共有

彼女は地獄のような場所で、一輪の希望を咲かせた
彼女は地獄のような場所で、一輪の希望を咲かせた
作者: もも缶

第1話

作者: もも缶
妊娠中、情緒が不安定な私・朝比奈静葉(あさひな しずは)を心配して、夫が気を利かせ、親友の九条夏帆(くじょう かほ)と一緒に美味しいものでも食べて気分転換でもしてほしい、という計らいで、プライベートジェットを手配し、帰国させてくれた。

帰国後私は、その足で夏帆が予約してくれた行きつけのレストランへ向かった。

だが、個室のドアを開けた瞬間、室内にいた全員が一斉に顔を上げ、きょとんとした。

私はすぐに、部屋を間違えたことに気づいた。

「静葉さん?」誰かが私の名を呼び、鼻で笑ったようだった。「さっきグループチャットで言ったでしょ?今日の同窓会は、大学入試で高得点を取った人限定だって。あなたみたいな偏差値すら平均に届かないのが来てどうするの?」

その言葉が終わるのと同時に、個室内にくすくすと笑い声が広がり、続いて別の声が聞こえてきた。

「どうせ拓野さんが来るのを知ってて、よりを戻しに来たんだろう」

「残念だねえ、もう無理だよ。拓野さんは今、市立病院の院長で、まもなく市長の娘さんと結婚するんだから。二人は正真正銘のハイスペックカップル。三流大学卒のお前がしゃしゃり出る幕はないんじゃないのか?」

「そうそう、当時、拓野さんは誰もが羨むほど、あれだけ尽くしたのにね。結果どう?拓野さんとの子供は障害児で、おまけに死んだらしいじゃない。それも自分が監督ミスだったんだろ?」

それを聞いて、私が説明しようとした瞬間、視界の隅に一人の男が見えた。あれは私がかつて6年間もの結婚生活を共にしてきた元夫の神谷拓野(かみや たくや)だ。そして彼は今も変わらず、無表情にお酒を飲んでいるだけで、私と目を合わせようともしないのだ。

高校時代の拓野は、周りから羨ましがられる彼氏で、私にとことん尽くしてくれてた。

私が物理の先生に叱られて泣いている時は、拓野は休み時間にわざわざ先生を呼び出し、私のために弁解をしてくれた時もあった。

私が他校のヤンキーに絡まれた時も、拓野が駆けつけて一人で全員をボコボコにしてくれた。さらに、私に「怖い思いをしてないか?」と一番に声をかけてくれた。

私の成績が伸びずに悩んでいた夜は、寮に忍び込んで、一晩中、私に数学の解き方を優しく教えてくれた。

極めつけは卒業式の当日、校門で人混みの中、みんなが見ている前で私にキスをしてくれたことだ。その写真が噂となり、いいね数は300万を超えた。

当時、コメント欄には、これこそが理想のカップルという言葉が溢れていた。

当然の流れで私たちは結婚した。8年間ずっと愛し合っていて、卒業から結婚まで、一生このまま添い遂げるものだと信じていた。

でも、すべてが崩れたのは、息子の神谷安人(かみや やすと)が生まれた瞬間のことだ。

息子が自閉症だと診断された日、拓野は私を抱きしめて慰めることなく、バルコニーで朝までタバコを吸い続けていた。

そこから口喧嘩が絶えなくなった。安人の治療方針、教育施設、病院の予約、どちらが仕事を休んで付き添うか……

私は拓野が無関心だと不満を持ち、拓野は私が取り乱していると責め続けた。

結局、拓野も嫌気がさしたようで、私と話すことすら避けるようになった。彼は家から逃げるように病院に泊まり込み、「忙しいから」と言って、私を突き放した。

「もし子供がまともじゃないなんてわかっていたら、俺は君となんて結婚しなかった」

そして、安人が急死した日、私たちは喧嘩をすることもなく、淡々と納骨を済ませて、離婚届を出しに行った。

……

「静葉?」

そう思い返していると、いつの間にか夏帆が扉の外に立っていた。どうやら私が別の部屋に入ったことに気づいて探しに来たようだ。

夏帆が私の手を引き、焦った様子で言う。「ちょっと、やっと見つけたわよ!

