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一週間ループ

一週間ループ

By:  穀雨Completed
Language: Japanese
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林耕司(はやし こうじ)は言った。私には珍しいTGA、つまり一過性全健忘があると。 毎週月曜日の朝、目が覚めると、私は25歳の宮原灯(みやはら ともり)に戻る。記憶は過去で止まったまま。 USBメモリには林耕司と旅をし、治療を受け、婚約指輪をはめた動画が残っている。幸せそうな映像ばかりなのに、脳裏に一片の痕跡も残らない。 「灯はまだここにいるんだから、少しは慎んだらどう?」 「何を怖がってるの?明日は月曜だよ。目が覚めれば彼女、全部忘れてるんだから」林耕司のその答えに、私の心は一瞬で氷のように冷たくなった。 「だからこそ面白いじゃないか......」 林耕司は私の親友を抱き寄せ、憚りもなく目の前で絡み合う。この二年、何度こんな光景を繰り返してきただろう。 涙で視界が滲む中、必死で外へ駆け出した。辿り着いたタトゥーショップで震える腕に、最後の望みを懸けるように文字を刻んだ。 「彼から離れろ」

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Chapter 1

第1話

「目が覚めた?」

病院の消毒液の鋭い匂いが鼻腔を突き刺し、頭を鈍器で殴られたような痛みが走る。朦朧とする視界の端で、林耕司(はやし こうじ)の横顔が揺れた。

「混乱するのも無理はない。まずこのUSBメモリを見てくれ」

記憶は交通事故の日で途切れていた。高速道路で前車が急停車し、耕司は咄嗟にハンドルを切った。自分を守るためではなく、助手席の私をかばうためだ。ガードレールに直撃した車は大破し、彼は瀕死の重傷を負った。私には擦り傷すらほとんどなく、ただ脳に後遺症が残っただけ。

耕司が意識を取り戻して最初に口にしたのはプロポーズだった。病室のベッドの上、患者服姿のまま。私はその姿に耐えきれず、彼の胸に飛び込んだ。ふと見上げた彼の瞳に、かすかな苦悶の色が浮かんでいるのを捉えた瞬間、蔦のように絡みつく不安が心臓を締め上げた。

なぜこんな奇妙な病気が?変わらぬままの恋人で、本当に良いのか?いつか……飽きられてしまうのでは?

「病室が変わったんですか?」

看護師に連れられて現れたのは、親友の清水菜々美(きよみず ななみ)だった。プロポーズの動画を撮影したのも彼女だ。駆けつけてくれたと喜んだのも束の間、彼女は私を無視するように耕司に近づき、真紅のマニキュアを光らせた指をダークスーツの肩にかけた。

「耕司さん、会社で緊急の案件が」

「灯ちゃんのことは私が面倒みますから」

耕司はそっとその手を払いのけ、申し訳なさそうに俯いた。「灯、後で菜々美に送ってもらうから」

いつから二人はこんなに親密に?以前は犬猿の仲だったはずだ。私は耕司と喧嘩する度に「あんな男と別れなさい」と言っていた菜々美が、なぜ耕司の会社で働いている?

眉をひそめると、耕司は私の額に軽く唇を触れさせ「動画を最後まで見てて」と念を押した。「はいはい」と菜々美が応える声が、奇妙に馴染んで聞こえた。婚約者と親友という組み合わせなのに、なぜか私は部屋の隅に置かれた観葉植物のような気分だった。

動画の音だけが響く病室。私は映像の一秒も見逃すまいと、幸福の断片を脳裏に刻みつけようとした。点滴のチューブが逆流した血液で真っ赤に染まったのに気づかなかった。

「菜々美」

「看護師さんを呼んでくれない?」

何度か呼びかけてようやく彼女が顔を上げた。舌打ち一つ。

「面倒くさいわね」

彼女が用事で立ち去るまで、私への態度が急変した理由がわからなかった。

耕司が言う「家」とやらにたどり着いた時、タクシーの窓越しに見えたのは見知らぬマンションだった。完成見本のような無機質なインテリア。二年間も住んでいたというのに、記憶と現実の齟齬に息が詰まる。

