LOGIN「一審のときには精神鑑定なんて出してなかったのに、今になって出してくるとか、どう見ても怪しいよね」「久米川家って権力も金もあるって聞くし、精神鑑定書くらい用意するのは簡単なんじゃない?」オフィスの一角では、ひそひそとした話し声が途切れ途切れに続いていた。誰も大きな声では話さない。「本当かどうか分からないし、公式発表が出るまでは断定しない方がいいと思うけど......でも、あのやり方を見ると、逆に本当に精神的におかしいんじゃないかって気もする。普通じゃあんなことできないでしょ」先ほどスマホでニュースを見ていた同僚は、周囲の会話を楽しそうに聞きながら、コメント欄を見ようと画面を操作した。ページを更新した瞬間――画面が真っ白になる。「ページが見つかりません」と表示され、その下には似たような別のニュースが並ぶが、さっきのものはどこにもない。彼女は眉をひそめ、アプリのトップに戻り、検索欄に「久米川瑠々」と打ち込んだ。だが。関連する情報は、すべて消えていた。表示されるのは無関係な記事ばかりで、何ページスクロールしても瑠々に関する投稿やニュースは一切出てこない。彼女は思わず声を上げた。「ちょっと、みんな見て!」「どうしたの?公式発表出た?」「違う、久米川瑠々のニュース、全部消えてる。検索しても出てこないよ!」その場の全員が一斉に集まり、スマホの画面を覗き込む。「ほんとだ......さっきまであったよね?」「......これ、裏で動いてる人間がいるでしょ。こんなに一斉に消えるなんて普通じゃない。口封じだな」「ってことは、精神鑑定書は偽物ってこと?」――そう考えるのが自然だった。疑われる前に、徹底的に情報を消した。だからこそ、こんな強引なやり方をしたのだ。その場にいた全員が言葉を失い、顔を見合わせる。これほどの手際と影響力――背後にどれほどの力があるのか、想像するだけで背筋が寒くなる。しばらくの間、誰も口を開かなかった。やがて、一人がぽつりと口にする。「......そういえば、関水社長と久米川瑠々って、もともと何が原因で仲悪かったんだっけ?」「確かピアノのコンクールじゃなかった?関水社長が優勝して、それで久米川のファンがずっと叩いてたとか」別の女性社員が少し考えてから口
「本当だって。この話、私だけじゃなくて他にも何人か覚えてる人がいる。ただ会社じゃ誰も口に出さないだけ」その人は説明を続けた。「この久米川ってピアニストなんだけど、自分で曲が書けなくて、他人に書かせてたの。いわゆるゴーストライター。でもその人が言うこと聞かなかったんだって。で、久米川は医者に金を渡して、その人の祖母の偽の診断書を作らせたんだよ。末期の骨がんで、治療にすごくお金がかかるって。でもその子にはそんなお金がないでしょ?だから『ゴーストライターをやれば治療費を出す』って持ちかけて、仕方なく書かせたわけ。でも実際は、おばあさんは全然病気なんかじゃなかったの。しかもリアルに見せるために、本当に抗がん剤治療まで受けさせたらしいよ。健康な人が化学療法なんて......どれだけ苦しいか」周りの人たちは聞けば聞くほど顔色を変え、目を見開いた。「そんなことできるの......?」「で、その後は?」「その後、そのゴーストライターが気づいたんだよ。祖母は病気なんかじゃないって。それで怒って警察に通報して、久米川は逮捕されることになった」「そのおばあさんは?無事なの?」「詳しくは分からないけど、体調は回復して退院したって話だったと思う」それを聞いて、多くの人がほっと息をついた。「それならよかった......」だが話していた本人は手を振った。「いやいや、まだ終わりじゃない」周囲は再び目を見開く。「え、まだ続きあるの?」「逮捕されたその日、久米川は『道路で子どもを助けようとして車に轢かれて死亡した』って発表されたんだ。死亡したから、それ以上の追及はされなかった。ゴーストライターの方も、それ以上は追わなかったみたい。でもね――」と、その人は声を潜めた。「後になって分かったんだけど、彼女、実は死んでなかった。海外に逃げて、整形して身分も名前も変えて、ずっと国外にいたらしい。で、親や子どもに会いたくなって帰国したところを発見されて、そこでやっと捕まって裁判になったんだって」周囲は呆然としていた。「そんなこと......完全にドラマじゃん......」「捕まってよかったよ、こんなの逃げられたら怖すぎる。ここまでやるなんて、やばい人じゃん」「昔はファンも多かったよね?」「今はどうなの?」「ほと
