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婚約の延期

作者: 影畑凛星
last update 公開日: 2026-07-25 00:26:40

「私と理央の婚約は、延期してほしいの」

書斎に沈黙が落ちた。

父は驚いたように目を見開き、理央は綾香を見つめたまま動かない。

やがて父が口を開く。

「どうしたんだ、急に」

「少し考えたいの」

「お父様の体調も心配だし、今は結婚のことよりも、家のことを優先したいの」

父は困ったように眉を寄せた。

「しかし……」

「僕は構いません」

理央が穏やかに微笑む。

「綾香の気持ちを尊重したいと思っています」

また演技を始めたのか。

綾香は内心、冷めた眼差しを理央に向けた。

「理央……」

父は感心したように頷いた。

「君は本当にできた男だな」

「そんなことありません」

理央は謙虚に笑った。

まるで前世で綾香を刑務所へ送り込んだ男とは別人のようだった。

(よくそんな顔ができるわね)

見ているだけで腹立たしかった。

――いつか、父の前でこの男の化けの皮を剥いでやる。

コンコン。

扉が叩かれる。

「旦那様、お薬のお時間です」

橘恒一郎がワゴンを押して入ってきた。

綾香は何気なく視線を向けて――小さく眉をひそめた。

薬が違う。

父が以前から飲んでいた白い錠剤ではない。

見慣れないカプセル剤が混じっている。

「あら、お薬が変わったの?」

綾香が尋ねると、父も薬を見て首を傾げた。

「そういえばそうだな」

「先生が調整されたそうです」

橘が淡々と答える。

「最近は体調も安定しておりますので、少し処方が変わったと伺っております」

「そうか」

父は特に気にした様子もなく頷いた。

綾香もそれ以上は追及しなかった。

医療の知識はない。

薬の名前を見ても何もわからない。

だが、なぜだろう。

胸の奥に小さな違和感が残った。

その時だった。

薬の横に置かれた皿が目に入る。

そこには食べやすく切り分けられたグレープフルーツが並んでいた。

「これ、懐かしいわ」

父が笑う。

「なんだ、そんな顔をして」

「だって、お父様が昔から大好きだったでしょう?」

「ああ」

父は楽しそうに頷いた。

「学生の頃から好きなんだ。朝食にもよく食べていたな」

「そうだったわね」

綾香も微笑む。

「最近は出ていなかったから、少し驚いたの」

確か医者から、控えるようにと指示が出ていたように記憶している。

「旦那様がお好きですので」

橘が自然に答える。

「最近は体調が安定してきたため、医師の許可も出て、久しぶりにご用意いたしました」

「そう」

綾香は小さく頷いた。

おかしなところは何もない。

薬も医師が変更した。

グレープフルーツも父の好物。

説明だけ聞けば不自然な点は一つもなかった。

でも、何かが変だと直感していた。

◇◆◇

その日の夜。

綾香は自室のベッドに腰掛けていた。

窓の外では虫の声が聞こえる。

だが眠る気にはなれなかった。

薬。

グレープフルーツ。

理央。

橘。

すべてが頭の中をぐるぐると回っている。

そして、不意に前世の記憶が蘇った。

『証拠があるんだよ』

理央の声。

『御影グループがどれだけ汚いことをしているか、君は知らない』

当時は嘘だと思った。

父は正義感の強い人だった。

不正を嫌い、社員を大切にし、誰よりも真面目に働いていた。

そんな父が不正をするはずがない。

だが理央は自信満々だった。

『全部暴露されたくなかったら、大人しくしていた方がいい』

そして。

あの言葉。

『君のお母さんがどうして死んだのか、知りたくない?』

綾香はぎゅっと拳を握った。

母は病死だと聞かされていた。

幼かった綾香には、それを疑う理由もなかった。

だが理央は違うと言った。

どうしてそんなことを知っていたのか。

どうしてあの時、自信満々に笑っていたのか。

(何かを知っている……)

そしてそれは、父や母の死に関係しているかもしれない。

綾香は立ち上がった。

考えているだけでは駄目だ。

まずは調べなければ。

部屋を出ると、廊下の先に橘の姿が見えた。

薬箱を持っている。

父の書斎に向かうところだった。

綾香は足音を忍ばせ、そっと後を追う。

橘は気づかない。

そのまま廊下を曲がり、書斎の前へ向かう。

やはり、橘には何か問題がある。

綾香も角を曲がった。

その瞬間。

「綾香?」

背後から声がした。

身体が強張る。

振り返ると、そこには理央が立っていた。

穏やかな笑みを浮かべながら。

「こんな時間に、何をしているの?」

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