今日は結花が集中治療室を出て、個室へと移る日なので、朝から病院へやって来た。
……あれから桜もは連絡を取っていない。わざわざ連絡をするような用事もないし、何を話していいのか分からない。「ママ」「結花!」 ベッドの上で笑顔を向けてくる結花に駆け寄り頭を撫でてやる。「よく頑張ったわね」 ようやく触れることが出来て、目頭が熱くなるのが分かる。結花は得意げな顔をしながら微笑んでいて、この笑顔が消えなくて本当に良かったと心の底から思った。 個室へ移ると、しばらく会えなかった時間を埋めるように結花との会話を楽しんだ。この時間だけは奏の事も忘れられた。 コンコン…… 暫くすると、部屋をノックする音が聞こえた。「高瀬さん。これからのことをお話しておきたいのですが、構いませんか?」 顔を出したのは主治医の奏。その顔を見て、一気に現実へと引き戻された。「ええ、大丈夫です」「それですか。では、こちらへ」「ちょっと行ってくるね」 結花に声を一言声をかけ、前を歩く奏の後を黙って付いて行く。昔と比べて大きく逞しくなった背中が柚の視界に入る。 そっと無意識に手が伸びる。「高瀬さん?」 ハッとして、伸びていた手を慌てて引いた。(私は何を……!) 誤魔化すように手を絡ませて顔を俯かせていると、怪訝な顔をした奏が覗き込んできた。「どうした?」「な、何でもない!」「そうか?……では、こちらへ」 促されるように部屋に入り、藤原家は藤原グループとして知らぬ者はいないと言えるほどの名家だ。 奏の勤めている病院も藤原グールプの一つで、奏の父親も有名な外科医で、母親は会社をいくつも経営する敏腕社長だ。 そんな家庭に生まれた奏は、生まれた瞬間から親が決めたレールを歩き続けてきた。 親が決めた習い事をやり、親の決めた学校へ進学し、親の決めた職業へ就いた。 名家と呼ばれる家に生まれた者の運命だと思って受け入れていた。 遥乃に会うまでは──…… 「えぇ?奏くん家って全部親が決めてるの?進学や仕事も?」 「そうだね。生まれた時から僕の人生は決められてる。まあ、うちはこれが普通なんだと思ってる」 ある日の放課後、家に呼んだ時に進学の話になり、つい自分の生立ちを話してしまった。 遥乃は一瞬驚いた表情をしたが、すぐに表情を戻し眉を下げた。「……辛くない?」 「え?」『可哀想』だの『金持ちは違う』とは言われてきたが、僕を心配する言葉をかけたのは遥乃が初めてだった。「あ、ごめんね!奏くんの人生を否定してる訳じゃないの!ただ、自分が本当にやりたい事を見つけた時、親の期待と自分の意思……どっちを取っても辛いだろうな……って」 自分のこと様に語りかける遥乃の言葉を黙って聞き入ってしまった。正直、そんなこと考えた事なかった。というより、本当にやりたい事なんてこれから先見つかる事があるのだろうか……「それに……」と言いかけて「なんでもない」と誤魔化した。「なに?」 「ううん。ごめん、気にしないで」 「そう言われると、余計気になるんだけど」 笑って誤魔化そうとした柚に詰め寄り、壁際まで追い詰めると覆い被さるように壁に手を置き柚を見下ろした。「ねぇ、教えてよ」 「ッ!」 困ったように視線を逸らすが、それすらも許さないと顔を固定され、
