだった。数秒の沈黙の後、彼女は隣で無反応を貫く蒼介を見つめ、震える声で言った。「あんた……見てるだけなの?私が殴られたのに?男でしょ?私はあんたの妻よ!」蒼介は星河を抱きかかえたまま、顔色一つ変えなかった。そして背を向け、冷たく言い放った。「清香、帰ったら離婚するぞ」清香はその場に立ち尽くしていたが、やがてふらふらと蒼介の後を追って去っていった。友人は呆気に取られた顔で、その背中を見送っていた。「あいつら、当時は世界中を敵に回してでも一緒になるって大騒ぎしてなかった?あなたを留置所に送ってまで離婚したのに……たった数年で、どうしてこうなるわけ?」私は痛くなった手を振りながら、平然と言った。「腐った人間はどこまでいっても腐ったままよ。愛なんてあるわけないじゃない」友人は少し考えてから、私に向かって親指を立てた。「さすが、修羅場をくぐってきた穂香だわ」私は苦笑して、彼女の手を軽く叩いた。「ほら行くわよ、新幹線の時間になっちゃう」本来なら、これでもう二度と会うこともないはずだった。しかし改札を通ろうとした時、友人が突然、私の脇をつついた。「ねえ、あれ。元旦那じゃない?」私は反射的に顔を上げた。ホームの隅に、顔色の悪い蒼介が立っていた。彼はしばらく躊躇っていたが、意を決したように歩み寄ってくると、私に向かって手を差し出した。「天気予報を見たんだ。今夜は雨になるかもしれないから……」彼の手のひらに乗った小さな使い捨てカイロを見て、私はそれを受け取らなかった。「いらない。こんなものより、二度と私の前に現れないでほしいんだけど」彼の顔から、サーッと血の気が引いた。彼は力なく手を下ろし、じっと私を見つめた。やがて、彼は充血した目を細め、寂しげに笑った。「……よかった。お前はもう、完全に過去を吹っ切れたんだな。何もかも、どうでもよくなったんだな……でもな、穂香。俺はどうすればいいんだ?お前が離れていけばいくほど、夢にお前が出てくる回数が増えるんだ……二人で揚げ物を作ったこと。手を引いて一緒に学校をサボったこと。寝る間
清香が血相を変えて突進してきた。私のそばにいた星河の腕を乱暴に掴み、強引に引き剥がす。その勢いで、星河はよろめいて転びそうになった。清香は顔を真っ青にして、怨念の籠もった目で私を睨みつけた。「柏木穂香!恥知らずにも程があるわよ!私の夫に色目使うだけじゃ飽き足らず、今度は息子にまで手を出す気!?」金切り声が響き渡り、周囲の通行人が一斉に足を止めた。騒ぎを聞きつけた私の友人たちが駆け寄り、険しい表情で清香を睨み返す。「寝言は寝て言ってよ。自分が寝取ったからって、他人も泥棒猫に見えるわけ?」痛いところを突かれたのか、清香の顔が引きつり、口元がわなわなと震えだした。星河は母親の剣幕に怯え、顔面蒼白で清香のスカートの裾を掴んだ。「ママ、違うの。僕がお願いして、お姉さんに写真を……」「黙ってなさい!」清香はヒステリックに怒鳴りつけた。「この女のせいで、あんたはパパを失うところなのよ!分かってるの!?」そして再び、矛先を私に向けた。「いい?二度と私の夫と息子に近づかないで!七年前に負け犬になって逃げ出したくせに、今さら勝てると思ってるの?私たちにはもう子供がいるのよ!」彼女の狂乱ぶりを前にしても、私の声は自分でも驚くほど冷静だった。「子供が見ているわよ。言葉を選びなさい」「善人ぶらないでよ!あんたの魂胆なんてお見通しよ!子供を利用して蒼介に近づこうって言うんでしょ?悪いけど、無駄よ!私たちは幸せなんだから、あんたなんかに壊させてたまるもんか!私たちは結婚して七年よ。これからもずっと、死ぬまで一緒なんだから!あんたが出る幕なんてないのよ!」「ママ……」清香に強く抱きすくめられ、星河は恐怖で小さくすすり泣き始めた。その時、人混みをかき分けて誰かが急いでやって来た。蒼介だ。彼はまず、泣いている息子とヒステリックな清香を見て、最後に私の静まり返った顔に視線を落とした。「また騒ぎを起こしたのか?」彼は冷めた目でそう言うと、清香の腕を掴んで連れ去ろうとした。清香はそれを激しく振り払った。「離して!帰らない!」「蒼介!この女、また星河にちょっかい出してたのよ!まだ星河を使って蒼介に近づこうなんて、執念深いにも程があるわよ!」蒼介は頭痛を堪えるよ
