LOGINその日、マリはいつも以上にはやく帰される。キッチンに立つのは秋明。彼は手際よく料理をし、30分もすると本格的なイタリアンがテーブルを彩った。
「すごい……!」
「食べてみろ」
ブルスケッタから食べてみると、レストランで食べたものと遜色ないほどに美味しかった。
「とても美味しいわ……」
「これで俺が料理できると証明できただろう」
「どうして、こんなに料理ができるの?」「イタリアに留学してた頃に料理も少し勉強した」「あなたって、なんでもできるのね」「当然だ。そうでなければ、財閥の会長など務まらない」「そういうものなの?」
「料理人というのは、職人気質が多い。お前もデザイナーなら、素人からのアドバイスを聞きたくない気持ちは分かるだろう?」
「そうね。正直、同僚にもあまり口出しされたくないもの」
「料理人も同じだ。いくら自分より立場が上の人間だとしても、料理
百合はマリを連れ、藤子の家に行った。マリは家庭菜園を眺めながら、外で待機する。「百合、おかえりなさい。外で待ってる子は?」 藤子は訝しげな目で、外にいるマリを見ている。「ただいま、母さん。あの子はマリちゃん。お手伝い兼護衛なの。秋明さんが、最近物騒だから連れて行けって言うから、ついてきてもらったの」「そうだったの……。入れてあげたいけど、事が事だから……。そうだ、ちょっと待っててくれる?」 藤子は台所に行く。彼女はペットボトルのお茶を持ってきて、百合に手渡した。「マリちゃんに渡してきてくれる?」「分かったわ」 百合は外に出ると、マリにお茶を差し出す。「マリちゃん、これ。母さんから」「わぁ、ありがとうございます」 マリは嬉しそうに受け取ると、早速ひと口飲んだ。「はぁ、生き返る……。藤子様に、ありがとうございますと伝えていただけますか」「えぇ、もちろん。マリちゃん、なんなら近場で涼んできてもいいのよ?」「いえ、今回は護衛ですので、お庭で待たせていただきます」「そう? つらくなったらすぐに言って」 百合はちらりと空を見る。9月上旬の曇りだが、まだ蒸し暑い。「お気遣い、ありがとうございます。暑さでやられそうになったら、車に避難するので大丈夫です」「できるだけはやく終わらせるから」 百合は家の中に戻ると、藤子の向かいに座った。藤子は1通の古びた封筒を、百合に差し出す。「これが、お父さんからの遺言書よ。中身は見てないから、私にも、何が書かれてるのか分からないの」「父さんからの……」 百合は慎重に封筒を手にする。カサリとした手触りとかすかに漂う古びたにおいが、短い歴史を感じさせた。「ねぇ、父さんって、どんな人?」 百合は初めて父について藤子に聞いた。父に関する記憶は、ほとんどない。父親
「大丈夫でしたか?」 正樹の病室から出ると、紫苑が心配そうに百合の顔を覗き込む。「えぇ、大丈夫よ。秋明さんの病室に戻りましょう」「はい」 百合は秋明の病室に戻ると、正樹から聞いたことすべてを伝えた。「ふん、思わせぶりな態度を取っておきながら、大した情報がない。つまらん男だ」 話を聞いた秋明は、吐き捨てるように言う。これには百合も同意だ。「ここまでの失敗をしたんだ。熊谷矢絃には、見捨てられただろう。中務正樹は、もう警戒する必要はない」「そうね。けど、あの誘拐が囮だったっていうのが気がかりだわ……」「分かってる。紫苑、調べておけ」「かしこまりました」「百合、念の為出かける時はあの双子を連れて行け。何かあったら困る」「分かったわ」「奥様、家までお送りしますよ」「ありがとう」 百合と紫苑は病室を後にすると、家に帰る。紫苑は百合を下ろすと、調べごとがあるからと行ってしまった。「厄介なことにならないといいけど……」 紫苑を見送りながら、ぽつりと呟く。 スマホが鳴り、メールが来たことを知らせる。「誰かしら?」 確認してみると母からで、遺言書を取りに来いとのことだった。 その頃秋明は、第2秘書に内密に持ってこさせたノートパソコンを枕の下から出し、起動させる。「やはり秘書は、2、3人いたほうがいいな。紫苑に頼んだら、持ってきてもらえるどころか、説教される……」 起動するのを待つ間、そんな独り言を言う。