「無理よ」 柚の答えを聞き、奏は全身の血の気が引いたように顔を青ざめた。 「や、やっぱり許せない?」 「そうじゃない……これは私の気持ちの問題」 奏の気持ちは分かった。……本当は以前から分かっていたけど、認めたくなかっただけ。だからと言って、元には戻れない。いくら謝ってもらっても、あの時の言葉が私の心に鎖のように絡まって締め付けてくる。 それだけ、あの時の言葉が呪言となっている。 「もう、戻れない、のか?」 「……ええ。ごめんなさい」 絶望したように顔を俯かせる奏。 「愛してるんだ……今も昔も……君だけなんだ」 壊れたおもちゃのように呟く奏に、柚は掛ける言葉が見つからず視線を逸らし「ごめんなさい」と一言残し、部屋を後にした。 パタンと扉の音が聞こえる。それと同時にシーンと静まり返った部屋に嗚咽混じりの声が響き渡った。 *** 次の日、仕事を終えた柚が目にしたのは、自宅マンション前に佇む奏の姿だった。 一瞬、見間違えかと思ったが、柚の姿を捉えて駆け寄って来る姿を見て、本人だと確信した。 「何してるの!?」 「君が僕と戻れないと言うように、僕も君を諦められない」 「え!?」 納得してくれたと思ってたのに違うの!? 「だから、もう一度君に振り向いて貰えるように努力する事にしたんだ」 「はあ!?」 あまりの事に理解が追いつかない。 「何度来ても答えは変わらないわ。無駄な事は止めて」 「そんなのやってみないと分からないだろ?」 奏は一歩も引かない。
泣き疲れて寝てしまった結花の頬を優しく撫でながら「また明日来るね」と伝え、柚はそっと病室を出た。 「柚」 病院の外へ出ると、待っていたかのように奏が立っていた。素通りしようと思えば出来たが、ここは病院の外。行き交う人達のチラチラとした視線が突き刺さる。 ここで言い争いをすれば、明日から注目人物として病院内に広まってしまう。 (仕方ない) あまり気乗りはしないが、結花の為にも逃げてばかりは駄目だと思った。 「……場所を変えましょう?」 柚の言葉に奏は喜び、自分の車まで案内した。 *** 行き着いた場所は、奏のマンション。 部屋に入るのを躊躇ったが「何もしない」と言う奏の言葉を信じて部屋へ上がった。 コトンと淹れたての珈琲が置かれ、そっと口をつける。今まで緊張で強ばっていた体がフッと緩むのが分かった。 「何もなくてごめんな」 「ううん。大丈夫」 向かい合いながら、奏も気持ちを落ち着かせるように珈琲に口を付けた。 「……まずは謝罪させてくれ」 小さく息を吐くと、意を決したように口を開いた。 「君を傷付けた事……一人で全てを抱えさせてしまったこと……本当にすまなかった!」 床に頭を擦り付けそうな勢いで頭を下げられた。その姿を黙ったまま見つめた。 今更謝罪されたとこで過去が変わるわけじゃない。私の気持ちも…… 「信じてくれないかもしれないが、僕は本当に遥乃……君の事を愛していた。いや、今も昔も変わらず君を愛してる。じゃなきゃ7年も君の姿を追ったりしない」 真っ直ぐと濁りのない瞳を向けてくる。「ウ
結花の前で気持ちを落ち着かせる為に、一息ついてからドアを開けた。笑顔の結花と目が合い、何事もなかったように柚も微笑み返した。 「ママ」 「なに?」 「先生と何かあった?」 「え!?」 ベッドの横にあった椅子に座るなり、険しい顔で問い詰められた。 「何言ってるの?何もないわよ」 「ウソ。ママは嘘つくの本当に下手ね」 誤魔化すように言うが、クスクスと笑いながら指摘されてしまい思わず言葉に詰まった。 この子は幼い頃から私の気持ちの変化に鋭い所があった。血の繋がった親子特有の勘とでもいうのだろうか。それにしても鋭過ぎる……と思いながら結花を見た。 「ママは先生の事好き?」 「なッ!」 「はははっ、私は先生の事好きだよ。格好いいし、優しいし。それに、ママの事を大事にしてくれそう」 「……」 残念ながらその考えは間違いだと言えなかった。 惨めに捨てられたなんて知ったらこの子はどう思うんだろう……自分を助けてくれた尊敬する医者が実は自分の父親で、間接的に自分も捨てられていたなんて知ったら…… ギュッと腕を握り、必死に言葉を探した。 「あ、でも煌君がヤキモチ妬いちゃうかな。ねぇ、ママはどっちが好き?」 「はぁ?」 何故ここで煌の名前が出てきたのか分からないが、要らない誤解を生んでいる事は分かった。 「あのねぇ、煌も先生もママより素敵な人がいるわよ。くだらない事言ってないで身体を休めなさい」 溜息を吐きながら、結花をベッドに寝かし布団をかける。 「ええ?」と不満そうにしながらも、大人しく布団に入って
