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婚約破棄された聖女は最強魔王に拾われて異世界無双します
婚約破棄された聖女は最強魔王に拾われて異世界無双します
Author: 吟色

祈りを奪われた聖女

Author: 吟色
last update Last Updated: 2025-10-08 10:41:10

──鐘が三度、冷たく鳴った。

石の円形法廷。白大理石の壇上に、王太子の椅子。

半円の観客席には貴族と神官、そして見物の民。

私は中央の円環に立たされ、両手を鎖で束ねられていた。手枷には封印の刻印。

胸元の聖紋ペンダントだけが、かすかに体温を返す。

「聖女リシア・エルヴェイン」

王太子レオンは、唇だけで笑った。

「お前の“祝福”は偽物だったと証明された」

ざわめきが、石壁にさざめく波みたいに走る。

神官が進み出て、金の香炉を振った。薄い煙。聖句。

私の足元の円環が鈍く光る――はずだった。

光は、出ない。

「ご覧のとおりだ」レオンは肩をすくめる。

「加護は消えた。無能が、聖女の名を騙っていたのだ」

「……そう言い切るのですか、殿下」

声が自分のものじゃないみたいに乾いていた。

香の甘さが、氷みたいな空気をすべって喉を冷やす。

観客席の金具が微かに軋む。衣擦れ。息を呑む音。

それらが天蓋に集まって、ゆっくり渦を巻いた。

目を閉じる。まぶたの裏に、別の光が立ち上がる。

夏至の昼。村の広場。

火傷した少年の手を、私は布で包み、光を落とした。

「痛いのは、ここまで」

少年の母は、声を出さずに泣いた。隣の老人が、麦の束を差し出す。

風鈴。洗濯物。白い布が陽を弾く。

――祈りは届く。誰のものでもない空に。

今、私は鎖に繋がれている。同じ空の下で、光は封じられている。

「……あの光は、もう届かないのね」

それでも、胸の奥の灯は消えていない。

ペンダントは、昔と同じ温度で指先に触れた。

「民よ、耳を貸せ!」

壇上の大司教ハインリヒが、白蛇の杖を掲げる。

「異端は秩序を蝕む。裏切り者の聖女には、相応の断罪が必要だ!」

「裏切り者!」「恥を知れ!」

観客席の陰から、罵声が降る。

「……彼女、本当に?」

「神殿が言うのだ。間違いない」

そんなひそひそ声も混じった。

重い空気の隙間に、わずかな人の息が流れ込む。

私は目を閉じる。封印が、祝福の流路を細く締め上げている。

わかっている。これは、結論のために用意された儀式だ。

それでも。

――祈りをやめる理由にはならない。

「紹介しよう」

レオンが、隣の女の手を取った。

「これが真の聖女、セレナ・ヴァルリスだ。お前のような無能では、国を救えぬ」

セレナは完璧な微笑で私を見下ろす。

「お気の毒ですわ、リシアさま。祝福は、選ばれた器にのみ宿るのだと、神学は告げていますの」

レオンがうなずく。

「王家の血と神殿の承認。二つの柱が揃ってこそ、国は立つ」

「ええ。祈りは清廉でなければならない。数字もですわ」

セレナは視線だけで聖具官に合図する。

「近頃は『奇蹟の統計』が流行でしてよ。あなたの施術は――記録上、成功率が低い」

「逆に言えば、民の“助けて”の多くは、私の元に集められたということですね」

私が言うと、レオンは鼻で笑った。

「詭弁だ。国家は“見せる奇蹟”を要する。混乱は弱さを招く」

セレナは扇の影で微笑む。

「そう。ですから“本物”をお見せしますわ。秩序は保たれ、民は安心する。殿下の治世は輝かれる」

二人の声は、政治の香りがした。

舞台裏の合意の匂いが、香の煙に紛れて広がる。

槍の石突きが床を打つ。円環の周囲で、衛兵が私を囲んだ。

「判決は?」誰かが問う。

「婚約破棄と、神殿への引き渡しだ」

レオンの声は滑らかだ。「処置は神殿の規定に従う」

処置――それは、私が見て来たものだ。

