LOGIN私、安藤菫(あんどう すみれ)は恋人である坂本真崎(さかもと まさき)と役所へ向かい、婚姻届を提出するはずだった。しかし、私たちが婚姻届を提出する前に、真崎の秘書である河内知佳(かわうち ちか)が、真崎と彼女の名前を記入した婚姻届を提出してしまったのである。 よって、私と真崎ではなく、真崎と知佳の間に婚姻関係が結ばれた。 私は知佳に、ただどういうことか尋ねただけだった。なのに知佳は、突然その場で泣き崩れ、私に向かって縋り付くようにこう叫んだのだった。 「ごめんなさい、菫さん。すべては息子のためなんです。私は、どうしても真崎さんが住んでいるところの、小学校に息子を入学させたくて。でも、そこの小学校に入るには、そこの学区の住民票が必要だったから……それに、シングルマザーの子供っていう理由で、いじめられないか心配で……」 知佳は呼吸もままならないほど泣きじゃくり、ほとんど我を失っていた。 真崎は普段、私にとても優しかった。しかし、今回は私を庇うどころか、何人も周りに人がいるというのに、私に平手打ちを食らわした。 「シングルマザーの知佳が子供のためにやったことだ。そこまで追い詰めることじゃないだろ? それに、婚姻届なんてたかが紙切れ一枚のことじゃないか。子供の入学が終わればすぐに離婚するんだから、入籍が少し遅れるくらいで、知佳を追い詰めたりなんかしなくたっていいだろ? とにかく、今すぐ知佳に謝ってから、今後の給料の半分も生活費として知佳に渡してやれ。お前が素直に謝罪するっていうなら、俺が婚姻届を窓口に出す後ろ姿でも撮らせてやるよ。 名前が写らないようにすれば、インスタでもなんでもみんなに自慢できるだろ?菫、大人しく言うことを聞け。さもないと、お前との結婚の話は無しにするからな」 私は冷たく鼻で笑った。「無しにされたって構わない」 結婚どころかこんな男自体、こちらから願い下げだ。
View More私が真崎と再会したのは、警察署だった。警察に呼ばれた理由は、坂本グループのこれまでの運営状況に関する事情聴取だった。そこで、私は初めて真実を知ることになった。知佳――真崎がかつて最も信頼していた秘書は、昨日の午後、会社の資金をすべて持ち逃げし、愛人を連れて国外へ高飛びしたという。知佳が残していったのは、空っぽになった抜け殻の会社と、到底返しきれないほどの借金だけだった。今の真崎の末路は、まさに自業自得というほかはない。私は冷静に聴取に応じ、書類に署名した。署を去ろうとしたとき、ちょうど警察二人に連行される真崎とすれ違った。やつれ切った表情に、紙のように白い顔と乱れた髪。以前のような高慢で傲慢な面影はどこにもなかった。真崎もまた、私に気づいた。その視線は、無意識のうちに、哲也としっかりと繋いだ私の手元に向けられた。その瞬間、真崎が必死に抑え込んでいた感情が、ついに崩壊したようだった。目元が、見る間に赤く染まっていく。真崎は唇を震わせ、何かを伝えようとしていた。だが結局、言葉にはならず、ただうつむいて涙を流すだけだった。私は背を向け、哲也と手をつないだまま、一度も振り返らずに警察署を出た。外に出ると、晴々とした空がそこにはあった。……その後、坂本グループは破産。真崎は莫大な借金を抱えることになった。その間に、真崎は新しい連絡先から何度もメールを送ってきた。そこには、懺悔の言葉ばかりが並ぶ。【菫、俺が悪かった。あの時、知佳ばっか優先しなければ、こんなことにはならなかったのに】【もしやり直せるなら、今度こそお前を大事にする。俺の人生は知佳に壊されたんだ……】私は無視した。ただの迷惑メールと同じだから。再び真崎の消息を聞いたのは、半年後のニュースだった。全てを失い、誰からも見捨てられた真崎は絶望し、知佳を狂ったように探し回っていたらしい。彼はすべての原因が知佳にあると思い込み、半年かけてようやく海辺の町でバカンス中の知佳を見つけ出すと、彼女を刺し殺したという。知佳は滅多刺しにされたうえに、火までつけられ、死体はひどく損壊していたというから、かなり残酷だ。知佳の息子の拓也もまた、施設に入れられたのだが、他の子をいじめたり、盗み食いなどを繰り返した末、誤ってネズミ捕りの薬を
人事部長の言葉は静かなものだったが、まるで鈍器で殴られたかのような衝撃を真崎の胸に与えた。技術部は菫が一人で育て上げた部門で、コア技術はすべて菫の管理下にある。営業部もまた、菫が6年かけて全国を飛び回り、必死に頭を下げて築き上げた販路だった。真崎はこれまで、これらの人材も会社もすべて「坂本家」のものだと信じ切っていた。しかし、今ようやく悟った。そうではなかったと。すべては、菫のものだったのだ。不意に、いつも媚びた笑顔を浮かべていた知佳の顔が脳裏をよぎる。知佳は「菫さんなんてただの雇われの身。大事な資源はすべて坂本家が握っている」と自信満々に言っていた。自分はそれを信じ切っていたのだ。あんな女のために、自ら本当の宝を切り捨ててしまった。凄まじい後悔が、潮のように押し寄せ真崎を飲み込む。長い沈黙の後、真崎は深く息を吸い、無理やり冷静さを取り戻そうとした。顔を上げ、これまで通りの高飛車な態度を繕う。「退職したきゃすればいい!この世には坂本グループに入りたがっている奴が山ほどいるんだ!あいつらが辞めた後には、もっといい奴らを雇い直してやる!