「ちょ、離して──!」 抱きしめられた柚は、奏の腕の中で必死にもがき、離れようとするが彼はそれを許してくれない。「今離したら君は僕の元から逃げてしまうだろ?」「何言ってるの!?」「僕はもう君を離したくない。……ねぇ、何をしたら許してくれる?何をしたら信じてくれる?」「ッ!!」 耳元で熱い息がかかる。甘く縋る声に頭が痺れる。「……大声出すわよ?」「出せばいい。それで君の気が済むならね」(──ッ!)「藤原先生?ちょっといいですか?」 本当に大声を出してやろうかと考えていた所で、奏を呼ぶ看護師の声が聞こえた。 その声に柚はホッと安堵するが、奏は返事を返さずその場を動こうとはしない。「呼んでるわよ」「……」「藤原先生ー!?」 その間にも看護師の呼ぶ声が聞こえる。「ねぇ、聞いてるの!?」 奏はギリッと歯を食いしばり、柚を抱きしめると乱暴に唇を重ねてきた。口の中をなぞるように舌を絡めてくる。執拗に貪るようなキスに息が苦しくなる。 鼻で息をすれば、甘い香りが脳を刺激して麻痺してくる。駄目だと分かっていてるのに、身体が奏を受け入れようとしてしまう。「先生?こちらですか?」「!!」 看護師の声でハッと正気に戻った。その足跡は徐々にこちらに向かってきている。その音は奏の耳にも届いているはずなのに、抱きしめている腕の力は緩まない。「ちょっと!やめ――」 逃れようとするが、成人男性の力に敵うはずもない。奏は、こちらの事などお構いなしに頬や首筋に口を付けていく。「ああ、先生こちらにいらしたんですか?……あ、すみません。面談中でした?」「いえ、大丈夫ですよ。もう終わりましたから」 間一髪の所で解放された。 火照った顔の私を隠すように前に立ち、平然とした顔で対応してく
今日は結花が集中治療室を出て、個室へと移る日なので、朝から病院へやって来た。 ……あれから桜もは連絡を取っていない。わざわざ連絡をするような用事もないし、何を話していいのか分からない。「ママ」「結花!」 ベッドの上で笑顔を向けてくる結花に駆け寄り頭を撫でてやる。「よく頑張ったわね」 ようやく触れることが出来て、目頭が熱くなるのが分かる。結花は得意げな顔をしながら微笑んでいて、この笑顔が消えなくて本当に良かったと心の底から思った。 個室へ移ると、しばらく会えなかった時間を埋めるように結花との会話を楽しんだ。この時間だけは奏の事も忘れられた。 コンコン…… 暫くすると、部屋をノックする音が聞こえた。「高瀬さん。これからのことをお話しておきたいのですが、構いませんか?」 顔を出したのは主治医の奏。その顔を見て、一気に現実へと引き戻された。「ええ、大丈夫です」「それですか。では、こちらへ」「ちょっと行ってくるね」 結花に声を一言声をかけ、前を歩く奏の後を黙って付いて行く。昔と比べて大きく逞しくなった背中が柚の視界に入る。 そっと無意識に手が伸びる。「高瀬さん?」 ハッとして、伸びていた手を慌てて引いた。(私は何を……!) 誤魔化すように手を絡ませて顔を俯かせていると、怪訝な顔をした奏が覗き込んできた。「どうした?」「な、何でもない!」「そうか?……では、こちらへ」 促されるように部屋に入り、主治医としての奏の話に耳を傾けた。「懸念していた合併症などもなく、経過は順調です」「良かった……」「結花ちゃんの頑張りのおかげですよ。十分に褒めてあげてください」「ええ」 専門用語などは分からないが、奏が気を利かせて私にも分かり易く説明してくれた。とりあえず、今の所