カーテンを開けようと腕を伸ばした瞬間、前腕に浮かぶ刺青が視界を遮った。かさぶたの下に、くっきりと刻まれた文字。

彼から離れろ

周囲の皮膚が赤く腫れている。明らかに最近入れたばかりの痕だ。いつ私が?混乱しながら耕司の携帯にかけるが繋がらない。会社に電話すると、いきなり怒鳴り声が飛んできた。

「毎週月曜に同じ質問って、仕事の邪魔だってわからないのか!?」

「でも……」

理不尽な罵声に呆然としていると、鏡に映った自分が異様に老け込んで見えた。くすんだ肌、隈取った目の下。記憶の中の少女とは別人のようだった。

こんなはずじゃない--

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第1話
「目が覚めた?」病院の消毒液の鋭い匂いが鼻腔を突き刺し、頭を鈍器で殴られたような痛みが走る。朦朧とする視界の端で、林耕司(はやし こうじ)の横顔が揺れた。「混乱するのも無理はない。まずこのUSBメモリを見てくれ」記憶は交通事故の日で途切れていた。高速道路で前車が急停車し、耕司は咄嗟にハンドルを切った。自分を守るためではなく、助手席の私をかばうためだ。ガードレールに直撃した車は大破し、彼は瀕死の重傷を負った。私には擦り傷すらほとんどなく、ただ脳に後遺症が残っただけ。耕司が意識を取り戻して最初に口にしたのはプロポーズだった。病室のベッドの上、患者服姿のまま。私はその姿に耐えきれず、彼の胸に飛び込んだ。ふと見上げた彼の瞳に、かすかな苦悶の色が浮かんでいるのを捉えた瞬間、蔦のように絡みつく不安が心臓を締め上げた。なぜこんな奇妙な病気が?変わらぬままの恋人で、本当に良いのか?いつか……飽きられてしまうのでは?「病室が変わったんですか?」看護師に連れられて現れたのは、親友の清水菜々美(きよみず ななみ)だった。プロポーズの動画を撮影したのも彼女だ。駆けつけてくれたと喜んだのも束の間、彼女は私を無視するように耕司に近づき、真紅のマニキュアを光らせた指をダークスーツの肩にかけた。「耕司さん、会社で緊急の案件が」「灯ちゃんのことは私が面倒みますから」耕司はそっとその手を払いのけ、申し訳なさそうに俯いた。「灯、後で菜々美に送ってもらうから」いつから二人はこんなに親密に?以前は犬猿の仲だったはずだ。私は耕司と喧嘩する度に「あんな男と別れなさい」と言っていた菜々美が、なぜ耕司の会社で働いている?眉をひそめると、耕司は私の額に軽く唇を触れさせ「動画を最後まで見てて」と念を押した。「はいはい」と菜々美が応える声が、奇妙に馴染んで聞こえた。婚約者と親友という組み合わせなのに、なぜか私は部屋の隅に置かれた観葉植物のような気分だった。動画の音だけが響く病室。私は映像の一秒も見逃すまいと、幸福の断片を脳裏に刻みつけようとした。点滴のチューブが逆流した血液で真っ赤に染まったのに気づかなかった。「菜々美」「看護師さんを呼んでくれない?」何度か呼びかけてようやく彼女が顔を上げた。舌打ち一つ。「面倒くさいわね」彼女が用事で立ち去るまで、私
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第2話
