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人生には「まさかの坂」があるという。
私、◇
そして今日。
約束の、地獄の結婚式当日。 私は高級ブライダルサロンやホテルが立ち並ぶ、都内の一等地にある式場のエントランス前に立っていた。 今日の私(のドレス)は完璧だ。この日のために新調した、日の光を浴びて上品に輝くシャンパンゴールドのパーティードレス。上質なシルクが肌を滑り、背中のラインを美しく見せている。髪も早朝から馴染みの美容院に行き、一分の隙もなくセットしてきた。 完璧なはずの私。――ただ、もっとも重要な一点を除いて。 「……来ない」 約束の午後一時を、もう十五分も過ぎている。 あの日、啖呵を切った手前、私は文字通り「拓也より百倍素敵な、完璧な彼氏」を用意する必要があった。もちろん、そんな都合の良い相手がいるはずもなく、私が頼ったのはインターネットの闇、もとい現代のサービス業だ。 『完璧な恋人、レンタルします』 藁にもすがる思いで予約したのは、業界でもトップクラスと評判の、時給五万円の超高級レンタル彼氏(ホスト)。レビューには「まるで王子様」「彼のエスコートで人生が変わった」「もう彼以外愛せない」と、信者めいた絶賛の嵐。 今日の復讐劇のためなら、結婚資金として貯めていた貯金の一部を切り崩すことなど厭わなかった。金で買えるプライドがあるなら、いくらでも払うつもりだった。 なのに。 その「王子様」が、来ない。 「どうしよう……!」 じわり、と嫌な冷や汗が背中を伝う。震える手でクラッチバッグからスマートフォンを取り出し、何度も電源ボタンを押すが、画面は無情にも真っ暗なままだ。 昨日、不安と緊張から自宅でやけ酒を煽り、レンタル彼氏の情報を漁りすぎて寝落ちしたせいで、充電を忘れていたのだ。今朝、家を出る時には数パーセント残っていた希望も、ここへ来る途中で力尽きた。 最悪だ。最悪すぎる。 式場の華やかなエントランスを、着飾ったゲストたちが次々と通り過ぎていく。楽しげな笑い声、香水の匂い。あの重厚な扉の向こうには、私の人生に泥を塗った二人が、「可哀想な朱里」が来るのを今か今かと待っているのだ。 今、ここで一人で入っていったら? (あら朱里、彼氏はどうしたの?) (もしかして、嘘だったの? やっぱり朱里には俺しかいなかったんだな) 美咲と拓也の、同情を装った嘲笑う顔が鮮明に脳裏に浮かぶ。 それだけは、絶対に嫌だ。そんな屈辱を味わうくらいなら、舌を噛んで死んだほうがマシだ。私のプライドは、もう限界まで張り詰めている。 どうする、私。逃げる? 仮病を使って帰る? いや、逃げたら負けだ。一生、あいつらに負け犬として笑われることになる。 焦りと屈辱、そして自分自身の愚かさへの怒りで視界が滲みそうになった、その時だった――。どれくらい時間が経ったのか、わからない。 耳元で響くのは、獣が獲物を貪るような、彼の粘つく呼気。それに応えるように、私の喉からは、制御できずに甲高い、濡れた声がひきつれて漏れ出ていく。「……朱里、こっちを見ろ」 快楽に溺れ、逃げるようにシーツに顔を埋めようとした私を、湊は許さなかった。 汗ばんだ顎を強い力で掴まれ、無理やり上を向かされる。 視界いっぱいに、彼の整った顔があった。いつも余裕ぶった「半笑い」を浮かべていた唇は固く引き結ばれ、額には玉のような汗が滲んでいる。 その瞳。 普段の冷徹な理性の光は消え失せ、そこにあるのは暗く燃え上がる、剥き出しの独占欲だった。「目は逸らさせない。……君がいけないんだ。僕をここまで煽った責任は、取ってもらう」 低く、腹の底に響くような声が、鼓膜を震わせる。 直後、身体の奥深くまで貫かれるような衝撃に、私は音にならない悲鳴を上げた。「あ……っ、んんッ!」 痛いほどの充溢感。 アルコールで鈍ったはずの思考が、体の内側から突き上げられる強烈な感覚に塗り潰されていく。私はただ、指先が白くなるほど彼の広い背中に爪を立て、この衝撃に耐えることしかできなかった。(こんなの……知らない) 拓也とのセックスは、いつだって優しくて、けれど、もっと淡白だった。 でも、この男は違う。 優しさなんて微塵もない。あるのは、私という存在を芯まで喰らい尽くそうとするような、圧倒的な捕食者の本能だけだ。 汗で滑る肌が擦れ合うたび、そこから彼の熱がじわりと移ってくる。 彼の硬い胸板に押し潰され、逃げ場のない腕の中で翻弄される。「……っ、み、湊……もう、むり……」 意識が飛びそうで、私は彼の名前を呼んでいた。 すると、彼は満足げに喉を鳴らし、私の唇を塞いだ。「……いい子
