LOGIN「瘴気がまだこんなに」
黒く染まるガーゼをレティーシャが慎重にはがすと、ガーゼに付着した腐った血肉がどろりと滴る。
レティーシャの華奢な手にまとわりつく黒い瘴気。
騎士団長が眉を顰めたが、レティーシャは冷静にそれを観察する。(まるで魔物の怨念。なるほど確かに『呪われた』という感じですわ)
アレックスが床に伏している原因は魔物の瘴気であって呪いではないが、その禍々しい、しつこい粘着的なこれは確かに呪いっぽかった。
腕に絡まった瘴気はレティーシャの体内に入り込もうとする。
侵食してくるような動きにレティーシャは気味の悪さを感じたが、治療を始めた頃に比べれば噴き出てくる瘴気の量はかなり少なく、先が見えないほどの漆黒だったが以前に比べれば薄い。
レティーシャは治療の効果が出ていることに安堵している。
成果が出ているなら続ける。
スフィア伯爵たちよりかなりマシだが、血の半分がスフィア伯爵のものであるためレティーシャも結構力でごり押しタイプだった。
(治癒力がうまく巡らないのは……何かがつかえているから?)瘴気の量が減ったことで、レティーシャには治癒の過程を追う余裕ができ、巡らそうとする魔力が何かに阻まれることには気づいていた。
だから今回はいつもより多く魔力を流してみたのだが、それによりいつも阻害するのは同じ場所だと思っていたが僅かに位置を変えていること、いままさにそれがぐらぐらと動いていることに気づいた。
(まるで生きもの……寄生虫みたいね)
今まで山小屋に住んでいたレティーシャ。
虫が出てくるのは日常茶飯事で、虫の退治なら『踏みつぶす』と『叩き潰す』の二択だとレティーシャは考える。
「団長様、閣下の体内に寄生虫のような者がいて、それが治癒力の邪魔をしているようですわ」
「なんと! 閣下の体の中にそんなものがいるとは」
レティーシャは悩む。
「やはり引っ張り出して叩き潰すがいいのでしょうか」
「それは……意外と物理的な方法ですね」
「この力は浄化はできますが攻撃はできませんもの」
騎士団長は腰に差した剣を見る。
「分かりました。そのときは私がやりましょう」
「大丈夫です。団長様は閣下の枕元に、新聞紙を細く丸めたものでも置いておいてくださいませ」
レティーシャの『虫も殺さぬ』は見た目だけだった。
*「あら……この感じ……」
「なにか分かったのですか?」
「団長様は『魔物はこうして生まれる(第三版)』をお読みになりましたか?」
レティーシャの言葉に、騎士団長は怪訝な顔をする。
「ずいぶんと古い版をお読みになりましたね。私が子どものときですでに第八版でしたが」
レティーシャはラシャータのように教師をつけてもらえず、「学べ」と言われて父伯爵から出入りを許された古びた書庫にある書物や歴代の当主や聖女たちの手記を読んで治癒力を身につけた。
「あれはずいぶんと古い本だったのですね……どうしましょう……」
「基本的な情報は変わらないでしょうから、気づいたことを教えてください」
「そうですか? それでは、このままでは公爵様が魔物になるかもしれませんの」
「そうですか。閣下が魔物に……はああ!?」
仰天する騎士団長にレティーシャは冷静に頷く。
「書物にはスタンピードの原因は魔素の密度だと書かれていました。
「おそらく上級クラスの魔物になりますわ」
「閣下が魔物になるだけでも問題なのに……上級……」
そうなったら王都は火の海。
いや、王都だけですめば御の字。下手したら……それを想像した騎士団長の顔が青くなった。
「やり過ぎたな」「奥様には免疫がないのですから。公爵家のみなさんはほどほどを知らないから。主の場合、一割どころか五分くらいの出力にしないと」「……また半分になった」生きているうちに最大出力が発揮できるのだろうか、と思いながらアレックスは店内を見る。中ではレティーシャが店の女性たちから水を受け取っていた。頭には濡れたタオルがあった。(額ではないのか?)彼女たちはこの辺りに並ぶ店の女たちのようだ。どんどん増えている。彼女たちがレティーシャを見る目は優しいどれもが母親のような、慈愛の籠った目。(あれなら大丈夫だろう)レティーシャの後ろにはレダがいる。レダがいれば多少離れていても大事はない。(分かっているんだが……)火照った顔を指摘されたのか、恥ずかしそうに顔を伏せるレティーシャ。「可愛過ぎ……え、あんな可愛い生き物がいていいのか?」「主が激甘ドロドロのポンコツになった」近くにいた店の者が差し出したエールがアレックスたちの主従漫才を終わらせる。「兄ちゃん、あの子にベタ惚れだな」「嫁だからな」「嫁さんか」「俺もあんな嫁がほしい」「彼女、妹かお姉さんいない?」ラシャータのぼやんとした輪郭がアレックスの頭に浮かぶ。「妹がいるが、全くお勧めしない」「えー」とか「残念」とか言いながら、どさくさに店に入ろうとする男たちをアレックスは止める。「兄さんたちだけビールを飲んでずるいだろう」「うちのジュースは美味しいよ」「金を払うからそれを寄越せ」男の手からジュースを受け取って代わりに硬貨を渡すと、レダを手招きで呼んでレティーシャにジュースを持っていかせる。「……兄さん、独占欲が強過ぎないか?」「普通だろう」「普通かねー」硬貨とレダの後ろ姿を見比べる男の声は恨み節だ。