前回怪我で入院した時も、怪我人は安静にしてろと言われ、パソコンを持ってきてもらえなかったのだ。 秋明は自社ブランドの株や売上をチェックし、渋い顔をする。「おかしい……」 過去のデータを何度も見返す。どういうわけか、ほぼ同時期に、何10社もの株や売上が緩やかに落ち始めているのだ。ほんの2、3社なら、ただの偶然で済ませることができただろう。 さすがに20社以上の売上が同時期に落ちるのは、どう考えてもおかしい。秋明は紫苑に電話をかけた。『秋明様、どうなさいました?』「20社以上の売上が、同時期に下がっている。なにがあったのか調べてくれ」『かしこまりました。ですが、秋明様?』「なんだ?」『どうやってパソコンを持ち込んだんですか?』 紫苑の声は明るいが、どこかヒヤッとするものがある。「スマホで株を見てただけだ」『つくならもう少
「深い意味はあらへんよ。ただ、君だけ呼ぶって、映画のワンシーンみたいで、意味深な感じせぇへん?」「は?」 理解できずに思わず素っ頓狂な声を出すと、正樹はケタケタ笑う。「あっはは! えぇ反応するなぁ。っと、いたた……」 傷に障ったのか、顔をしかめる。それでも正樹はどことなく楽しそう。「はぁ、銃弾なんか受けるモンやないなぁ。百合ちゃんも気ぃつけるんやで」 どう返していいか分からずに黙っていると、正樹は力なく笑った。「ここ、笑うところなんやけど」「いいから、話して」「はいはい。相変わらずそっけないなぁ。ま、そういうところも好きやけど」 軽口を叩く正樹にイラっとした百合は、バッグを振り上げた。「冗談やって。妻夫木の妻やっとるだけあって、怖いなぁ」「はやく話しなさい」「その前に、百合ちゃんはシオン、やっけ? あれから話は聞いとるん?」「そうよ、だからここに来たの」「そらそうか。失礼しました。あの秘書くんにも言うた通り、熊谷サンとは手ぇ組んどるよ。前に商業パーティーで、君と熊谷サンがバチバチしとったやろ? あそこに俺もおったんや」 初めて参加した商業パーティーのことを思い返す。あの時百合は、熊谷矢絃とその恋人のマキに、パクリだなんだと言われたのだ。確かにあの会場には、和ニカケの新作も展示されていた。「それで熊谷サンと手ぇ組めば、妻夫木財閥に傷をつけるくらいはできる思うたんや」「そんな理由で、あの人と組んだの?」「和ニカケは、ある意味まっさらな会社なんよ。裏との繋がりなんて、なーんもあらへん。そないな会社が妻夫木財閥に喧嘩売っても、潰されるだけや。けど、熊谷サンも、妻夫木財閥と同じく裏との繋がりがあるやろ? その上、妻夫木財閥を恨んどる。せやから手ぇ組んだわけやけど、あかんかった……」 正樹は虚空を見つめる。彼が何を思っているのか、百合には想像することすらできない。「私の誘拐に、あの人はどれくらい関わってるの?」「君を眠らせた睡
「盗み聞きとは悪趣味だな、紫苑」 秋明は睨みつけるが、紫苑は楽しそうに笑っている。(流石は幼馴染……。秋明さんの怖い顔に動じないなんて……) 童顔で可愛い顔をした紫苑だが、その見た目に反して肝が据わっている。秋明は凄んでも無駄だと悟ったのか、ため息をつく。「いつからそこにいた?」「秋明様が奥様に、何故辞めたのか聞いたあたりからですね」「ほとんどずっとじゃないか」「大事な話をしていたので、廊下で待ってました」「まったく……。それで、何しに来た?」「中務正樹のところに行ったので、ご報告に」 中務の名前を聞き、百合に緊張が走る。すっかり忘れていたが、あの男も銃弾が当たって入院していた。「熊谷矢絃との繋がりを認めました」「熊谷だと?」 秋明は眉間にシワを寄せる。「百合の誘拐に、あの男も関わってたのか……」「中務の言葉を信じるのなら、関わっているといっても、ガッツリ関わってるわけではなさそうです」「間接的にってことか?」「おそらく。熊谷矢絃と手は組んだけど、今回の誘拐は、少し手を貸してもらっただけ、としか答えないんです」「そこまで喋ったなら、全部話せばいいものを……」「それが……。奥様になら、全部お話するとおっしゃっていまして……」 紫苑は困ったように百合を見て、秋明はテーブルを叩いて怒りを露わにする。指名された本人は、困惑した。「どうして私なのかしら?」