LOGIN翌朝、綾香が朝食を終えてリビングへ向かうと、父が新聞を広げていた。
「おはよう、お父様」
「ああ、おはよう。昨日は出かけていたそうだね」
「ええ。理央とお茶をしていたの」
「理央と?」
父が新聞から顔を上げた。
「珍しいな。何か相談でもあったのか?」
「将来のことを少し」
「将来?」
「理央、自分で事業を始めたいと考えているそうよ」
父は意外そうに眉を上げた。
「そうなのか。私には何も言っていなかったが」
「まだ考え始めたばかりみたい。もう少しまとまってから相談するって」
「なるほど」
父は新聞を畳んだ。
「若いうちに挑戦したいことがあるのはいいことだ。橘も喜ぶだろう」
「そうね」
「ただ、今の仕事もあるからな。辞めるなら引き継ぎはきちんとしてもらわないと」
父はそう言って笑った。
綾香も微笑んだが、それ以
翌日の午後、綾香は廊下で橘と顔を合わせた。「お嬢様、お出かけでございますか」「いいえ。少し庭を歩こうと思って」「かしこまりました。今日はよいお天気でございますね」 橘はいつものように穏やかに微笑んだ。 長年、御影家に仕えてきた執事だった。母が生きていた頃から、家の中のことはほとんど橘が取り仕切っている。「橘、少しいいかしら」「はい。何でございましょう」「理央から、今度あなたの昔の仕事について話を聞きたいと言われたの」 橘は意外そうな顔をした。「理央が、でございますか?」「ええ。私も一緒にどうかって」「それは……初耳でございます」「そうなの?」「はい。息子からは何も聞いておりません」 橘は少し考えてから、困ったように笑った。「あれも、私の昔話など聞いてどうするつもりなのでしょうな」「独立を考えているそうよ」「独立?」 橘が目を見開いた。「理央がそのようなことを?」「まだ準備中みたいだけれど。企業向けのコンサルティングに興味があるんですって」「……そうでございましたか」 橘はしばらく黙っていた。「橘は知らなかったのね」「はい。最近は仕事の話をする機会も減っておりまして」「そうなの」「息子も、もう子供ではございませんからな」 そう言って微笑んだものの、橘の表情には戸惑いが残っていた。「理央が直接話してくれるまで、私から聞いたことは内緒にしておいてね」「承知いたしました」 綾香は頷いた。「それと、橘」「はい」「私も、いつかあなたと昔の話をしたいと思っていたの」「昔の話、でございますか?」「ええ。お母様が生きていた頃のことを」 橘の
翌朝、綾香が朝食を終えてリビングへ向かうと、父が新聞を広げていた。「おはよう、お父様」「ああ、おはよう。昨日は出かけていたそうだね」「ええ。理央とお茶をしていたの」「理央と?」 父が新聞から顔を上げた。「珍しいな。何か相談でもあったのか?」「将来のことを少し」「将来?」「理央、自分で事業を始めたいと考えているそうよ」 父は意外そうに眉を上げた。「そうなのか。私には何も言っていなかったが」「まだ考え始めたばかりみたい。もう少しまとまってから相談するって」「なるほど」 父は新聞を畳んだ。「若いうちに挑戦したいことがあるのはいいことだ。橘も喜ぶだろう」「そうね」「ただ、今の仕事もあるからな。辞めるなら引き継ぎはきちんとしてもらわないと」 父はそう言って笑った。 綾香も微笑んだが、それ以上は話さなかった。 理央がどんな事業を考えているのか、まだ具体的には分からない。 父に伝えるにしても、本人から話すのが筋だろう。◇◆◇ 午後、綾香は書斎で母の古い書類を整理していた。 以前見つけた資料の中には、御影家の資産管理に関するものもある。 母が何を調べていたのか。 その全貌は、今も分かっていなかった。 綾香は手帳を開き、昨日の理央との会話を読み返す。『企業向けのコンサルティング』『その方面に詳しい知り合いがいる』 理央は、知人の名前を出さなかった。 綾香もその場では尋ねなかった。 けれど、理央が独立を考えているという話は、初めて聞くものだった。 前の人生では、彼は御影家の中で立場を強めていった。 父が亡くなったあとも、会社の仕事に深く関わり続けていた。 それが今度は、独立を考えているという。 綾香はペンを手に取