耳朶に、熱い吐息が直接吹きかかる。低く、鼓膜を震わせる声。それでいて有無を言わせぬ、絶対的な響き。「報酬が高くつく」――その言葉が、アルコールで痺れた頭に警鐘を鳴らす。(まずい。この男、本気だ) 私は、彼の胸板を必死に押そうとする。滑らかなスーツの生地越しに、岩盤のような硬さが伝わってくる。だが、アルコールで熱を持った指先は、その上を虚しく滑るだけだ。「……っ、はな、して……」 抗議の声は、自分でも情けないほどか細い。 湊は、そんな私を面白そうに見下ろしていたが、やがて、ふっと息を吐いた。「……これでは、話にならないな」 そう呟いたかと思うと、次の瞬間。 私の膝裏と背中に、彼の腕が差し込まれた。「え……?」 ふわり、と身体が浮いた。膝裏と背中に差し込まれた腕は、驚くほど安定的で、びくともしない。いわゆる、お姫様抱っこ。彼の高価なスーツと、微かなムスクの香りに、身体ごと包み込まれる。(嘘でしょ!?) あまりの展開に、酔いも何もかもが吹き飛びそうになる。「ちょっと! 降ろしなさいよ! 自分で歩ける!」「ふらついている人間が、何を言う」 湊は私の抵抗などまるで意に介さず、私を抱きかかえたまま、寝室であろう奥の部屋へとこともなげに歩き出す。スレンダーに見えたのに、スーツの下には、鍛え上げられた分厚い筋肉が隠されているのが、腕に回された感触で嫌というほどわかる。(え? 嘘、このまま流されちゃうの私?) 時給五万のホストに、復讐の道具として雇った男に、スイートルームで? 私のプライドが、そんな屈辱的な結末を許さない。「降ろして! これは契約違反よ! 追加料金、払わないから!」「……騒ぐと、唇で塞ぐぞ」 ドクン、と心臓が喉まで跳ね上がった。 その、冗談とも本気ともつかない低い声に、私は息を呑んで固まった。 本当に、やりかねない。この男なら。
「―――は?」 一瞬、思考が停止する。 きみで、いい? それが何を意味するのか、数秒遅れて理解した瞬間、カッと全身の血が頭に上った。「……っ、ふざけないで! あんた、自分が何言ってるかわかってんの!?」 私は、持っていたバッグを盾にするように一歩後ずさる。 この男は、どこまで私を馬鹿にすれば気が済むのだろう。「金は払うって言ってるでしょ! 時給五万、三時間で十五万! それ以上払えって言うなら……!」「落ち着きなよ」 湊は、私の剣幕を意にも介さず、片方のワイングラスを優雅に私に差し出した。 グラスの中で揺れる深紅の液体が、妖艶な光を放つ。「まずは乾杯でもどうかな。君の『戦勝祝い』だ」「いらない!」「そう言うなよ。……それとも、僕が注いだお酒は飲めない?」 まただ。あの、人をからかうような、余裕たっぷりの半笑い。 その瞳は、獲物が罠にかかるのを待つかのように、楽しげに細められている。(……馬鹿に、して) こっちは、人生最大の屈辱を晴らすために、必死だったっていうのに。 拓也と美咲への怒り。目の前の男に翻弄される悔しさ。そして、一日中張り詰めていた緊張の糸。それらが、ごちゃ混ぜになって私の中で爆発した。「……っ、飲むわよ! 飲めばいいんでしょ!」 私は、彼の手からグラスをひったくると、勧められるまま、その赤い液体を煽った。 高級なワインなのだろう。芳醇な、とろりとしたベリーのような甘い香りが鼻を抜ける。だが、今の私には、その味わいなんてどうでもよかった。喉を焼くアルコールの刺激だけが、かろうじて現実を感じさせてくれる。「……っ」 空になったグラスを突き出すと、彼が面白そうに眉を上げ、もう一度注ぐ。それも一気に飲み干す。「どうよ! これで文句な……」 数杯、立て続けに空にした時だっ
「……は?」 契約延長? 私は、その言葉の意味が瞬時に理解できず、間抜けな声を上げた。 エントランスの冷たい夜風が、急に生々しく感じられる。「けいやく、えんちょう……って、何よ。もう、あの二人はいない。私の復讐は終わったわ。あんたの仕事も、ここまでよ」「そうかな?」 湊は、ポケットに片手を突っ込んだまま、あの人を食ったような半笑いを崩さない。都会のネオンを反射して、彼の瞳が底知れなく光る。「君は、あのまま帰るつもりだったのかい? あの二人……拓也、と言ったかな。彼らが、君たちが本当に付き合っているか、まだ疑っているとしたら?」「……!」 心臓を冷たい手で掴まれたような感覚。 確かに、そうだ。今日のところは完璧に撃退できたと思った。でも、後で「あの男、誰だったの?」「本当に付き合ってるの?」と共通の友人に探りを入れられるかもしれない。あの二人の性格なら、あり得ることだ。もし嘘だとバレれば、今日の勝利は一転、惨めな道化の戯言と化す。「中途半端な復讐は、かえって自分の首を絞めることになる。……違うかい?」 