キスの余韻は、想像よりも長く佐山の身体に残った。
駅前の雑踏と湿った夜風、その全てが遠く霞んでいた。佐伯の手が自分の頬に触れたとき、ほんのわずかなためらいと、熱を帯びた決意の両方が肌に伝わった。唇が重なった瞬間、佐山はまぶたの裏で彼の息遣いを数える。アルコールの混じった吐息、震える唇の温度、そして何より佐伯の瞳に浮かぶ複雑な色。罪悪感と高揚がないまぜになった、あの人の目。そこに、佐山は確かなものを見た。——この人は、もう戻れない。
キスが終わっても、佐伯の指先が数秒離れなかった。
あの年齢の男が、こんな風に触れてくることの異質さ。佐山は冷静にその感触を味わいながら、内側に生まれるささやかな愉悦と微かな痛みを天秤にかけていた。最初から復讐のために近づいたはずだった。会社で頼られる後輩、素直で親しみやすい年下、そういう仮面を被ることに、もう迷いもためらいもないつもりだった。それでも、佐伯の瞳が見せた「渇き」は、佐山の心に静かに染みていく。
佐伯は、今夜自分のなかの境界を壊した。酔いのせいだと必死に自分を誤魔化そうとするだろう。けれど、もう取り戻せない熱が、あの人の中に確かに宿った。そのことを思うと、佐山の唇には自然と微かな笑みが浮かぶ。あのとき、佐伯の目が見せたものを、佐山は絶対に忘れないだろう。
どこか哀しみを宿しながらも、欲望に身を任せる瞬間の脆さ。それを壊したいと願う冷たい自分と、ほんの一瞬だけ救いたいと願う弱い自分。そのどちらも本当の自分なのだと、佐山は静かに受け入れる。帰宅して部屋のドアを閉めたとき、外の湿った空気が一気に断ち切られた。
灯りを点けずに、リビングのソファに身を沈める。窓の外はまだ微かな雨が降っていた。佐山は自分の唇にそっと指を当てる。佐伯の唇の温度が、まだそこに残っているような錯覚。キスの記憶は、冷静な意識の下で何度も反芻された。(この人はもう戻れない。…&h
佐伯の中で、何かが壊れる音がした。佐山の身体を貫いたまま、最後の一線を越えた瞬間、全身が痙攣するほどの快感が走り抜けた。思わず呻き声がこぼれ、指先がシーツを掴む。深く、奥まで熱いものを吐き出しながら、佐伯は自分が今まで知っていたものとは違う、まったく別の悦びに捕らえられていることを実感していた。息が荒く、喉の奥で何度も空気を掻きむしる。汗で濡れた額から髪が垂れ、佐山の細い腰をしっかりと抱きしめている自分の腕の力に、呆れるほどしがみついていると気づく。佐山の肌はじっとりと汗ばんで滑り、吐息がまだ震えていた。「……っ、は……」声にならない声が喉を抜けていく。佐山の体温が、まだ自分の奥に残っている。佐伯は抜け殻のように、しばらくそのまま動けなかった。美咲と抱き合ったときに感じた快感とは、まるで質が違う。女の柔らかさや温かさでは埋まらなかった何かが、今、佐山の中で満たされている。その異物感さえも、快楽へと変わってしまう。自分の欲望の底が、いまさら恐ろしいほど知れてしまう。佐山は、息を整えながら、佐伯の肩に額を落とした。白い指先が背中に回り、汗のにじむ肌をやさしく撫でる。その動きに安堵を覚えつつ、同時にどうしようもない寂しさが胸に広がった。やがて佐山はそっと腕をほどき、ベッドから身を離す。髪をかきあげる仕草が妙に艶やかで、口元に浮かぶ笑みはまるで何もなかったかのように穏やかだった。「シャワー、してきます」そう言いながら、佐山はバスルームへ向かう。足取りは軽く、背中には一切の未練も感じさせなかった。残されたベッドに、佐伯だけが取り残される。天井の淡い明かりが、乱れたシーツに影を落とす。佐伯は、ぐしゃぐしゃに湿ったシーツの感触を指先でなぞる。そこには、汗と精液と、佐山の体温がまだ残っていた。自分の体からも、彼の匂いがじっとりと立ち上る。喉が渇き、無意識に喉を鳴らして唾を飲み込んだ。「……もう戻れないな」呟いても、返事をする者はいない。先ほどまで佐山の身体を抱いていた自分の両腕が、今はやけに重く感じる。「また、抱きたい」その欲望は、もは