「別にそういうわけじゃない」瑛司の声はどこか気の抜けた調子を帯びた。「君とその彼氏がデートしてるかどうか確認したかっただけだ。今の話を聞いて、安心したよ」蒼空は眉をひそめる。瑛司は続けた。「それと、仕事もあまり無理するな――」最後まで聞く前に、蒼空は通話を切った。――出るんじゃなかった。数分、無駄にした。そう思いながらスマホを握ったままデスクに戻り、腰を下ろす。するとすぐに、新しい通知が届いた。画面を見ると、また瑛司からだ。開いてみると、一枚の写真。床まで届く大きな窓に街の夜景が映り込み、その前で、骨ばった指の整った手が黒いベルベットの箱を支えている。指先はうっすらと健康的なピンク色を帯びていた。よく見れば、窓ガラスに瑛司の姿がぼんやりと映り込んでいる。ラフでシンプルな部屋着を身につけているようだった。蒼空が写真を見終える前に、すぐ次のメッセージが届く。【新しい指輪だ】【時間がある時に持っていく】......――やっぱり。ろくなことを言わないし、まともな用件でもない。蒼空は一瞥しただけでスマホを閉じ、再びパソコンに向き直り、仕事に集中した。――SSテクノロジーは大晦日の前日まで忙しさが続いた。年越しが近づき、やるべき仕事はほぼ片付き、残っているのは新機能の最終テストとリリース待ちだけ。社内にはすでに休暇前の浮ついた空気が広がっている。午後六時、正式に年休が始まり、働く人々にとって一年で数少ない休息の時間が訪れた。配布された年越しギフトの中にはお菓子の詰め合わせもあり、持ち帰らずその場で開けて食べている社員もいる。何人かが集まって、あれこれと話し始めた。「今年は家族で旅行行こうと思ってたんだけど、チケット取れなくてさ......結局やめたよ」「私は出かけないかな。家でゆっくり休む。もう動く気力ない、疲れた......」「私は帰らないよ。親がこっち来て一緒に過ごす予定」「楽しみだな、帰ったらお年玉もらえるし」「え、いくつだよまだお年玉もらうの」「うちの風習だと、結婚してなければもらえるんだよ」「いいなあ。私は逆にあげる側だから、帰りたくない......苦労してやっと稼いだお金なのに」そんな中、ネットを見ていた一人が急に手
瑛司はリビングへ戻った。佑人は部屋の中にいる。彼は外部の人間を家に泊めることはなく、使用人もすでに帰っていて、また明日の朝に来る予定だ。広いリビングはがらんとしていた。普段ほとんど住んでいないせいで、室内の物は少なく、人が暮らしている気配も薄い。しかも内装はシンプルなモダンスタイルで、全体的にどこか冷たく、孤独な空気が漂っている。彼は目を伏せ、ふと気づいた。敬一郎が見合い用の資料を持ち帰っていない。すべてテーブルの上に置かれたままだ。否応なく、先ほどの言葉が頭に浮かぶ。――「彼女は......悪くない。もし本気で好きなら、連れてきなさい。佑人に優しくできるなら、私は認める」その言葉は、あまりにも遅すぎた。そして、自分が気づくのもまた遅すぎた。誰のせいにもできない。ただ、今はどうしようもなく――会いたいと思っている。迷うことなく、瑛司はスマホを取り出し、その想いの相手に電話をかけた。――「もうすぐ正月だけど、予定はある?」年末はどの会社も繁忙期で、SSテクノロジーも例外ではない。夜の8時を過ぎても、社内はまだ明かりが消えずにいた。小春は忙しさの合間を縫ってオフィスへ上がり、蒼空と少し雑談でもして息抜きをしようとしていた。あとでまた社員たちとプロジェクトの細部を詰める必要がある。