旦那さんから私に連絡がなかったら、もう来てたなんて気が付かなかったよ!さっきから旦那さんの電話がひっきりなしに掛かって来ているんだけど、あなたがこれ以上現れなかったら、警察に連絡をしていたかもよ!」

夏帆はそう言って私を引きずりながら部屋を出ようとした瞬間、後ろでクスクス笑う声が聞こえた。

「うわ、これは役者でも雇ってきてるってこと?」

「拓野さんが今さらお前に未練なんてあるわけないだろ?結婚したフリなんて誰に見せつけるんだよ」

「ほんと、そんな見苦しい茶番で私たちをバカにするのも大概にしてよね」

嘲笑が激しくなる中、主席にいた拓野がようやく口を開いた。

「いいから」

拓野がグラスを置き、冷たい眼差しで私を見た。

「静葉。そういう卑怯な手段はいい加減にしろ。一度別れた女とよりを戻すほど、俺は未練たらしくないんだ。

しかも、もう腐れ切った縁だ。よりを戻すなんてもってのほかだからな」

その言葉に、部屋の空気が一瞬固まり、気まずい沈黙が続いたあとクスクス笑いが聞こえてきた。

夏帆がブチ切れそうになったが、私は彼女を止めて勢いよく個室を出た。

だから去り際、後ろから向けられた鋭い視線には気が付かなかったのだ。

一方、夏帆はまだ腹を立てていた。「何なのよ、あの男。学生時代はあなたにへばりついていたそうじゃない、今になって気取るようになったわけ!」

それを聞いて、私は苦笑いしながら、彼女をなだめた。

それから帰宅後、私は夫の朝比奈陽翔(あさひな はると)に電話した。そして帰国後に起きた他愛のない話で笑い合った。拓野はというと、二度と会うこともないだろうし、どうでもいい存在だから、敢えて口にしなかったのだ。

まして陽翔は独占欲が強すぎて、勘ぐられるのも面倒だしね。

しかし、まさか次の日に病院の廊下で、白衣姿の拓野に遭遇するなんて、私も予想外だった。

彼に気づいて少し歩みを緩めたが、それでも私は見て見ぬふりをして産婦人科へと急いだ。

「静葉」

拓野は私を呼び止めようとした。だが、私は振り返らなかった。すると、背後から追いかけてきた彼が私の腕を強く掴んだ。

そのひんやりとした長い指に力はそれほど込めていなかったが、離そうともしなかった。

それを見た通りかかった看護師も不思議そうに私たちに視線を向けた。

私は渋々歩みを止めて振り返るしかなかった。

一方、拓野は苛立ちを隠さずに私を見下ろした。

「何をするつもりだ?

昨日は同窓会、今日は病院か?俺と会うために病気の振りまでするなんて、どんだけ俺に未練があるんだ?わざわざ気を惹こうとするなんて見苦しいと思わないか?」

私はおかしくて吹き出しそうになった。

「拓野さん!」

その時、可愛らしい声に、拓野はすかさず手を離して目を向けた。

そこに、ポニーテールをした女性が拓野を慕うような瞳で笑いかけているのだった。

「3番の患者さん、ついに協力してくれることになったわ!3日間通い詰めて、私の手作りの差し入れをしたら、今日、ついに笑顔を見せてくれたの!」

それを聞いて、拓野はふいに口角をあげ、冷たいその表情が嘘のように和らいでいった。

そして、彼女が話し終えると、ようやく私に気づいたようだった。

「あ、そちらの方は……」

拓野は答えなかったから、彼女は少し考えるような表情を浮かべてから、ニコッと笑った。

「診察でしょうか?あいにく拓野さんは忙しいのよ、診察も予約待ちでいっぱいなんです。だって、拓野さんを頼ってくる方は山ほどいますからね」

この女性は市長令嬢で、当時拓野のもとで研修をしていた、江藤莉香(えとう りか)だ。

そして、私たちの結婚生活に深く刺さった「トゲ」でもあった。

当初、何度か莉香について拓野と言い合ったけれど、いつも彼は私に「大人げない」、「研修医相手に嫉妬するなんてどうかしてる」と言い返してきた。

だけど、本当に彼が言うように私はどうかしているのだろうか?