佐山は天井の淡い灯りを見つめていた。すぐ頭上を照らす照明が、滲んだ視界のなかでぼんやりと広がっている。シーツの上、佐伯の身体が自分を覆っている。その重みと熱が、肌の奥まで浸透してくる。佐伯の手が腰をつかみ、奥深くまで貫かれるたび、体の内側が揺れる。頭がぐらりと揺れ、浅い呼吸が唇からこぼれた。佐伯の動きは、もう理性では止められないものになっていた。腰の奥まで押し込まれるたび、締めつけては、さらに強く求めてしまう。佐山は指でシーツを握り、背中をわずかに反らせて、その感覚に応える。痛みと快感が背骨を伝って交錯する。汗ばんだ佐伯の肌が、自分の首筋に落ちる。熱い息が耳にかかるたび、意識が遠のきそうになる。だが、どれだけ身体が震えていても、佐山の心の奥は、どこか冷静なままだった。この状況こそ、自分が望んだもの。姉を奪われ、何も守れなかったあの日から、佐山はすべてを計算し直した。美咲だけでなく、その夫さえも自分の手で壊す――この肉体を差し出し、快楽ごと相手を支配する。佐伯の背中に腕を回しながらも、心の底で静かに呟く。これは復讐だ。自分の中に流れ込む佐伯の熱を、他人事のように感じる瞬間がある。だが、そのたびに理性とは別の自分が、甘い痺れと疼きを求めてしまう。佐山は幼いころから、男女どちらにも欲望を感じることがあった。だが、どこかでずっと自分を外側から見ていた気がする。相手を選ぶのも、身体を開くのも、合理的な判断でしかなかった。だからこそ、男に抱かれるのが本当に嫌なら、こんな復讐の方法など選ぶはずがない。「もっと、奥まで……」そう囁いた声が自分のものだとは思えなかった。佐伯の動きがさらに激しくなる。体内を満たす硬さが、内壁を何度も擦りあげる。そのたびに快感の波が全身を突き抜ける。涙がにじむ。唇が震え、白い太腿がベッドに絡む。佐山は喘ぎながらも、心の奥で冷静に観察していた。佐伯の目は熱に曇り、ただ欲望だけを宿している。男の手が自分の腰を強く引き寄せ、身体ごと貫かれていく。佐山は喉の奥で小さく喘ぎながら、佐伯の表情を横目で捉えた。汗に濡れた額、唇を噛みしめたまま堪える声。ここまで夢中にならせたのは、自分の身体だ――そう実感すると、胸の奥で微かな
佐山の体温が手のひらに伝わる。佐伯は佐山のシャツを脱がせ、そのまま細い腰を引き寄せた。照明の淡い光の下、佐山の肌は驚くほど白く、滑らかで、思わず見とれてしまう。女の裸には何度も触れてきたはずなのに、佐山の骨ばった肩や薄い胸板、しなやかな肋骨の浮き方には違う種類の美しさがあった。首筋から鎖骨へと汗が薄く流れている。息を詰めるほど近くで見ると、喉仏が小さく上下し、腹の奥に不思議な熱が灯る。佐山は身じろぎもしない。むしろ、無防備なほど素直に体を委ねてくる。佐伯の手が腰骨をなぞると、白い腹筋がかすかに緊張した。その動きさえも美しいと思った。自分の鼓動がやけに大きく聞こえる。佐山の指先がそっと佐伯の頬をなで、目線が絡み合う。睫毛の長い目が少し潤んでいて、艶やかな唇が息を吸い込むたび微かに震える。「もっと……触って」佐山が囁いた。佐伯は躊躇いながらも、胸を撫で、乳首を指先でつまむ。佐山はわずかに身を震わせ、唇から甘い吐息を漏らした。その音が部屋の静けさに溶けていく。佐山の手が佐伯の太腿を撫で上げる。気づけば、指先がジーンズのファスナーに触れていた。「……いいですか」佐山の声は、濡れた夜気に似ていた。