ぐうの音も出ない。この男は、私の浅はかなプライドと、その裏にある脆い弱さを、最初から完全に見透かしている。 悔しいけれど、彼の言う通りだ。「……で。延長っていくらなのよ。言っとくけど、私、そんなにお金持ってないんだから!」 私がなけなしのプライドで財布を握りしめて睨みつけると、湊は心底おかしそうに、ふっと息を漏らした。「料金の話は、場所を変えてしよう。ついてきて」 そう言うと、彼は有無を言わさず私の手首を掴んだ。 骨張った、けれど力強い指先。その体温の高さに、びくりと肩が跳ねる。「ちょっ、どこ行くのよ!」「僕の職場さ」 抵抗する間もなく、彼が向かった先は、なんと、今しがた式を挙げたホテルの、その上層階へと続く専用エレベーターだった。 重厚な
張り詰めていた糸が、ぷつりと切れる音がした。 全身から力が抜けていくのがわかる。安堵と、高ぶりすぎた感情の揺り戻しで、指先が微かに震え出した。 その時、隣の彼が、私にだけ聞こえる声量で、そっと耳元に囁いた。「朱里、大丈夫かい?」 会場の喧騒が、一瞬遠くなる。「辛かったら、僕の手を握って」 その声の甘さに、心臓が跳ね上がった。 見上げると、彼は先ほどの冷徹な「氷の貴公子」の顔ではなく、ほんの少しだけ心配そうな、どこか幼ささえ感じる優しい瞳で私を覗き込んでいた。(……ダメだ、ダメ。これは演技。仕事だ) 私は自分を叱咤する。けれど、震える手は救いを求めていた。 私は、テーブルの下で震えそうになる自分の手を隠すように、彼の差し出した大きな手のひらをぎゅっと握りしめた。 熱い。 男の人の体温が、こんなにも高く、安心感を与えるものだなんて知らなかった。彼の手は私の手をすっぽりと包み込み、宥めるように親指で私の甲をゆっくりと撫でた。その愛撫のような仕草に、身体の奥がじんわりと熱くなる。「……っ、演技、うまいじゃない。時給分は働いてるわよ」 そう言ってそっぽを向くのが、精一杯だった。耳まで赤くなっているのが自分でもわかる。 私の強がりを聞いた湊は、小さく喉の奥で笑ったようだった。ククッ、と響く振動が、繋いだ手と肩から伝わってくる。「……それはどうも。クライアントにご満足いただけて光栄だよ」 彼はそれ以上何も言わず、再び完璧なフィアンセの仮面を被り、優雅な仕草でシャンパンのグラスを口に運んだ。 その横顔は、あまりにも整いすぎていて現実味がない。長い睫毛が頬に落とす影、すっと通った鼻筋、薄く形の良い唇。(……この人、本当にホストなの?) さっきの拓也たちへの対応は、時給五万でも安すぎるくらい、見事なものだった。まるで、ああいう修羅場や、人間の悪意、嫉妬といった泥臭い感情をあしらうことに慣れ切っているかのように。 彼が隣に
重厚な両開きの扉がスタッフの手によって恭しく開かれた瞬間、視界を埋め尽くすようなまばゆいフラッシュの光と、数百の瞳が一斉にこちらを向く物理的な圧力が、突き刺さるように私に集まった。 一瞬、足がすくむ。 天井高く吊るされた豪華絢爛なシャンデリアが、残酷なほど会場の隅々までを照らし出している。そこは、私を裏切った元彼と親友を祝福するための、広すぎる披露宴会場。 祝福という名の好奇に満ちた視線が、場違いな来訪者である私と――そして私の隣に立つ、あまりにも完璧すぎる男に注がれているのが肌でわかった。(……ヤバい。息が、できない) 心臓が早鐘を打ち、指先が冷たくなる。 ぎゅっ、と。私は無意識に、とっさに絡ませた男の腕を強く握りしめていた。 シルク混の上質なスーツ生地越しに、硬く引き締まった筋肉の感触が伝わってくる。その熱と固さが、唯一の命綱だった。 すると、隣の男――今日から私の「偽物の彼氏」となった彼は、その無数の視線を楽しむかのように、唇の端に浮かべたあの半笑いを一層深くした。「堂々と。……君は、今日の主役より美しい」 耳元で囁かれた声は、まるで上質なベルベットのようだった。 低く、甘く、鼓膜を震わせ、私の芯にある不安だけを狙って溶かしていくような響き。吐息が耳朶を掠める感触に、背筋にぞくりとした電流が走る。(うわ……。これが時給五万の「演技」……) わかってる。わかっているけれど、その計算された声色と、腕から伝わる頼もしい体温に、心臓が言うことを聞かない。「……っ、わかってるわよ、仕事でしょ!」 私は彼にだけ聞こえる小声で悪態をつき、彼から見えないように頬の熱を誤魔化しながら、精一杯背筋を伸ばした。 そうだ、私は今日、ただ祝いに来たのではない。奪われたプライドと、屈辱を晴らしに来たのだ。 私たちが会場に足を踏み入れたことで、ざわめきがさざ波のように大きくなる。「おい、あれって茅野だよな?」「隣の男、







