Masuk「私と理央の婚約は、延期してほしいの」
書斎に沈黙が落ちた。
父は驚いたように目を見開き、理央は綾香を見つめたまま動かない。
やがて父が口を開く。
「どうしたんだ、急に」
「少し考えたいの」
「お父様の体調も心配だし、今は結婚のことよりも、家のことを優先したいの」
父は困ったように眉を寄せた。
「しかし……」
「僕は構いません」
理央が穏やかに微笑む。
「綾香の気持ちを尊重したいと思っています」
また演技を始めたのか。
綾香は内心、冷めた眼差しを理央に向けた。
「理央……」
父は感心したように頷いた。
「君は本当にできた男だな」
「そんなことありません」
理央は謙虚に笑った。
まるで前世で綾香を刑務所へ送り込んだ男とは別人のようだった。
(よくそんな顔ができるわね)
見ているだけで腹立たしかった。
――いつか、父の前でこの男の化けの皮を剥いでやる。
コンコン。
扉が叩かれる。
「旦那様、お薬のお時間です」
橘恒一郎がワゴンを押して入ってきた。
綾香は何気なく視線を向けて――小さく眉をひそめた。
薬が違う。
父が以前から飲んでいた白い錠剤ではない。
見慣れないカプセル剤が混じっている。
「あら、お薬が変わったの?」
綾香が尋ねると、父も薬を見て首を傾げた。
「そういえばそうだな」
「先生が調整されたそうです」
橘が淡々と答える。
「最近は体調も安定しておりますので、少し処方が変わったと伺っております」
「そうか」
父は特に気にした様子もなく頷いた。
綾香もそれ以上は追及しなかった。
医療の知識はない。
薬の名前を見ても何もわからない。
だが、なぜだろう。
胸の奥に小さな違和感が残った。
その時だった。
薬の横に置かれた皿が目に入る。
そこには食べやすく切り分けられたグレープフルーツが並んでいた。
「これ、懐かしいわ」
父が笑う。
「なんだ、そんな顔をして」
「だって、お父様が昔から大好きだったでしょう?」
「ああ」
父は楽しそうに頷いた。
「学生の頃から好きなんだ。朝食にもよく食べていたな」
「そうだったわね」
綾香も微笑む。
「最近は出ていなかったから、少し驚いたの」
確か医者から、控えるようにと指示が出ていたように記憶している。
「旦那様がお好きですので」
橘が自然に答える。
「最近は体調が安定してきたため、医師の許可も出て、久しぶりにご用意いたしました」
「そう」
綾香は小さく頷いた。
おかしなところは何もない。
薬も医師が変更した。
グレープフルーツも父の好物。
説明だけ聞けば不自然な点は一つもなかった。
でも、何かが変だと直感していた。
◇◆◇
その日の夜。
綾香は自室のベッドに腰掛けていた。
窓の外では虫の声が聞こえる。
だが眠る気にはなれなかった。
薬。
グレープフルーツ。
理央。
橘。
すべてが頭の中をぐるぐると回っている。
そして、不意に前世の記憶が蘇った。
『証拠があるんだよ』
理央の声。
『御影グループがどれだけ汚いことをしているか、君は知らない』
当時は嘘だと思った。
父は正義感の強い人だった。
不正を嫌い、社員を大切にし、誰よりも真面目に働いていた。
そんな父が不正をするはずがない。
だが理央は自信満々だった。
『全部暴露されたくなかったら、大人しくしていた方がいい』
そして。
あの言葉。
『君のお母さんがどうして死んだのか、知りたくない?』
綾香はぎゅっと拳を握った。
母は病死だと聞かされていた。
幼かった綾香には、それを疑う理由もなかった。
だが理央は違うと言った。
どうしてそんなことを知っていたのか。
どうしてあの時、自信満々に笑っていたのか。
(何かを知っている……)
そしてそれは、父や母の死に関係しているかもしれない。
綾香は立ち上がった。
考えているだけでは駄目だ。
まずは調べなければ。
部屋を出ると、廊下の先に橘の姿が見えた。
薬箱を持っている。
父の書斎に向かうところだった。
綾香は足音を忍ばせ、そっと後を追う。
橘は気づかない。
そのまま廊下を曲がり、書斎の前へ向かう。
やはり、橘には何か問題がある。
綾香も角を曲がった。
その瞬間。
暗闇から、冷たい手が私の肩を掴んだ。
「こんな時間に……何をしているの? 綾香」
窓ガラスに映ったのは、ゾッとするような笑顔を浮かべた理央だった――