アレックスはレティーシャが興味を持ったものを次々購入していく。「兄さん、うちのお薦めは……」「飲み物、食べ物、その他諸々。これだけあれば十分だ」(まあ、すごい。アレックス様の手は二本しかないのに、あんなに色々持って歩いていますわ)「お兄さん、お兄さん」「だからもう十分だ。足りなければあとで取りにくる」アレックスは持っていたものをレダとロイに押しつけるように渡すと、レティーシャの手を取って空いていたベンチに誘う。「騒がしくて堪らん」「アレックス様は町のみなさんに親しまれていらっしゃるのですね」レティーシャの言葉にアレックスが首を傾げる。「別に知り合いではないぞ?」「そうなのですか? 気さくに声をかけらえていたので、お知り合いだと思っていました」(そういえばアレックス様も目の色を変えていらっしゃるのよね)赤い瞳はアレックスの特徴となるので、アレックスも瞳を藍色に変えている。藍色はレティーシャが選んだ。琥珀色と同様に藍色も平民の瞳の色として珍しいものではない。(アレックス様に瞳の色は何がいいか聞かれて藍色と答えてしまったけれど、こうして見るとウィンが人間になったみたいだわ)「藍色の目が好きか?」「……え?」「今日はよく俺の目を見るから、藍色の目が好きなのかなって」(……犬に似ている、とは言えませんわね)「そうですか?」「……そういうことにしておこう。すまない、飲み物を追加で買ってくる」「は、はい」(一瞬で分かりにくかったですけれど……嫌な思いをさせてしまったかしら)「あーあ、主ってば余裕がないなあ」「余裕?」ロイの言葉にレティーシャはアレックスの後ろ姿を見る。アレックスは人波を器用に縫って、危うげない足取りをしている。「ちゃんと歩けていると思います
「……デート、ですか?」ロイの言葉にレティーシャが首を傾げ、レダを見る。「デートですね」「レダ卿がそういうなら『デート』なのですね」(デートなんて本で読んだだけで……街を歩くのも初めてなのに、それがデートなんてすごいですわ)「わー、目をキラキラさせて滅茶苦茶可愛いですねー。期待値がばんばん上がっていますよ、主」「どこか彼女が喜びそうな店を知っているか?」「主って普通の店の情報に疎いですものね」(普通ではないお店って?)「レアルト通りなら『緑のカフェ』がいいと思いますよ。奥様は草花がお好きですし」「私は草花が好きなんですか?」レティーシャの言葉にロイが首を傾げる。「好きではないのですか? 庭師たちが奥様はいつも楽しそうに庭を散策していると言っていましたが」「そんなことを見られていたなんて、恥ずかしいです」「公爵家の三兄妹はどなたも花より団子の方々ですし、奥様が庭の花を楽しんでくださる方なので庭師たちもうれしいと思いますよ」(なんだかラシャータじゃなくて『私』が認められた気がしますわ)「うっわあ、照れた顔もまた……これはおちるわ。おちるわけだわ」「うるさい、黙れ」「だって、滅茶苦茶……うん、おちるわ」(どこから落ちるのでしょう? あ、落ちると言えば馬車のことを言わなくては)「アレックス様、レアルト通りまで歩いていってよろしいですか?」「歩かずとも馬車を使えば…………あ、ああ、そうか。そうだったな。街歩きだもんな、最初から歩いたほうが楽しいよな」「そうですよ、レアルト通りは入口からいろいろな店がありますし」「馬車止めが少ないのでかえって歩きのほうがいいですよ」レティーシャたちと一緒に行くのはロイとレダだけで、他の騎士は一足
訓練場を出たあとは騎士団長に与えらえる部屋に案内され、ロイのいれてくれた美味しい紅茶で一息つく。「今日はお仕事は終わりですの?」「ああ、残っているのは明日以降に片付ければ大丈夫だ。一緒に帰ろう」「では、一緒に街を散歩いたしませんか?」レティーシャの言葉にアレックスはきょとんとする。意外なことを言われた。そんな目にレティーシャは恥ずかしくなった。「も、申しわけありません。アレックス様と街を歩けたら楽しいだろうと思ってしまって」「……ぐっ」何かが詰まる音がしたと思ったら、アレックスが激しく咳き込んだ。「た、体調が悪いのでしたら直ぐにお屋敷にっ! レダ卿……」「大丈夫です。