蒼介は顔を覆い、肩を震わせて泣き崩れていた。それを見た田村さんは怒りで全身を震わせ、蒼介を叩き出した。「とっとと失せろ!二度とここに来るんじゃねぇ!」蒼介は抵抗もできず、店の外へと放り出された。ドアが固く閉ざされた瞬間、蒼介は力が抜けたように、冷たい地面の上に崩れ落ちた。湯気で曇ったガラス戸越しに、蒼介の背中が激しく震えているのが見えた。田村さんがこちらに戻ってきて、私の視界を遮るように立った。その目は、腫れ物に触るように、どこかおっかなびっくりとしていた。「穂香ちゃん、もう全部済んだことだ、考えなくていいんだよ。どうでもいい連中のために、自分を傷つけちゃダメだ」田村さんが何を言いたいのか、私には分かっていた。私がまた、死のうとするんじゃないかと心配しているのだ。あれは、かつて私が蒼介の両親に暴行され、入院した時のことだ。蒼介は一度だけ戻ってきた。両親の不始末を処理するためだ。そして、人づてに私へ五十万円ほどの現金を渡してきた。それだけだった。彼は私に顔を見せることすらなく、海町へと帰っていった。病室のベッドの上で、私の心は日に日に削り取られていった。最初は眠れなかった。天井の染みを見つめるだけの夜が続き、やがて食べ物が喉を通らなくなった。右肩の古傷と新しい傷が重なって疼いたが、それ以上に耐え難かったのは、胸にぽっかりと空いた穴の痛みだった。あの五十万円は、無言の平手打ちだった。私に残された最後のプライドさえも、粉々に打ち砕いた。ただ一人を愛しただけなのに、どうして全てを奪われるのか?愛も憎しみも、なぜこれほど人を苛むのか?眠れぬ夜のたびに、そんな問いが頭を巡り、私の心を蝕んでいった。退院の日、田村さんと数人の友人が迎えに来てくれた。私は彼らにもう大丈夫と笑いかけ、スーパーで刺身のパックでも買って帰るわ、と嘘をついた。そして、あの空っぽのアパートに戻り、鍵をかけた。よく晴れた日だった。窓から差し込む陽光が、床に長い光の帯を作っていた。その光の中に座り込んでも、少しも暖かさを感じなかった。世界は灰色で、自分の鼓動さえも邪魔な雑音に思えた。隠しておいたカミソリの刃を、左手首に強く押し当て、そのまま引いた。不思議と恐怖はなかった。むしろ、
蒼介は数秒立ち尽くし、ゆっくりとしゃがみ込んだ。弁当を拾い上げ、再び食べ始めた。慌てて飲み込んだせいで、彼は激しく咳き込んだ。顔を上げると、その目は真っ赤に充血していた。彼は田村さんを見ようともせず、代わりに私をじっと見つめた。「穂香、俺はただ……昔の味が恋しかっただけなんだ」店内は静まり返っていた。私は彼を無視して、黙々と自分のとんかつを食べ続けた。田村さんは拳を振り上げ、蒼介を追い出そうとした。「とっとと出て行け!あれだけ穂香ちゃんを苦しめておいて、まだ足りねぇってのか?骨の髄までしゃぶり尽くさなきゃ気が済まないのかよ?!」その言葉に、蒼介の顔から血の気が引いていく。彼は掠れた声で言った。「穂香、あの時のことは……本当にすまなかった」私はティッシュで口を拭きながら、うんざりした様子で尋ねた。「またあなたの父親がムショから出てきて、金をせびりに来たの?それとも、あなたの継母がまた弟さんの結婚費用をよこせって騒いでるの?でも残念ね。私たちが離婚したことはもうバレてるんでしょ?今さら隠し通せるわけないじゃない」その瞬間、蒼介は膝から崩れ落ちるようによろめき、背後の棚にぶつかった。腕に傷を負ったはずだが、彼は痛みを感じていないようだった。ただうなだれて、謝罪の言葉を繰り返すだけだ。田村さんは彼を力任せに突き飛ばし、店から追い出そうとした。「お前、それでも人間か!よくもあのイカれた両親けしかけて、穂香ちゃんを殺そうとしやがったな!」当時、離婚したばかりの私は、全財産が六十万円ほどしかなかった。傷ついた体を癒やすには、実家に戻るしかなかった。だがある日、私が戻っていることを嗅ぎつけた蒼介の父親と継母が、血相を変えて乗り込んできた。弟の結婚資金と新居代、兄夫婦が全部出せと、彼らは喚き散らした。蒼介は家を出る際、彼らに数千万円を渡すと約束していたらしい。だが、私のなけなしの金は、すべて自分の治療費に消えてしまっていた。ドア越しに、私は何度も「もう離婚しました」と叫んだ。彼らは聞く耳持たずだった。「恩知らず」だの「飼い犬に手を噛まれた」だの、罵詈雑言を浴びせてきた。仕方なく、私はドアの隙間から離婚届受理証明書を差し出した。その紙切れは、一時的
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