ログイン頭を揺らし続けている男の子の心の中では、童謡がずっと繰り返されている。【どんぐりころころ、どんぶりこ……】まるで壊れたレコードのように、同じフレーズが何度も何度も繰り返されている。天井を見つめている女の子は、こう考えている。【天井にクモがいる。巣を作ってるけど、すごく遅いなぁ。おばあちゃんが編み物するより遅いかも】隣に座る三つ編みの女の子の頭の中は、昼ご飯のことでいっぱいだ。【今日のお昼、何かな。お母さん、昨日はオムライスにするって言ってたけど、ウインナーも入ってるかな?】本当に、みんな考えていることはばらばらだ。でも、私は少しも嫌にならない。両親の心の声よりずっときれいで、雨上がりの空みたいに澄んでいる。午前の授業で、先生は簡単な漢字を教えてくれる。黒板に「大」「小」「上」「下」と書き、一文字ずつみんなで声に出して読む。私は誰よりも大きな声で読む。すると、先生がごほうびに小さな花のシールをくれる。それを手の甲に貼り、一日中ずっと眺めている。昼休み、自分の席で弁当を広げる。桂子が作ってくれた弁当には、豚の角煮と野菜炒め、それに食べやすく切ったリンゴが入っている。リンゴをかじっていると、隣の天井を見ていた女の子が突然こちらを振り向く。目は相変わらず上を向いたままだけど、私の袖をちょんと引く。「ねえ……名前、なんだっけ?」「清田美波」「わたしは、太田愛梨(おおた あいり)」彼女はにっと笑う。前歯が一本抜けている。「その帽子、かわいいね」私は頭にかぶった帽子に触れる。桂子が数日前に買ってくれた。ピンク色の帽子で、ツバのところには白いウサギの刺繍が入っている。「ありがとう、桂子おばさんが買ってくれたの」「おばさんって誰?」「向かいの家に住んでる……私に、すっごく優しい人」愛梨は小さく頷き、また天井を見上げる。でも、その心の声が聞こえてくる。【美波ちゃんには優しくしてくれるおばさんがいるんだ。いいなぁ、わたしにはいない。お母さん、いつもわたしを叩くの。でも、誰にも言えない。わたしも、そんなおばさんが欲しいな】私は弁当に入っていた豚の角煮を2切れ、愛梨の弁当にそっと入れる。愛梨は一瞬きょとんとするが、目の前の肉をじっと見つめ、やがてリスのように頬を膨らませて食べ始める。彼女は何も言わない
「お父さん、一緒にやって」父は一瞬きょとんとしたあと、笑いながら私の隣に座る。二人でカーペットに座り、父はパズルのピースを一つずつ探しながら、声に出して教えてくれる。「これが城の屋根だな……こっちは空の雲だ」けれど、ピースを探す手は次第に遅くなっていく。心の中では、うんざりした声が響いている。【500ピースなんて、いつになったら終わるんだ?明日は仕事だってのに、こんなことに付き合ってられるか】聞こえていないふりをして、ピースを一つずつはめ込んでいく。少しずれると、また外してやり直す。父は40分ほど付き合ってくれた。その間に仕事の電話を何度も受けた。最後の電話が鳴った時、父はほっとしたように立ち上がり、私の頭を軽く撫でる。「お父さん、ちょっと電話してくるな。美波は一人でやってて。いい子にしてるんだぞ」スマホを手に寝室へ向かう。ドアが閉まると、ドア越しに同僚へ愚痴る父親の声が聞こえてくる。「まいったよ。今、家で子どもの面倒を見てるんだ。もう面倒くさくてさ。明日、仕事が終わったら飲みに行こうぜ」私は黙ってパズルを続ける。夜の9時になるころには、城の土台が完成し、空の部分も半分ほど出来上がっている。母にお風呂へ入って寝るよう急かされ、私はパズルを丁寧に片づけて、ベッドの下へしまう。4月に入ると、桂子が私のために特別支援学校を探してくれた。それほど大きくない学校で、街の南側にある古い商店街沿いに建っている。校門には、ツタが青々と絡みついている。桂子に連れられて入学の手続きに行く日、対応してくれる校長先生は、眼鏡をかけたふくよかな女性だ。とても穏やかな人で、目を細めて微笑んで話しかけてくれる。「お名前はなんていうの?」「清田美波」「何歳かな?」指を折って数え始める。でも、5本目のところで止まってしまう。すると、隣にいた桂子が小さな声で教えてくれる。「18よ!」私は慌てて言う。「18歳!」校長先生は笑いながら、私の頭を優しく撫でる。彼女の心の声が聞こえる。【この子、目がしっかりしているわ。重度の知的障害には見えないけれど……以前の診断が誤診だった可能性もあるわね。まずはしばらく様子を見てみよう】両親は最初、私を学校へ通わせることに反対していた。「美波みたいな子が学校に行って、何になるんだ?