ベッドの下から埃まみれの化粧箱を引っ張り出し、手当たり次第に化粧道具を広げた。日が暮れても、耕司はまだ帰ってこなかった。涙が止まらなかった。せっかく整えたメイクが崩れ、鏡に映った情けない自分を見て、思わず化粧品を床に払い落とした。何をしているんだろう?林耕司がいなきゃ生きられないのか?転がった瓶の隙間から、化粧箱の底に書かれた文字が浮かび上がる。「彼から離れろ」頭が痺れる。今日二度目だ。袖を捲くり上げて昨日の刺青と比べる。確かに私の字だ。「彼」って誰?リビングで物音がして駆け出すと、耕司の姿があった。だが彼の横には、もう一人--清水菜々美が立っていた。昼間とは違い、体の線を強調するドレス姿の彼女は、私を一瞥するとソファに高級バッグを放り投げた。「お風呂入るわ。疲れた」情報が多すぎて思考が止まる。無意識に耕司に視線を向ける。二年経っても変わらぬ顔。むしろ大人の魅力が増しているのに、なぜか他人のように冷たく感じる。彼はため息をつき、私の腕に手を伸ばした。触れた瞬間、体が勝手に跳ね上がり、彼の手は宙に浮いたまま固まった。「菜々美はあなたの世話をするために来たんだ」「深読みするな」記憶を失くしても知能は健全だ。世話が必要だと?ベッドで悶々としていると、ノックの音。先ほどとは打って変わって優しい表情の菜々美が水差しを置いた。「灯ちゃん、お薬の時間よ」菜々美はじっと私を見つめていた。飲み干すまで決して視線を外さないような眼差しだ。耕司はソファに腰を下ろし、菜々美と私を交互に見つめた。長い沈黙の末、ゆっくりとうなずいた。「医者が処方したものだ。飲むんだ」その夜、私は死んだように眠った。目覚めると隣は冷えきっており、菜々美が鏡の前で口紅を直している。首元に、赤いドレスの襟元から覗く痕跡がくっきり。昨夜は何もなかったはずなのに……「その首……」「あら、忘れてた」スカーフを巻きながら彼女は笑った。「耕司さんが待ってるから、急がなきゃ」「勘違いしないでね。クライアントとの打ち合わせよ」真昼の光が菜々美を照らすのに、背筋が凍りついた。夕方、「夕飯は一緒に」とのメッセージが来たが、ドアが開いたのは真夜中。酒臭い息を吐きながら、耕司が冷えた料理を見て眉をひそめる。
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第3話
目を閉じると、心臓が高鳴り続けていた。しばらくして、耕司が立ち上がる音がした。足音が近づき、やがて遠ざかって部屋の外へ消えていく。重い足取りで後を追うと、世界が巨大な嘘に包まれているような気がした。つい昨日まで、童話のように永遠に誓う恋人を信じていた私に、今は容赦ない現実が襲いかかる。耕司が菜々美をソファに押し倒し、制御を失った恋人同士のように貪る様は、まるで映画のワンシーンだった。あの痕跡の正体が、ようやくわかった。私の存在に気付いた瞬間、耕司の瞳に燃えていた熱がふっと消えた。菜々美の襟元を整える手つきが、かえって胸に刺さる。血の気が頭に昇り、震える手で彼の頬を打った。「どうして?」「私のどこが気に食わなかったの?ここまで貶めて」腕の刺青、化粧箱の底のメッセージ、菜々美の首筋の痕……すべてが繋がった。親が年をとって长く病に卧せったら、子供に嫌がれることもよくある。血の繋がりない男など、尚更だ。「部屋に行こうって言ったのに」菜々美が彼の頬を撫でる仕草に、耳を疑った。「火曜日だっていうのに、早すぎるわ」この二年間、何度こんな光景を繰り返してきたのか。考えるだけで吐き気がした。耕司が暗い目で近づいてくると、反射的に身を引いたが、出口まで辿り着けず、後ろからぎゅっと抱き締められた。「行かないで」震える背中を、かつてのように優しく撫でる手。一瞬、昔の彼が戻ってきたような錯覚に囚われる。「本当に苦しかった……」腕の力が強くなる。「あなたを二十回もディズニーに連れて行き、五回もオーロラを見た。全部覚えてないだろうけど」「今のは……違う。チャンスをくれないか」嗚咽混じりの声に、胸が締め付けられた。情深さが、ますますむかつく。「私から灯ちゃんと話させて」菜々美が特有の口調で呼びかけ、耕司に目配せする。彼が寝室に消えると、ため息をついて私の隣に座った。長い沈黙の後、胃癌末期と書かれた診断書を差し出した。夜更けまで続いた話を終え、翌朝目覚めると家はがらんとしていた。菜々美は耕司を私より早くから想い続けていたという。月のように手の届かない存在だった彼を、親友である私に託すと決めたのだ。それが、余命宣告を受けるまで--「私の命、長くないの、灯」「静かな場所で最期を迎えるから。私が死んだら、きっと幸せに」診断書を目に