祈りを切り取り、人格を削る契印の手術。戻ってくる者は、ほとんどいない。

「言い残すことは?」大司教が問う。

「ありません」

私は顔を上げた。石の天窓から、細い光が斜めに差し込んでいる。

埃が、世界の粒みたいに舞っている。

「ただ――祈りは、誰のものでもありません」

「口先だけは達者だな」

レオンが笑う。

「偽りの聖女よ、今日をもってお前との婚約を破棄する」

乾いた音とともに、鎖が外れた。

同時に、床の紋が強く輝き――封印陣が、私の内の光を無理矢理“抑え込もうとして”、つまずいた。

きしむ音。聖句が裏返る。香の匂いが苦く変わる。

祈りが、逆流する。

温度がまず変わった。

空気が体温から離れ、氷の指で頸筋を撫でる。

耳の奥で、鐘が布越しに鳴るみたいにくぐもる。

壁の金箔が、ゆっくりと色を失っていく。

蝋燭の滴が逆流して芯に戻り、書記官のペン先が紙を破った。

「儀式が……逆転している!」

神官の声が裏返る。白蛇の杖の先で、光の糸がほどけて床に落ちた。

私の胸元で、聖紋ペンダントが脈打つ。

――ぽん、と別の光が生まれた。

蒼い花のつぼみ。ひとつ、ふたつ。

裂け目から湧く水みたいに、法廷の空気へ広がっていく。

「な、なんだ――」

神官が後ずさる。

セレナの指先の光が、ぱち、と弾けて消えた。

「加護が……?」

彼女の瞳が、はじめて揺れる。

床の紋が罅割れ、石壁の聖句が反転する。

祭壇の金色は、鈍い鉛に沈んだ。

祈りの逆流。封印が、封印を壊す。

私は光の中心にいた。

全身が湖に沈むみたいに、静かで、冷たい。

――あなたがたが望むのなら。

「……私の祈りは、この世界では届かない」

髪が浮く。

涙が、重力を失って宙に散る。

音が全部、遠くなった。

誰かが叫ぶ。王太子の名。神の名。私の名。

けれど、それらは水の底で砕ける泡みたいに、形を持たない。

光が、崩れ、反転する。

冷たい風が、頬を撫でた。

目を開ける。夜の匂い。黒い空。赤い月。

私は荒れた大地の上に膝をついていた。

灰色の草。焦げた土。遠くに、黒曜の尖塔がいくつも並ぶ。

沈黙した城壁が、夜の地平線と一列に結ばれている。

息を吸う。乾いた鉄と灰の匂い。見知らぬ草の苦みが喉に広がる。

風は低く鳴り、音をどこかの隙間へ吸い込んでいく。

足元の土は脆い。指でつまむと粉になって散った。

細かな黒い苔が、月光にわずかに燐光を返す。

遠くで、獣の声が一度だけ短く鳴った。

塔の輪郭は、音を拒む刃みたいに冷たい。

赤い月が縁を薄く縁取り、地面の裂け目に血筋みたいな影を落とす。

(ここは、私の世界ではない)

胸に手を当てる。ペンダントは、まだ熱を持っていた。

けれど、法廷の眩しさは――どこにもない。

暗さが清潔で、痛いほど正直だ。

「……立てるか」

低い声が、風の向こうから届いた。

顔を上げる。黒いマント。赤い瞳。

夜をまとったような青年が、こちらを見下ろしていた。

左手の包帯の下で、石のような硬さがちらりと覗く。

「人間の女、か。こんなところで死にたくなければ、動け」

視線は冷たい。

けれど距離は、踏みにじるでもなく、近づきすぎるでもない。

私はかすかに笑った。喉がひりつく。

「……ここは、どこですか」

「ノクス領の辺境だ」

赤い瞳が、月光を一つ返す。

「俺はノクス。――で、お前は?」

胸の奥に、まだ熱の名残。

私はゆっくりと立ち上がる。膝が震える。

けれど、声はまっすぐ出た。

「リシア・エルヴェイン。……祈る者です」

赤い月が、雲の間から顔を出した。

夜風が、二人の間を渡っていく。

ノクスは一拍だけ黙り、短く息を吐いた。

視線だけが、確かにそこにあった。

「……人間の女? どうしてここに──」

問いの刃先が、夜の静けさを割った。

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