桂子が、焼きたてのクランベリークッキーを持ってきてくれる。砂糖を入れたホットミルクも一緒だ。私は桂子の肩に寄りかかる。風が吹き抜け、桂子からクチナシの甘い香りが漂ってくる。ほんのりと温かい。両親がいまだに私のことを好きじゃなく、足手まといだと思っていることはわかっている。でも、構わない。私には桂子がいる。それに、私は人の心の声を聞くことができる。彼らはもう二度と、私を傷つけることはできない。これからは、きっと穏やかに暮らしていける。……あの事件から半月ほど経ち、家の中の空気はどこか妙だ。両親は私に対して、異様なほど優しくなる。毎朝、私が目を覚ます前に、母は温かい牛乳とゆで卵をベッドまで運んでくる。卵はきれいに殻をむいてある。父は仕事から帰るとおもちゃを買ってきてくれる。数日前はゼンマイ仕掛けのカエルで、昨日は音楽が鳴るメリーゴーランドのオルゴールだ。しかし、彼らの心の声は筒抜けだ。母は牛乳を持って部屋に入ってくる時、こう考えている。【しばらくは大人しくして、あの子が油断するのを待つしかないわ】父がオルゴールを枕元に置く時、心の中はこうだ。【長井だって、毎日見張っていられるわけじゃない。あいつが自分の家のことで忙しくなった時を狙って、また機会を作ればいい】心海が大学へ行ってからは、たまに電話をかけてくる。でも、そのたびにお金をせがむだけだ。母は電話口では笑って応じるものの、切った瞬間に顔を曇らせる。心の中では、まるで炭火がくすぶるような声が響いている。【心海もあてにならない。金をせびるだけで、何もしてくれない。どっちも私たちのお荷物だわ】私は二人を無視する。昼間はいつも通り桂子の家に遊びに行き、字の読み書きを教えてもらったり、自分の名前を書く練習をしたりする。「清田美波」を何度も書く。形はぐにゃぐにゃだけど、桂子は上手だと褒め、練習した紙を家の冷蔵庫に貼ってくれる。桂子の息子の奥さんが、先月、二人目の子どもを出産した。男の子で、名前は冬真(とうま)という。桂子は息子夫婦の家へ孫の世話を手伝いに行くこともあり、手が回らない時は、私も一緒に連れていってくれる。冬真はとても泣き虫だけど、私が抱っこしてゆらゆら揺らすと、すぐに泣き止む。まん丸な目で私を見つめ、小さな手で私の指をぎゅっと握りしめてく
心海は、すぐそばに立っている。その顔色は相変わらずひどく悪い。彼女の心の声が聞こえてくる。【どうして、計画は完璧だったのに……なんでこの足手まといがまだ生きてるのよ、本当に最悪!】けれど、それを口に出すことはできない。ただ拳を握りしめて、そこに立っている。母は慌ててキッチンへ向かい、私の好きな料理を次々と作る。肉じゃが、照り焼きチキン、つみれ汁……テーブルいっぱいに料理が並ぶ。母は何度も私の皿に料理を取り分ける。「美波、たくさん食べてね。今まで本当にごめんね。これからは毎日、美波の好きなものを作ってあげるから」父も魚の骨まで丁寧に取り除き、私の皿にそっと置く。「美波、明日はお父さんと一緒に新しい服を買いに行こう。大好きなお姫様みたいなワンピースも買おう。な?」私はその魚を口に入れる。何も答えない。心海は、翌日に大学の寮へ引っ越す予定になっていた。ところが、その朝から親戚たちから次々と電話がかかってくる。母方の叔父は心海を厳しく叱る。「この恩知らずが!美波がああなったのは、お前を先に助けたからじゃないか。それなのに、あの子を飢えさせて死なせようとしたのか?」父方の叔母からも責められる。「都京大学に受かったからって、それが何なの?清田家に、あんたみたいな陰険で意地が悪い娘はいらないわ」親戚たちから責め立てられたことで、心海は引っ越しの日を半月ほど先延ばしにする。それから毎日自分の部屋に引きこもり、外に出ようともしない。たまに水を飲みに部屋を出てきても、私の姿を見ると逃げるように自分の部屋へ戻る。……家を出る日、心海は私の部屋の外に立ち、申し訳なさそうに頭を下げる。「お姉ちゃん、今まで私が悪かったわ。許してくれない?休みに帰ってきたら、何か買ってきてあげるから」私は心海をじっと見つめる。「心海はまだ、美波のこと、足手まといだって思ってる?学校を卒業したら、もう家には帰らない。美波のことも、もう面倒を見たくないって思ってるよね?」心海の顔から、一瞬で血の気が引く。何も言わずにスーツケースを引き、そのまま家を出ていく。一度も振り返らない。大学に入ってから、心海が家に電話をかけてくることはほとんどなくなる。たまにかかってきても、両親に生活費を頼む時くらいだ。両親は今、私にとても優しく