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第4話
【菜々美は胃がんではない、全ては嘘だった】【菜々美が渡したのは睡眠薬、飲むな!】【携帯を手に入れたら、すぐ両親に助けを!】後のページには、次第に乱れた筆跡が続いていた。このノートは何度も発見されては、その度に私が数行を書き残したらしい。耕司が見せたUSBメモリとこのノート、二つ合わせてこそが私のこの二年間の全てだった。【林耕司によると、今は記憶喪失の第八十週目。ここは私のために作られた地獄だ】【誰か助けて……】どのページも、絶望の叫びで埋まっていた。だが、誰も応えてはくれない。パスポートがなくたって、まずはこの場所から脱出しなければ。何も持たずに軽装で玄関へ向かうが、ドアはびくともしない。昨日だって宅配便の受け取りで開けたはずなのに。額に汗をにじませ、焦りにまかせてリビングの窓から外へ出ようとする。しかし窓も外側から厳重にロックされ、隙すらなかった。花瓶を窓に投げつけようとした瞬間、玄関が開いた。清水菜々美が立っていた。「本当に厄介ね、デートの邪魔だわ」スマホの画面にはリビングの監視カメラが映っており、私の行動は筒抜けだった。「本気で胃がんになればいいのに」冷たく笑いかけると、喉が締め付けられ、声がかすれた。彼女は遠慮なくハンドバッグを私に投げつけ、整った顔が歪んで偽りの仮面を剥ぎ取った。「あなたが何様のつもり!?」「金持ちの家の娘ってだけで、星だって買い与えられて……耕司だってそうやってあなたのものになったんでしょ?」菜々美の怨恨は根深い。なぜ嫌いながらも友情の芝居を続けてきたのか、理解できなかった。「耕司が本当にあなたを愛してると思う?」「あなたの家の投資目当てじゃなきゃ、誰が二年もお嬢様の機嫌を取るかっての」彼女はヒステリックに本性を曝け出した。私の記憶障害を当てにしているのだ。たとえ真実を知っても、数日後には全て忘れると。でも、この部屋を出られさえすれば--全てが変わる!菜々美に突進し、花瓶を振りかぶった瞬間、大きな手がそれを阻んだ。花瓶は床に落ち、粉々に砕けた。耕司が菜々美を庇い、嫌悪の眼差しで私を見下ろした。「いい加減にしろ」勝ち目は消え、私は床に崩れ落ちた。その後数日、行動範囲は寝室に制限された。耕司は毎日様子を見に来たが、た
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第5話
耕司の顔を見つめても、今の私には一滴の涙もこぼれなかった。瞳に宿っているのは抑えきれない憎悪だけだ。どうして彼はそんなことができるんだろう?清水菜々美と手を組んで、二年もの間わたしを騙し続けたなんて。七日ごとに彼の裏切りに泣き崩れる私を見て、彼は密かに嗤っていたのか?USBメモリを丁寧に差し込む彼の指先が冷たい。長いこと動かなかった私の手首に、彼の骨ばった指が覆いかぶさった。「怖くないよ、一緒に見よう」と甘く囁く声は罠そのものだった。これは彼が私だけのために仕組んだ檻なのだ。「頭が痛いから見たくない」見る必要などなかった。そこに記録された嘘の数々を、私は身をもって知り尽くしているのだから。予想外の反応に表情を硬くした彼が医者を呼んだ。