LOGIN離婚から3年、夏川泉(なつかわ いずみ)は夏川学(なつかわ まなぶ)が放った火によって、再び結婚という檻へ連れ戻された。 ライターを手にした学は、氷のような冷たい声で言った。「泉、この古いマンションには17世帯もの人が住んでいる。寝たきりの老人もいれば、生まれたばかりの赤ん坊もいる。 今日、お前が復縁協議書にサインしなければ、下のガソリンの詰まったドラム缶は点火される。お前に住人の命を背負う覚悟はあるのか?」 無関係な住人を巻き込むわけにはいかず、泉は震える手で復縁協議書に名前を書き入れた。 復縁してからというもの、学はありったけの愛情を泉に捧げた。雲嶺市の一等地にある商業ビルを泉の名義にし、泉専用の香水まで特注した。さらには、泉が7年前に何気なく口にしたオーロラを見たいという願いを叶えるため、全ての国際会議をキャンセルし旅行の準備をした。 世間では、学が元妻とよりを戻すため、泉に会社の資産の半分を差し出すほど、ここ10年でも稀に見る献身的な愛だと噂されていた。
View More3ヶ月後。ある小さな島国。そこは観光業が盛んな島国で、景色は美しく、人々も素朴だった。島には「星の家」という施設があり、20人ほどの孤児がそこで暮らしていた。新しく来たボランティアは、移民の女性だった。口数が少なくとても穏やかで、子供たちは彼女によく懐いていた。その女性は手話ができた。その手で、子供たちに物語を聞かせていた。そしてその女性が焼くイチゴケーキもとても美味しかった。毎週水曜日、おやつどきになると子供たちは皆、それを取り合った。さらにオルゴールを作るのも得意だった。捨てられた材料で回転して踊る小さな人形を作り、『お星さま』を奏でた。彼女の声は戻っていたが、やはり必要以上に喋ろうとはしなかった。そんな彼女を子供たちは「シズコママ」と呼んだ。彼女はただ静かに、微笑みながら子供たちの遊ぶ姿を見守っていたからだ。「シズコママ」は施設の裏にある小屋で暮らしていた。部屋にはベッドとテーブル、椅子が一つずつあるだけだった。テーブルの引き出しには、古い新聞が一枚入っていた。そこには大きくこう書かれていた。【夏川グループ前社長、殺人の疑いで逃亡中。株価暴落、倒産の危機】そこには学の顔写真もあった。精悍だが、疲れ果てた眼差しをしていた。新聞の下には、ある書類が隠されていた。【名前:美羽。死因:自死。日時:3ヶ月前】泉が、その引き出しを開くことは一度もなかった。かつて一度も振り返らなかったのと同じように。テーブルには一人の小さな女の子の写真が置かれている。ツインテールを結んで、笑うと二つのエクボができる女の子。他にも小さなオルゴールがあった。開けると、バレエ服を着た小さな女の子が踊り、美しいメロディーが流れるようになっていた。時折、泉が写真に向かって小さな声で優しく話しかけるのを、子供たちが見ることもあった。だが、ほとんどの時間、彼女はただ窓の外の海を静かに眺めているのだった。あの日、泉はいつも通り庭で子供たちと一緒にいた。陽射しは暖かく、潮風は心地よい。子供たちの笑い声は、澄み渡っていた。「泉さん、手紙ですよ」シスターのマリアがやってきて、一通の手紙を差し出した。泉は受け取った。差出人の名前はなく、封筒には泉の母国語で、丁寧に彼女の名前だけが書かれていた。泉は中身も見ず
「まだ間に合う、まだ許してくれるはず、すべて元通りになると勝手に思い込んでいた。でも、俺は間違っていた。償えない罪もある」学は銃を構え、自分のこめかみに突きつけた。「もし死ぬことでお前が救われるなら、喜んでそうしよう」泉は少しだけ瞳を揺らしたが、すぐにいつもの冷ややかな表情に戻った。「学、演技はもうやめて。あなたは絶対に死ねない。会社も地位も、自分の名誉も捨てられないはずよ。あなたはいつも通り、自分にとって一番都合の良い『正解』を選ぶんでしょ。3年前のあの日みたいに」学の手が震えた。泉の言う通りだった。自分は死を選べるような人間ではない。死ぬのが怖い。すべてを失い、壇上から転落するのを恐れていた。しかし、それ以上に怖いのは、一生泉といがみ合って生きていくことだ。「もし本当に俺が死を選んだら?」と、学はかすれた声で聞いた。「許してくれるのか?」泉は答えなかった。だが、その鋭い視線が答えを物語っていた。ありえない。絶対に許せない。すると、学は引きつったような、歪んだ笑みを浮かべた。銃を下ろし、彼は深く息を吐き出して言った。「わかったよ。そちらを選ぶ。全てを失い、社会的地位も何もかもをドブに捨てて、逃げ回る生活をしていくよ。もし……もしそれでお前が少しでも気が晴れるなら」泉は学をまっすぐ見つめた。その目に一瞬、複雑な感情が過ぎったが、すぐに消え去った。「山の下に車を用意してあるわ。食料と水は積んであるから、隣国まではたどり着けるはず。忘れないで。ここを一歩出たら、あなたは犯罪者よ。夏川グループは破産し、資産は全て差し押さえられ、友人たちからも見放され、あなたの世界は完全に覆されてしまうわ」そう言い残すと、泉は背を向け、柚葉の遺骨を抱えて入り口へと向かった。そして、扉の前で足を止め、彼女は振り返ることなく言った。「学、あなたと会うのはこれが最後よ。お別れね。これで互いに貸し借りはもうない」そして泉は部屋を出て、扉が閉ざされた。取り残された学は、冷たくなった美羽の体と、壁一面に飾られた柚葉の笑顔の写真を見つめていた。ふと、何年も前、二人が結婚した頃の記憶が蘇った。当時、泉は交渉専門家ではなく、ただの一警察官だった。仕事で怪我をした泉を病院に見舞ったとき、病床の彼女は真っ