「……美月。君には、もう会わないと伝えたはずだけど」 理央の言葉に、美月の笑顔が凍りついた。「そんな……。だって、今日は晩餐会でしょう? 招待されているんだから、会うことくらいあるわ」「そうだね。だから、挨拶だけにしておこう」 理央は穏やかに答えた。 声を荒らげることも、責めることもない。 けれど、その態度には明らかな距離があった。「理央、私……」「綾香、九条先生。改めて、ご婚約おめでとうございます」 美月の言葉を遮るように、理央は二人に向き直った。「ありがとう」 綾香が答えると、理央は微笑んだ。「御影社長にも、近いうちにご挨拶に伺う予定なんだ。新しい事業の件で、少し相談があってね」「そうなのね」「お父様には、いつもお世話になっているよ」 理央の口調は、以前と変わらず柔らかい。 綾香はその笑顔を見つめた。 前世でも、理央はこうして人当たりのよい顔で父に近づいていた。 そして、気づいたときには会社の重要な仕事を任されるようになっていたのだ。「仕事のことは、お父様と直接お話ししてちょうだい」「もちろん。そのつもりだよ」 理央はあっさり頷いた。 そのとき、開宴を告げるベルが鳴った。「それじゃあ、また」 理央は一礼し、人々の輪へと歩いていった。「……理央!」 美月が呼び止めたが、彼は振り返らなかった。◇◆◇「ひどいわ……」 美月が小さく呟いた。 綾香は返す言葉を探したが、美月はすぐに顔を上げた。「ごめんなさい、綾香。せっかくのお祝いの日なのに、変なところを見せちゃったわね」「いいえ」「理央、最近ずっと忙しいみたい
慈善晩餐会を翌週に控えた午後、綾香はドレスを選んでいた。「こちらはいかがでしょう、お嬢様」 使用人が広げたのは、淡い青色のイブニングドレスだった。「綺麗ね。でも、少し大人しすぎるかしら」「では、こちらは?」 次に差し出されたのは、深いワインレッドのドレスだった。 肩から胸元にかけて繊細な刺繍が施され、裾には上品な光沢がある。「まあ、素敵!」 綾香は鏡の前に立ち、ドレスを体に当てた。「これにするわ」 胸元には、遥臣から贈られたダイヤモンドの指輪に合わせて、母の形見のネックレスを飾ることにした。◇◆◇ 晩餐会当日、遥臣は約束の時間ぴったりに御影家を訪れた。 玄関ホールに現れた綾香を見て、彼は足を止めた。「……綾香」「どうかしら?」 綾香は少し照れながら微笑んだ。「今日は婚約者として初めて一緒に出席するんですもの。少し頑張ってみたの」「少し、どころじゃないな」 遥臣は綾香の手を取った。「綺麗だ」「ふふ。ありがとう」 そこへ父が姿を見せた。「おや、二人ともよく似合っているね」「お父様!」「遥臣君、今日は娘をよろしく頼むよ」「はい。お任せください」 遥臣が答えると、父は満足そうに頷いた。◇◆◇ 会場となったホテルの大広間には、華やかな装いの招待客が集まっていた。 綾香が遥臣の腕に手を添えて入場すると、顔見知りの夫人が声をかけてきた。「まあ、綾香さん! 今夜もお綺麗ね」「ありがとうございます」「そちらは九条先生かしら?」「ええ。私の婚約者です」 綾香が紹介すると、夫人は目を輝かせた。「まあ! ご婚約なさったの?」「はい。先日、正式にお申し込みをいただきました」
「お嬢様のご同伴者について、すでに別の方からお申し出があったとのことでございます」 橘の言葉に、綾香は首を傾げた。「別の方?」「はい。理央がお嬢様に同伴する予定だと、主催者様にご連絡があったそうです」「理央を?」 父も驚いた顔をした。「おかしいな。私はそんな話をしていないが」「私もよ。遥臣と出席できたらと思っていたところだもの」 橘は頷いた。「先方も、正式なお申し出ではないため、念のため確認したいとのことでございました」「誰がそんな連絡をしたんだい?」「美月様だそうです」 綾香は思わず父と顔を見合わせた。「……また美月なのね」◇◆◇ 父はすぐに主催者へ電話をかけた。「御影です。このたびはお招きいただき、ありがとうございます」 しばらく和やかに挨拶を交わしたあと、同伴者の話になった。「ええ、娘の同伴者についてですが……」 父は綾香を見て微笑んだ。「実は先日、九条遥臣君から正式に結婚の申し込みを受けましてね。娘も喜んで承諾したところです」 電話の向こうから、祝福の声が聞こえてきた。「ありがとうございます。ええ、当日は九条君を同伴させたいと思っております」 父は少し間を置いた。「それから、理央君についてのお話は、こちらからお願いしたものではありません」 通話を終えると、父は困ったように笑った。「先方も驚いていたよ。美月さんは、今年も綾香と理央君が一緒に出席するものと思っていたそうだ」「でも、美月は事情を知っているはずなのに」「そうなのかい?」「ええ。本人にも話しているわ」 父は眉をひそめた。「それなら、なおさら不思議だね」◇◆◇ その日の夕方、美月から綾香に電話がかかってきた。
