共有

第8話

作者: ASAMI
last update 公開日: 2026-07-06 07:34:17

目を覚ました瞬間、隣のシーツはすでに冷たくなっていた。

蓮はもう家を出たのだろう。

いつもなら彼が起きる時間に合わせて私が完璧に温度を整えていた部屋も、今朝はどこかよそよそしい。

リビングの廊下ですれ違った時も、蓮は何事もなく家を出て行った。

「おはようも」も「行ってきます」の一言すら、そこにはない。

だけど、傲慢な彼が私を気にかけることなんて、最初からなかった。

ただの無能な道具が、少しばかり不機嫌なだけだろうと思っているに違いない。

蓮が扉を閉めた音を確認すると同時に、私はシャワー室へと向かった。

温かい湯を浴びながら、昨夜、無理やり抱かれた時の蓮の奇妙な違和感を思い出す。

明らかに、様子がおかしかった。

冷徹な蓮が見せた、ほんのわずかな動揺。

何かがあったに違いないと、私の直感が告げていた。

それは、自分がこの神崎家に潜り込んだ真の目的ーー奪われた祖母の形見であるバイオリンを取り戻すという計画に、大きく関わることかもしれない。

シャワーを出た私は、無表情のまま避妊薬を口に含み、水で一気に飲み干した。

蓮との間に結んだ契約の時、私は「あなたのファンだから」と従順な理由を説明してい
この本を無料で読み続ける
コードをスキャンしてアプリをダウンロード
ロックされたチャプター

最新チャプター

  • 影の婚約者は、世界を支配する女帝だった   第10話

    私の態度が完全に冷え切ってから数日、蓮の焦りと苛立ちは頂点に達していたようだった。彼は私の異変を「あの夜、無理に抱いたことで拗ねているだけだ」と都合よく思い込んでいた。自分の傲慢さが私をここまで変えたとは夢にも思わず、「女なんて、欲しがっていたものを与えればすぐに機嫌を直す」と高を括っていたのだ。そして蓮は、私の心を決定的に踏みにじる、最悪の行動に出た。「いいか。今週末に玲奈とその友人たちをこの家に招待する。お前は、俺の誕生日にいつも作っているような、あの豪華な料理を用意しろ」蓮は冷たい声で、私にそう命じた。彼の目的は明白だった。わざと私の前で玲奈と親しく振る舞い、私に猛烈な嫉妬をさせて、主導権を握り直そうという浅はかな当てつけだ。その言葉を聞いた瞬間、私の胸の奥で、何かが静かに、けれど完全に終わりを迎えた。毎年、彼の誕生日のために、私が何日も前から寝る間を惜しんでメニューを考え、指を傷だらけにしながら必死に準備していた特別な料理。私の心の結晶だったそのおもてなしを、今度は彼が囲っている愛人、西園寺玲奈とその取り巻きたちのために作れと言うのだ。さらに蓮は追い討ちをかけるように、机の上に一冊の楽譜を放り出した。それは、私がかつて蓮の誕生日に、魂を込めて書き上げて贈った自作の楽譜だった。蓮が価値のないゴミだと吐き捨て、その手で無惨に破り捨てたはずの……それを、彼が後から拾い集め、歪に貼り合わせたものだった。「玲奈が新しい曲を探していてな。これをお前にやろうと思ったが、玲奈へのプレゼントとして渡すことにした。お前がずっと欲しがっていたのは、これだろ?そんなに怒ることか?」蓮は勝ち誇ったような、底冷えする笑みを浮かべていた。私が必死に紡いだ旋律を、私の目の前で玲奈に貢ぐ道具にする。それが私への最大の罰であり、嫉妬を煽る特効薬だと信じて疑わないその姿が、猛烈に滑稽で、吐き気がするほど酷かった。……ああ、本当に、救いようのない男私は感情を完璧に押し殺し、ただ静かに「わかったわ」とだけ答えた。その夜、蓮が玲奈の元へ出かけた静まり返った屋敷で、私は行動を起こした。クローゼットの奥から、蓮との三年間の思い出の品々を全て引っ張り出す。初めての記念日にもらったアクセサリー、彼のために買ったお揃いの小物、彼の好みに合わせて選んだ服……それら全てを