蒼空は視線をパソコンから離さないまま、軽く答えた。「その時になったらまだ考えるよ」小春は書類を手にゆっくり近づき、彼女の指にはめられた輝くダイヤモンドの指輪をちらりと見下ろした。軽く舌を鳴らし、机をコンコンと叩く。「もう遥樹の指輪までつけてるんだから、今すぐ考えなよ。今、この場で」蒼空は明らかに気が乗っていない様子で、顔だけ少し向けるが、視線はまだ画面に向いたままだ。「何を?」小春は眉を上げる。「正月だよ?しかもプロポーズ受けた状態で。何するか分からないわけないでしょ?」蒼空はキーボードを叩きながら聞き返す。「何するの?」小春はもう一度机を強めに叩いた。「決まってるじゃない。実家に挨拶に行くんだよ!」その瞬間、蒼空の指が止まった。顔を上げて小春を見る。何も言わない。小春は見下ろしながら言った。「まさか、そこ考えてなかったとか?」蒼空は視線
敬一郎は濁った目で彼をじっと見据えた。「とぼけるな。お前は久米川と離婚してからもうしばらく経つ。このままずっと独りでいるつもりか。そろそろきちんと考える頃合いだ。ここにある女性たちは、私が選び抜いたんだ。気に入る子がいれば、正月に見合いをセッティングしてやる」瑛司の声はさらに冷えた。「離婚してまだ数ヶ月で見合いか。噂の的にでもしたいのか?」「言い訳するな。お前が他人の口さがない話を気にするような人間か?」瑛司は淡々と答えた。「それはどうでもいい。大事なのは、俺は行かないということ。その資料は持ち帰ってくれ。見る気はない」敬一郎は顔を曇らせた。「本当にこの先ずっと独りでいるつもりか?」瑛司は黙ったままだった。視線を窓の外へ向ける。空には細い月がかかり、小雪が静かに降っている。年の瀬が近づき、街の店先には飾りが早々と掲げられ、あちこちで販促が始まっている。この住宅地の門にも装飾品が掛けられ、どこか賑やかな空気が漂っていた。ふと、ある人のことを思い出す。恋人のいる、あの女のことを。敬一郎はその表情を見て、目を細めた。「それとも、もう気に入った相手がいるのか?」瑛司は振り向いた。その問いは彼にとって少し意外だった。松木家の権力移行は数年前にすでに完了しており、瑛司が完全に実権を握った日、それは同時に敬一郎の支配から完全に離れた日でもあった。かつては結婚すら掌握されていたが、今は違う。それでもなお婚姻に口出ししてくることに、彼はわずかな驚きを覚えた。「いるかどうかは、俺の問題だ」つまり――関係ない、口出しするな、という意味だ。敬一郎はそれを理解しながらも、顔色を変えずに言った。「私はお前の祖父だ。昔から結婚は親の意向で決まるものだ、お前は――」瑛司は変わらぬ冷淡さで遮る。「今はもう昔じゃない」敬一郎の表情が沈む。「......私に口出しするなと言いたいのか?」「じいさんは、ご自身のことだけ気にしていればいい。俺のことまで心配する必要はない」敬一郎は重い視線で彼を見つめた。「お前の結婚を気にして何が悪い。それに、さっき佑人にも聞いたが、あの子も弟か妹が欲しいと言っていた」瑛司はふっと笑った。「祖父でも俺を動かせないのに、子ども一人でどうにか
「ひいおじいちゃん、パパのところにも急に子どもが現れたりしないよね?」それを聞いた瞬間、佑人は大げさに反応して立ち上がり、頬を膨らませながら悔しそうに言った。「それはダメ、絶対ダメ!」敬一郎は濁った目で静かに彼を見つめ、ゆっくりと言う。「落ち着きなさい。そんなことはない」佑人は唇を尖らせ、小さくもごもごと呟いた。「ないならいいけど......」敬一郎は話題を変えるように尋ねた。「じゃあもし、パパに弟や妹ができたら?」佑人は目を丸くした。「えっ、ぼくに弟か妹ができるの?」敬一郎が説明しようと口を開いたその瞬間、佑人は目を輝かせて駆け寄り、腕にしがみついた。「本当?どこにいるの?会える?」敬一郎は横目でちらりと見て言う。「そんなに嬉しいのか?さっきは他の子が嫌だって言ってただろう」佑人は首を振った。「それとは違うよ。