実際、莉香が医療ミスをした時は、拓野が全部責任を被って始末書を書いた。

莉香がカルテを書けずトラブルになった時も、彼は自分のサインで彼女のミスを隠蔽しようとした。

莉香が患者に食ってかかった時も、拓野が盾となって罵倒を受け止めた。

息子の安人が障害児として周囲に責め立てられて私が途方に暮れていた時、拓野はいつも莉香の傍に付き添ってあげていた。

だが、今となってはもはやどうでもいいことだ。私は莉香の皮肉には構わず、そのまま産婦人科へと向かった。

産婦人科の診療室で、私は席につくなりすぐに言った。

「木下先生、私、転院したいんですが……」

この本を無料で読み続ける
コードをスキャンしてアプリをダウンロード

最新チャプター

  • 彼女は地獄のような場所で、一輪の希望を咲かせた   第14話

    それから、1か月が過ぎた。郊外にある安人の墓、そこには彼の写真をモチーフにした花飾りが置かれていた。穏やかな日差しの中、私は白い雛菊を手向け、しゃがみこんで墓石の埃を優しく拭った。「安人、会いに来たよ。ママは裁判に勝ったよ。悪い人たちもちゃんと罰を受けることになったから。安人は向こうでゆっくりしててね。ママもそのうち会いに行くから、それまでちゃんとママを忘れないでいてね」話しているうちに、込み上げる感情で喉が詰まり、私は目元が熱くなった。すると風に靡いて花びらがゆらゆらと揺れ、まるで安人が返事をくれているようだった。それから、私は安人と何時間も話し続けてのどがカラカラになるほどだった。ふと顔を上げると、そこにはずっと私のために日よけをしてくれた陽翔がいた。安人を亡くしたあの日、私は毎日、ベッドで抜け殻のように横たわり、食べることも話すことも、泣くことさえしなかった。ひどい鬱状態に陥った私は、突然暴れ出したり、叫び声を上げたり、物を投げたり、頭を壁にぶつけたりしていた。夜中に泣きながら目を覚ましても、なぜ自分が泣いているのかさえ分からないこともよくあった。あの時、私の世界はどんよりしていた。生きている意味なんてどこにもない、安人のところへ行けば楽になれると思っていた。陽翔が現れたのは、そんな時だった。彼がどうやって私を見つけたのか、どうして狂ってしまった私を見捨てなかったのか、今でも分からない。陽翔は私をあの暗い部屋から連れ出し、病院やカウンセリングへと導いてくれた。更に、私を救うため、陽翔は躁鬱についての書籍をむさぼるように読んだ。書棚には分厚い専門書が並び、どれもが何度も読み返され、書き込みで真っ黒だった。私が発作で陽翔の顔を爪でひっかいたり、胸を叩いて怒鳴り散らしても、彼は逃げることはなかった。いつもただ、静かにそこにいてくれた。だから、陽翔の腕には私の噛み跡があり、手にはひっかき傷、肩には物をぶつけた時の青あざが絶えなかった。それでも彼は「そんなの大したことない」と言って、いつも私を優しく宥めていた。人脈を使い、専門医を次々と紹介して、私の治療のために奔走してくれた。海外の有名な専門家も、彼が何度も足を運んだから、ようやく診察してくれるようになった。そうやって2年間。陽翔の地道な努