「まずは当事者に話すのが筋だとか……」「俺も充分当事者だがな」 秋明は苦い顔をする。脇腹を撃たれた秋明は、医者から絶対安静を言い渡されており、ベッドから出られない。正樹は正樹で太ももを撃たれて思うように動けないだろう。「私、中務のところに行くわ。紫苑、案内してちょうだい」「バカなことを言うな。病院とはいえ、何をするか分からない相手のところに、お前を行かせられるか」「言ったでしょ、守られてばかりはもう嫌って。大丈夫、無理はしない」 しばらく見つめ合っていたが、秋明はため息をつき、ベッドにもたれかかる。「紫苑、案内してやれ。中務の病室前で待機だ」「はい、秋明様。奥様、行きましょうか」「えぇ。ありがとう、秋明さん」 秋明はそっぽを向き、返事もしない。それでも、秋明に少しだけ認められた気がして嬉しかった。 紫苑の案内で、中務正樹の病室に行く。秋明のふたつ隣のVIP用
秋明が入院している間、百合は忙しなく動いていた。護身術や経営についてを学び、習得していく。護身術は体を動かして学べるからいいが、経営について学ぶのは苦労した。分からないことも、考えることも多すぎる。 経営セミナーや護身術教室に通い、合間に自分なりに経営について勉強をする。 本当はジュエリーデザイナーの勉強もしたいが、今は経営の勉強で精一杯だ。「秋明さんは、利益を投げうって私を助けてくれたんだもの……。このままじゃいけないわ」 中務正樹に誘拐された時、百合は秋明が来るとは思わなかった。来てもボディガードか紫苑だと思っていた。だからこそ、秋明が商談ではなく自分を選んだことがこれ以上ないくらい嬉しかった。 利益より感情と人命を優先してくれた秋明に見合うためには、最低限でも自立は必要だ。そのためにも会社を設立するつもりだ。できればアレグリアのためにもジュエリーデザイナーとしての知識や実力をつけておきたかったが、残念ながらそこまでの余裕はない。 学び始めてから3日目、秋明からメールが来た。「なにかしら?」 本当は見舞いに行きたかったが、今は少しでも休んでほしくて、あえて顔を出していなかった。メールを開き、百合は困惑した。『話がある。できるだけはやく病院に来い』「話って、なんなの……」 そわそわして落ち着かない。何か特別にトラウマがあるというわけではないが、昔から「話がある」と言われると、身構えてしまうのだ。 護身術教室から帰ってきたばかりで、ジャージ姿だ。汗もかいている。百合はシャワーを浴びて外行きの服に着替えると、病院に足を運んだ。「失礼しまーす……」 恐る恐る病室のドアを開けると、秋明は怪訝な顔をして百合を見る。「はやく来い」「え、えぇ……」 曖昧に笑い、ベッドの横にある椅子に座る。気分は説教を待つ子供だ。「それで、その……。話って?」「お前、エトワールを辞めたそうだな。どういうつもりだ?」 それは純粋な問いかけ。言葉の裏に、刺々しさは一切ない。(相談せずに辞めたのは、よくなかったわね……) 今更ながら、勝手に辞めたことを反省する。「勝手に辞めたのはごめんなさい。けど、私なりに考えがあるの」 百合はまっすぐ秋明を見つめる。ベッドにその身を横たえている秋明は、少し小さく見えた。「私は今まで、何も知らずに、秋明さんに頼り切
帰宅した百合は、探偵からの情報、秋明と藤子から聞いた話を自分なりにノートにまとめてみた。「……なんで熊谷矢絃は、金庫を壊さないのかしら?」 まとめて出たのは、素朴な疑問。熊谷家だって大手企業で金はたくさんある。それなら鍵師を呼ぶなり、破壊するなりすればいい。「中身が繊細なものか、金庫が特殊か……。なんにせよ、私がいないと開けられないと思ってるみたいだけど……」 乏しい知識で金庫を想像してみるが、SF映画に出てくるような金庫しか想像できなかった。「バカなこと考えてないで、私にできることをしないと」 百合はスマホを手に取り、エトワールに電話をかけた。「もしもし? お世話になってます。妻夫木百合です」『百合さん、どうしたんですか?』「勝手は重々承知ですが、エトワールを辞めます」 その頃、秋明の病室には紫苑が来ていた。「で、中務はなんて?」「てんで話になりませんよ。