返事もできずに、佐伯は頷いた。佐山はゆっくりとファスナーを下ろし、下着越しに指を這わせてくる。その手つきが慣れていることに、佐伯は息を呑んだ。恥ずかしさよりも、なぜか安堵の方が勝った。佐山は膝をつき、目線を下から絡めてくる。唇が、布越しに佐伯のものを軽く噛む。そのまま下着を口でずらし、ゆっくりと舌を這わせた。佐伯は思わず腰を引いたが、佐山の手がしっかりと太腿を掴み、逃がさない。温かく湿った舌が、先端をなぞる。呼吸が早くなる。佐山は一度深く咥え込み、喉の奥まで受け入れる。その動きは柔らかく、熱を伝えてきた。佐伯は何度か声にならない声を漏らした。女がしてくるのとは全く違う、舌と唇の巧みな動きに、足元が震える。佐山は口を離し、ローションの小瓶をベッドの端から取り出した。その仕草が自然すぎて、佐伯は思わず驚く。佐山は自分でキャップを開け、白い指に透明な液体をまとわせた。何のためらいもなく、自分の後ろへと指を添える。佐伯は
ソファのクッションが深く沈む。佐伯はグラスをテーブルに置いたまま、静かに体を佐山の方へ向ける。空気が張り詰めていくのを感じながら、自分の指先が小さく震えていることに気づいた。佐山は、目を伏せて髪を耳にかける。濡れた前髪が頬にかかり、白い肌を際立たせている。唇にはグラスの水滴が残り、薄く光っていた。佐伯は、その柔らかな輪郭に目を奪われた。意識しないようにしていた熱が、腹の奥から湧き上がってくる。逃げ場はない。もう引き返せないと、どこかでわかっている。だが、理性が言い訳を探す。これは自分が誘った。部下の気持ちに流されたわけじゃない。酔いのせいだ。たまたまの気まぐれだ。そうやって心のなかで理由を並べ立てながら、佐伯はゆっくりと佐山に近づいた。「こっちを向け」低く押し殺した声が部屋に落ちる。佐山はほんの少しだけ首を傾け、素直に顔を向けた。睫毛がふるえ、かすかに赤みを帯びた頬が照明に浮かび上がる。佐伯はその顔に唇を重ねた。最初は確かめるような軽いキスだった。だが、すぐに自分でも抑えがきかなくなる。濡れた唇が重なり、息が混ざる。佐山は微かに身体を震わせ、佐伯のキスを受け入れる。だが、その唇がわずかに開き、舌先が差し込まれた瞬間、佐伯は自分のペースが崩れるのを感じた。佐山の舌はやわらかく、だが明確に佐伯の舌を探し、絡みついてくる。その熱に、佐伯の心臓が跳ね上がる。唇の隙間から湿った吐息が漏れ、キスは深くなった。睫毛が震えている。佐山の目は薄く開かれ、冷たい光が底に沈んでいる。表情は熱にほだされていながらも、どこか醒めていた。唇は濡れて、微かに光る。佐伯はその顔を片手で支えながら、唇を強く吸った。濡れた指先が佐山の顎に滑り、微かな汗と酒の匂いが混ざり合う。「……お前、こういうの、平気なのか」かすれた声で囁いた。佐山は一度だけまぶたを閉じ、またゆっくりと目を開く。その瞳は深く、何も映していないようでいて、すべてを見透かしているようだった。「僕、男も好きですよ」佐山は囁く。その声はやけに静かで、肌にしみこむようだった。佐伯は思わず息を呑む。身体の芯が熱くなり、脚の奥がじくじくと疼く。
タクシーの窓ガラスを打つ雨が、色とりどりのネオンを歪めて流していた。夜の街はしっとりと湿り、明滅する看板の明かりが水の膜をまとって遠く揺れる。佐山は車内の沈黙を壊さず、窓の外を静かに見つめていた。薄い唇はわずかに閉じられ、伏せた睫毛に街灯の光が微かに揺れている。その横顔はときどきアンバーの影に沈み、また照明の下で輪郭を浮かび上がらせた。佐伯は無言で腕を組み、窓に映る自分の顔から目を逸らした。あくまで「ただの飲みの延長」だと自分に言い聞かせる。酔いのせいだ。