  • 彼女は地獄のような場所で、一輪の希望を咲かせた   第13話

    こうして、SNSでは、安人が自閉症の子供であったこと、そして拓野が安人の診断後、頻繁に家を空けていたことが暴露された。さらに莉香が市長の娘であり、当時拓野の元で研修医をしていた過去も明らかになった。安人が溺死した日、拓野を連れ出したのが他ならぬ莉香だったことも判明した。すると噂を聞きつけた人々は裁判の事件番号まで特定し、私が安人のために戦っていることに気が付いてくれたのだ。その後、真相が次々と浮かび、莉香が以前起こした医療事故まで掘り返された。ある被害者家族が証拠動画を投稿したのだ。当時の被害者は莉香のミスで死亡したが、最終的に責任を取ったのはある男性医師だった。さらに元同僚を名乗る人物からの長文では病院内での莉香の悪行――カルテの偽造、責任転嫁、研修医という身分を盾にした傍若無人な振る舞い、が詳細に綴られていた。投稿には数万件ものコメントが殺到し、莉香と拓野への怒りと非難が渦巻いた。【自閉症の子供を不倫相手に殺させて、元夫は隠蔽?妊婦を病室から追い出して流産させた?人間としてあり得ない】【市長の娘なら人を殺しても無罪なの?隠蔽工作のプロじゃん、どんだけバックが強烈なんだよ!】【あの神谷って医者、院長だよな?医者失格だろ】【この女性が可哀想すぎる。元夫と愛人にこんな目にあわされて。絶対勝訴してほしい】一つ一つ読むたびに私の目頭が熱くなり、胸が締め付けられ、最後には画面の文字が霞んで見えなくなった。その時、横から伸びてきた手にスマホを奪い取られた。「こういうドラマチックな展開は好き?」顔を上げると、陽翔が口元にいつもの笑みを浮かべていた。「あなたがやったの?」私は尋ねた。「何もしていないよ」陽翔は言った。「ただ、皆に真実を見つけただけさ。俺が殴られただけで、連中の評判を叩き落とせるなら安いもんだろ?」それを聞いて、私は陽翔の襟を掴んで自分の方へ引き寄せ、勢いよく唇を重ねた。彼は一瞬驚いたような顔をしたが、やがて目を細めて私を見た。切れた唇の端が引きつって痛いはずだが、それでも彼はキスを続けるように求めてきた。「ちょ、ちょ、こっちは運転中なんだけど!少しは遠慮してよ」見かねた夏帆が呆れ果てた声で注意してきた。こうして、案の定二度目の裁判当日、法廷には大勢の記者が詰めかけ、傍聴席はカメラや

  • 彼女は地獄のような場所で、一輪の希望を咲かせた   第12話

    ところが陽翔の方が早かった。私が駆け寄るのを見ると表情を一変させ、ようやく手を伸ばして、拓野が振り下ろした拳をしっかりと掴み取った。拓野は一瞬呆然とし、力を込めて腕を引き抜こうとしたが、全く動けなかったのだ。陽翔の指はまるで鉄の鎖のように彼の手を掴んで離そうとしなかった。そこでようやく、拓野は気づいたのだ。先ほどからあれだけ殴られていたこの男、本当は並外れた腕力の持ち主だった。では、なぜやり返さないのか?だけど、私にとって拓野の考えなどどうでもよく、ただ、陽翔が殴られたという事実だけが許せなかった。そう思って、私は歩み寄り、思い切り拓野の頬を平手打ちにした。「いい加減にして!」腫れ上がった陽翔の顔を見て私の怒りが頂点に達し、奥歯を噛み締めて私は言い放った。「江藤先生の仇を取りたかったら私にかかってきなさいよ。なんでうちの旦那に手を出すわけ?」しかし、それを聞いた拓野は喉を鳴らすと、ゆっくりと振り向いて、目を赤らめながら言った。「お前たち、最初からデキていたんだろ?」掠れた声で彼は問う。「離婚する前から、関係を持っていたのか?」私は息をのんだ。「静葉、被害者面するなよ!海外にいた数年間、こいつとずっと一緒だったんだろ?妊娠した子だってこいつの子なんだろ!前から浮気をしていたから離婚を急いだのか?もうとっくに俺と別れる気だったんだろ?」その言葉に耐え切れず、私は再び拓野をひっぱたいた。先ほどより力を込めたせいで掌がしびれるほどだった。すると、さすがの拓野も口を閉ざした。目が熱くなるのを抑え、私は痛みを感じながら一語一句噛みしめて言った。「長年夫婦だったあなたなら、私の生活を知っているはずよ。毎日安人とあなたの世話に追われ、あなたに食事を届けながら、安人の付き添いで通院してたのよ。自分の買い物の時間さえないのに、そんな余裕があるわけないでしょ?私をどうこうと疑う前に、自分は私を妻としてちゃんと扱ってきたのか、胸に手を当てて考えてみなさいよ!」そう言って、私は拓野を一瞥もせず、陽翔の手を引いて歩き出した。すると周りを囲んでいた人たちも自然と道を開けてくれた。それから、裁判所を出て角を曲がり、周りに人がいなくなったのを確認し、私は立ち止まった。そして振り返りざまに背伸びをして、私は陽翔の首に強く抱き着いた。