危険な状況に再び身を晒すほど愚かじゃない。両親が帰国するまで待つしかない。国内に身寄りのない私に、彼の暴走を止める術はない。医者の質問に答え、脳CTの結果を確認したら、医者は「回復の兆しは見られません」と耕司に告げた。私は胸を撫で下ろし、彼も安堵の息をついた。新人看護師の『宮原さん、林さんみたいな素敵な婚約者持ちで羨ましいですわ』という言葉に、私は頬を引きつらせながら耕司が皮を剥いてくれたリンゴを噛んだ。甘い果肉が喉に貼り付くように不快だった。もし全ての記憶を取り戻したと知ったら、彼はどんな顔をするだろう?結局彼はUSBの映像を最後まで見守った。「耕司」「婚約したこと、後悔してる?」何度も見返した映像の中で初めて気付いた。指輪をはめる瞬間、彼の視線が私をすり抜け、後方に立つ菜々美へと向かっていたこと。涙で滲んだ彼女の瞳が、耕司の慰める眼差しでようやく落ち着く様子。その視線が交差する真ん中で、無邪気に笑っていた自分がいた。今さら後悔したところで、もう逃がさない。「何を言ってるの?」笑いながら肩を抱く手が、私の真剣な表情に触れて引き締まった。「後悔なんて一度もない」医者は後頭部の傷を軽症と診断した。自宅療養を勧める林耕司を、私は首を振って拒んだ。あの家に戻る意味などない。彼は不承不承ながら従うしかなかった。「耕司、私のスマホは?」書類から顔を上げた彼の声色に乱れはない。「倒れた時に壊れたんだ。新しいのを買いに行こう」ふん、とだけ答えた。全ての退路を断つつ
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第6話
耕司はベッドの傍らで忙しく動き回っていた。看護師を呼びに行ったり、水を汲んできたり、その間一度も清水菜々美に視線を向けようとしない。菜々美の爪が掌に食い込んだ。「突然すぎるわ……こんなに早く結婚するなんて」「はは、そうかな?」「私も急だとは思うけど」私は気まずそうに笑ったが、菜々美には挑発と映ったらしい。彼女は私の手からコップを払い落とし、ガラスが床に散らばった。「認めないわ!」私は呆れたように目を白黒させた。この二人、打ち合わせもせずに芝居してるのかしら?耕司の嘘を真に受けて、ここまで感情を爆発させるなんて。「灯と結婚するのに、お前の許可が必要か?」耕司の瞳にこれまで見たことない冷たさが浮かぶ。「俺たちは海外に移住する。これ以上灯を絡めるな……お前のような友人はいらない」「移住……?」彼女は震える唇で男を見つめたが、説明を待たずに泣きながら部屋を出て行った。「追いかけなくていいの?」私は蜜柑を剥きながら冷やかすと、足を伸ばした瞬間、耕司に足首を掴まれた。「危ない」彼は床の破片を片付けながら眉を顰めている。いつものパターンなら、そろそろ菜々美をなだめる口実で席を外すはずだった。その隙に実家に連絡するつもりでいたのに--しかし夜になっても耕司は帰る気配を見せず、布団まで運び込んで病院に泊まり込む様子だ。「耕司、仕事は大丈夫?」探りを入れるように訊ねた。「忙しいなら一人で平気だから、付きっきりじゃなくても」耕司は背中を向けたまま返事をせず、私は覚悟を決めて彼の腰に腕を回した。懸命に甘い声を絞り出す。「ダーリン……?」彼の背中が一瞬硬直した。以前から、よくこんな冗談を言って耕司をからかっていた。最初は赤面していた彼も、最近では無反応が定番だった。「今、何て?」彼が振り向くと、薄暗い照明で表情が霞んで見える。「えっと……」答えを考える間もなく、ぐいっと抱き寄せられた。「俺を捨てようと思った……」彼の声がこもる。「後悔させないから」これは……?混乱している私を置き、耕司は携帯を見て上着を手にした。「会社の急用。明日また来る」もちろん、菜々美の元へ向かうに違いない。簡単に携帯を借り、ここ二年の経緯を両親に詳細にメールをした。返信を確認し、ほっとした