理央からのメッセージを前に、綾香はしばらく考えた。『ちゃんと話しておきたいことがあるんだ』 その言葉が何を意味するのか、文面だけでは分からない。 けれど、理央が自分から二人きりで話したいと言ってくるのは、久しぶりのことだった。『分かったわ。いつがいいの?』『明日の午後はどうかな。綾香の都合がよければ』『三時なら空いているわ』『ありがとう。駅前のホテルのラウンジで待ってるね』 綾香は了承の返事を送り、スマートフォンをしまった。◇◆◇ 翌日、綾香がホテルのラウンジに着くと、理央はすでに席についていた。「綾香、こっちだよ」 理央は立ち上がり、綾香が座るのを待った。「急に誘ってごめんね」「構わないわ。それで、話って?」「うん。まずは何か飲もうか」 注文を済ませると、理央は少しだけ表情を改めた。「最近、綾香とゆっくり話せていなかったから」「そうね」「僕たち、昔は何でも話していたでしょう?」 綾香は頷いた。 理央とは幼い頃からの付き合いだった。母が生きていた頃も、彼はよく御影家を訪れていた。「それが最近は、何となく距離ができてしまった気がして」「お互い忙しいもの」「それだけかな」 理央は困ったように笑った。「僕、何か綾香に嫌われるようなことをした?」 綾香はカップに伸ばしかけた手を止めた。「どうしてそう思うの?」「前みたいに話してくれなくなったから。僕が何か失礼なことをしたなら、謝りたいと思って」 柔らかい声だった。 綾香は理央の顔を見た。 前の人生でも、彼はこうして穏やかに話していた。 綾香が不安を口にすれば、優しく慰め、安心させてくれた。 そして最後には、美月とともに綾香の人生を奪った。「嫌っているわけではないの」
週明けの午後、綾香は父に頼まれ、会社へ届け物を持っていった。 急ぎの書類ではなかったが、父が午後の会議で使う資料と一緒に、自宅に置き忘れた手帳を届けてほしいという。 受付を通り、役員室のある階へ上がる。 廊下の向こうから、聞き慣れた声がした。「綾香?」 理央だった。「珍しいね。今日はどうしたの?」「お父様に届け物よ」「そうなんだ。今ちょうど会議が終わったところだよ。案内しようか?」「場所は分かるわ。ありがとう」 理央は穏やかに微笑んだ。「じゃあ、僕も一緒に行こうかな。ちょうど社長に確認したいことがあるんだ」 二人で廊下を歩き始める。 以前なら、こんな時間もごく自然なものだった。 幼い頃から御影家に出入りしていた理央は、綾香にとって家族に近い存在だったのだから。「そういえば、美月から聞いたよ」 理央が言った。「何を?」「最近、綾香が忙しそうだって。あまり会えなくて寂しいみたいだね」「そうなの」「美月は綾香のことが好きだからね。ちょっと気にしてるんじゃないかな」 綾香は理央を見た。「美月とはこの前も会ったわ」「ああ、そうなんだ」「それに、連絡も取っているもの」「ならよかった」 理央は安心したように笑った。「美月、何か気に障ることをしたのかなって言ってたから」「それは本人と話しているわ」「そっか」 理央はそれ以上尋ねなかった。 役員室の前で立ち止まる。「じゃあ、僕は少しあとで入るよ」「ええ」 綾香は扉をノックした。◇◆◇ 父に手帳を渡して用事を済ませると、綾香は一階のロビーへ向かった。 そこには、美月がいた。「あら、綾香」 美月は驚いたように目を見開いた。「どうしたの?」「お父様に届け物があったの」「そうだったのね」 美月は小さく微笑んだ。「私、理央とお昼を食べる約束をしているの。お仕事が長引いてしまったみたいで、待っていたところよ」「そうなのね」「よかったら綾香も一緒にどう?」「私はもう帰るところだから」「残念」 美月は柔らかく笑った。「そういえば、理央が最近とても忙しいの。昨日も遅くまで仕事だったみたいで」「お父様も忙しそうだったわ」「そうね。だから、少しでも息抜きしてもらえたらと思って」 美月は膝の上に置いた紙袋へ目を向けた。「今日は理央の好きなお菓子も買