  • 彼女は地獄のような場所で、一輪の希望を咲かせた   第11話

    一方、私が視線を上げた先に拓野がいるのに気が付くと、思わず眉をひそめた。拓野は側面の入口側に立って自分を見つめ、完全に固まっていたのだった。そして、後ろから押されて、ようやく我に返ったように歩き出した。しかもなぜか階段を上がる時に足がもつれ、転びそうになっていた。それを、隣の健二に支えられて、ようやく体勢を立て直した後も再び視線を向けてきたのだった。そう感じて、視線を逸らそうとした時、目の前がふっと暗くなった。側から伸びてきた温かい手が、長い指で私の両目を優しく覆った。その掌からはかすかに木の香りがして、拓野の視線に向けていた私の注意力をすぐに引き戻した。「いつまで見てるつもり?」上から、陽翔の低くて落ち着いた声が聞こえてきた。「静葉、そろそろ証拠資料を確認しておかないと」そう言って、陽翔は手を離そうとせず、そのまま私のこめかみを軽く押した。すると隣から漏れた夏帆のクスクスとした笑い声が聞こえてきた。私は舌を出しておちゃらけてみせると、資料を真剣に見る陽翔に視線を向けた。彼は顔を上げなかったが、その口元が微かに動いたのが見えた。それからいよいよ、裁判が始まった。この裁判を、私はずっと待ちわびていた。安人が自分から外に出たはずがない。莉香が故意に連れ出したと、私は確信していた。だから、離婚後の数年間、海外にいても私は証拠を探すために時々帰国していた。そして、莉香が幼い頃から、親の権力を盾に同級生を虐めてきた証拠を少しずつ集めていた。そのどれもが被害者の生徒が退学させられるという、理不尽な光景ばかりだった。そんな資料を目の当たりにして、胸の中に抱えていた真相への疑惑も次第に明らかになってきた。それから、私は更に必死になって証拠を探し回った。陽翔は、私が何度も国内に戻ることに文句一つ言わず、それどころか航空券を予約し、常に隣で支えてくれた。その内、チケットを取るのさえ面倒に感じ、思い切ってプライベートジェットを買った彼は、私と一緒に現場へ駆けつけ、わずかな可能性を求めて、ありとあらゆる証拠を探しに付き合ってくれた。こうして、私たちはようやく真相にたどり着いたのだった。一般人が撮った動画の中に、粗い画質ながらも莉香と安人が映っていた。その画像の中で莉香は、安人が水に落ちるのを見ていながら