「お父さん、嘘つき。出かける前の夜、部屋で言ってた。手袋をしてブレーカーを落として、スイッチをきれいに拭けば、誰にも分からないって……元栓も閉めておけば、美波が水を飲めなくなるって」両親の顔から一瞬にして血の気が引く。母の唇が小刻みに震えている。「あんた……どうしてそれを?」首を傾げて母を見つめる。「お母さんが、傷みやすいものを一番取りやすいところに置いたことも知ってるよ。それに、冷蔵庫のドアをわざと少し開けておいたのも。早く食べ物が傷むようにしたかったよね。美波がお腹を壊しても、お母さんたちのせいにはならないもんね?」今度は心海を見る。「心海が旅行から帰ってきたら、美波はいなくなる。そうしたら、お父さんとお母さんのお金は全部心海のものになる。それに、美波のコップを隠したよね?」心海は恐怖のあまり大きく後ずさりする。私を指差す手も、声も震えている。「……何言ってるの!そんなことしてない!」桂子がスマホを取り出す。以前撮ったブレーカーや元栓の写真、そして修の点検記録も見せつける。「まだ言い逃れするつもり?これはあんたたちが出かけた当日に撮った写真よ。ブレーカーのスイッチは不自然なくらい、きれいに拭かれてるし、元栓にも工具を使って閉めた跡が残ってる。どう見ても、誰かがわざと細工したとしか思えないわ。それに、あんたたちからかかってきた電話の録音も残してあるわ。余計な世話を焼くな、美波ちゃんが死んでも私には関係ないって言ってたわよね。聞きたいなら、みんなにも聞かせてあげようか」いつの間にか、騒ぎを聞きつけた近所の住人が玄関前に集まっている。この前、さくらんぼをくれたおばあさんも来ている。彼女は両親を指差し、怒りをぶつける。「あんたたち、いくらなんでもひどすぎるわ!美波ちゃんみたいないい子に、よくもそんなことができるわね!」「本当よ。普段は普通の親に見えたのに、まさかこんなに冷たい人たちだったなんて!」「もし美波ちゃんに何かあったら、あんたたち人殺しよ!」両親は何も言い返せず、何度も頭を下げる。「皆さん、本当にすみません。私たちが悪かったです。もう二度とこんなことはしません」桂子はそんな二人を見下ろし、鼻で笑う。「言っておくけど、この証拠は全部バックアップを取ってあるからね。私のスマホ
オルトラマンを枕元に置き、クマのぬいぐるみと並べる……5日目、桂子が私を近くの遊園地へ連れていく。私はメリーゴーランドに乗り、何度も何度もくるくる回る。風が髪を撫で、私は声を上げて笑う。両親は一度も私を遊園地に連れて行ってくれなかった。私みたいな子がメリーゴーラウンドに乗ったら、みっともないと言っていた。桂子はピンク色のわたあめを買う。雲みたいにふわふわしている。ひと口舐めると、甘くておいしい。夜になると、桂子がお風呂に入れてくれる。そして、髪を三つ編みにして、私のために買ってくれたピンク色のリボンを結んでくれる。鏡の前で何度も自分の姿を眺める。まるでお姫様になったみたいで、嬉しくなる。7日目の午後。桂子はイチゴのショートケーキを買ってくれる。イチゴがたくさん乗っていて、チョコレートで「美波はいい子」と書かれている。二人でリビングのカーペットに座り、ケーキの箱を開けたその時、玄関から鍵を回す音が聞こえてくる。鍵を2度回しても、ドアは開かない。外から母の戸惑った声が聞こえる。「おかしいわね」父も試してみたが、やはり開かない。父がドアを叩き始める。「美波、開けなさい、帰ってきたぞ!」桂子が立ち上がり、玄関へ向かう。ドアを開けると、そこには両親と心海が立っている。母は新しく買った花柄のワンピースを着ている。父は旅行先で買った派手なアロハシャツ姿だ。心海はサンバイザーをかぶり、免税店の袋をいくつも提げている。どれも自分の新しい服や靴が入っているようだ。ドアを開けたのが桂子だと分かると、3人とも、呆然と立ち尽くす。そして、その視線が私へ向く。私はリビングのカーペットに座り、イチゴのケーキを頬張っている。口元にはクリームがついている。出かける前より少しふっくらして、顔色もいい。母の笑顔が、一瞬で凍りつく。父もその場に立ち尽くす。手にしていたスーツケースが、ガタンと音を立てて床に落ちる。心海も手にしていた袋を落とす。中からファンデーションの瓶が転がり出る。床に落ちて、容器が割れる。彼らは、ドアを開ければ私が死んでいるはずだと思い込んでいたのだ。その時のための言い訳まで、とっくに考えていた。私が勝手に外へ出て事故に遭ったことにするか、食中毒で亡くなったことにするか。まさか私が、何事もなく元気に生きているなんて、