部下を家に帰すのも面倒だから、流れでホテルに向かうだけ。そんな理由を頭のなかで繰り返してみるが、心臓が規則正しく打つたびに血が騒ぐ。隣にいる佐山の沈黙がやけに意味ありげに思えて、息苦しささえ覚えた。フロントで手続きを終え、エレベーターに乗り込むときも、佐山は一言も余計なことを口にしなかった。静けさのなかで二人だけが箱のなかに閉じ込められると、佐伯は呼吸が浅くなっていくのを自覚した。数字が順に上がり、やがて扉が静かに開いた。廊下を歩く佐山の背中を、何度も目で追いかけてしまう。部屋のドアが開いた。ホテル特有の淡い照明が、薄暗い空間にじんわりと広がる。床には深い青のカーペット。壁際の窓は結露で白く曇り、外のネオンの光がぼんやりと滲んでいる。ふわりとした空気に、冷たい雨の匂いがかすかに混じっていた。「お疲れさまです」佐山が先に部屋へ入り、振り返りながら笑った。その声は少しだけ湿り気を帯びていた。佐伯は無言でコートを脱ぎ、ソファへ身を沈めた。佐山は冷蔵庫からウイスキーのミニボトルを取り出し、氷をグラスに落とす。カランという音がやけに静かに響いた。「ロックでいいですよね」佐山はそう言いながら、琥珀色の液体をゆっくりと注いだ。小さな瓶を傾ける手首の筋、濡れた髪が額にまとわりついている。グラスを差し出された佐伯は、それを無言で受け取り、手元で揺らした。氷が溶けて表面がわずかに曇る。佐山は自分のグラスを唇に運び、舌先で縁をなぞるように味わっている。その仕草が妙に艶めいて見えた。ライトの下で佐山の頬がわずかに赤らみ、睫毛の影が頬に落ちる。静かな部屋に、二人の呼吸とグラスの氷が溶ける音だけが響いていた。
グラスの底に残った琥珀色の液体が、わずかに揺れる。雨に煙る夜の街がガラス越しに見え、点々と続くネオンが濡れた歩道に滲んでいた。佐伯は手元のグラスを持ち上げ、残りを一口で流し込んだ。焼けつくようなアルコールの熱さが喉を滑り落ちていくが、その刺激だけが今日一日の疲労をかろうじて打ち消してくれていた。ふと横を見ると、佐山がゆるやかにグラスを回している。薄い唇がほころび、目元には笑みの影が浮かんでいた。あいかわらず、隙のない顔立ちだと佐伯は思う。仕事帰りのラウンジで、こんなにも涼しげな表情を保てる部下はほかにいない。髪は雨の湿気で少しだけ乱れ、額にかかった前髪が無造作な色気を纏っていた。「今日はよく飲みますね」佐山が声をかけてきた。落ち着いた低い声が、ラウンジのざわめきに溶けていく。「たまにはいいだろ。金曜だし」そう答えてグラスをテーブルに戻すと、佐山はほのかに笑った。その仕草が妙に柔らかく、佐伯は無意識に目を逸らした。窓の向こうで霧雨が降り続き、街灯の光がぼやけて揺れている。静かな店内で、互いに言葉を探すような間が流れる。「最近、疲れてませんか」唐突にそう言われ、佐伯は返答に迷った。疲れていないはずがない。だが、部下に素直に弱音を見せるつもりもない。「まあ、仕事が詰まってるだけだ。別に、平気だ」そう言ったつもりだったが、どこか語尾が弱かった。佐山は視線を落とし、グラスの縁に指先を添えた。細く白い指が、琥珀色の液体を掬うようにゆっくりと動く。その仕草がやけに艶めかしく見え、佐伯は思わず喉を鳴らした。「本当に、平気ですか」「……うるさいな」思わず口をついて出たが、佐山は気にしたふうもなく、小さく笑う。「僕、佐伯さんとこうやって飲むの、好きですよ」唐突な言葉に、佐伯は一瞬だけ息を詰めた。だが、軽口のようなその響きに、何も答えずに肩をすくめる。佐山は、やや上目遣いでこちらを見る。薄い首筋が、ほんの少し角度を変えて現れる。ネクタイの結び目の下、喉仏がほのかに上下する。「今日は、もう一杯いきませんか」