  • 彼女は地獄のような場所で、一輪の希望を咲かせた   第10話

    多分、初任給が手に入った時からかもしれない。自分の給料は静葉の5倍だった。その後、次第に10倍、やがて20倍と差が広がっていった。それは静葉が昇進しても、縮まらないくらいになり、ついに拓野は、自分こそが一家を支えているのだと思うようになった。住宅ローンも車の維持費も、安人の療育費でさえ全てを自分の稼ぎで賄っている。事務員である静葉の給料など、ベビーシッター代にすらならないだろう。だから、拓野は静葉が自分を気遣うのは当たり前だと考えるようになった。安人が自閉症と診断されてからは、拓野の頭に何度も、あの時莉香の告白を受け入れていたら、今頃どうなっていただろうという思いが浮かんでいた。莉香と結婚していれば、苦労せずに医師として成功し、最年少で教授になり、病院長の座も手にできていたはずだ。きっと世間から羨ましがられる人生を歩めたかもしれない。だがそんな理想と比べて、静葉と結婚して何を得たんだろう?自閉症の息子を抱え、いつも後始末に追われ、残されたのは、とても人に自慢できるとは言い難い家庭だけだ。そう思うと、彼は悔しくてたまらなかった。自分にはもっと明るい未来があるはずなのに。だが、拓野は知らなかった。静葉は安人の療育費を稼ぐため、日中は事務の仕事をこなし、夜はデザインの案件を抱え、深夜まで働いていた。それでも翌朝6時には必ず安人の朝食を作っていたのだ。そして、公共の場で安人が泣き叫んでも周囲に迷惑をかけないよう、彼女はいつもの大きなバッグを持ち歩き、中には水筒や着替え、安人を宥められるおもちゃが詰まっていた。あの重さは拓野ですら片手では持てないのに、静葉は3年間背負い続け、肩には深く痕が刻まれるほどだった。そんな思いを巡らせながら、拓野はさらに酒を煽り、こぼれた滴が顎をつたってシャツへと染み込んでいった。そして、思い出は高校生だった頃まで遡った。あの頃、自分は静葉に夢中だった。2年間アタックし続け、ラブレターを99通も送った。すべて手書きで、異なった内容だった。それを彼女の通学鞄や教科書、自転車のサドルにも忍ばせたりした。極めつけは折り鶴を折って教室の窓から投げ込んだことだ。その鶴の羽を広げると、中には【大好きだよ】という言葉がぎっしりと綴られていた。静葉が交際を承諾してくれた日、拓野はグラウンドを10周も走っ

  • 彼女は地獄のような場所で、一輪の希望を咲かせた   第9話

    それを聞いて、拓野のカルテを取ろうとする動きが止まった。彼は手を宙に浮かせたまま、数秒後にようやく絞り出すように聞き返した。「彼女が……妊娠を?」すると、看護師は呆れた様子で書類を整理しながら言った。「ええ。経過は順調でしたよ。各数値も正常値で、数日前に転院手続きをする予定だったのですが、事務上の手続きが遅れていましてね。やっと進んだと思ったら、流産してしまいました」拓野は言葉を失った。体が芯から冷えていくような感覚だった。彼のカルテを握っていた手は次第に力が入り、カルテは端がひん曲がるほど歪んでいった。そうか?あの大学の同窓会で静葉の友人が言っていた夫の話は、本当だったのだ。役者なんかじゃなかった。あの日、静葉が病院にいたのは病気でも、たまたま鉢合わせたわけでもない。妊婦検診だ。しかも静葉は、自分の姿を見た後に転院を望んだ。自分は静葉が演技をしていると思い、自分を繋ぎ止めるための嘘だと思っていた。でも静葉は、自分を避けたかっただけなんだ。その事実に気づいた瞬間、拓野は自分を制御できなかった。誰かに心臓を強く握り潰されたかのように締めつけられる痛み。込み上げる熱い感情を必死に喉の奥へ押し戻した。なぜだ?一体、どうしてだ?なんで静葉は、あんなにすぐ次へ進めるんだ?安人が亡くなってまだ数年しか経っていないのに。新しい家庭を持って、妊娠までするなんて。どうしてそんなことができるんだ?そんな冷たくなっていく拓野の表情を見て、看護師は訝しんだが、深く聞くことはできず、ただ彼が去っていくのを見つめる事しかできなかった。それから拓野はあてもなく車を出し、三区間ほど走ってからようやく自分が途方に暮れているのに気が付いた。静葉がいないこの家。拓野にとって、もう何年も前から心休まる家など存在しなかったのだ。昔は仕事から帰ると、すぐには部屋へ上がらず、車内で時間を潰すことが多かった。疲れていたわけじゃない。家に帰れば迎えるのは子供の泣き声、リハビリの報告、そして静葉のいつ見ても泣き腫らした目だったからだ。そんな現実と向き合いたくなくて、ガレージでタバコを一本ずつ吸い続け、10本目を吸ってようやく車を降りていくのだ。だけど、今や、あの逃げ出したかった家すらも、存在しないに等しい。そう思いながら、拓野は近くの

続きを読む
無料で面白い小説を探して読んでみましょう
GoodNovel アプリで人気小説に無料で!お好きな本をダウンロードして、いつでもどこでも読みましょう!
アプリで無料で本を読む
コードをスキャンしてアプリで読む
DMCA.com Protection Status