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第7話
「実は……ずっと隠してたことがあるの」「私、耕司のことがずっと好きだったんだ!」菜々美がそう言い切った時、彼女の瞳には何の揺らぎもなかった。本当に林耕司を好きなのか?それともただ私を踏みにじる快感に酔っているだけなのか。彼女は延々と耕司への想いを語り続ける。私が記憶を失ったこの二年間、どれほど苦しみ悩んだかとか。ベテラン女優のような彼女の言葉に興味など湧かない。だが次の瞬間、彼女の言葉で私ははっと我に返った。「彼を……私に譲ってくれない?」思わず息を呑んだ。清水菜々美は慌てて言葉を継いだ。「誤解しないで」「手術室に入るまで、そばにいてほしいだけなの」「いいわよね?」計算されたように顔を上げ、瞬きの度に光る涙を見せつけてくる。今断ったら零れ落ちそうな雫だ。「もちろんよ」彼女の手を握り返す。「あなたが死んだら、私生きていけないわ……」 本当に死んだら、花火でも打ち上げたいところだ。菜々美は嬉しそうに抱きついてきた。鏡に映った彼女の勝ち誇った表情には見て見ぬふりをした。菜々美が去るやいなや、従兄の伏原浩(ふしはら ひろ)が駆けつけてきた。端正なコート姿の髪型も乱れ、まるで悪魔に追われたように私の部屋の前で息を切らしている。「浩、どうしたの……?」彼は勢いよく抱きしめてきた。「叔母から聞いた」しばらくして我に返ったのか、咳払いしながら離れると口調を変えた。「うちの家系にどうしてこんな恋愛依存症が生まれたんだ?」確かに。二年前の私なら頷くしかない。林耕司の甘言を信じた愚か者だった。「浩!私こんな状態なのにまだ……」包帯巻いた頭を指差すと、彼は急に真顔になり鞄から書類を取り出した。「サインしろ。とっくに期限切れだ」耕司の会社への債権回収通知書。署名すれば両親が私の名義で貸した資金が全額戻る。「調べた。奴の会社は最近多額の資金移動があって、この金額は返せない。会社を売るしかない」「元々あいつに相応しいものじゃなかった」浩は書類を手にすると、途端に冷静な弁護士顔に戻った。卒業早々海外のトップ事務所に引き抜かれ、二年前には既にパートナーだった彼が、こんな小案件を扱うとは気の毒だ。契約書の金額を見る。設立間もない会社にとっては致命傷だろう。躊躇いなくサインをした。これで林
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第8話
彼と清水菜々美の関係を暴くのは、これが初めてではない。耕司がぼんやりと立ち尽くしていた。これまで彼は私の理不尽な言動を嫌悪していたが、今のように苦悶に満ちた表情を見せるのは初めてだ。「浩、行こうよ」彼は動かず、私が去るのをじっと見送った。車が曲がり角に差し掛かった時、背後で怒鳴り声とガラスの割れる音が響き、警報が鳴り始めた。「早く走ってよ。警備員に車泥棒だと思われるわ」「冗談を言う元気はあるんだな?」浩は私の頭を小突く仕草をしたが、包帯を巻いた頭を見て手を引っ込めた。「叔母たちは心配で死にそうだったぞ。俺がたまたま帰国してなかったら、警察に通報してあんたの婚約者を逮捕するところだった」私は申し訳なさに押しつぶされ、覚悟を決めて両親に電話をかけた。一瞬で通話が繋がり、怒鳴りつけられるかと思いきや、向こうはただ泣きながら「治ってよかった……もう二度と辛い目に遭わせない」と繰り返すばかりだった。翌日、浩は別の病院を手配し、徹底的な検査を強行した。