  • 影の婚約者は、世界を支配する女帝だった   第9話

    翌朝、私はいつもより少し遅い時間にベッドから這い出した。いつもなら、蓮が起きる前に彼のその日の気分や天候に合わせた完璧なスーツを選び、ネクタイを揃え、ハンカチを用意しておくのが「無能で健気な婚約者」である私の日課だった。けれど、もうそんな必要はない。クローゼットの扉は閉じたまま、私は自分の身支度だけを淡々と済ませる。キッチンに向かい、蓮のために何日も前からメニューを考えて仕込むような、手の込んだ朝食や弁当を作るのを一切やめた。もちろん、掃除や洗濯といった彼のための家事も、これからは一切するつもりはない。起きてきた蓮は、リビングのテーブルに何も用意されていないのを見て、明らかに戸惑ったような表情を浮かべた。いつもなら彼が席につくタイミングで完璧に淹れられていたコーヒーすら、そこにはないのだから当然だ。「おい。俺の服はどうした。朝食の用意もまだなのか?」怪訝そうに、どこか苛立ちを孕んだ蓮の声が私に浴びせられる。これまでの私なら、「ごめんなさい、蓮。すぐに用意するわ」と慌てて頭を下げていただろう。けれど、今の私は冷めた瞳で彼を一瞥しただけだった。「自分で用意したらどう?クローゼットを開けば、服くらい入っているでしょう?」「なんだと……?」蓮が信じられないといった風に目を見開く。話しかけられれば返事こそするものの、私の態度はまるで赤の他人のように冷え切っていた。これまでの従順さを完全に捨て去り、境界線を引き、一定の距離を保つ。彼の機嫌を取るためだけに存在していた「神崎家の道具としての音羽」は、もうこの屋敷のどこにもいないのだ。私に一切の世話をされなくなった蓮の生活は、そこから見る影もなく乱れていった。身の回りの管理を全て私に丸投げしていたツケが回ったのだろう。自分で選んだネクタイの色はどこかちぐはぐで、お気に入りのシャツにはシワが寄り、家を出る時間すら遅れがちになっていく。傲慢な彼が、いかに私の「搾取」の上にその完璧な日常を成り立たせていたかが、滑稽なほど浮き彫りになっていた。そんな蓮の哀れな姿を冷酷に見下ろしながら、私はある計画を実行に移すために街へと繰り出た。向かったのは、路地裏にひっそりと佇む、知る人ぞ知る特注の美術品を扱う工房だ。事前に兄を通じて手配しておいたその店で、私は職人の前に座り、静かに注文を告げた。「私の

  • 影の婚約者は、世界を支配する女帝だった   第8話

    目を覚ました瞬間、隣のシーツはすでに冷たくなっていた。蓮はもう家を出たのだろう。いつもなら彼が起きる時間に合わせて私が完璧に温度を整えていた部屋も、今朝はどこかよそよそしい。リビングの廊下ですれ違った時も、蓮は何事もなく家を出て行った。「おはようも」も「行ってきます」の一言すら、そこにはない。だけど、傲慢な彼が私を気にかけることなんて、最初からなかった。ただの無能な道具が、少しばかり不機嫌なだけだろうと思っているに違いない。蓮が扉を閉めた音を確認すると同時に、私はシャワー室へと向かった。温かい湯を浴びながら、昨夜、無理やり抱かれた時の蓮の奇妙な違和感を思い出す。明らかに、様子がおかしかった。冷徹な蓮が見せた、ほんのわずかな動揺。何かがあったに違いないと、私の直感が告げていた。それは、自分がこの神崎家に潜り込んだ真の目的ーー奪われた祖母の形見であるバイオリンを取り戻すという計画に、大きく関わることかもしれない。シャワーを出た私は、無表情のまま避妊薬を口に含み、水で一気に飲み干した。蓮との間に結んだ契約の時、私は「あなたのファンだから」と従順な理由を説明していた。だが、それは真っ赤な嘘。本当の理由は、トオルとの取引。神崎家が不正に囲い込んでいる祖母の遺品を、この手で奪い返すための潜入だった。夕方、帰宅した蓮の姿を見つけ、私は意を決して彼の前に立った。昨夜の違和感の理由を突き止め、バイオリンの手がかりを囲むために。「蓮、昨夜のことなんだけど……」しかし、その言葉が最後まで紡がれることはなかった。蓮のポケットでスマートフォンの着信音がけたたましく鳴り響いたからだ。蓮は私を一瞥すらせず、画面を見てすぐに踵を返した。彼がそのまま何も言わずに部屋を出ていく後ろ姿を、私は冷ややかに見送った。焦る必要なない。確実な包囲網を築けばいいだけだ。自室に戻った私はバイオリンのケースを開け、冷たい弦に指先を触れさせた。三年間、神崎蓮の前で飲み込み続けてきた言葉。西園寺玲奈に踏みにじられ、ゴミだと切り捨てられた楽譜の旋律。誰にも届かずに消えていくはずだった私の痛みが、怒りが、そして狂おしいほどの情熱が、すべて音の形をとって部屋の闇を引き裂くように溢れ出す。まだ、この音を世界に届けるための「仮面」は手元にない。けれど、この己の魂を音