倍の給料だって何だって払ってやるよ!」金さえ出せば、忠誠なんていくらでも買えると信じていた。しかし、人事部長は真崎を見て、もう何も感じていないかのような表情で言った。一瞬の逡巡の後、重い口を開く。「ですが社長……会社の口座には……もう、お金が残っておりません。倍の給料どころか、今月分の給与さえ……支払えない状況です」真崎の頭の中で、何かが弾けた。理性を繋ぎ止めていた最後の一線が、プツンと切れる。彼は人事部長を射抜くような鋭い視線を向けた。「いい加減にしろ!資金のことなんて、心配しなくたっていい!俺が何とかする!俺には……まだスポンサーがついているんだから!知佳が以前から交渉を続けていて、相手もかなり乗り気らしいからな。新しい資金さえ手に入れば、すべてうまくいくはずだ!」真崎は人事部長を追い払うように手を振り、聞く耳を全く持たなかった。「さっさと出ていけ!今日の会議は全部キャンセルだ!そのスポンサーに、俺自ら会いに行ってくる」人事部長は言葉を呑み込み、呆れたような溜め息をついて退室した。社長室の扉が閉ま
その頃の坂本グループの社長室。真崎が最後の通話を終え、口元に不敵な笑みを浮かべていた。手元のブランデーグラスをゆっくりと回す。「菫……俺と争うなんて、お前もまだまだ青いな。取引先を失った今、どうやってあの新らしい恋人を養い、再起を図るつもりだ?すぐに泣きついて戻ってくるだろうに」満足そうに独り言を呟く。しかし、その余裕の笑みも束の間だった。ドンッ!社長室の扉が激しく開けられた。「社長!」顔を真っ青にした人事部長が、転がり込むように入ってきた。真崎の笑みは凍りつき、眉間にしわが寄る。「なんだ、騒がしいな。何の騒ぎだ?ノックすることも知らないのか?しかし、人事部長はそんな叱責も耳に入らない様子で、肩で息をしながら叫んだ。「社長、一大事です!技術部とマーケティング部の全員が……安藤さんの件は不当だと言って、一斉に辞表を出したんです!それで、一人残らず……みんな辞めてしまいました」「なんだって!?」真崎は椅子を蹴って立ち上がり、手にしていたグラスも床に落ちた。「パリンッ」という乾いた音と共に、赤ワインが全身に跳ねる。真崎は十数秒間、信じられないという表情で立ち尽くした。そして次の瞬間には、激しい怒りがこみ上げてきた。「俺をなめてるのか?調子に乗りやがって」真崎はデスクを拳で強く叩きつける。「給料を払っているのは誰だ?俺だ!菫なんかじゃない!恩知らずどもめ!今まで飯を食わせてやったのに、あいつの肩を持つのか!?」激しく呼吸を乱しながら、人事部長を指さして怒鳴る。「あいつらに言ってやれ!辞めるのは構わないが、退職金は一円もやらんとな!それと、全員の履歴に傷をつけてやれ!二度と業界で働けないようにしてやる!」すると人事部長は、泣き出しそうな顔でこう言った。そして絶望のあまり首を横に振る。「社長……それはすべて伝えました。ですが彼らは……『退職金はいらない、安藤さんと共に働く』の一点張りで。それに、『賢い人はちゃんと身の置きどころを選ぶものだ』とも言っていました。だから社長には、自業自得だって、伝えてくれと……」
真崎の瞳を見て、私は悟った。本気なんだ、と。真崎にとって、それが私の急所だと思っているらしい。だが、あいにくなことに、脅す相手を間違えている。この男は、まさか私の力なしで、自分の会社がうまくいくなんて思ってるのだろうか?私の技術も、私が3年かけて築いた顧客もないというのに。酒と男に頼るしかない知佳だけで、何ができるっていうのか?ただでさえ、社員の心が離れかけているというのに。真崎が今握りしめているのは、中身が空っぽなハリボテでしかないのだから。「そう?」私はようやく足を止めて振り返り、哀れむような眼差しを向けた。「そうなること、楽しみにしておくね。あ、そうだ」私は付け加える。「急いだほうがいいよ。だって……あなたに残された時間は、もうそうは長くないから」呆気にとられている真崎の表情を無視して、私は哲也の手を引いてその場を後にした。哲也を安全な家まで送り届け、そのまま絢香のアパレル工場へと車を走らせた。こここそが、私にとっての本拠地だから。デスクの椅子に座り、まだ椅子も温まっていない時のことだった。ドン!オフィスのドアが激しく突き飛ばされた。アシスタントの井上健太(いのうえ けんた)が、顔中汗だくで飛び込んできた。「安藤部長!大変です!かなりまずいことになりました!」物音を聞いた絢香が奥の部屋から駆け出してきて、健太を支える。「井上さん、落ち着いて。会社が潰れるわけじゃあるまいし」「潰れるんです!本当に会社が潰れちゃうんです!」健太は肩で息をして、震える声で訴えた。「坂本社長が、おかしくなったみたいで……坂本グループの権力を盾に、全ての取引先へ根回ししてて!私たちの受注を受けた会社は、坂本グループの敵とみなすと!すでに話が進んでいた大手クライアントからも、次々と解約の連絡がきています!」ドン!絢香がデスクを思い切り叩き、青筋を立てて憤る。「何なの!あのスカしたクズ!私たちをとことん追い詰める気ね!菫、どうしよう?製造ラインも広げたばかりなのに、このままじゃかなりの損失が出ちゃう」私は聞こえていないかのように、ゆっくりとお茶を淹れた。ふうっと息を吹きかけて、一口すする。そして、壁の掛け時計に目をやった。午後6時ちょうど。そろ