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もう、奪わせない

Author: 影畑凛星
last update publish date: 2026-07-25 00:26:07

橘恒一郎に促され、綾香はゆっくりと廊下を歩いていた。

磨き上げられた床。

窓から差し込む朝日。

遠くから聞こえる使用人たちの声。

すべてが懐かしい。

そして同時に――恐ろしかった。

(戻ってきた……)

五年前へ。

父がまだ生きていた頃へ。

理央に裏切られる前へ。

そう理解するたび、胸の奥がざわつく。

あの日の記憶が、何度も脳裏によみがえった。

『頷くまでやめない』

殴られる音。

床へ叩きつけられる衝撃。

『綾香、僕を愛しているよね?』

優しく囁きながら、自分を刑務所へ売った男。

『いっそ、顔を壊せばいい』

そう言って、暴力の限りを尽くした。

綾香は無意識に、自分の腕を抱きしめた。

寒い。

あれほど暑かったはずなのに、体までも震えていた。

「綾香?」

不意に聞こえた声に、綾香の身体がびくりと跳ねた。

視線を上げる。

廊下の先に立っていたのは、橘理央だった。

「顔色が悪いけど、大丈夫?」

柔らかく微笑むその姿は、綾香の知る“優しい婚約者”そのものだった。

だが今の綾香には、その笑顔が恐ろしく見えた。

(気持ち悪い……)

ぞわりと鳥肌が立つ。

どうして自分は、こんな男を愛していたのだろう。

理央が近づき、綾香の頬へ触れようと手を伸ばす。

その瞬間。

綾香は反射的に後ろへ下がっていた。

「……綾香?」

理央の目がわずかに細くなる。

しまった、と綾香は思った。

今はまだ、何も知らないふりをしなければならない。

「ごめんなさい……少し疲れているみたい」

綾香は無理やり笑みを作った。

理央は数秒、綾香を見つめていた。

まるで何かを探るような視線。

だがすぐに、いつもの優しい顔へ戻る。

「無理しないで。君は昔から頑張りすぎるから」

優しい声。

昔の綾香なら、それだけで安心していた。

けれど今は違う。

その声の裏側にある冷たさを、綾香は知ってしまっていた。

「そうだ」

理央が思い出したように口を開く。

「今日、美月も来るんだ」

「この前も君のこと心配してたよ。最近元気がないって」

――ああ。

そうだった。

昔の美月は、いつだって“綾香を心配する親友”を演じていた。

可憐で。

優しくて。

控えめで。

誰も、彼女の本性に気づかなかった。

『君みたいな顔になりたい』

理央は確かにそう言っていた。

『君みたいな人生が欲しいって、ずっと言ってたよ』

綾香はゆっくりと爪を握りしめた。

あの頃は気づかなかった。

理央は最初から、自分より美月を優先していたのではないか。

綾香が傷ついても平気だった。

綾香を刑務所へ送っても平気だった。

でも、美月だけは守った。

(あなたはいったい、誰の婚約者なの?)

それが答えではないのか。

「綾香?」

理央が不思議そうに首を傾げる。

綾香はハッとして顔を上げた。

「……何でもないわ」

「本当に?」

「ええ」

短く答えながら、綾香は心の中で自分に言い聞かせる。

もう恋に溺れたりしない。

もう騙されない。

あんな男を愛していた昔の自分には戻らない。

利用される側で終わるつもりはなかった。

「理央」

綾香は静かに口を開いた。

「婚約の話だけど……少し待ってほしいの」

空気が止まった。

ほんの一瞬。

理央の表情が消える。

笑顔でも怒りでもない、空白の顔。

だが次の瞬間には、また優しい微笑みに戻っていた。

「どうして?」

穏やかな声だった。

けれど綾香は見逃さなかった。

理央の目だけが、まったく笑っていなかったことを。

「私にも心の準備が必要なのよ。少しだけ時間が欲しいの」

「……そうか」

冷たさを感じる声。

怯えが身体を支配しそうになる。

だが綾香は自分を奮い立たせた。

「お父様が待っているから、行くわ」

今の自分は御影家の令嬢。立場が強いのはこちらだ。

理央は何か言いたそうな目で綾香を見つめていたが、黙ってついてきた。

「お父様」

書斎のドアを開ける。

「おお、綾香」

振り返った父に向って、綾香は堂々と宣言した。

「私と理央の婚約は、延期してほしいの」

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