  • 影の婚約者は、世界を支配する女帝だった   第7話

    薄暗いマンションの玄関で、私がスーツケースを手にドアノブへ手をかけた、まさにその瞬間だった。 ​「どこに行くつもりだ」 ​地鳴りのような低い声の直後、背後から強引に腕を掴まれ、視界が激しく反転した。 ​「離して……っ!」 「無理だ」 ​間髪入れずに返された拒絶。壁に背中を強く打ち付けられた瞬間、目の前にある顔の近さに息が詰まった。 わずかに感じるアルコールの匂い。けれどそれ以上に、彼の身体から発せられる熱量が、いつもと違って異常なほどに高かった。 ​「兄貴のところに行く気か」 鋭く図星を刺され、言葉が喉に詰まる。 「……あなたには関係ないでしょ」 ​すると、蓮は酷く歪んだ焦燥と、冷酷な怒りが混ざり合った目で私を睨みつけた。 ​「関係あるさ。やはり、お前が俺に近づいたのには最初から目的があったんだな。神崎の家にすり寄って、一体何を探るつもりだ?」 「なっ……」 「何も言わずに消えれば、逃げ切れるとでも思ったか。なら、お前が二度と立ち上がれないくらい、痛い目を見せてやる」 ​蓮は私の両手首を掴んだまま、逃げ場を塞ぐように完全に壁に押し付けた。息が触れ合うほどの距離。 彼は私が何かを隠していることを察し、その裏切りへの恐怖と歪んだ独占欲から、力尽くで私を支配しようとしていた。 ​「もう……全部終わったからよ! 離して!」 「終わってねぇ。勝手に終わらせるな」 「終わってるのよ!」 ​抑え込んできた感情が、私の内側で一気に爆発した。 ​「私の気持ちも、夢も、あなたとの関係も! 三年間、私はあなたの影だった。だけど、あなたの隣にはもう、あなたが命がけで守りたい西園寺玲奈がいるじゃない!」 ​叫んだ私の瞳から、耐えきれず涙が溢れ落ちる。 ​「あいつは関係ない。俺が欲しいのは、お前だけだ」 ​蓮の熱い指先が、私の頬の涙をなぞり、無理やり顔を上げさせた。抵抗する私の唇を、蓮は強引に塞いだ。 それは、これまで彼が私に向けてきたどの態度よりも苛烈で、狂おしいほどの執着が混じった、初めてのキスだった。 ​頭の芯が痺れ、抗えない力に圧し折られるように、私たちはベッドへと崩れ落ちた。 ​夜の暗闇の中、熱い吐息とシーツの擦れる音だけが響く。 手首を掴まれ、全てを貪られながら、しかし私の頭の片隅には、冷徹で激しい復讐の炎が灯っていた。 ​あ