週末の午後、綾香は母の遺品を整理していた。 昔の写真をアルバムに収め直し、傷んだ封筒を新しいものに替える。窓から差し込む秋の日差しは柔らかく、部屋には穏やかな時間が流れていた。 そこへ、執事の橘がやってきた。「お嬢様、美月様からお届け物がございます」「美月から?」「はい。お手紙も添えられております」 差し出されたのは、上品な包装紙に包まれた小さな箱だった。 中には、淡いピンク色のハンカチが入っていた。『先日のお詫びに。綾香に似合うと思って選びました。気に入ってもらえたら嬉しいわ』 綾香は手紙を読み終え、箱を閉じた。「お礼は私から伝えるわ」「かしこまりました」 橘が退出すると、綾香はスマートフォンを取り出した。『ハンカチ、届いたわ。ありがとう』 返事はすぐに届いた。『よかった。綾香、ああいう色が好きでしょう?』『ええ』『九条先生とお出かけする時にも使ってもらえたら嬉しいわ』 綾香は画面を見つめた。 また、遥臣の名前だった。『普段から使わせてもらうわ』『もちろんよ。変なこと言ってごめんなさい』 美月はそれ以上、何も尋ねなかった。◇◆◇ その翌日、綾香は父と昼食を取っていた。「そういえば、美月さんから電話があったよ」 父が何気なく言った。「美月から?」「ああ。先日送ってくれた菓子の感想を聞かれてね。ついでに、綾香が最近忙しそうだから、無理をしていないか心配だと言っていた」「そうなの」「いい友達を持ったな」 父は微笑んだ。「昔から、綾香のことをよく気にかけてくれる」 綾香は静かにナイフを置いた。「お父様。美月とは私が直接話しているから、心配しなくて大丈夫よ」「そうか」「ええ。それに、何かあれば私から相談するわ」「分かったよ」 父はそれ以上、何も言わなかった。 綾香は食事を再開したが、胸の奥にはわずかな不快感が残っていた。 自分が忙しいかどうか。 無理をしていないか。 そんなことまで、わざわざ父に尋ねる必要があるのだろうか。◇◆◇ 夕方、美月から電話がかかってきた。「綾香、ハンカチは気に入ってもらえた?」「ええ。ありがとう」「よかった。実は私も同じものを買ったの。色違いだけど」「そうなのね」「昔もよく、お揃いのものを持っていたでしょう? 懐かしくなっちゃって」 美月は穏やか
翌日の夜、綾香のスマートフォンに美月からメッセージが届いた。『昨日はありがとう。久しぶりにゆっくり話せて嬉しかった』『私もよ』『おじさまもお元気そうで安心したわ』 そこまでは、ごく普通のやり取りだった。『そういえば、おじさまに九条先生のことを話しちゃってごめんね』『もういいわ』『私、つい嬉しくなっちゃって。綾香が誰かとあんなに仲良くしてるの、なんだか新鮮だから』 綾香は画面を見つめた。 また遥臣の話だ。『遥臣のことは、そんなに気にしなくていいのよ』 少しして、返事が届いた。『そうだよね。ごめんなさい』 そして、もう一通。『でも、おじさまも九条先生のこと気に入ってるみたいでよかったね』 綾香は眉を寄せた。『お父様は、そんなこと言っていなかったでしょう?』『そうだった?』『ええ』『ごめんね。反対してないみたいだったから、そうなのかなって』 綾香は返信せず、スマートフォンを置いた。 美月はいつもそうだ。 ほんの少しだけ、話を先へ進める。 父が「好きにすればいい」と言えば、「遥臣を気に入っている」。 綾香が遥臣と親しいと知れば、「大切な人」。 そして、それをまるで自分も最初から知っていることのように話す。 小さなことだった。 けれど、その小さなことが妙に引っかかった。◇◆◇ 数日後。 綾香は遥臣と夕食を取っていた。「お父様がね、最近また仕事を増やしたみたいなの」「体調は?」「問題ないって言ってるわ。無理はしない約束もしてくれた」「ならいい」「遥臣にも心配をかけたものね」「別に」 遥臣はそう言って水を飲んだ。 綾香は少し笑う。「そういえば、美月がね」