翌朝、綾香は目を覚ますと、真っ先に左手を持ち上げた。 薬指には、昨夜遥臣から贈られた指輪が輝いている。「……夢じゃなかったのね」 思わず笑みがこぼれた。 昨夜のプロポーズを思い出すだけで、胸が温かくなる。 遥臣の真剣な眼差しも、少し照れたような笑顔も、何度でも思い出せた。◇◆◇ 朝食の席に着くと、父が新聞から顔を上げた。「おはよう、綾香。昨日は楽しかったかい?」「ええ、とても」 綾香は微笑み、左手をそっと差し出した。「お父様、見てくださる?」 父は指輪を見るなり、目を丸くした。「これは……!」「昨夜、遥臣からプロポーズされたの」「そうか!」 父は新聞を置き、嬉しそうに笑った。「それで、返事は?」「もちろん、お受けしたわ」「おめでとう、綾香!」 父は立ち上がり、綾香を抱きしめた。「ありがとう、お父様」「いやあ、よかった。遥臣君なら安心だ」 父は少し目を潤ませていた。「お母さんにも見せてやりたかったな」「……ええ」 綾香も胸がいっぱいになった。 父はすぐに笑顔を取り戻した。「そうだ。今度、遥臣君を食事に招こう。正式な話もしたいからね」「ええ。遥臣も、お父様にご挨拶したいと言っていたわ」「それなら、早速日程を決めよう」◇◆◇ 食後、綾香が廊下を歩いていると、橘が声をかけてきた。「お嬢様、おめでとうございます」「まあ、橘。もう聞いたの?」「旦那様から、先ほど」 橘は穏やかに微笑んだ。「九条様からご相談をいただいた時から、この日を楽しみにしておりました」「そういえば、指輪のサイズを教えてく
土曜日の夕方、綾香は鏡の前で最後に髪を整えていた。 選んだのは、深い赤色のドレスだった。 肩にかかる髪をゆるくまとめ、耳元には小粒の真珠を飾る。「お嬢様、九条様がお迎えにいらっしゃいました」「ありがとう、橘。すぐに行くわ」 階段を下りると、玄関ホールで遥臣が待っていた。 黒いスーツに身を包んだ彼は、綾香を見るなり目を細めた。「……綺麗だな」「ふふ。ありがとう」 綾香はドレスの裾を軽く持ち上げた。「今日は特別な日になりそうだから、頑張ってお洒落したの」「ああ。期待していてくれ」 遥臣は綾香に手を差し出した。「行こう」◇◆◇ 車が到着したのは、都心の高層ホテルだった。 最上階のレストランへ案内されると、大きな窓の向こうに宝石を散りばめたような夜景が広がっていた。「まあ……素敵!」「気に入ったか?」「ええ、とても!」 案内されたのは、窓際の静かな席だった。 食事はどれも美しく、遥臣が選んだワインも料理によく合っていた。「こんな素敵なお店、よく知っていたわね」「以前、仕事の会食で来たことがある」「そうだったの」「その時から、綾香を連れてきたいと思っていた」 綾香は微笑んだ。「それなら、もっと早く誘ってくれてもよかったのに」「今日は特別だからな」 遥臣の言葉に、綾香の胸が高鳴った。◇◆◇ デザートを終えると、遥臣が立ち上がった。「綾香、少し付き合ってくれ」「ええ」 案内されたのは、レストランに隣接する小さなテラスだった。 ガラス越しに見えていた夜景が、今度は目の前に広がっている。 冷たい風が頬を撫でた。「寒くないか?」
『綾香。俺と結婚してくれないか?』 受話器の向こうから聞こえた言葉に、綾香は息を呑んだ。 遥臣が、自分に結婚を申し込んでいる。 それはずっと夢見ていたような、幸せな言葉だった。 けれど――。「……嫌よ!」『……何?』 遥臣の声が止まった。『綾香、今、何と言った?』「嫌だと言ったの!」 綾香は頬を膨らませた。『そうか……』 電話の向こうで、遥臣が息を吐く。『昨日の話で、少し期待してしまった。悪かったな』「ちょっと待って! そういう意味じゃないわ!」『違うのか?』「違うわよ!」 綾香は思わず声を上げた。「もう、遥臣ったら! どうして電話でプロポーズなんてするの?」『……電話では駄目なのか?』「当たり前でしょう!」 綾香は立ち上がり、窓辺まで歩いた。「女の子にとって、プロポーズは一生に一度の大切な思い出なのよ? それなのに、電話で済ませるなんて!」『いや、済ませるつもりでは……』「しかも、私、今は部屋着なのよ!」『それは俺には見えないだろう』「そういう問題じゃないの!」 遥臣が小さく笑った。『なるほど。俺が悪かった』「本当に分かっている?」『ああ。電話で言うべきじゃなかったな』「そうよ。もっとロマンチックにしてほしいわ」『分かった』 遥臣は少し間を置いて続けた。『じゃあ、今のは聞かなかったことにしてくれ』「……え?」『改めて、きちんと申し込む』 綾香は思わず微笑んだ。「ふふ。そうしてちょうだい」