弟や妹は好き。他の子とは違うんだ」そう言って、敬一郎の腕をぶんぶん揺らす。「ねえ、ひいおじいちゃん、それ本当なの?ぼく、本当に弟か妹ができるの?」敬一郎は安心したように答えた。「いや。ただ聞いてみただけだよ」佑人の目に、少しずつ失望の色が広がり、やがて手を離した。敬一郎は尋ねる。「そんなに弟や妹が欲しいのか?」佑人はうなずき、顎を上げてどこか偉そうに言った。「ぼくが一番上の兄になるから」敬一郎は心の中で合点がいったようにうなずいた。「そうか」佑人は小声で聞く。「ねえ、ひいおじいちゃん、本当にいないの?」敬一郎は首を振った。「いない」佑人は肩を落とし、不満そうな顔になる。敬一郎はそのまま瑛司の家に夜まで留まり、夜8時頃、ようやく瑛司が帰ってきた。敬一郎は佑人を寝室へ戻し、瑛司をリビングに引き留めて話を始めた。瑛司は一人掛けのソファに身を沈めていた。スーツをきっちり着こなし、髪はきれいに後ろへ撫でつけられているが、一筋だけ前に垂れた髪が鋭い眉と目元をわずかに隠している。目を半ば閉じ、全身から静かな威圧感を放ちながらも、どこか疲れがにじんでいた。彼は手を上げてネクタイを緩め、スーツのボタンを外す。「じいさん、何か用か」敬一郎はテーブルの下から資料を取り出し、彼の前に差し出した。「見てみろ」瑛司は目を
礼都の意識は、車体が二回目に横転したところで途切れた。頭を強くガラスに打ちつけ、視界が一気に血に染まり、そのまま気を失った。試しに身体を動かそうとすると、あちこちに鋭い痛みが走る。なかでも頭部の痛みがひどかった。複雑な思いを抱えながら、礼都はかすれた声で言った。「......まだ、動けません」医師はうなずき、軽く息をついた。この街の医師たちは学会などで顔を合わせることも多く、若くして聡明で実力もある後輩――礼都のことは、彼も多少なりとも知っていた。そんな櫻木先生が病床に横たわっている姿を見るのは、やはり胸が痛む。医師は丁寧に、今の身体の状態について一つ一つ説
連絡先を追加したあと、蒼空が葵に送らせたのは、銀行の送金・振込履歴だけではなかった。信託基金に関する設立資料や証明書類も含まれていた。その信託基金の設立書類には、はっきりと「久米川瑠々」の名前が記されており、現時点でも口座には八桁の残高が残っている。とはいえ、蒼空は慎重だった。資料を受け取ったあとも、一つひとつ丁寧に照合し、偽造がないことを確認した。確認を終え、必要なものを手に入れた蒼空は、提出していなかったあの一束の証拠資料を、葵の手のひらに戻す。「はい、これでいいわ。この資料はちゃんと持っておいて。人に見られないようにね」蒼空はスマホを手に、軽く手を振った。
湊はしどろもどろになりながら言った。「い、言ってない。本当に何も――」「正直に言いなさい!」瑠々は歯を食いしばった。「嘘をついても無駄よ」電話の向こうで、湊は悔しそうに小声で呟いた。「どうして、警察まで出てくる話になったんですか......?」瑠々は目を閉じた。「こっちだって聞きたいわ。どうして私の言うことを聞かずに、蒼空に余計なことを話した?」湊はおずおずと答えた。「別に大したことは言ってません。ただ、久米川さんが信託基金で俺と葵の学費を支援してくれてるって話しただけで......ほかは何も」それを聞いた瞬間、瑠々の怒りは一気に燃え上がった。そ
蒼空は、憲治の件を美紗希に簡単に説明し、彼女がL国へ出張している数日の間、警察の動きを注意して見ておいてほしいと頼んだ。電話の向こうで、何かが床に落ちる音がして、美紗希の呼吸が少し早まる。「丹羽が認める気になった?」蒼空は答える。「まだ態度が固まっていない。だからそっちが見張って、状況を逐一私に報告して。私もそれに合わせて動くから」「分かった」通話を切ったあと、蒼空はエツベニに戻って荷造りを始めた。今夜の便を予約していて、荷物をまとめたあとには交流会にも出席する予定だ。交流会が終わる頃には、もうかなり遅くなっているだろう。スケジュールはかなり詰まっていた。