「もう大丈夫だって」「医者も頭の傷は外傷だから、二週間で抜糸できるって言ったじゃん」彼は呆れたように私を一瞥した。「林耕司が紹介した医者を信用する気か?」反論の余地はなかった。結局、あらゆる検査を受け、医師から「脳機能は回復し、臨床的な回復基準を満たしています」と告げられるまで、浩は肩の力を抜かなかった。診断書を握りしめ、私は呟いた。「本当に……治ったの?」「私の診断を疑うの?」主治医は浩の大学の同窓で、権威ぶったところのない笑顔を浮かべていた。安堵の隙に、診断書の右上にある病院のロゴが目に留まった。--あれは?清水菜々美が「癌」の診断書を載せた、あの病院だ。スマホで彼女のSNSを開くと、非公開設定の診断書がすぐに見つかった。医師に確認すると、様式は確かにこの病院のものだと認められた。ただし、記載された担当医は海外出張中で真偽の立証はできないという。ふと閃いた。菜々美は共働きの家庭で、特に母親の過干渉に苦しんでいた。伝統的で頑固なその母親が、一人娘の「癌」を知ったら--?ビザの取得にはまだ時間がかかる上、月曜には林耕司の会社の株主総会に出席する必要があり、出国は延期となった。代わりに浩の家に身を寄せ、平穏な日々が続いた。記憶がリ
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第9話
菜々美の母親は大喜びした。娘にまだ希望があると思い込み、菜々美が何と言おうと化学療法を受けさせようと迫り、同意書にサインをさせた。治療直前、菜々美は化学療法の薬液を入れる注射器を見て怖くなり、泣きながら看護師に許しを乞うた。浩の友人である医師から、菜々美を泣かせた長い針の写真が送られてきた。思わず笑いが出た。隣にいた浩が冷たい視線を投げかける。「あの野郎、何を送ってきてるんだ。そんなに楽しそうに」返信に夢中で彼を無視すると、「ほっといて」とだけ答えた。「ああ、またか。前に林耕司と結婚する時も勝手に決めやがって。今度はあの医者に騙されても放っておけってか?」浩に内緒で計画したのは悪かったが、医師は彼の友人だ。信用できると思ったのだ。「そこまで酷くないでしょ」「……恋愛脳が過ぎる」結局、菜々美は偽の診断書を作ったことを白状した。癌などではなかった。駆けつけた父親は彼女を殴りつけ、田舎に連れ帰ると言い出した。しかし私が事前に手配していたため、病院はすぐに警察へ通報。浩によれば、最高で懲役三年の可能性があるという。「浩、頼むわ」「今さらか?あの医者と組んだ時は俺のことなんか考えてなかったくせに」「心配かけないようにしただけよ。月曜の株主総会は浩の出番だし」浩は鼻で笑ったが、追及はしなかった。耕司の会社への融資返済期日は過ぎていた。回収は当然の権利だ。しかし浩は「そんなに簡単じゃない」と警告していた。案の定、私が取締役として総会で債権回収の書類を提示すると、席が騒然となった。「会社が苦しい今、勝手に金を持ち出す権限はない!」「神経質なガキが署名しても無効だ!」上座の耕司は黙ったまま、遠くから私を見つめている。「小娘さんよ、保護者を呼んでから出直せ」嘲笑が湧き上がった瞬間、耕司がゆっくりと立ち上がった。場内は水を打ったように静まり返る。数年で彼は会社に確かな地盤を築いたらしい。彼は一步一步、私に近づいてきた。「金は全て返す」声はかすれていた。「元々お前のものだ……俺が悪かった」意外な潔さに戸惑う。二年も監禁し、感情など残っていないはずなのに。なぜ突然?詐欺を疑い浩と視線を合わせると、彼は書類の束を助手に渡し、全株主に配らせた。浩の友人である医師が発行した診断書だ。
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