深呼吸しで、水の一杯でも飲めば治まります」その言葉通り、深呼吸してロイが渡した水を飲み干して、アレックスは「大丈夫」とレティーシャを安心させた。「町を歩くのは全く構わない」「本当ですか?」アレックスが了承してくれたことに、レティーシャの気持ちがぽんっと弾む。「だが、その姿では少々目立つな。変化の魔法は使えるか?」(使える……といったら、この目の色のことがバレてしまうのではないかしら)「主は変化の魔法がお得意なのですから、ちゃちゃっとやればいいではありませんか。もしあれなら私が施しても……」「俺がやる」そういうとアレックスはレティーシャの髪に触れた。瞬く間に銀色の髪が、ティーカップの中のミルクティのような色になる。「……変化の魔法は、ロイ様もお使いになれますの?」「ええ。魔力もあまり使わないし失敗してもある程度時間がたてば戻るので、子どもの魔法の手習いに持ってこいなんですよ」(なるほど……よく知らなかったから警戒してしまったけれど珍しい魔法ではないのね)レティーシャは安心したのとアレックスが施した変化の出来映
「まあ、ここが騎士様たちが訓練する場所ですか」落ちた株をあげるべく、アレックスはレティーシャを騎士団の訓練場に案内した。レティーシャは小説から学んだことを言っただけで何も気にしないが、なんかいけないことをしたアレックスとロイのもやもや気分はなかなか晴れない。訓練場では騎士たちが鍛錬をしていた。彼らはアレックスを見ていつも通り顔を固くしたあと、『あれ?』という顔をして隣に立っているレティーシャをガン見する。(ソフィアはラシャータに見えるように化粧を施したようだが……雰囲気がなあ)「あの方が猫千匹被ってもこの善良かつ清楚な感じにはなりませんよね」「猫百万匹でも全然足りませんよ」ロイとレダのヒソヒソ話に同意したいところだが、残念ながらこの二人の話は解決策にはならない。(距離をとらせるしかないだろう)「レダ、彼女と一緒に観覧席の一番上に。防御幕を張ることを忘れるなよ」「一番上だと閣下の姿がマッチ棒ですよ?」「……中段くらいで」レティーシャがレダと共に離れていくと、アレックスは騎士たちのほうに向かう。「団長、あの美人は愛人ですか?」「城に愛人なんて連れてくるわけないだろう、妻だ」「え、それならあれが悪女ラ……」「わっ、この馬鹿!」若い新人騎士の口を周囲の騎士たちが必死にふさいだが、残念ながらアレックスの耳に入った。「す、すみません」「いや、気にしていない」その『悪女』はラシャータに対する評価だからレティーシャには関係ない。だからアレックスは気にしなかったのだが、周りは誤解した。特にアレックスがラシャータを嫌っていること知っていた騎士たちは、ラシャータが我侭を言ってここまで来たのだと誤解した。「団長。今夜あたり花街にくり出そうと話ていたのですが、一緒にどうですか?」「団長に会いたいって声をそこかしこで聞きましたよ」妻帯者を妻の前で花街に誘う先輩
家からの使いはグレイブからで「いまから奥様がお城にいきます」というものだった。戻ってきたロイからそれを聞き、急ぎの仕事を片付けてアレックスは城の受付に向かう。そこにはすでにレダがいた。「ウィンスロープ邸、城のご近所ですもんね」「彼女は? まさか一人にしたのか?」「奥様は近衛騎士団長と一緒にいらっしゃいます」「ロドリゴのおっさんと?」(嫌な予感がする)「いまごろ奥様にあること無いことを言っているのでしょうね。閣下に女遊びを教えたのは団長なので」「それが分かっていてなぜ一緒にいさせた?」アレックスが急いで庭にいくと、バラ園からレティーシャが出てくるところだった。(あそこは限られた者しかいけない陛下の花園……なぜレティーシャを?)「公爵様! 申しわけありません、お待たせしてしまいましたか?」「いま来たところだ。庭はどうだった?」「ロドリゴ様はいろいろな花のお名前をご存知で、とても楽しかったですわ」「ロドリゴ様?」「はい、さきほど名前呼びを許していただきました」レティーシャは嬉しそうにアレックスに報告した。しかしアレックスは「公爵様」。「あー、そう」「公爵様?」「夫人、アレックス坊やも名前で呼んでほしいんですよ」「なっ……」「妻が夫を名前で呼ぶのは信頼の証ですからね」ロドリゴがにっこりと笑うと、レティーシャは素直に頷いた。妙に親し気であるが、悔しさとかはあっても嫌だとは感じていない。(レティーシャが嬉しそうだから?)知らぬ者がみれば父娘のよう。スフィア伯爵とロドリゴは同年代。あのロクデナシの代わりにロドリゴの中に父性を見ているのだろうとアレックスは思った。「公爵様、アレックス様とお呼びしてもよろしいですか?」(ありがとう、ロドリゴ小父さん)心に余裕ができると感謝の気持ちも素直に湧き出る。目が合うとロドリ