  • 影の婚約者は、世界を支配する女帝だった   第6話

    放課後の喧騒が去った無人の廊下で、私は冷たい床に膝をつき、バラバラに散らばった楽譜を一枚ずつ、指先を振るわせながら拾い集めていた。白い紙は無残に踏みにじられて黒く汚れ、破けた端々が私の引き裂かれた心のようだった。どれだけ集めても、何ページか足りない。胸の奥が、すうっと音を立てて冷え切っていく感覚がした。……全部、もう戻らない。あの日から、私の心は決まっていた。神崎蓮のそばを、今すぐにでも離れる。その意志に曇りはなかった。だけど、現実はそれほど甘くはなかった。今ここで彼とのつながりを完全に断ち切ってしまえば、手がかりは永遠に失われ、私は全てを一人で背負って暗闇を彷徨うことになる。それでもいい。と、ノートを胸に抱きしめながら、私は強く唇を噛んだ。たとえどれほど険しい道であっても、これ以上、あの男のそばで魂を削られるわけにはいかない。そして迎えた、コンクール当日。格式高いホールの舞台裏に立った私の耳に、容赦のないざわめきが突き刺さってきた。「おい、あいつだろ?ネットで噂になってる盗作の……」「図々しいよね。良くもまあ、こんな神聖な場所まで来る勇気があるわ」観客席からの冷ややかな視線だけじゃない。そこには、神崎財閥や西園寺家に少しでも取り入ろうとする、魂を売った審査員たちの姿もあった。彼らは私とすれ違うたびに、聞こえるようにわざとらしく息をはき、蔑みの言葉を投げかけてくる。「才能のない人間が、汚い真似をしてまで舞台に立ちたいものかね。早く出ていきなさい。目障りだ」四面楚歌。張り詰めた緊張感と、圧倒的な周囲の圧力が私を押し潰そうとする。だけど、不思議と足は震えなかった。私はただ、自分の信じる音楽だけを抱いて、スポットライトの当たるステージへと歩みを進めた。私の演奏が、始まる。張り詰めた空気の中、私の指先が紡ぎ出す旋律は、怒りと悲しみを孕んでホール全体を支配していった。誰もが言葉を失い、圧倒されるほどの独自の音色。演奏が終わり、静寂が訪れる。その直後、割れんばかりの拍手が沸き起こった。ステージ中央に集められた進出者たちの前で、審査員長が厳かに口を開いた。「厳正なる検証の結果、本作品について、西園寺玲奈氏の楽曲との盗作の事実は一切認められません。類似性は極めて限定的であり、偶然によるものとします。むしろ、この楽曲の独自

  • 影の婚約者は、世界を支配する女帝だった   第5話

    「……ねぇ、あの子、本当に盗作したらしいよ」「嘘でしょ?最低。よくそんな不届きなことできるよね」翌朝。大学の門をくぐった瞬間から、世界は反転していた。廊下を行き交う生徒たちの口からこぼれ落ちる、容赦のない囁き声。向けられる視線はどれも冷たくて、好奇と嫌悪に満ちている。噂は一夜にして校内を駆け巡り、私に弁明の機会など最初から与えられていなかった。「ちょっと説明してもらえる?」人気のない渡り廊下に呼び出され、行く手を阻まれる。目の前に立ちはだかるのは、腕を組んで傲慢に見下ろしてくる西園寺玲奈。そしてその背後には、彫刻のような顔を激しく強張らせた神崎蓮が立っている。私は一歩も引かず、玲奈の目をまっすぐに見据えた。「私は盗作なんてしてないわ。どうしてあなたがそんなことを主張できるのか、むしろそっちの方が理解に苦しむんだけど」毅然と言い放った私に、玲奈は一瞬だけ目を見開いたが、すぐに哀れむようなわざとらしい失笑を漏らした。「まだそんな見苦しい言い訳をするつもり?偶然にしては、曲の核心部分のフレーズが私が作ったものと酷似しすぎているのよ。自分の実力不足を、他人の才能を盗むことで補おうだなんて、本当に惨めね」言葉のナイフが、容赦無く突き刺さる。だが、それ以上に私の胸を抉ったのは、隣に立つ蓮の一言だった。「おまえ、本当に恥さらしだな」「蓮……?」「周囲から疑いの目を向けられている、その事実だけでおまえの音楽は終わっているんだ。これ以上、神崎家の名を汚すな」いつの間にか、私たちの周りには大勢の野次馬が集まっていた。何十人もの冷ややかな視線が、私を罪人として縛り付ける。「私はやってない」「往生際が悪いぞ。言い訳するな」「ふうん。そんなに頑ななのは、このノートに何か秘密があるからかしら?」玲奈が私の鞄から、強引に一冊のノートを抜き取った。それは、私が血の滲むような思いで音楽を書き留めてきた、大事な楽譜だった。「返して……っ!」「こんな、他人のアイデアを盗み合わせただけの一文の価値もない楽譜なんて」玲奈がニヤリと笑った瞬間、バサリと鈍い音がした。白い紙が宙を舞う。階段の吹き抜けの空間へ、バラバラと引き裂かれながら落ちていく、黒い音符たち。私の三年間が、私の魂の叫びが、無残に汚されていく。「やめて!!」気がついた時には、身

続きを読む
無料で面白い小説を探して読んでみましょう
GoodNovel アプリで人気小説に無料で!お好きな本をダウンロードして、いつでもどこでも読みましょう!
アプリで無料で本を読む
コードをスキャンしてアプリで読む
DMCA.com Protection Status