妻夫木財閥に恨みこそあれど、奥様を誘拐した理由はそれではないと言うんですから?」「どういうことだ?」「ギャンブル感覚だったんですよ。もし秋明様が来なければ、秋明様は奥様を見殺しにするような冷たい男だと、週刊誌などに売るつもりだったそうです。来たら来たで、妻夫木財閥に損害が出る。そう考えていたようで……」 呆れ返りながら報告する紫苑に、秋明はため息をつく。「バックがいるはずだ」「えぇ、そう思って色々聞きましたが、答えてくれませんでした」「生ぬるいんじゃないのか?」「残念ながら、盾になるものがなかったんです」「なんだと?」 秋明は眉間にシワを寄せる。人間誰しも、弱みがある。特に家族、友人、恋人は、弱みとして最適だ。こういった業界にいれば、それ以外でも、世間に知られたらまずいことを抱えていたりするものだ。「家族はいないのか?」「中務正樹は、由緒正しい呉服屋に産まれました。ですが、家族と反りが合わずに出ていき、和ニカケを起ち上げたんですよ。交流は広く浅く、特に親しいと呼べる人もいません。試しに家族をチラつかせましたが、始末してくれたら泣いて喜ぶと言われましたよ……」「すごいな。家族なんかどうでもいいと言ってても、いざ名前を出すと動揺するヤツが多いのに」「感心してる場合ですか」 紫苑は眉間のシワを深くし、秋明を睨む。秋明は立場が危うくなっても、焦った様子を見せることは
ビルから出ると、リムジンが停まっていた。ボディガードのひとりがドアを開ける。秋明は何食わぬ顔でリムジンに乗ると、困惑しながら立ったままの百合に目を向ける。「何ぼさっと突っ立ってるんだ。はやく乗れ」「え、えぇ……」 おずおずとリムジンに乗り、百合は目を見開く。L字型をした革張りの座席があり、その向かいには小さなバーカウンターを想起させるテーブルがある。小型の冷蔵庫と食器棚もあり、食器棚の中には高そうなグラスが並んでいた。「お前は俺の隣に座るんだ」「分かったわ」 少し距離を作って座ると、秋明はあからさまに不機嫌になる。どうしたらいいか分からずにいると、秋明は距離を詰め、百合の肩に手
百合は疲れ切った顔で家に帰る。あの後、秋明と情報を共有していて遅くなってしまった。彼は百合が矢絃の家に住んでいると知ると、新しい家を用意するからすぐに出られるようにしろと言っていた。 これは百合にとって嬉しい話だ。1秒でもはやく、この家から出たいと思っている。(色々話したいけど、母さんはもう、寝てるだろうな……) 腕時計を見ると、もう12時になろうとしている。早朝から仕事がある母はきっと寝ているはずだ。(私も、シャワー浴びてはやく寝よう……) 自室に戻ることを考えながら玄関の前に立つと、ドアが開いた。「母さん……!」「おかえり、百合」 パジャマにカーディガンを羽織った母・藤
百合は秋明のオーラに圧倒され、言われるがままにキスをしてしまう。「あの女、妻夫木さんにキスをしたぞ!」「どういうことなの!?」 会場はどよめき、矢絃とマキは呆然としている。秋明は更に百合を抱き寄せ、人々に振り返る。「この女性は宝生百合といって、最近噂になっている高級ブランドのデザイナーであり、俺の婚約者でもある。そこの副社長のストーカーなどしていない」 秋明の言葉に、会場は更にどよめく。百合は何がなんだか分からず、固まっている。「なんだ、お前は! コイツに何をした!? お前もお前だ! 男だったら誰でもいいのか? このアバズレが!」 顔を真っ赤にして怒った矢絃が、ふたりの間に割
晩餐会当日、高級ホテルにあるきらびやかな会場には多くのセレブがいる。百合は暗い気持ちで壁の花を決め込む。 成功したデザイナーとはいえ、セレブの仲間入りを果たしたわけではない。矢絃がいなければ、このような場にはいられないだろう。(こんなところ、願い下げよ) 百合は矢絃から送られてきた日程を伝えるメールを思い出し、心の中で吐き捨てる。メールには日時と会場と、「本来はお前ごときが参加していい場ではない。晩餐会に出られること、感謝するんだな」という一文が添えてあった。 あれから矢絃はマキの家にでも転がり込んでいるのか、帰ってこず、母の藤子と数人の使用人と奇妙な同居生活をしていた。 藤子に