「ごめん……」と学が呟いたが、もう遅すぎた。全てが終わっていた。「謝ったって無駄よ、学。ごめんなんて言葉で、柚葉が生き返るわけでも、私が失ったものを取り返せるわけでもない。私たちがやり直せるわけがないの。だからあなたの謝罪はただの自己満足。卑怯者が自分の罪を薄めるための、汚い言い訳に過ぎないわ」泉は美羽のそばに歩み寄り、膝をついて、彼女の次第に焦点を失っていく瞳を見つめた。「後藤さん。生まれ変わったら、今度は少しくらい真っ当な人間になりなさい」美羽の瞳が最後の一度だけ動き、泉を見た後、その焦点は永遠にそこで留まった。美羽は死んだ。血まみれの手と、罪深い心を抱いて、誰も知らないこの孤島でその生涯を終えた。泉は立ち上がり、最後にもう一度美羽を見てから、学を振り返った。「次はあなたの番よ」学の心はどん底に沈んだ。「何を言ってるんだ?」「後藤さんは代償を払った。じゃあ、あなたは?後藤さんを選んで、柚葉を見捨てた責任は?あなたは柚葉を殺した加害者であり、私を地獄へ突き落とす最後の一撃を食らわせた張本人よ。学、あなたも償うべきね」学は泉を見つめ、ふと笑みを漏らした。その笑みには疲れと絶望、そして諦めが混じっていた。「分かった」と彼は答える。「どうすればいい?死んで罪を償えば満足か?」泉は首を横に振る。「いいえ、死なせるなんて甘いことはしない。あなたには生きて償ってもらうの。私と同じように。一番大事なものを失った後悔を抱えて、自分を一生許すことなく生きていくのよ」泉はポケットから一丁の拳銃を取り出し、学へ放り投げた。学がそれを受け取る。銃はひどく重く、冷たかった。「これは後藤さんが自決に使ったナイフよ。指紋もしっかりついている」泉はジップ袋に入った血まみれのナイフをもう一方のポケットから取り出す。「これを現場に残しておくわ。あなたは今からこの銃を持って逃げなさい。弾は撃ち尽くしているけど、弾道調査をすれば最近発砲された証拠が残るから」それを聞いて、学は泉の目論みを理解した。泉は偽の現場を捏造し、自分を美羽殺害の容疑者に仕立て上げるつもりだ。「ここは防犯カメラもないけれど、あなたが島へ来た記録はあるわ。私や後藤さんとの間に確執があった事実と、あなたには後藤さんを殺す動機があったことも事実よね」泉
それから学はあのアジトのある場所に一週間も滞在した。だが、泉は二度と彼と会おうとはせず、電話に出ることもなかった。一方、学自身はアジトの近くに軟禁されていた。監視がついたため、別のエリアには立ち入れない状態だった。それでも、学はその場を離れるつもりはなかった。もし今回ここを去れば、泉を一生失うことになると分かっていたからだ。7日目の夜、突然監視していた男たちが姿を消した。異常を感じた学は、敷地を飛び出し、奥にある建物へ向かって駆け出した。月明かりのない暗闇の中、荒い波音が岩場に叩きつけていた。記憶を頼りに例の白い建物へ辿り着くと、ドアは開いたままで、中は空っぽだった。地下へ続く入口も開いており、階下から灯りが漏れているのだった。学は一瞬だけ躊躇い、階段を下りていった。長く続く廊下。ぎらついた照明の下、空気には消毒液のような、何とも言えない匂いが漂っていた。かすかに聞こえる声。女の声が、何かを歌っている。それは『お星さま』だ。柚葉が一番好きだった歌だ。「お星さまきらきら。まばたきしてはきらきら光る」学の胸は高鳴った。声を頼りに、彼は足早に部屋へ駆け込んだ。ドアは半開きになっていて、そこから歌声が響いてきた。そして彼がドアを押した瞬間。そこに広がる地獄のような光景を目にした。美羽が椅子に縛り付けられ、柚葉の遺影で埋め尽くされた壁に向かわされていた。彼女はかすれた声で、断続的に歌を口ずさんでいた。しかしその瞳に光はなく、口元だけが歪な笑みを浮かべていた。手首には深い切り傷があり、血はすでに乾いていたが、足元にはおびただしい血溜まりが残っている。泉は隅の陰に座り込み、柚葉の骨壺を我が子を寝かしつけるように抱きしめていた。「泉……」学の声は震えていた。泉は顔を上げて、彼を見つめた。その眼差しは穏やかで、それがかえって異様だった。「来たのね」泉は静かに言った。「ちょうどよかったわ、最後の審判に間に合ったわよ」「美羽が……」「自殺したのよ」泉は淡々と言った。「私が渡しておいたナイフで。わざと置いておいたの。後藤さんならきっとそうすると思っていた。罪悪感に耐えられなかったのよ、そもそも良心なんてものが彼女にあればの話だけど」学は美羽に駆け寄り、呼吸を確認し